記憶の中で
暖かい。目が覚めるといつもとは違う光景が広がっていた。ここはどこだろう。病院ではない。かすかな不安を覚えながら、横たわった自分の体を起こした。部屋の大きさは病院と同じくらい。床は地面の色で、壁は光の色。いたるところに見たことの無いものがある。窓を開けて外を見る。寒い。下が深かった。下の方では水色の髪をした小さい子が鉛の塊のようなものを叩き、中にいる人間から何かをもらっている。白い粉が舞う世界。ここはどこ?
「マリアンナ、もう1時よ!ご飯食べなさい!」
ドアの方から声がした。ドアノブを回して引いてみる。女の人が立っていた。髪は長く、金色だった。なぜだかその人を見て、心が楽になった。安心感に包まれた。女の人の後ろにつき、床を歩く。もうひとつドアがあった。もうひとつ、もうひとつ。
ドアが開いた。いいにおいが鼻をつく。ここは病院より大きかった。ここにもみたことのないものがたくさんある。目が泳ぐ。机の上に食べ物。椅子に座ってそれを食べる。おいしい。なぜ?わからない。お腹がくるしい。もう食べられない。手が止まる。目の前の窓から外を見ていた。
「もういいの?相変わらず胃袋小さいのねー。」
言葉が出ない。部屋を見回す。小さな額縁に入ったひとつの写真が目に付いた。
寒い。寒い冬、マンホールの中。まあるい夜空。わずかな金。ごみ臭い世界。泣き声。友達の死体。衰弱。栄養失調。知らない人。雪の道。教会。ひとつひとつの画像が、瞬時に頭を横切る。
ふと思い出した、ある日の記憶。いつの記憶だろう。その日は吹雪だった。今日も友達の背中を追って、お金を集めた。車の窓をノックして回るが、吹雪の日は誰も窓を開けてくれない。今日はひとつも収穫がなかった。
「仕方ない、こんな日もあるよ。今日の寝床を探そう。」
雪を踏んで歩いた。寒い。とうとう寝床は見つからなかった。他の仲間と合流して、その日はその仲間のところで寝た。マンホールの中で寝るのは6回目だ。場所によっては暖かいところもあるが、ここは寒かった。まるい夜空を眺めながら、眠りについた。その次の日、友達が死んだ。突然だった。いつもどおり、わずかな金をポケットに握り締めてごみをあさっていた。ひとつの親子が幸せそうに歩いていく。悔しかった。泣きたい気持ちを心に抑える。
「今日は売れそうなものないね。道路、行くよ。」
友達についていき、昨日と同じことをする。昨日と同じで、今日も終わると思っていた。
「ほら、行くよ!」
道路を渡って反対側に走る。隣で、鈍い音がした。大体予想はついた。恐る恐る横を見ると、友達が目を開けたまま血を流して倒れていた。顔全体が血で覆われ、目が潰れていた。
「っべー、やっちまったよ。っまったく。うわ、グロっ!」
20代くらいの男の人が出てきた。その人はふたたび車に乗ると、何事もなかったかのように走り去って行った。
私は友達を引きずって歩いた。建物の影に友達を置いた。友達からは、まだ温かな血が流れていた。しばらくなにも胃袋に入れておらず、体も冷え切っていた私は、その血を一心不乱に飲んだ。温かくて、おいしかった。血液は美しく、命を救う。
私は仲間の元へ戻った。
「おお、マリアンナ。あれ、ひとり・・・?」
私は震える足に釘を打ちながら事情を説明した。
「そうか・・・。」
その後、仲間はどんどん衰弱していった。吹雪の夜が続く。寒さが仲間の体力をうばっていく。食べ物も何もない。私は、わたしは栄養失調で弱った仲間の血を飲んで生きた。血を飲んで、仲間が死んでいく様を見ていた。だんだん体が青くなり、手を震わせながらも私を睨む仲間を見ていた。
私は一人になった。おそらくもう、この世界で私の存在を知る人は私しかいない。知らない人しかいないこの世界の、白くなった大地を踏みしめながら歩いた。教会が開放されていた。長居は禁止と書いてあったが、ここしか居場所が無いような気がして、教会に入った。
なかは暖かく管理されていて、私の他に3,4人、人がいた。天井が高くて、とても広く感じる。神聖なステンドグラスに映る天使は輝きを放たず、暗い色のまま私を見下している。視線を感じながら教会の中を歩く。奥の方の扉が少し開いていて、中からガタガタ音がする。
唐突に扉が開いて、人が出てきた。
「あら?」
私を見ている。
「あなた、どこから来たの?そんな服じゃ寒いでしょ。」
私は動揺して言葉を失う。私に家が無いことをこの人に知られたら、きっとここから追い出されてしまう。
「…美しい顔立ちね。目の色もとても神聖だわ。でも、とても痩せていて、やつれている。」
その人は一度扉の中に戻ってまたすぐに出てきた。出てきた女の人は、小さな袋を持っていた。それを私に渡して、「開けてごらん」と囁いた。袋の中には数枚のクッキーが入っていた。
「これ、あげるわ。大事に食べてね。」
私はその人の顔を見て、怪しい人では無いことを確かめて、袋を持って小走りで教会を出た。
