希望をもたらすは
イリスが帝国へとやって来て一月ほど。彼女は皇妃となりながら、相変わらず監視される日々、不自由な生活を強いられていた。
グリードが日々政務に励む皇帝の間へと、彼女を連れ行く事はなく、日のほとんどを主のいない一室か、護衛という監視役付きの中、城内に設けられた庭園で過ごすしかなかったのである。
そんなある日、庭に咲く花々をいつものように眺めていると、突如何やら思い付いたのか明るい顔となり、護衛の兵士達に彼女が話しかけた。
「あの」
「はっ、何でありましょうか」
兵士のうちの片方が、特に表情を変える事もなく、淡々と応じる。
イリスの護衛には、常に二人以上の人間が付くように指示されており、それは単なる逃亡や自殺などを阻止する意味合いの他、護衛の人間と彼女の仲が必要以上に深くなる事を防止する意味も持っていた。
過剰な親近感、あるいは情欲的感情は、人間が持つ合理的判断というものを狂わせる。
長い歴史の間に生まれた悲劇の中に、そういった類いが起因となっているモノは少なくはないし、大衆の心を打つ劇もまた、そういった合理を超えたモノを表現した作品であった。
だが、一部の人間にとってそれは、何も美しいお話、悲劇などではなく、単純に怒りに触れ、都合の悪いものでしかない。
「お菓子を作りたいと思うのですが」
「菓子……、ですか?」
「はい」
「お望みの菓子を申して下されば、すぐに持ってこさせますが」
「いえ、自分で作りたいのです」
「作りたい、ですか……」
男が困ったようなで、同僚の方を見た。
「大丈夫じゃないか、調理室の辺りには重要な物は何も」
「そうじゃなくて」
男が小声になる。
「刃物を使う事になるだろう。大丈夫なのか?」
「む、それは確かにまずいな。よもやという事もだが、単純に、怪我をされるだけでもまずい」
「やはりここは許可をとってからの方が」
「ああ」
護衛達の方針が固まる。
「皇妃様、ここはきちんと陛下からの許可を頂いてからという事で。今から御伺いしてきますので、少々お待ち頂けますか」
「そうですか、ではよろしくお願いします」
イリスの性分としては人を使うのは好きでなく、自分の足でグリードのもとへ行きたいと思っていたのだが、ここにいる人間達がそれを望んでいないのだから任せるしかない。
イリスはまだ信頼されてないのだ。
グリードが将達から様々な報告を受け、指示を出す皇帝の間へと入る事を禁じられていたのは、その証だった。
「ところで、ご自分でお召し上がりになる菓子作りの為にという事でよろしいんですよね」
イリスは首を振って否定し、笑顔で答える。
「いえ、日々の政務にお疲れであろう陛下の為にと思いまして。よかったら皆さんの分もお作りしましょうか、時間は十分にありますし」
暇を持て余すように見えるイリスとは違い、グリードは忙しそうであった。と言っても、そのほとんどは玉座に座り、報告を受け、オイゲンやマルセル、ジェイドと言った者達の案や要望を許可するだけだったのだが。
無理に休もうと思えばいくらでも出来はする。しかし、グリード本人も、ロマリアとの戦いに勝ち、一息つくどころか、もう次の段階へむけて進む、その不安感とでもいうものから、細かい国内情勢を把握しないと落ち着かなかったのである。
グリードとイリスが共に過ごすのは、昼食の時と、皇帝の間から戻り夕食、翌朝食事を終えて去るまでの間だけで、二人が帝都の名物、帝都大劇場の公演を一緒に視聴したりなど、夫婦憩いの外出時間などまったく無しであった。それどころかイリスは式の日を除いては、城内の一部分より外へと出る事すらなかったのである。
「なんだ、調理室を使いたいだと? そんなもの好きにさせておけ。俺は忙しいんだ、いちいち聞かずに自分達でそれぐらい判断出来んのか」
不機嫌な皇帝は、わざわざ自分のもとへと現れたイリスの護衛をなじった。
イリスを妻に迎えてからというもの、彼の正体不明な苛立ちは日に日に大きくなっており、今日のそれはいつにもましていた。
帝国のこれからに対するものとは別にこの一ヶ月、彼女の理解し得ぬ言動に、心が騒がせられるのである。
