「地味なんだから隅っこにいなさい」と母が言うので夜会の隅に行ったら、公爵閣下が先客でした
「地味なんだから隅っこにいなさい。リディの邪魔になるでしょう」
母はそう言いながら、妹の髪に真珠の飾りを差していた。三つ目の飾りだった。
鏡の前のリディは、今年仕立てたばかりの薔薇色のドレスを着ている。私のほうは、そのリディが去年一度だけ着て「なんだか顔色が悪く見える」と言った、灰色がかった緑のドレス。裾を詰めて、それで支度はおしまい。
「はい、お母様」
夜会のたびに同じことを言われて、もう三年になる。
最初に言われた夜は、帰りの馬車で泣いた。二度目は泣かなかった。三度目の夜会で、私は気づいた。隅っこにも、隅っこなりの暮らしがある。
まず、隅には格がある。
窓際は駄目。夜風が入るし、外を眺めて物思いにふける令嬢が集まりやすい。楽団の裏は誰も来ないけれど、うるさくて考えごともできない。いちばん上等なのは、太い柱の陰で、しかも厨房の出入り口に近い隅だ。風が来ないし、焼き菓子が広間に出ていく前に、必ずそこを通る。
王宮の大広間なら、東側の三本目の柱。私は勝手にそこを「特等席」と呼んでいる。
「お姉様、今日は本当に隅にいてね」
リディが鏡越しに私を見て、念を押した。
「今夜はモンテルラン公爵閣下がいらっしゃるの。王妃様が、そろそろお相手を決めなさいって。お姉様が近くにいたら、閣下の目に入っちゃうでしょう」
入るだろうか。この灰緑のドレスで。
「大丈夫よ。柱と区別がつかないと思うわ」
リディは笑った。母も笑った。私も一緒に笑っておいた。冗談のつもりで言ったのに、二人とも本気で頷いていたのが可笑しかった。
王宮へ向かう馬車でも、私の席は決まっている。前向きの座席には母とリディが並び、私は向かいの後ろ向きの席に座る。後ろ向きは酔いやすいけれど、何度も乗れば慣れる。窓の外の景色が、来た道のほうへ流れていくのを眺めているのも、そう悪くはない。
「ノエミ。着いたら、すぐに隅へ行くのよ」
母は、リディの手袋の皺を伸ばしながら言った。
「リディが公爵閣下にご挨拶するまで、近くに来ないでちょうだい」
「はい、お母様」
柱の陰へは、言われなくても行く。言われると、なぜか足取りが重くなるのが不思議だった。
◆
王宮の秋の夜会は、いつもどおり人でいっぱいだった。
母とリディが広間の真ん中へ流れていくのを見送ってから、私は人の背中のあいだを縫って、東側へ向かった。一本目の柱を過ぎ、二本目を過ぎる。給仕たちが行き来する厨房の扉が見えてきた。
三本目の柱の陰に、人がいた。
背の高い男の人だった。黒い上着で、柱にぴったりと背中をつけて、手には焼き菓子の皿を持っている。皿の上には、もう二つしか残っていなかった。
私の特等席に、先客がいる。
通いはじめてから、こんなことは一度もなかった。
「……失礼。こちらは、どなたかの場所でしたか」
男の人が、低い声で言った。目が合いかけて、向こうから逸らした。人と目を合わせるのが得意ではない方らしい。
「いいえ。決まった場所ではございません」
口ではそう答えたけれど、心の中ではもう一度言った。そこ、私の隅です。
「ここは、風が来ないので」
「存じております」
思わず答えてしまってから、口を押さえた。男の人は一瞬きょとんとして、それから、柱の陰を半分空けてくれた。
「……では、ご一緒に」
二人で一本の柱の陰に立つのは、なかなか難しい。私は柱の左に、男の人は右に寄った。広間から見れば、柱の両側から人がはみ出している格好になる。柱の陰としては、あまり出来がよくない。
厨房の扉が開いて、銀の盆を持った給仕が出てきた。
白髪のジョルジュさんだ。王宮の夜会で四十年、盆を運んでいる人で、私が特等席を見つけた最初の年から、焼き菓子を一枚多く置いていってくれる。
ジョルジュさんは柱の陰の二人を見て、片方の眉だけを上げた。
「本日は、お二人分で」
盆から皿が二枚、柱の陰に移ってきた。
「ジョルジュさん、こちらの方とは今お会いしたばかりで」
「さようでございますか。こちらの方も、毎年この広間においでですよ。いつもは、西側の三本目ですが」
ジョルジュさんはそれだけ言って、広間のほうへ盆を運んでいった。
向かいの西側の三本目。
