がんばれ、カッツ! ∼子熊の僕を「パパカッツ」と煽るウザ熊キケ。お母さんを侮辱した瞬間、僕のパンチが炸裂した∼
深い森の奥。
陽の光すらほとんど届かない、鬱蒼とした木々の間に、一組の母子熊が暮らしていた。
母熊の名は、ブリアン。
そして、その息子の名は――カッツ。
「カッツ。今日はここで待っていてね」
「うん、お母さん」
ブリアンは、かつて森でも名の知れた狩りの名手だった。
俊敏な脚。
鋭い爪。
そして、狙った獲物を逃さない強靭な顎。
しかし、ある厳冬の夜。
何らかの理由で冬眠から目覚め、狂暴化して人を襲っていた大熊との死闘に巻き込まれ、ブリアンは瀕死の重傷を負った。
一命こそ取り留めたものの、傷は深かった。
かつてのように走ることもできない。
獲物を追うこともできない。
ましてや、カッツを養えるだけの肉を自力で獲ることなど――もうできなかった。
それでも、母親だった。
「……カッツに食べさせないと」
ブリアンが選んだのは、屈辱と引き換えに食料を得る道だった。
力のある雄熊たちに身を委ね、その対価として彼らが獲った肉を分けてもらう。
それは、彼女にとって決して誇れる生き方ではなかった。
周囲の雌熊たちは、そんな事情など知らない。
「また別の雄のところへ行ってるわ」
「本当に節操がないわね」
冷たい視線。
陰口。
それでもブリアンは何も言い返さなかった。
すべては、カッツを生かすためだった。
夜。
満腹になって眠るカッツの頬を、そっと撫でる。
「……ごめんね」
小さく呟いて、涙を拭う。
朝になれば――
「おはよう、カッツ」
いつもの母親の顔に戻る。
「おはよう、お母さん!」
カッツの笑顔を見るだけで、それまでの苦労が報われる気がした。
◇
そんな森に、一匹の雄熊がいた。
名は――キケ。
性格は悪い。
口も悪い。
そして何より――しつこい。
ある日、キケはカッツを見つけると、ニヤニヤしながら近づいてきた。
「おう、パパカッツ!」
「……?」
カッツは首を傾げた。
「ぼく、カッツだけど」
「細かいことは気にするな!」
「変な呼び方、やめてよ」
「パパカッツ!」
「カッツ!」
「パパカッツ!」
「カッツ!」
「パパカッツ!」
「…………」
何度言ってもやめない。
それ以来、キケはカッツを見るたびに、その呼び名を繰り返した。
そしてある日。
ついにブリアンがキケの前に立った。
「……キケ」
「ん?」
ブリアンの声は静かだった。
しかし、その目は笑っていない。
「カッツをそんな呼び方で呼ぶのはやめなさい」
「え?」
キケは一瞬だけ怯んだ。
だが、すぐにいつもの薄笑いを浮かべる。
「言ってない定期」
「…………」
「俺は何も言ってないぞ」
「はっきり聞こえたわ」
「空耳だ定期」
「キケ」
ブリアンの拳が、ゆっくりと握り締められる。
「いい加減にしなさい」
「いやいや、だから俺は――」
キケはカッツの方を向いた。
そして、わざとらしく首を傾げる。
「俺、そんな嫌がらせしてないよな?」
「…………」
「なぁ、パパカッツ?」
その瞬間。
ブリアンの眉がピクリと動いた。
「……キケ」
「ん?」
「もう一度言ってみなさい」
「パパ活――」
ドゴォォォン!!
