ロマリア王国、判断、決断
ロマリア王国。帝国北西部に隣接し、独立以来何百年にもわたり、帝国との争いを繰り返してきた国家。緑豊かな山々や深い森は天然の要害として機能し、幾度となく繰り返された帝国の侵攻を撥ね返す要因となった。
現国王であるローラント王は賢王として兵や民に慕われている。その王自ら兵を率いて帝国と決着をつけんと出陣する為の最後の会議をしていた丁度その時、帝国から一通の書状が届いた。
ローラント王はその書状を読み終えると、深い溜め息をつき周りにいた主だった将兵達に書状の内容を告げた。
「馬鹿げた事を。陛下、こんな話を受け入れる必要はありません」
書状の内容を聞き終えた老兵は強い口調でそう主張した。それに周りの男達の多くがそうだ、そうだと同調する。
独立戦争以来、帝国とは長年争ってきた関係なのだ。親の代、爺さんの代、それ以上昔から戦争をしてきた。戦場は多くの場合ロマリアの領内であり、国民の多くは誰かしら肉親を失っていた。家族の男すべてを戦で失った者すらいるのだ。
帝国で起きた内乱の話はロマリアにも伝わっていた。例え君主が変わろうと憎き帝国には変わりはなく、この絶好の機会を活かさないわけにはいかないと将兵達を考えていた。
「少し時間をくれないか」
王の言葉にどよめきが起きた。
「陛下!! 今は一秒足りとも無駄にできません。何を迷う必要があるのです。君主が変わろうとオートリア家の人間が跡を継いだだけ、帝政に変わりなく、時が経てばまた王国に攻め入ってくるに決まっています!!」
部下が声を荒げても、ローラントは渋い表情を変えずにいた。
「私にはグリードという新たな若き皇帝が、どのような男かははっきりとはわからん」
「陛下はそのような人物を信用なさるというのですか」
部下の言葉にローラントは首を振る。
「私が気になるのは彼を皇帝にする為にオイゲンという者が協力している事だ。私は彼と何度か話をした事があるが素晴らしい男だった。私は彼を信頼に足る人物だと評価している」
「しかし陛下、オイゲン将軍も所詮は主君に叛旗を翻した男。かつてはそのような人物であったかもしれませんが今もそうとは……」
「オイゲン殿は和平の為に証として自身の首をさしだしてよいとまで書かれている。彼ほどの人物が命をかけてまで新たな皇帝に尽くそうとしているのだ。無下にはできまい」
「彼の意思とは関係ないものかもしれません。新たな皇帝が将軍の首をかってにさしだそうと、いやすでに将軍を手にかけているかもしれません」
「彼はそんなに簡単にやられるような男ではないよ。反乱が成功したのは彼の力があればこそであろうし、もし彼の力なしに反乱を成功させたのならば、新しい皇帝とはオイゲン殿以上のやり手という事になるな。そんな相手と易々と戦争などできないと思うが」
「しかし」
「お前達の言いたい事もわかる。だから一晩考える時間をもらおう」
「陛下……」
「これは命令だ。部隊は待機させておけ。明日、改めて指示をだす」
王の言葉に部下達はこれ以上逆らう事はできなかった。みな黙って頭を下げ、席を立ち自室へと戻る王を見送るのだった。
「どうかなさいましたか、お父様」
会議にでていたはずの父親を見て娘のイリスは座っていた椅子から立ち上がり心配するような顔をした。
「予定が変わった」
疲れた声でローラントは答え、イリスの隣にある装飾の凝った椅子に腰掛ける。
「今日の出陣は中止になった」
「そうですか……」
悲しそうに言う娘を見てローラントは言う。
「なんだ、父親が戦争に行かないのがそんなに嫌なのか」
茶化して言うローラントにイリスは変わらない口調で話す。
「戦争をしないで済むわけではないのでしょう。お父様の表情を見ればそれぐらいわかります」
「ハッハッハ。そうか、お前に隠し事は出来そうにないな」
ローラントは笑いながら娘の頭を撫でた。
イリスの母親は彼女を生んだ後、すぐにこの世を去った。残されたローラントはその後世継ぎの男子を得る為と周りから後妻を娶るよう言われるが、それを聞き入れなかった。彼は帝国との婚約破棄後にイリスを後継者に育てようと決心する。王国の歴史の中で女王が統治した時代が無かったわけではないが、男子が継ぐのが当たり前の慣習となっており、あくまで女性による統治は臨時的なものでしかなかった。それ故にローラントはもちろんの事、イリスに対する重圧も相当なものであった。もし、娘に国家の統治者として才覚がなければ、男子の養子を取る事も考えていたローラントであったが、イリスは多くの点で父親の期待以上に応えてみせた。父親や重臣達からよく学び、時には内政における問題を幼い彼女の提案が解決した事すらあった。
だが、彼女には大きな問題があった。優しすぎるのだ。民を想い、人々の為に何かをなそうとする事は大切な事であるが、それには限度というものがある。
彼女の母親も心優しい女性で、戦から戻ったローラントの無事を喜ぶ事はあっても彼の上げた戦果を喜ぶような事はしなかった。そしてその母親と過ごす事のできなかったイリスも血のなせる業か、母と同じように父親の無事を喜ぶ事はあっても戦果を喜ぶような事は決してなかった。
それは一女性として、いや一人間としては素晴らしい事であろうが、一国の君主としてはそれは優しさではなく、覚悟する事ができない臆病さでしかなかった。
