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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

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世界で一番美味しい料理を、私は食べなかった

作者: 野塩いぜ
掲載日:2026/04/17

 あのデザートは、きっと世界で一番美味しかった。

 食べていないから、分からない。分からないけれど――きっと、そうだったのだと思う。


***


 エリセール・ブランシュが初めてその料理人に会ったのは、十五の秋だった。


 ブランシュ伯爵家の三女として生まれたエリセールは、生まれつき身体が弱かった。幼い頃から熱を出しやすく、食も細い。同年代の令嬢たちが社交の場で華やかに笑っている頃、エリセールはたいてい自室の寝台にいた。


 役目を果たせない娘に向けられる家族の目は冷たい。


 貴族の女に求められるのは良家への嫁入りと後継ぎだ。そのどちらも果たせそうにない娘は、食卓に並ぶことすら歓迎されない。夕食の席でエリセールがスプーンを置くたび、母が溜息をつき、姉が目を逸らし、父はそもそもこちらを見ない。存在しないものとして扱われる。それが一番楽だ、と自分でもそう思うようになっていた。


 その人が屋敷にやってきたのは、そんな日々の最中だった。


 厨房の下働きとして雇われた青年。さっぱりとした黒髪によく笑う目をした若者だ。最初は名前すら知らなかった。エリセールが知っていたのは、食事を残す自分を給仕越しに見ているらしい厨房の新入りがいるということだけだった。


 ある朝、侍女が小さな器を運んできた。


「厨房の者が、お嬢様に召し上がっていただきたいと」


 白い器にわずかな量のスープが入っていた。正式な食事の器ではない。厨房で使う質素な椀だ。澄んだ琥珀色の液体からほのかに立ち昇る湯気を見つめ、エリセールは義務感だけでスプーンを取る。


 一口目で、目を見張った。


 口当たりは驚くほど軽い。味は穏やかだが、舌の上にしっかりと旨味が残る。胃の腑に落ちた温かさが、身体の内側からじんわりと広がっていく。重くない。食の細い自分でも飲める。それどころか、もう一口、と自然に手が動いた。


 気付けば器が空になっていた。エリセールは自分の手を見つめる。食事を残さなかったのは、いつ以来だろう。


 翌日、エリセールは厨房を訪ねた。


 料理人たちが忙しく立ち回る中、その青年は隅の方で野菜の皮を剥いていた。下働きの仕事だ。エリセールに気づくと、ぱっと顔を上げる。


「あ、お嬢様。どうかしましたか?」

「昨日のスープは、あなたが?」

「ええ。お口に合いましたか?」


 遠慮がちに頷いた途端、青年は目を細めて笑った。心の底から嬉しそうな、混じりけのない眩しい笑顔。


「よかった。自分はギフティオと申します。明日はもう少しだけ味を変えてみますね」


 名前を知った。それが、始まりだった。


 翌日も、その翌日も、小さな器が届いた。毎日ほんの少しずつ味が変わる。具が増え、味つけの幅が広がり、エリセールの身体はそれに応えるように食べられる量が増えていった。


 だが、ある日を境に器が届かなくなった。


 一日、二日と待っても来ない。三日目にエリセールが厨房を訪ねると、ギフティオは奥の洗い場で鍋を磨いていた。こちらに気づいて振り返った顔の、左の頬が腫れている。


「……どうしたの、その顔」


 ギフティオは一瞬だけきょとんとして、それから頬に手を当てた。


「ああ、これですか。ちょっと転びまして」


 嘘だった。下働きが勝手に食材を使って料理を作れば、料理長がどう出るかは想像がつく。余った食材を使うくらいならまだしも、見習い風情が直接料理を届けるなど、厨房の秩序を乱す行為だ。きっと、殴られたのだろう。エリセールには分かった。恐らく、もう彼の料理が食べられないことも。


 ――しかし、翌日また器が届いた。


 中身は以前と少し変わっていた。使っている食材が明らかに質素になっている。おそらく本当に捨てる寸前のくず野菜や骨から出汁を引いたのだろう。それでも味は変わらない。いや、むしろ前より美味しかった。


 エリセールは厨房に行った。ギフティオはまだ腫れの引いていない顔で、それでも明るく彼女を出迎える。


「また怒られるのではないの?」

「大丈夫ですよ。本当の本当に余り物しか使っていませんから。怒られたら、その時はその時です」

「……どうして、そこまでするの」


 声が震えた。自分のために殴られる人間がいるという事実が、エリセールの胸を締めつける。こんな、食事もろくに食べられない――出来損ないの、自分のために。


 ギフティオは少し考えるように首を傾げ、それからごく当たり前のことのように言った。


「自分は、人を笑顔にするために料理人になったので」


 大それた信条だった。下働きの青年が口にするには身の丈に合わない言葉のはずだった。けれどギフティオはそれを、天気の話でもするように口にする。自分にとってはそれが当然であるとでも言うように。