広間の反対側を見た。私の特等席と、ちょうど鏡に映したような位置に、同じくらい太い柱が立っている。あそこにも、厨房の扉があったはずだ。
「……西は、今夜は人が多くて」
男の人が、焼き菓子を一つ口に入れながら言い訳をした。
「隅のことを、お詳しいのですね」
「三年、隅におりますので」
「私は、もう少し長いです」
隅っこの先輩だった。
「西の三本目は、どんな隅なのですか」
つい訊いてしまった。同じ形の柱なら、同じくらい上等なはずだ。
「厨房の扉が、二つあります」
「二つ」
「右の扉からは焼き菓子が、左の扉からは果物が出てきます。両方が、柱の前を通ります」
「……二回、通るのですか」
「二回、通ります」
羨ましかった。ずっと東の三本目を最上だと思ってきたのに、向かいにもっと上等な柱があった。今度、母に見つからない夜に、一度だけ行ってみようと思った。
それから私たちは、柱の陰で小声で話をした。
隅っこの作法について。背中を柱にぴったりつけると、立ち上がるときに上着が擦れて音がする。拳ひとつぶん離すのがいい。扇は半分だけ開く。全部開くと、話しかけてほしい人に見える。給仕の名前は必ず覚える。
「最後のは、知りませんでした」
男の人は真面目な顔で頷いた。頷いて、上着の内側から小さな手帳を出して、本当に書き留めた。隅っこの作法を手帳に書く人は、ほかに見たことがない。
「どうして、隅にいらっしゃるのですか」
私が訊くと、男の人はしばらく黙った。
「真ん中にいると、娘さんを連れたご婦人方が、順番にいらっしゃるので」
「順番に」
「一晩で、十一組いらしたことがあります。それ以来、柱の陰にいます」
それは柱の陰に来たくもなる。
「今夜は、王妃様から、どなたか決めるようにと言われておりまして」
男の人は、皿の上の最後の焼き菓子を見つめた。
「決める前に、少しだけ、隅で落ち着きたかった」
もしかして、と思った。
今夜の主役は、背の高い方だとリディが言っていた。王妃様からお相手を決めるように言われている、とも。
でも、隅っこには、確かめない作法もある。柱の陰に逃げてきた人に、あなたはどなたですか、と訊くのは野暮だ。私だって、逃げてきた理由を訊かれたら困る。
私は、自分の皿の焼き菓子を一つ、男の人の皿に移した。
「落ち着くには、甘いものがいちばんです」
男の人は、焼き菓子と私の顔を見比べた。それから、ちゃんとこちらを見て、困ったように笑った。
◆
しばらくすると、広間のほうが騒がしくなってきた。
「公爵閣下はどちらに」
「お見かけになりました?」
「先ほどまで、西の柱のあたりにいらしたと」
ご婦人方の声が、波のように広間を行ったり来たりしている。その波の先頭に、薔薇色のドレスが見えた。リディだ。母が後ろについて、首を伸ばしてあたりを見回している。
最初にこちらへ来たのは、リディではなかった。三人の娘を連れた子爵夫人で、柱の前で立ち止まると、私に向かって声を張った。
「そこのあなた。公爵閣下を見なかったかしら」
隣で、男の人の息が止まった気配がした。
「さあ……。それより、奥様。厨房の扉から出てくる焼き菓子は、出てきた最初の一枚がいちばん温かいのです。今ちょうど、出てくるところですわ」
扉が開いて、ジョルジュさんの盆が見えた。子爵夫人と三人の娘は、そろって盆のほうへ吸い寄せられていった。
「……今のは、作法の何番目ですか」
隣から、小さな声がした。
「番号はついておりません。ジョルジュさんに教わりました」
その騒ぎに続いて、広間の波がこちらへ寄ってきた。隣の男の人が、柱の陰に半歩下がった。
「……申し訳ない。少し、隠していただけますか」
「私で隠れますか」
「そのドレスなら」
灰緑のドレスは、柱の陰の壁掛けとほとんど同じ色をしていた。私は扇を半分だけ開いて、男の人の前に立った。背の高い人を隠すには足りないけれど、広間から見れば、柱と壁掛けと地味な令嬢が重なっているだけに見えるはずだった。
薔薇色のドレスが、まっすぐこちらへ近づいてきた。
「お姉様!」
リディは柱の前で立ち止まって、息を切らしていた。
「ちゃんと隅にいたのね。偉いわ。ねえ、公爵閣下を見なかった? 背が高くて、黒い上着で、いつも一人でいらっしゃる方」
背が高くて、黒い上着で、一人でいる人なら、私のすぐ後ろにいる。