「実はな、帝国から和平を申し込む書状が届いた」
その言葉にイリスの表情は一瞬、驚きと和平が可能だという事への喜びの入り混じった明るいものとなるが、父親の顔が険しいものである事を見るとすぐにまた元のような不安そうな表情に戻った。
「迷っているのですね」
「ああ」
ローラント自身も戦争などできればしたくはない。しかし、避けれる戦を避け続ける事しかしなければ、やがてそれは後のより大きな災いとなる可能性があるのだ。
「お前はどうすべきだと思う」
ローラントは穏やかな口調で娘に尋ねた。
「……わかりません。ただ、戦争になればたくさんの人が命を落とす事になるのは間違いありません」
ローラントの予想通りの答えだった。
イリスの性格上、どんな場合でも人に戦を勧めるような事は言わないのだとわかりきっていた。そして彼女がローラントの質問にわからないと答える時、多くの場合それはそうすべきだと頭では判断していながらも心がそれに抗おうとしている状態にある時だった。
それは『逃げ』に他ならなかった。
君主として善政を敷く為にはその良心を蝕む痛みから逃げてはならない。苦痛の伴う判断を時には下せねばならぬだ。だが、それはまだ年が十二になったばかりの幼い少女には酷すぎるのかもしれない。
「そうだな……」
ローラントは溜め息混じりに頷いた。
「不安なのですね……。ごめんなさい、何のお力にもなれなくて」
ローラントは悲痛な表情で謝る娘を見て、そんな事はないと言おうとして、はっとする。
何故賛成するはずもないとわかっていながらあのような事を尋ねたのか。
彼女を試す為か、いやそんな為ではない。娘に止めて欲しかったのだ、この戦争をはじめる事を。彼女に言って欲しかったのだ、戦争など止めるべきだと。
戦争などしたくない。しかし、その判断が間違いだったならばという恐れ……。
自分も逃げようとしていた。恐怖を、苦痛を、後悔を生む事になるかもしれない決断から。
そしてそれをこの幼い少女に押し付けようとしていたのではないか。
そうであるとするならば、ああ、なんと愚かな王か。なんと愚かな父親であろうか。
「すまない、私は不甲斐無い人間だよ」
自然とローラントは謝罪の言葉を口にした。
イリスは父親の心中を察したのか、ただ黙って首を振る。
「イリス。お前が私の跡を継いだ時、良い時代だと呼べるようなものにしておきたいものだ……」
翌朝ローラントは再び会議室に人を集めると、早々に出兵に関する判断を告げた。
「出陣は中止だ。帝国の和平の申し出をうける」
王の言葉にその場にいた多くの者は不満を露にして抗議する。しかし、ローラントの決意は変わらない。
「お前達の考えている事はよくわかる。だが、私の判断が変わる事はない」
ローラントは毅然とした態度で命令するが、それでも食い下がる者もいた。
「陛下!! 今帝国を討たねば、必ず後の災いとなるのですぞ」
「必ずとは言えぬだろう」
「いえ、必ずです。オイゲン将軍が存命の間は大丈夫かもしれません。しかし、彼も不死身の人間ではない。彼の死後、もしくはグリードという新しい皇帝の死後。帝国は再びロマリアに攻め込んでくるでしょう。一年二年ではなく百年二百年で判断すべきです。今の内に帝国という憂いを断っておくのです」
「百年二百年で判断して、後の災いになる恐れがあるからといって戦争を繰り返せば、大陸中の国々すべてを滅ぼさなければいけなくなるぞ」
「帝国と他の国とは事情が違います」
「過去に囚われ争いを続けても良い結果は生まれはしない」
「だからこそ帝国を討ち、ここで終わらすのです。忌わしきロマリアの負の歴史を」
男が熱弁し、王を説得しようとするが、ローラントは首を横に振る。
「帝国を破ってもそれで終わりではないのだ。もし帝国との戦いに勝てたとしよう。それからどうするつもりなのだ」
「どうと申されましても……、帝国無き後、その広大な領土を得れば、ロマリアは安泰」
戸惑いながら話す男にローラントは厳しい口調になる。
「そうはならんな。帝国の民が我々の統治を良しするものばかりであるはずがない。あの広大な領土を統治するのは一筋縄ではいくまい。力で押さえ込もうとするには広すぎる。無理をすれば多くの反乱を生み、それは結果としてロマリアを疲弊させるぞ」
「無理にすべてを押さえ込む必要もありますまい。手に負えぬ地域には独立を認め、小国としての存続させれば軍事的脅威となる事は抑えられるはず」
「小国が乱立すれば、新たな火種となる」
「必要となれば我々が介入すれば」
「介入しようとするのは我々だけとは限るまい。下手に手をだせば、結局は新たな大きな戦争につながるぞ」
「それは……」
「帝国の周辺国の多くがロマリアに対して友好的なのは、帝国という共通の脅威があるからなのだ。もし、帝国という脅威が無くなれば、力の均衡は崩れ、新たな戦争を生む。無理をして帝国と争う必要もあるまい。勝てるチャンスであっても、勝てる保証はないのだ。平和に解決できるならそうすべきであろう」
ローラントの言葉に男もついに折れ王の意向に従う意志を見せる。
「わかりました。陛下の決意は固いのですね。私がこれ以上言っても仕方ありますまい」
「では、すぐに帝国に使者を送るのだ」
ローラントの命でその日のうちに帝国へ使者が送り出され、使者には王直筆の書状がもたされていた。