「お嬢様が食事を残すと聞くと、どうにも気になっちゃうんですよね。料理人としての負けというか」


 笑いながら、腫れた頬を少し痛そうにさすった。エリセールは視界が滲みそうになるのを必死で堪えた。


 それから、ギフティオは殴られなくなったらしい。エリセールにはその経緯はわからなかったが、結果だけは見える。余り物で作るスープの出来が良かったのか、料理長が根負けしたのか。いつの間にかギフティオは下働きからスープ担当に上がっていた。


 正式にスープを任されるようになった彼の料理は、さらに変わった。使える食材が増えたことで、スープだけでなく小さな副菜が添えられる。食べられる量が増えたことで、青白かったエリセールの頬にもわずかに色が戻り始めた。


「前回は少し酸味を足してみたのですが、いかがでしたか?」

「好きな味でした、また食べたいくらい」


 食事の時間が苦痛じゃない。食べることが、楽しみになる。それだけで世界が変わった。


 エリセールは厨房に通いつめるようになった。そのうち、ギフティオの人となりがさらに見えてくる。よく笑い、よく喋り、時おり真面目くさった顔で野草を持ってきてはエリセールを驚かせた。


「お嬢様には特別な食材が必要かもしれません」


 深刻な顔で差し出されたそれに思わず目を丸くすると、「冗談ですよ。これは毒があるので食べられません」と笑って窓の外に放り投げる。予測のつかない人だ。鬱々とした日常の中で、彼の存在だけが明るく、眩しい。


 やがて、エリセールは昼食を食堂ではなく厨房の隅で食べるようになった。家族の目がない場所で、ギフティオが合間に出してくれる小皿をつまむ。他の料理人たちは最初こそ怪訝な顔をしていたが、すぐに慣れたように振る舞うようになった。伯爵家の三女がわざわざ厨房に来ること自体、この娘が家の中でどういう立場にいるかを物語っていたのだろう。


「私、あなたの料理を食べている時だけ、生きている気がする」


 ある日、スプーンを置いたエリセールがぽつりとそう言った。大袈裟なことを言ったつもりはない。ただ正直な気持ちだった。


 ギフティオは一瞬だけ手を止め、それからいつもの笑顔で口を開く。


「それは料理人として最高の褒め言葉ですね」


 笑っていたが、その目はほんの少しだけ違う。その違いが何だったのかは、その時のエリセールにはわからなかった。


***


 変化はゆっくりと訪れた。


 ギフティオの料理で少しずつ健康を取り戻したエリセールは、いつの間にか痩せ細った少女から、年相応の娘へと姿を変えていた。自室にこもりきりだった頃とは別人のように。


 それを喜ぶべきだったのだろう。けれど父親は、エリセール回復を利益をもたらす項目として勘定に入れた。


 ――それが、縁談だ。


 相手はレナード・ダルブレ卿。爵位は高いが、これまでに何度も妻を替えており、使用人への暴力の噂が絶えない壮年の男。ようやく出られるようになった社交の場で、エリセールの姿を見かけたのだと言う。


 父は娘の意向を訊かなかった。訊く必要がないと思っているのだ。元来が虚弱で、価値のなかった娘にようやく使い道が生まれた。彼にとっては、それだけのこと。


 母は「良い話じゃないの」と言い、姉は「あなたに相手が見つかるなんて」と半ば呆れたように笑う。


 顔合わせの日取りはもう決まっていた。エリセールに選ぶ余地はない。


 その夜、エリセールは厨房を訪ねた。


 他の料理人がいなくなった後の、静かな厨房。ギフティオはまだ残って翌日の仕込みをしていた。エリセールの顔を見て手を止め、「どうしました?」と問いかける。いつもの明るい声だった。


 エリセールは唇を噛んだ。泣くまいと思ったのに、抑えられない。


「私……私、あんな人に嫁ぐくらいなら……いっそ、死んでしまいたい……!」


 馬鹿げた願いだと思われるだろうか。弱い人間の甘えだと。けれどあの男の元に送られることを思うと、暗い部屋で一人震えていた日々の方がまだましだった。ギフティオの料理で生きる力をもらった、その先がこれなのか。ならば元気になどならなければよかった。