「公爵閣下のお顔は、存じ上げないの」
嘘ではなかった。隅っこには、番号のない作法もいくつかある。主賓とは目を合わせない。ずっと守ってきたので、さっき柱の陰で見た困ったような笑顔が閣下のお顔だと、私は誰からも聞いていない。
「もう。役に立たないんだから」
リディは頬をふくらませて、母のところへ戻っていった。母は私のほうを見もせずに、リディの肩を抱いて、反対側へ歩いていった。
後ろで、男の人が長い息を吐いた。
「……助かりました」
「今の、妹です。公爵閣下を探していて」
「はい」
「お顔を、ご存じですか」
男の人は答えなかった。答える代わりに、手帳を胸にしまった。
そのとき、厨房の扉の前を通りかかった侍従が、柱の陰を覗き込んで、ぴたりと足を止めた。
「閣下。こちらにおいででしたか」
閣下。
私は扇を半分開いたまま、振り返った。男の人は、ばつの悪そうな顔で、柱から背中を拳ひとつぶん離した。
「……ヴィクトール・ド・モンテルランです。名乗るのが遅れました」
やはり、隅っこの先輩は今夜の主役だった。
「王妃様がお呼びです。そろそろ、お決めになるようにと」
侍従はそう言って、公爵閣下を広間の真ん中へ連れていった。閣下は一度だけ振り返って、私の顔を見た。何か言いたそうだったけれど、侍従に背中を押されて、人の波の中へ消えた。
私は一人で柱の陰に残った。
皿の上には、焼き菓子が一枚だけ残っていた。閣下の皿だった。私が移した一枚を、食べずに置いていかれたのだった。
◆
広間の真ん中に、輪ができていた。
王妃様の前に公爵閣下が立ち、そのまわりを、娘を連れたご婦人方が取り囲んでいる。十一組どころではなかった。最前列にはリディがいて、母がその背中に手を添えていた。
「ヴィクトール。今夜こそ、一曲目のお相手を選びなさい」
王妃様の声が、広間に響いた。
楽団が弓を構えた。ご婦人方が、それぞれの娘を少しずつ前に押し出した。リディは扇を胸に当てて、精一杯可憐な顔をしている。
輪の外から、私はその背中を見ていた。
柱の陰で焼き菓子を食べていた人と、同じ人には見えなかった。背筋は伸びて、ご婦人方に一人ずつ礼を返している。ただ、手だけが上着の胸のあたりを押さえていた。手帳を入れたところだった。
公爵閣下は、輪の中をぐるりと見回した。
それから、輪の外へ出た。
ご婦人方のあいだを抜けて、広間を横切って、東側へ歩いてくる。一本目の柱を過ぎ、二本目を過ぎる。
三本目の柱の陰で、私は焼き菓子の皿を持ったまま固まっていた。
「先ほどの続きを、教えていただけますか」
閣下は柱の前で立ち止まって、手を差し出した。
「隅っこの作法を、まだ三つしか伺っていません。……できれば、一曲ぶん」
広間が、しんとした。
隅っこの作法、四つ目。人前で手を差し出されたら、どうするか。そんな作法は、作っていなかった。
母の声が、静けさを破った。
「閣下、お待ちください。その子は地味で、隅っこが好きなだけの子で」
「存じております」
閣下は、私から目を逸らさずに答えた。
「私も、隅っこが好きなので」
リディが、輪の中から飛び出した。
「閣下! 一曲目は、私と」
薔薇色のドレスが、まっすぐ駆けてくる。ちょうどそこへ、厨房の扉が開いた。
銀の盆を掲げたジョルジュさんが出てきた。
四十年、王宮の夜会で一度も盆を落としたことがない人は、駆けてきた薔薇色のドレスを、見事にひらりとかわした。かわして、盆も焼き菓子も無事だった。ただ、盆の縁にのっていた粉砂糖の小鉢だけが、ふわりと宙を舞った。
白い粉が、薔薇色のドレスと、真珠の髪飾り三つに、きれいに降りかかった。
リディは、柱の前で立ち尽くした。
「……失礼いたしました。お嬢様、お召し物が」
ジョルジュさんが深々と頭を下げた。下げた頭の角度が、いつもより深いように見えたのは、私の気のせいだと思う。
楽団が、最初の曲を始めた。
母が、粉まみれのリディと私を見比べた。何か言いかけて、言葉が出てこないまま、口を開けていた。
「閣下。リディも、踊りは得意でございまして」
ようやく出てきた母の声に、閣下は振り返らずに答えた。
「妹君には、まず粉を払って差し上げてください」
私は焼き菓子の皿をジョルジュさんの盆に返して、閣下の手を取った。
踊りながら、閣下が小さな声で言った。