無理に連れてこられ、式の日の夜にはあのような出来事があったにも関わらず、翌日にはもうどこかぎこちないながらも必死で歩み寄ろうと、グリードに笑顔で接する彼女のそれは、媚と呼ぶには透き通りすぎていて、居心地の良さと悪さが混在していた。
それは離れてもまた同じであり、何故、そこまで彼女の存在が自分にとってこれまでの女とは異質なのか、このときのグリードにはまだわからなかった。
「申し訳ありません。刃物を使う事になるやもしれませんので、万が一という事もあるかと思いまして」
「それを防ぐのがお前達の役目であろう」
「ええ、ですからこうして陛下に伺って……」
「馬鹿かお前は。小娘一人の刃物の動きすら捉えられなくなるほど鈍ったか。怪しい動きをしたら止める、お前達なら雑作もない事だろうが」
「申し訳ありません。返す言葉も御座いません」
「わかったら、とっとと消えろ」
細かい理由も聞かれる事無くあっさりと許可がでる、それだけでなく、罵倒まで付いてくる始末。気分屋の主を持つと、仕える人間は苦労するものである。
「皇妃様、本当に何もお手伝いしなくてよろしいので」
イリスが調理室で菓子作りの準備をしていると、今日の当番であるのか、使用人の女達が不安そうに尋ねてきた。
「ええ、なるべく自分だけで作りたいのです。ただ、何がどこにあるかまではわかりませんので、それは御教え頂きたくて」
「そんな教えるだけだなんて、言ってくださえば、お持ちしますよ」
戸惑う女達に、イリスは微笑む。
「出来る事はなるべく自分で、です」
イリスの菓子作りは見事なものであった。誰から習ったのか、手際良く調理していく。
彼女が作っていたのはロマリア独自のケーキで、出来あがったそれを切り分け皿に乗せると、菓子作りを見守っていた女達や護衛の者達の方を見て言った。
「ありがとう御座いました。無事完成しましたので、皆様もどうぞ」
と言われても、言われた方は『はい、いただきます』とはいかない。
「お気持ちは嬉しいのですが……」
兵士と使用人達が顔を合わせ戸惑う。
「もしかしてみなさんケーキはお嫌いでしたか?」
「そうではなくて、皇妃様が陛下の為にわざわざお作りになられたものを、陛下よりも先に食すのは……」
言われてみれば、そうである。イリスとしては、自分の為に作った物が先に食べられたところで別に怒りはしないが、変なところで気難しいグリードの事となると考慮する必要もあるかもしれなかった。
「ううん、そうですか。それは困りました」
最初から、この場にいる者達にも振舞おうと作ったケーキである。グリードとイリス二人で食べるには大きすぎる。
日を挟み何日もかけて食べるようなものでもないし、せっかく作ったのだから彼ら、彼女らにも食べて欲しいものである。
しばらく何やら考え込むイリスだったが、突然また笑顔になったかと思うと、使っていない果物を一つ手に取り、皮をむき出す。そしてその果肉を切り取ると、切り分けたケーキのうちの一つに乗せた。
「これは陛下専用のケーキという事で、他の皆様の分よりも少し豪華にしてみました。これで、残ったケーキを食べてしまっても失礼にはなりませんでしょう」
「本当にいいのでしょうか」
「はい、大丈夫ですよ。きっと」
「きっとですか……」
「はい、きっとです」
少女の屈託のない笑顔にこれ以上、その場にいる者達は抵抗できなかった。
「美味しいです!! 今度、私も子供達にぜひ作ってみとうございます」
使用人の女達は、素直にイリスのケーキの味を褒め、楽しそうに会話していたが、護衛の兵士達はというと。
「これホントに大丈夫だろうな」
美味いとは思いつつも、二人小声で不安げに会話していた。
「今さら言ったってどうにもならんだろ。いくら陛下でも、こんな事ではよもや首を斬るような事は……」
「そのよもやがあるかもしれんお人だから、不安なんだろうが」
そんな二人にイリスが気付く。
「どうかしましたか? もしかしてお気に……」
「いえ!! 皇妃様がこれほど菓子作りが上手いとは存じておりませんでしたので、驚いていただけであります!!」
「それはよかった」
イリスは無邪気に皆の反応に喜んでいた。