 涙が落ちる。大粒の、止められない涙だった。貴族の令嬢らしくない、みっともない泣き方だとエリセール自身も思う。


 ギフティオは黙って聞いていた。仕込みの手を完全に止め、エリセールが泣き終わるのを待っている。


 やがて、彼は口を開いた。


「じゃあ、世界で一番美味しい料理を食べて死にましょう!」


 笑っていた。明るい声で、明るい顔で。


 エリセールは涙の滲む目で彼を見つめた。冗談なのか、本気なのか――わからなかった。けれど、ギフティオの瞳は笑っていながら静かだ。ふざけている時の軽さがない。ただの慰めではない可能性を、なぜか否定できなかった。


「……本気で、言っているの?」

「さあ、どうでしょう。お嬢様が笑ってくれるなら、冗談でも本気でも何でもいいですよ」


 答えになっていない。けれどエリセールは、彼がこちらの痛みを真剣に受け止めていることだけは伝わった。笑い飛ばしたのではない。笑顔のまま、一緒に立ってくれている。


「苦しんで生きるくらいなら、笑って終わる方がいいと思いませんか?」


 彼の言うことはおかしい。おかしいと思うのに――それでもエリセールのためにそう言ってくれるのが嬉しくて、また涙が溢れた。


***


 それから少し経ち、ついに顔合わせの日が来た。


 レナード・ダルブレ卿を招いた晩餐会。食堂には白い布がかけられ、銀の燭台に蝋燭が灯されている。これほど念入りに食卓を整えられているのを、エリセールは初めて見た。彼女の食事には無関心だった人間たちが、ようやくついた買い手への見栄のためにだけ動いている。


 席に着いたエリセールの横を、ギフティオが通り過ぎた。皿を運ぶその足取りはいつも通りに軽い。すれ違いざま、ほんの一瞬だけ唇が動く。


「スープだけは、飲まないでくださいね」


 囁きは、エリセールの耳にだけ届いた。


 心臓が跳ねる。まさか、と思った。あの夜の会話が蘇る。世界で一番美味しい料理を食べて死にましょう。冗談だと――冗談であってほしいと、どこかで思っていた。


 ギフティオはもう厨房の方へ戻っている。説明も、振り返ることもせずに。


 スープが各人の前に置かれる。あの琥珀色の澄んだスープ。ギフティオがエリセールのために作り続けてきたものとは違う。これは、エリセール以外の全員のために作られたものだ。


「いやぁ、素晴らしい。これほどの品が出るとは」


 レナードが満足げにスプーンを動かしていた。父も母も姉も、婚約者の機嫌に合わせるように笑みを浮かべ、スープを口に運んでいる。彼らの楽しげな食卓に、エリセールの席はあっても居場所はない。いつも通りの光景だった。


「エリセール、あなたもお食べなさい」


 母が言った。客人の前だからか、いつもの棘がない。優しい母親の顔を作っている。


「……少し、胸が苦しくて」


 嘘ではない。どうしても、スプーンに手が伸びない。心臓が早鐘を打ち、喉が詰まって息苦しい。


「まったく、せっかくの席に。ダルブレ卿、娘が申し訳ございません」


 父が苦笑いをし、レナードは「お気になさらず」と鷹揚に笑った。その目がエリセールの顔から胸元まで滑り落ちる。品定めをする視線だった。


「しかし本当に美味しい。この料理人を我が屋敷に連れていきたいほど――」


 レナードの声が途切れた。


 スプーンが皿の縁に当たって小さな音を立てた。レナードの手が震えている。顔を押さえ、言葉にならない声を漏らし、そのまま椅子から崩れ落ちた。


 続いて、父の手からもスプーンが落ちる。母の身体が傾いた。姉が喉を押さえ、テーブルに突っ伏す。彼らの顔には、ほんの数秒前まで浮かんでいた笑みがそのまま貼りついていた。


 給仕の悲鳴が上がった。


 皿が割れる音、椅子が倒れる音、廊下を走り去る足音。食堂を満たしていた穏やかな空気が一瞬で崩れ、そこに残ったのは静寂と、動かなくなった人間たちだけ。


 エリセールは椅子に座ったまま動けなかった。


 スープに口をつけなかった自分だけが、ここにいる。目の前の光景が現実だと理解するのに、数秒かかった。父の手がテーブルの上に投げ出されている。母の身体が不自然な角度で傾いている。姉の髪が料理の皿に垂れている。


 足音が近づいた。


「エリセール様」


 ギフティオだった。静まり返った食堂の中を、彼は静かに歩いてくる。手には一皿のデザートを持っていた。小さく、美しく、飴細工の光が蝋燭に照らされて揺れている。


 コトリと、エリセールの前に皿が置かれた。


「こちら、お食べになりますか?」


 いつもと変わらない声だった。エリセールの好みを訊く時と同じ、柔らかな声音。ただその目だけが、あの夜と同じ静けさを湛えていた。


 毒だ。


 エリセールは一目で理解した。このデザートも、命を奪うものだと。ギフティオはエリセールを苦しめる人間を排除した。そしてこの一皿で、最後の選択を渡している。ここで終わるか。それとも……。


