第一話 名探偵は「坊さんのロバ」の坊さんである
「坊さんのロバ」という寓話をご存知だろうか?
とある辺境の貧しい村で、不治の病に冒された三人息子の父親が亡くなった。
父親の遺産は、ロバが十七頭あるばかりで、あとは何一つなかった。それでも彼は次のように遺言を残していた。
「長男は二分の一、次男は三分の一、三男は九分の一を受け取るように」
十七頭では二でも三でも九でも割り切れない。三人の息子たちは頭を悩ました。
そんなところへ、一頭のロバを連れた、旅の坊さんが通りかかり、息子たちの話を聞いた。
高齢の坊さんは、ふむとひとつ頷くと、自分のロバを差し出して、しわくちゃな顔をゆるめた。
「これで十八頭になる。さぁ、分けるがよい」
長男には二分の一の九頭、次男には三分の一の六頭、三男には九分の一の二頭が分け与えられた。
そして残ったのは、坊さんのロバ一頭。
坊さんは何事もなかったように、そのロバを連れて立ち去ったのであった。
めでたし、めでたし。
この坊さん、なんとも素敵ではないか。
やったことといえば、ロバを一時貸すだけというシンプルさ。どこにもお仕着せがましいところがない。それでいて、三人息子も坊さんも、誰も苦労することはなく万事きれいに解決してしまうのだから、大したものである。そして最後に、とつとつと歩き去る後姿に、どこか一抹の寂しさがにじむのがまたいいではないか。
一陣のさわやかな風が吹き抜けるような話(理屈っぽいのでこれは言い過ぎか?)である。
いやはやクールな坊さんである。
ミステリー、狭義には探偵小説と呼ばれるジャンルに登場する名探偵には、この「坊さんのロバ」の坊さんのような資質が必要であろう。ぼくの数少ない持論である。そういう意味では、「坊さんのロバ」は、ぼくにとって「ノックスの十戒」にもまさる探偵小説の教典かもしれない。
このほんの数行の寓話には、探偵小説の作り手が探偵に課すべき条件が十二分に盛り込まれている。
(1)きれいな結末が必要である
名探偵は万人が納得するきれいな結末を披露しなければならない。割り切れない何かを残したら失敗である。坊さんのように、1/2+1/3+1/9には、1/18を加えて、是が非でも1としなければならない。水際だった解決こそ、探偵小説の真骨頂である。トリック自体がどんなに優れていても、それがストーリーの中で十分咀嚼され、誰もが膝をうつ解決として提示されなければ意味がないのである。
(2)探偵は事件と距離を置くべきである
名探偵はあくまで渦中の事件にあって、第三者であるのが望ましい。
これは誰もが納得できるところだろう。古くはオギュースト・デュパン、エラリー・クインから、湯川学、執事影山に至るまで、たいてい名探偵は、坊さん同様、事件そのものとの関わりがない第三者として登場する。彼が事件そのものの中心にそえられる場合もなきにしもあらずだが、えてしてそのような作品は凡作の謗りを受けることになりやすい。
(3)探偵が必要不可欠でなければならない
第三者として登場するにしても、ストーリーが解けていくにしたがって、探偵の存在が物語の存続に必要不可欠なものとなるのが望ましい。これは探偵が事件と距離を置くべしということと相反するファクターだが、解決に至る筋道では、彼でなければならない何らかの必然性があったほうがよい。この寓話で言えば、坊さんが一頭のロバを連れて村を訪れたことが物語の解決に一役かっているのがそれだ。事件との直接的な関係を持たなくても、解決に導く道具を、名探偵がその灰色の脳細胞以外にもひとつふたつ持つべきなのである。
よく探偵小説(本格推理小説)は人物造形がなっていないと耳にするが、これはあまりに事件とのつながりが希薄なまま、清廉で超人的な名探偵を、活躍させすぎるせいではないかと思う。収まるべく最後の一ピースとして、物語の構成上なくてはならないものとして名探偵が描ききれていれば、誰も文句は言わないはずである。
(4)探偵は静かに去れ
坊さんは飄々と何事もなかったように去っていく。この終わり方が深い余韻を与える。
貧しい三人の息子たちの生活はむしろこれからが大変なのだが、それを累々と書くのは無論興ざめである。事件の解決とともに、すっぱり終わるのがうまい幕引きだろう。事件解決の熱気が冷めやらぬうちに、坊さんは静かに退場する。二度と会うことがないという、決然とした意思をその後姿に宿しながら……。
ハードボイルドでなくても、正真正銘の名探偵なら、そんな気障なところがあってもよい。
ということで、名探偵は「坊さんのロバ」の坊さんでなくてはならないのである。
ただし、「坊さんのロバ」にも弱点がある。
女性の探偵には通用しないことである。
女性の場合は、やっぱり美して、魅力的で……、断じて坊さんであってはならない。