「四つ目の作法は、何でしょう」
「今、考えています」
「では、決まったら教えてください。手帳に書きますので」
曲が終わると、閣下は私の手を引いたまま、まっすぐ東の三本目へ戻った。広間の真ん中に残るつもりは、最初からなかったらしい。
柱の陰に二人で収まったところで、衣擦れの音がした。
王妃様だった。
お付きの侍女を広間に残して、お一人で柱の前に立っておられる。私は慌てて膝を折った。閣下は、叱られる前の子どものような顔をした。
「ヴィクトール。ようやく選んだと思ったら、また隅なの」
「隅のほうが、落ち着きますので」
王妃様は柱の陰を覗き込んで、それから、ふっと息をついた。
「……本当に、風が来ないのね。ここ」
「東の三本目でございます、王妃様。焼き菓子も、最初にここを通ります」
口が勝手に答えていた。王妃様は私の顔を見て、灰緑のドレスを見て、もう一度柱の陰を見た。
「覚えておくわ。来年は、私もここで休もうかしら」
王妃様はそう言って、広間へ戻っていかれた。
広間の真ん中から、母がこちらを見ていた。王妃様が東の柱へお一人で歩いていき、地味な長女と話して戻ってくるところを、母は全部見ていたはずだった。扇を持つ手が、途中で止まったままになっていた。
◆
夜会の翌日から、伯爵家に焼き菓子が届くようになった。
毎週一箱。添えられたカードには、短い字で一行だけ書いてある。
――隅っこの作法、五つ目を伺いに参ります。
そう書いて、本当に毎週いらした。客間ではなく、なぜか庭の端の、古い楡の木の陰で話すのが決まりになった。母は最初の二回、リディを着飾らせて客間に待たせていたけれど、閣下は一度も客間へ入らなかった。三回目から、リディを客間に待たせるのはやめた。
リディは、あの夜の粉砂糖の話を誰かにされるたびに、部屋にこもった。王宮の夜会には、しばらく行かないと言っている。
五回目の朝、母が私の部屋へ来た。
「ノエミ。今日は、リディも楡の木のところへ連れていきなさい。閣下に、もう一度ご挨拶させたいの」
三年前なら、はい、と答えていたと思う。
「お母様。隅っこは、二人分しかございませんので」
母は、私の顔をまじまじと見た。これまで一度も見たことのない顔を見るように。
「……あなた、そんなことを言う子だったかしら」
「隅っこにいなさいと言われたので、隅っこにいただけです。隅っこの広さは、私がいちばんよく知っています」
母はそれきり、楡の木の話をしなくなった。
七回目に、閣下が楡の木の陰で、手帳を開いて見せてくれた。
隅っこの作法は、もう十二まで書いてあった。その前の頁に、もっと古い字で、短い書き込みがいくつかあった。
――東の三本目。今夜も、給仕に礼を言っていた。
少し間をあけて、去年の秋の日付で、もう一行。
――今年は灰色の緑。柱と見分けがつかない。似合っている。
「三年前からです」
閣下は、手帳の端を指で押さえながら言った。
「西の三本目から、ずっと見えていました。いつも一人で、楽しそうに焼き菓子を食べている方がいる、と。話しかける勇気がなくて、隅っこのまま三年経ちました」
「……あの夜、東にいらしたのは」
「西が混んでいたのは、本当です。でも、東を選んだのは、私です」
ジョルジュさんの「お二人分で」が、急に別の意味に聞こえてきた。あの人は、たぶん全部知っていた。
閣下は手帳を閉じて、楡の木の陰で、背を丸めた。背の高い人が背を丸めると、柱の陰にいたときの顔に戻った。
「来年の夜会も、東の三本目を予約してよろしいでしょうか」
「隅っこに、予約はございません」
「では、その先もずっと、隣を予約したいのですが」
私は扇を、半分ではなく全部開いた。
隅っこの作法、二つ目。扇を全部開くのは、話しかけてほしいときだけ。
閣下はしばらく扇を見ていて、それから、意味に気づいた顔をした。
翌年の秋の夜会で、王宮の大広間の東側、三本目の柱の陰に、小さな札が立っていた。
――モンテルラン公爵夫妻のお席
札を立てたのは、ジョルジュさんだった。隅っこに予約はないはずなのに、と言うと、ジョルジュさんは銀の盆を持ち直して、すまして答えた。
「四十年で、初めて承りました」
(了)
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