次の瞬間、キケの巨体が地面を跳ねながら森の奥まで吹き飛んだ。
「ぐおおおおおおっ!?」
木々をなぎ倒し、ようやく止まる。
「…………」
キケはしばらく、地面にうずくまったまま動かなかった。
カッツは心配そうに近づいていく。
「……キケ、大丈夫?」
「…………」
返事はない。
「キケ?」
しばらくして、キケの身体がゆっくりと動いた。
「う……ぐ……」
キケはふらつきながら立ち上がった。
「大丈夫?」
カッツがもう一度尋ねる。
すると――
「お前の心配なんか、どうでもいい!」
キケは突然、周囲を見回した。
「ママカッツはいるか!?」
「……ママカッツ?」
「そうだ!」
キケはカッツを指差す。
「ママカッツだよ! お前のママカッツ!」
カッツは首を傾げた。
少し考えてから、答える。
「おかあさんなら、いないよ」
「…………」
キケは一瞬、黙った。
そして――
ニヤリと笑った。
「俺じゃなかったら死んでたね」
「え?」
「俺だから耐えられたんだ」
キケは胸を張った。
「普通の熊だったら、今の一撃で終わってる」
カッツはキケの身体を見た。
「でも、キケ、さっきまで、ずっとうずくまってたよね?」
「…………」
キケの顔が一瞬引きつる。
しかし、すぐに胸を張り直した。
「俺だから耐えられたんだ」
「そうなの?」
「ああ!わかったな、パパカッツ!」
「だから僕はカッツだって!」
キケはニヤニヤと笑った。
そのやり取りを――
少し離れた木陰から、ブリアンが黙って見ていた。
何も言わない。
ただ、じっと二匹を見ている。
カッツはキケを見つめた。
息を呑み、そして――
「……僕は」
キケが振り返る。
「ん?」
カッツの表情から、笑みが消えた。
「僕は――カッツだよ」
静寂。
カッツは拳を握った。
「僕は、パパカッツじゃない。それに――」
一歩、前へ出る。
「お母さんのことも、ママカッツって呼ぶな!」
ドンッ!!
地面が震えた。
カッツは全身の力を拳に込める。
そして――
「ファイーアナルパンチ!!」
ドバァァァンッ!!
「ぐぎゃあああああああああっ!?」
キケの巨体が、再び宙を舞った。
今度は森の奥深くへと吹き飛んでいく。
そして――
静かになった。
◇
しばらくして。
カッツはブリアンのもとへ戻ってきた。
「……カッツ」
「なに?」
「さっきの技名なんだけど……」
「うん?」
「『ファイーアナルパンチ』って言ったわよね?」
「うん」
カッツは素直に頷いた。
「どうして、そんな名前なの?」
「本当は『ファイナルパンチ』って言おうとしてたんだ」
「そうなの?」
「うん」
カッツは少し恥ずかしそうに頭をかいた。
「あの時は興奮してたから、変な感じになって間違えちゃった」
「…………そう」
ブリアンは何とも言えない顔をした。
「じゃあ、次からは落ち着いて技名を言いなさい」
「うん!」
カッツは元気よく返事をした。
そしてブリアンは、カッツをじっと見つめる。
「……カッツ」
「なに?」
「あなた、狩りの才能があるわ」
「ほんと?」
「ええ」
ブリアンは感心したように息子を見た。
あの一撃。
あの身体能力。
かつての自分を思わせるほどの力だった。
「これなら、もう……」
ブリアンは静かに微笑んだ。
カッツも嬉しそうに笑う。
そして、母親に向かって言った。
「お母さん」
「なあに?」
「もう、夜に他の雄熊のところへ行かなくていいよ」
ブリアンの目が見開かれた。
「これからは僕が狩る」
カッツは小さな胸を張った。
「お母さんは、もう無理しなくていい」
「……カッツ」
ブリアンは息子を抱きしめた。
その腕の中で、カッツはもう子熊ではなかった。
母親に守られるだけの存在ではない。
自分の力で獲物を獲り、自分の力で母親を守る――
一人の狩人になろうとしていた。
◇
その日の夜。
洞窟の中には、肉の焼ける香ばしい匂いが漂っていた。
「おいしいね、お母さん!」
「ええ……そうね」
焚き火を囲みながら、ブリアンは嬉しそうに微笑む。
かつては自分が命を削って手に入れていた肉を――まだまだ身体は小さな子供なのに、カッツが自分の力で獲ってくるからねというのだ。
「カッツ」
「なに?」
「立派になったわね」
「えへへ」
ブリアンは嬉しそうに息子の頭を撫でた。
もう、自分を犠牲にする必要はない。
これからは、この子と二人で生きていける。
そう思った。
そして二匹は、静かに肉を食べ続けた。
森から、「パパカッツ」という声が消えた。
その声を口にしていた熊も――
もう、どこにもいなかった。
――二匹の胃袋の中を除いて。
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