グリードがイリスと共に夕食を食べていると、彼女の機嫌はどこか良さそうであり、何やら隠しているようにも見えた。
「さきほどから気になっていたんだが、えらく機嫌が良さそうではないか。何かあったのか」
「そう見えますか? でも、久しぶりの菓子作りが楽しかったものですから」
「ああ、そう言えばそんな話聞いていたな」
グリードはすっかり忘れていた。
「はい」
「まぁ、菓子作りぐらい好きにしろ。それでお前の機嫌がとれるなら安いものだ」
グリードの反応はイリスにとって意外なものだった。彼女はてっきりグリードが、許可を貰いにいった護衛の兵士から、誰の為にその菓子を作ろうとしていたか聞いているものだと思っていたので、ひどく冷たい応対に思えたのだ。
実際にグリードが聞いたのは、ただ調理室をイリスが使いたがっているという部分だけ。当然イリスが自分で作った物を食べただけの話だと思い込んでいた。
「あの……」
「何だ」
「伺っておりませんか」
「ん?」
「陛下の為にと、ケーキを作ってみたのですが」
「何だ、俺の為だと。お前、自分で食ってしまったんじゃないのか?」
「いいえ。もちろん自分の分も作ってはあります」
「どこにある」
「今日の夕食のデザートに出して頂くよう頼んでおいたのですが……」
「おもしろい。楽しみにしておこう」
「はい」
それから二人は他愛のない会話をしながら食事を続け、ほとんど食べ終わってしまった頃に、ようやくそれは運ばれてきた。
イリスが故郷ロマリアの地で、その作り方を習ったケーキ、果物をふんだんに使用したロマリア風のケーキが。
通常、果物を利用したケーキをそのまま長時間放置していると傷んでしまうものだが、料理や食物の保存について、大陸の富裕層の間ではそれらの問題はいくらか改善していた。
温度を上手くコントロールする事さえできれば、傷みやすい品もある程度長持ちするようになる為、一般の人間達は冷えた井戸水や地下室を利用して、温度対策しているわけだが、富裕層となるとそれだけでなく、冷蔵室、あるいは冷凍室と呼ばれる部屋を、物入れを作り、氷を利用して品を冷やしていたのだ。
氷は水が冷やされ、出来る物であるが、雪の降らぬ地区や時季でも、魔術師の力を借りる事によって入手する事が出来、富裕層の多くは魔法によって生み出された高価な氷をわざわざ買い付け、利用していた。さらに一際大きな財産を築いた者達の中には、直接その手の魔法に強い魔術師を雇っていたりもした。
当然、オートリア城も、専属の魔術師達が、氷を作るだけでなく、直接強力な魔法で室温、湿度まで調整したりして素材や食品の管理をしていたのである。
「上手いもんだな」
グリードの前に置かれた皿の上のケーキ。見た目はこれまで彼が食べてきた物とは少し異なっていたが、綺麗な出来栄えで、イリスが菓子作りになれている事がわかる。
「久しぶりでしたので、少し緊張しましたが、美味しく作れたと思いますよ」
「ふむ」
グリードがフォークを手に取り、ケーキへと突き入れようとする、……が、直前で彼の手が止まった。
それを見て、イリスの表情も変化する。
「どうかしましたか?」
「イリス、お前はそこまで愚かな人間ではないだろうが、一応確認しておこう。……わかっているんだろうな」
「えっ」
「お前がここにいる意味を」
「急に何を……」
「俺に何かあれば、お前だけでなく、故郷の地も地獄を見る事になる」
グリードが眼光鋭くイリスを射すくめる。
「この菓子、よもや盛ってないだろうな」
「そんな……」
不穏な空気を察知して、食事の世話役が間に入る。
「陛下、皇妃様には常に護衛の者達がついております。そのような事は不可能かと」
「この果肉、他の物とは少々違う。見れば、イリスお前の分には乗っていないようだが、こいつに盛ってあるんじゃないか」
「それは陛下の為に特別に……、どうして私がそのような事をせねばいけないのです……」
「それとも、今日あたりは何もせず安心させておいて、次、その次と機会を待ち、一服を盛るか」
「あんまりです、陛下。私はただ喜んで頂ければと思って……」
イリスは謂れ無い疑いに、表情を曇らせる。
「クックック、冗談だ。お前がそこまで馬鹿な女ではない事ぐらいわかっているさ」