 呼吸が浅くなり、指先が震える。けれどエリセールは、自分でも驚くほど落ち着いた声で言った。


「――ギフティオ。下がってくれますか」


 ギフティオは一瞬だけ目を瞬いた。


「お嬢様?」

「一人にしてほしいの。少しだけ」


 ギフティオは何も言わなかった。深く一礼し、音もなく食堂を出ていく。


 扉が閉まり、静寂が降りた。


 食堂にはエリセールと、動かなくなった家族と、結婚する予定だった男と、小さなデザートだけが残された。蝋燭の炎が揺れ、飴細工の表面に光が走る。甘い香りがかすかに漂っていた。


 エリセールはデザートを見つめた。


 ギフティオが作ってくれたもの。あの人の料理はいつだってエリセールのために作られていた。身体の弱い自分が食べられるように。少しでも美味しいと感じられるように。生きることが少しでも楽になるように。


 ――これを食べたら、楽になれるのだろうか。


 手が伸びかける。指先がデザートの皿の縁に触れ、冷たい陶器の感触が伝わってきた。


 食べてしまいたかった。


 あの人が作った料理だ。最後の一品だ。これまでどの一皿にも込められていた、あの温かさが、この中にもあるのだろう。身体に毒を回す一口であっても、ギフティオの料理であることに変わりはない。口に含めば、あのスープと同じ温もりが広がるのかもしれない。


 身体が震える。


 食べたい。食べてしまいたい。食べたら終わる。食べたら、この人の料理を最後に味わって終われる。それは悪くない終わり方ではないか。


 ――けれど。


 エリセールは指を引いた。


 これを食べてしまったら、もうギフティオの料理を食べられなくなる。


 馬鹿みたいな理由だ。死のうとしているのだから、そんなことは当然だ。けれど、その当然のことが、胸の中で石のように重かった。


 もう一度あのスープが飲みたい。明日の朝、厨房の隅で、ギフティオが仕込みの合間に出してくれる一皿を食べたい。「お口に合いましたか?」と訊かれて頷きたい。あの笑顔を、もう一度見たい。


 それは、死にたいと言った夜には思いもしなかったことだった。


 デザートの甘い香りが鼻腔をくすぐる。美しい一皿。たぶん、彼が作った中で一番。けれどエリセールは、もう手を伸ばさなかった。


 椅子から立ち上がった。うまく立てずに、わずかによろめく。


 テーブルの上の光景から目を逸らさずに、一歩、後ろに下がった。もう一歩。


 デザートが遠ざかる。


 辺りを見渡すと、食堂の裏口があった。使用人が使う細い通路。ギフティオが毎日、料理を運んで通った道。


 エリセールは走りだした。


 裏口から庭を抜け、屋敷の塀を越え、夜の通りへ出る。もう二度と戻らないのだと、走りながら思った。ブランシュの名も、伯爵家の三女という肩書きも、この足で踏み越えていく。


 走りながら、涙が止まらなかった。


 ギフティオは逃げないだろう。あの人は決して逃げない。駆けつけた衛兵に捕まり、裁かれ、どこかに送られる。ギフティオの料理を食べて笑顔になった人間はもういない。食堂に並んだ彼らは、確かに美味しいと言って笑っていた。彼の料理で笑顔になり――そして死んだ。


 でも、ギフティオは死なない。この国には死をもって償わせる決まりはない。彼は生きる。罪人として、生き続ける。


 走る足が鈍った。息が切れ、膝に手をついた。路地の暗がりにしゃがみ込み、肩で息をしながら、エリセールは食堂に残してきた一皿のことを考えた。


 あのデザートは、きっと世界で一番美味しかった。


 食べていないから、わからない。彼が最後に込めたものの味を、自分は永遠に知ることができない。けれどだからこそ、そう思える。あの一皿に込められていたものの重さだけが、食べなかったからこそ、胸の中に残り続ける。


 ――いつか。


 涙を拭った。暗い路地の先に、夜明け前の空がわずかに白んでいた。


 いつか生きてまた会えたなら。その時は、もう一度あの人の料理が食べたい。毒など入っていない、ただ美味しいだけの一皿を。


 エリセールは立ち上がった。


 この身体はあの人の料理が作ってくれたものだ。ならば、この身体で歩いていこう。


 名前を捨てた彼女は、夜の通りを歩き始めた。どこへ行くのかはまだ決めていない。けれど、その足取りは力強いものだった。


お読みいただきありがとうございました。

この物語と同じ世界の別の話を、4月20日から投稿予定です。

どこかでまた、お会いできたら嬉しいです。

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