過去
それは、下校する生徒でにぎわう雪がちらつく校門前で起こった。
「わたし、愛知の高校行くから」
はぁ!? 開いた口がふさがらないというか、
15歳まで生きてきて一番眉間に皺を寄せた瞬間にちがいない。
すでにかじかみかけた両手をポケットにねじ込み、僕は返す言葉を探した。
午前中に軽く降った雨と昨夜降り積もった雪が混じり合い、
本来コンクリートで平坦なはずの路面を一層複雑にし、
あまつさえ踵とつま先を容赦なく凍えさせる。
なおかつ鈍色の天空から振り下ろされてくる寒風が行き交う生徒達の体を攻撃し、
高台にあるこの校舎は絶好ともいえるほど毎年冬の餌食となっていた。
てなわけでいつもの僕なら、小走りにバス停に向かって坂を下りていくのだが今日、
その瞬間から僕の脳内ではまるで鈍色の空より更に上空へと上昇してしまったかのように
浮遊感さえ覚える言いようのない感情が沸き上がるのが分かった。
何気なく、まるで昨夜の番組内容を聞くかのような口調で唐突に告げられた彼女の報告に
僕の心中はまるで背中につららをつっこまれたみたいにびくりと震えていた。
「隣町の高校じゃなかったのかよ?」
「う~ん、やっぱ若いころから外出た方がいい女になれるかなって」
「お前いくつだ。ってか急すぎないかそれ」
彼女ははぁとため行き着くと、やや声を抑えて呟いた。
「だいぶ前から決まってたんだけど、なかなか話す機会見つからなくて。
本当は父さんの転勤の関係でね。すまねぇすまねぇ」
頭をかきながら苦笑しつつ、ウィンクなんぞする彼女。
僕はわかったよ、と返事するだけで精一杯だった。
彼女は一度僕の目をまるでなにかを確認するような目つきで覗き込んだきり、
その話題について一言も話そうとせず、いつも通り徒歩十分の距離にあるバス停へ一緒に向かった。
彼女を知ったのは中二の春で、付き合ったのは高一の夏だった。
しかし恋人となったものの基本は変わらず、ドラマでやっているような
胸が高鳴り我を忘れて馬鹿をやったりといった出来事は一度もなかった。
初恋にあるらしい独特の緊張感や心の高ぶりの一欠片もない、
学生離れした夢のない青春を僕は送っているのだとたまに自嘲するのが常だった。
例を挙げるなら今年の誕生日は去年同様
『おめでとう! 親に感謝しなよ。ついでにあたしにも』
バレンタインには、
『え? チョコって女の食べ物でしょ、ふざけないで。でも3月はよろしく』
・・・こういった調子で、ネタに困らない調子だった。
それもあって明日のクリスマスが結構待ち遠しかったりする。
友人からは『わけわからんな』『まぁお前が良いならいいんじゃねぇの?(失笑)』
と、否定的な感想を聞くものの僕は彼女のそこがまた可愛くてたまらなかった。
やがて、僕たちがバス停に着いて数分談笑していると
シャーベット状の雪をかき分けてバスがやってきた。
彼女は忙しなくじゃぁねと毛糸の手袋を振って呟くと、
さっさとバスに乗り込み後ろの席へと消えた。
僕の乗るバスは約十分後に着く。そしていつも通りの別れに少し安堵した。
突然のことで内心動揺していたため、平静を装うのが辛かったのだ。
走り去るバスを横目で見送り、姿が消えると僕は不意に空を仰ぎ見た。
肩をすくめ、ジャンパーのファスナーをぎりぎりまで上げ不意に嘆息した。
と、その瞬間校門で彼女が告げた短くしかも素っ気ないが重たい言葉が、
恐ろしい圧迫をとなって僕の胸を襲った。
厚い曇天から吹き下ろされ更に強さを増していく風雪。
周囲の学生が放つ言葉のノイズが異様なほど遠くに感じて寂寥感を増幅させた。
目頭が熱くなり、目が潤んでいくのがかすむ視界で分かる。
周囲に悟られまいと、寒さで凍えたふりをして俯いた。
何故か分からないが涙を流したい気持ちになった。大声を出して見たい衝動に駆られる。
それらの気持ちを必死に抑えながら、何気なく水浸しの雪を
つま先でぺたぺたと地面をならすようにブーツで叩いた。
と、その時コートの右ポケットで眠っていた携帯が震えた。
寒さでかじかんだのか、狼狽していたのか分からないが携帯を出す動作が非常に長く感じた。
着信の名前には彼女の名前が浮かんでいる。
僕は2,3秒数えて気持ちを落ちつかせると通話ボタンを押した。
「どうしたの?」
と僕が尋ねる。
「明日の冬期講習出る?」
「休みだよ」
「そう・・・なんか、声の感じ変だけどなんかした?」
「別に、多分まだ外で凍えているせいだと思う」
特に意味なく笑ってみる。
「そっかー・・・」
と、しばしの沈黙。
直に話しているときの会話は簡潔なのだが、電話だと異常にのんびりとしている彼女。
そんな彼女の個性になんだか笑いがこみ上げてきた。
熱くなっていた目頭は落ち着き、こわばっていた頬もいつのまにかゆるむ。
すると、またも彼女は唐突に告げた。
「あのさぁ・・・浮気したら殺しうて良い?」
「う・・・うん。わかったしないよ」
「なに? その間は? 気分悪いんだけど」
「いや、びっくりしてた。そんな可愛い言葉も言えるんだなぁってさ」
「ほう、マジ殺っちゃっていいんだねわかった」
「いやいや、棒読みで言うなって怖いから」
その後互いに笑った。遠くでバスの近づく音が聞こえてきた。
他の生徒達も一瞬会話を止め風と雪の中を突き進む物体を視認する。
一瞬残念がる表情を浮かべる生徒達同様、僕も気づかれないようため息した。
このまま他愛のないやりとりで、今日もこの先も終わるんだろう。
受験をして、卒業してそれぞれの道を進み。
何度目かの恋を経て結婚し、その最中にふと大切にしまっていたこの
一瞬一瞬を思い出してはにやりと
するにちがいない。
そんなあきらめをこめて、僕はできるだけ彼女と話そうと決めた。
笑いが収まると一瞬の沈黙の後、これまた唐突に貴重な一言を彼女は告げた。
「明日、私とデートしてよ。時間無制限でいいよね?」
交際三年目で、いまだにぎこちなく誘ってくる彼女に対し思わず僕は無意識に微笑んでいた。
そして、時間と距離をなんとかカバーできる思い出を
たくさん作れるよう誰にともなく僕は決意した。