彼は自分に向けられる、憎悪や敵意といったものには敏感であり、イリスにはそのような感情がない事は十分と承知していた。にも関わらず、わざと彼女を傷付けるような言葉を吐いていたのである。
グリードはイリスの反応を見て楽しんでいただけだった。
「では、頂くとするか」
今度は何の躊躇いもなし、ケーキを口へと運ぶグリード。
「ううん、なかなか美味い。褒めてやるぞ、イリス」
「ありがとうございます……」
沈んだ表情でイリスは答えた。
夕食を終えたら入浴、そして後はもう寝るだけである。
グリードは寝室へと戻ると、その部屋に置かれた巨大なベッドの端に腰掛けた。
彼と共に夜を過ごすべき妻は、その中には見当たらない。
イリスはというと、離れるような位置に立ち、窓の外の星を眺めていた。
「そんなに嫌か?」
「えっ……」
イリスが振り返りグリードを見る。
「俺と毎晩、共に過ごす事がそれほど苦痛か?」
グリードの言葉には怒りが込められていない。むしろ楽しそうで、彼女が頷く事すら望んでいるかのようである。
「いえ、そういうわけでは……」
「クックック、だが皇妃となったお前の義務だ。それはしっかり果たして貰わねばな」
「はい、わかっております」
「わかっているが、覚悟が出来ぬか」
「覚悟ならこの国へと参る前から出来ております」
「そうは言うが、そうは見えんぞ」
「そんな事は……」
イリスの反応を見ながらグリードは溜め息をつくと、急に真面目な口調となった。
「イリス、俺にはお前がわからん」
問われたイリスは沈黙で答える。
「お前が何を考えているか、どうにも解せない」
「私は……」
何か言おうとするが、また黙り込んでしまう。
「俺にいい顔しようとする事は、何も不思議じゃない。媚びを売り、対価を得ようとする女は山ほど見てきた。だが、わからんのは、そういった奴等とどうも違うようにしか思えんのだ、お前は」
「その……、他の方々の事は存じませんが、私は陛下の為にと、……妻である者が夫の為に尽くそうとするのはそんなに変でありましょうか?」
「それはくだらぬ理想だ。望まず妻となったお前が、何故そんな事をせねばならん。現に今、お前は嫌がっているではないか、俺に抱かれるのを。そんな相手に尽くすとはおかしな事を」
グリードの言葉を聞いて、イリスは窓から離れ、ゆっくりと歩み始める。
そして、彼女は夫の隣へと腰掛け、顔を少し赤らめながら言った。
「嫌というわけではないんですが、どうにも恥ずかしくて」
「恥ずかしいだ? とうに初夜など終えて、もう何度としてることだぞ」
「でも、慣れぬのです……」
「それで今日は嫌だと」
「陛下がお望みならは私はいつでも……。ただ、少し心を落ちつかせる時間が欲しくて、それで星を眺めていただけの事なのです」
グリードが呆れたようにまた溜め息を吐く。
「お前は俺が憎くないのか? 嫌ではないのか?」
「どうしてそのような事ばかり仰られるのですか、陛下。私がお慕いする事が、そんなにご迷惑なのでしょうか」
「迷惑も何も、お前は自分がここに来た経緯をもう忘れたのか?」
「それは……」
「ここへと来て、式を終えた日の事を忘れたのか?」
グリードはあの日、イリスに容赦なく手を上げた。それは彼女に間違いなく強い恐怖を与えたはずだ。
それなのに翌日にはもう、グリードとぎこちないながらも何とか会話をし、良好な関係を築こうとしてきたのだった。
恐怖は感情を支配する。
恐怖が憎悪を抑え込み、絶望の中で従順であろうとする事は珍しいものではない。しかし、イリスの場合はその最初に存在せねばならぬ憎悪というものがなかった。
この帝国へと来て、不安や悲しみという表情は見せても、憎しみという部分だけは決して見せなかったのである。
「以前にも申しましたが、憎しみは憎しみしか生まぬのです。そして愛情は、愛情を生むやもしれぬのです」
「だから、お前は愛すると?」
「はい」
「それが俺でもか」
「人を愛する事に理由などいりません。夫を愛するのも同じです。私が陛下の妻である。それだけで、陛下を人として、夫として愛するに十分な理由ではありませんか」