これからどうしよう。あてもなくさまよう。ふと、違和感を感じて頭を触る。帽子がない。教会で落としたのかもしれない。私の髪の色はみんなとは違った。このせいで悪魔と言われ、家を追い出された。帽子がないと落ち着かない。また軽蔑される。私は人通りの少ない道に入り、路地裏で腰を下ろした。クッキーをひとつ、袋から出す。まだにわかに温かい。まだ食べないでおこう。クッキーを袋に戻した。最近、体が弱った気がする。立ち上がると、目の前が眩む。
目が覚めた。そこはいつもの病院だった。職員が私を囲み、ジロジロと見ている。
「くそ」
一人の職員がそう呟いた。みんな嫌そうな、残念そうな、まるでゴキブリを殺り逃した時のような表情をしている。
「なに?どうしたの?」
私が尋ねても、誰も何も言わない。異質な空気を感じた。
職員達は会議を始めた。
「どうして?!あの程度の毒で死ぬんじゃないの?!」
一人が狂ったように激怒する。
「落ち着け、まだ方法はある。治療薬の効き目が良くて、多少体が強くなったのかもしれない。」
「もうさ、私が殺していい?あいつ見てるとなんかイライラして…叫びそうになるのよ…」
「俺もそうだ!なんかむしゃくしゃして…昔の嫌なこととか思い出すんだよ!あの気味悪い目見ると!」
「あんな悪魔、はやく殺せ。」
職員達が取り乱す。みんな人が変わったように、何かが取り付いているかのように叫ぶ。
「こんどはもっと強力な毒を使おう。次こそあいつを殺す。」
その夜、職員はシアンの部屋に音もなく潜入した。点滴を静かに入れ替える。しかし、シアンは起きていた。
「私を殺すの?」
シアンは会議の内容をすべて聞いていた。
「シ、シアン…」
職員は言う言葉がなかった。黙々と点滴を入れ替えた。
「シアン。」
シアンは突然自分の名前をいった。
「な、なんだよ。」
「シアンってなに?誰がつけた名前?」
「?!」
職員はいつもと違うシアンの顔つきに退き、逃げていった。
その直後、院長がシアンの部屋に来た。
「シアン。」
シアンは反応しない。
少しの沈黙。
ドアの隙間からその光景を見ていた職員は、シアンの人格が変わったような顔つきとその美しさに言葉を失った。
「私の名前はシアンなの?私は思い出したの。確かに思い出した。私はここに来る前のことを思い出した。」
「思い出したのね。それならもう、どこへでもお行き。マリアンナ。」
シアンは、マリアンナは真剣な表情で院長を睨んだ。
「あなた達はどうして私を受け入れたの?どうして私を殺すの?」
「・・・」
マリアンナは立ち上がった。点滴の針を抜いて、ドアを開けた。盗み聞きしていた職員が飛び上がって逃げていく。
「まって」
院長がマリアンナを止める。
「あなたは人を殺した。今まで何人もの人を殺した。どうして、あなたは天使のように美しいのに、悪魔のようなことをする?」
マリアンナは何も言わず、施設を出た。何かに背中を押されているかのように歩いた。歩いて歩いて辿り着いた先は、記憶の中の教会だった。
ステンドグラスは汚れ、黒ずみながらも輝きを放っている。マリアンナはすぐに教会を出た。記憶の中の道を現実で歩く。 寒い。寒い冬、マンホールの中。まあるい夜空。わずかな金。ごみ臭い世界。泣き声。友達の死体。衰弱。栄養失調。知らない人。雪の道。教会。
「シアン!」
職員が追ってきていた。
「一体どうしたんだよ、病院に戻るぞ。」
手を引かれる。マリアンナは泣いていた。
「シアンなんて私じゃない!私の名前じゃないの!」
「はあ?意味わかんないよ!とりあえず戻るよ!」
マリアンナは大人しく施設に戻った。
「シアン、いやマリアンナ。あなたはこれからどうしたい?」
「知らない。何もできない。」
「仲間の事も思い出したの?」
「どうして院長がそのこと知ってるの?」
「見てたの。だからあなたを引き取ったの。」
「どうして私は今まで、そのことを忘れていたの?」
「薬を使って記憶を消していたの。でも、新しく来た治療薬との相性が悪かったのか、その薬の効果が切れたのよ。」
「シアンはもういない。私は人を殺さない。私はここから出たい。でも、出ても何もない。」
「そうね。実はね、この施設はそろそろ無くなるの。利用者が急激に減っちゃってね。」
「・・・私は」
マリアンナは混乱した。シアンの記憶、私の記憶。これからの未来。
「私は幸せ者だ。」
シアンは近くにあった消毒中のメスを手に取り、マリアンナの首筋にそれを刺した。
いろんな人の魂が混ざった美しい血が吹き出し、マリアンナは脱力した。シアンが笑っているのを、マリアンナは確かに感じた。
「マリアンナ!」
周りがざわつく。
遠のいていく意識の中、院長の手の暖かさを感じた。
シアンは血を浴びて笑った。マリアンナは涙を流した。
死ぬことを知らないシアンと死ぬことを知っているマリアンナの感情が入り交じった。
職員達は二人の死を静かに見届けた。シアンとマリアンナは安らかな表情で涙を流していた。
その後、施設は取り壊された。シアンとマリアンナのことははじめからなかったかのように忘れ去られた。
マリアンナとシアンの名前が刻まれた墓の前に、一人の人間が花を手向けた。