皇帝
広々とした室内には庶民では一生手に入れる事のできないようながものが多々ある。精彩に描かれた風景画や、でたらめに描かれたようにしか見えない名画。金銀でできた甲冑に何年も読まれていないであろう骨董品の書物が並ぶ本棚。ここは代々皇帝が寝室としてきた部屋。父が、兄達が使用していた部屋。ここが自分の新たな寝床となった部屋なのだ。
豪勢な装飾が施された巨大なベッドに俺は寝転び天井を見つめ思考する。
――何が変わったのだろうか。いや、何が変わるのだろうか。
バスティアンの死。それは最後の血の繋がった家族の死。それは俺に何をもたらしてくれるのか。
――家族。
父が死んだ日、二人の兄は違った反応を見せた。イェンスは黙って二度と目を覚ます事のない父を見つめ、バスティアンは声をあげ嘆いた。バスティアンは父を見つめるイェンスを大袈裟に責め、その様を俺はうんざりしながら見ていた。……茶番だった。兄達にとって父の死自体はどうでもよい事なのだ。イェンスは父の死によって、なくなりたくもない皇帝にならねばならぬ事を憂いていたのだ。バスティアンが悲しんだのは父の死ではなくイェンスが皇帝になってしまう事だったのだ。誰も父の死を悲しんでなどはいなかった。もちろん俺自身も。
イェンスが死んだ時、バスティアンは喜んでいた。いや実際には嘆き悲しんでいたのだが、俺には嬉しさのあまり泣いているようにしか見えなかった。案外、イェンス自身も死によって皇帝という地位から解放される事を喜んでいたかもしれない。
家族とは何だったのだろう。家族の死は悲しむべきものなのだろうか。俺には母の記憶はないが母の死を父や兄達は悲しんだのだろうか。
今日、最後の家族バスティアンが死んだ。その事自体に俺の感情を揺さぶるようなものは何もない。喜びや悲しみといったものはない。だが、無惨なバスティアンの遺体を見たとき、俺は不快感を覚えた。怒りにも似た感情が湧いた。それはバスティアンが家族であったからなのか。
いや、そんな事は断じてない。もとからあの男を生かすつもりなどなかった。生きて捕らえた所で処刑するつもりだった。あの男は俺を嫌っていただろうし、俺もあの男は嫌いだった。
それならば何故……。簡単だ。あの男が皇帝であったからではないか。私が不快だったのは兄が無惨に殺された事に対してではない、皇帝という存在があのように辱められた事に対してなのだ。
だが、何故だ。何故、皇帝という地位、証、存在がここまで俺を魅了したのだ。幼い頃から俺はそれに魅入られていた。
――不満だったのだろうか。
いったい何が不満だというのか。皇帝などならなくとも望めば何でも手にはいったのだ。
――何でも……。
いや、違う。そうだ、望んでも望んでも手に入らなかったのだ。これだけは、皇帝という地位だけは。だからこそ魅力的だったのだ。だからこそ望んだのだ。
俺は退屈だった。退屈だった。退屈だったのだ。
どんなものを俺を十分に満足させてはくれなかった。一流の料理も一流の名画も劇も踊りも女も。一瞬の快楽の後にそれは押し寄せる。俺の全身を包み、取り付き、放さない。
退屈だ。退屈だ。退屈だ。
地獄だった。牢獄であった。苦痛そのものと呼ぶ事すらできた。何と世界はつまらんのだ。この日々から救われる手段はあるのだろうか。……あるのだ。あるはずなのだ。
――皇帝。
それは地獄から俺を救い出す糸だ。牢獄から助け出す鍵だ。この不治の病すら治す薬なのだ。
俺はそれを今日手にした。
――脱け出せるのか? 退屈な日々から。
いや、脱け出さねばならないのだ。呪われた日々から。もしも、皇帝という地位についてなお退屈であったのならば、俺は何を目的に生きればよい。
退屈であってはならない。俺はもうそれを手にいれてしまったのだから。
白髪の男、ジェイドは言った。真の自由を手にする権利を得たのだと。
そうだ、俺は自由になれるのだ。ならねばならぬのだ。退屈という束縛から自由にならねばいけない。
精一杯遊ぼうではないか、この新しく手にいれたこの玩具で。この玩具で遊べば、多くの人々が餓える。この玩具で遊べば、多くの人々が血を流す。この玩具で遊べば、多くの人々が死ぬ。
それは楽しいだろうな。いや楽しいはずだ。
今までできなかった事ができるようになったのだから、それは楽しい事に決まっているのだ。
ああ、なんて清々しい気分なのだろうか。この感覚は久しく感じた事のないものだ。
――明日が楽しみだ。
明日からの日々は今までとは違う。今までとは違う。違う。違うのだ。