「……なるほど、お前の考えはよくわかった」
「わかって頂けましたか」
イリスが笑顔を作る。
「つまりは他の者が夫であったなら、お前はその者を愛するという事か」
「そんな」
「その時は俺などどうでもよいわけだ」
「そういうつもりで申したわけでは……」
「わかってみれば、これほど単純で明快な話もないものだな」
そう言って立ち上がり、去ろうとするグリードの手をイリスは慌てて掴んだ。
「陛下、誤解です!!」
「誤解も糞もあるものか、イリス。お前が言う愛してる人物ってのは一体誰だ?」
「陛下の事で……」
「違う。お前が愛してるのは、『自分の夫』だ。オートリア帝国の皇帝ではないし、ましてや、グリードという人物であろうはずもない」
彼女の手を振り解きグリードは去っていく、そしてまた最初の日と同じく背を向け去っていく。
「待ってください、陛下……」
グリードが軽く振り返ると、そこには泣いているイリスの姿があった。
「ごめんなさい……。申し訳ありません……」
必死にこらえようとしても、流れる涙は止まらない。
イリスは己の傲慢さを恥じ、悔い、泣いていた。
何が、愛だろうか、何が、妻としてだろうか。
わかったような事を言った自分が恥ずかしい。
どれほど傲慢で、傷付けるような事を平然と言っていたのか。
「傍にいてください……」
しぼり出した声で懇願する。
「おいていかないでください……」
このままでは本当にすべてが終わってしまうような気がして。あの深い闇から救うのが、完全に不可能になってしまう前に伝えなければならない。
「傍にいてください、グリード様」
イリスの言葉が、表情が、涙が、男に小さくも激しい変化をもたらす。
どんなに小さくとも、確かにあるものならばよかった。
結局はそれを望んでいたのだ、彼自身も。
言葉を、思いを、考えを。
彼女の愛情というものを。
「イリス」
グリードは彼女のもとへと戻ると、立ち上がらせて抱きしめた。
説明するには、無数の要因と複雑な流れがありすぎる。
しかし、それこそが感情であり、単純な理屈、合理を凌駕するモノ。
どんなに醜く生きてこようとも、グリードも人の子に過ぎぬのだ。
「もう一度聞く。お前が愛してるのは誰だ」
「グリード様です」
「どうして」
「わかりません」
「わからないのに愛してるのか?」
「はい。理由がなくてはダメですか? 理由がなくては信じてもらえませんか?」
必死にすがるような声に、グリードの腕に力が入る。
「いや、それでいい」
グリードはベッドの上へとイリスを押し倒す。
一瞬の驚きはあったものの覚悟を決めたか。顔色をほんのりと赤らめながらも、イリスは真っ直ぐとグリードの瞳を見つめていた。
グリードは思った、彼女の姿は彼のこれまで見てきたあらゆるモノよりも綺麗だと。
美人は数多く見たし、抱いてきた。されど、これほど真の意味で惹かれる女は初めてだった。
その事が、言い表せぬ苛立たちになっていたし、焦りになっていた。
わずかな日数を共に、過ごせば過ごすだけ惹かれ、イリスという存在が急激に手放し難くなっていく。それはグリードにとって今までに無い経験であり、恐怖ですらあった。
その恐怖を、彼女を抱いてる時だけは忘れられていた。しかし、抱けば抱くほど、その分反動は大きくなり、苛立ちも、焦りも大きくなっていた。
グリードは確信する、それからようやく逃れられるのだと。
「イリス、お前は俺のものだ」
ひどく自己中心的で尊大な宣言にも、イリスは静かに頷き、答える。
「グリード様」
「今は、様はいらん」
さすがに少し戸惑った表情を見せたイリスだったが、グリードの望んでいるモノを理解するとすぐに笑顔となり、誓った。
「はい。……これからもずっと愛しています、グリード」
いつ以来の事だろう。もしも、母親という者がいたらそれはこのような存在だったのだろうか。
六も年下、わずか十三歳の少女に頭を撫でられながら十年数年ぶりにグリードは泣いていた。
グリードを覆う暗黒に、少女がかざした小さな炎の光。すぐにでも消え得るこの危うい感情が、どのような結果をもたらすのか。
それは誰もはっきりと予測出来る事ではない。
多くの犠牲の上に成り立った望まぬ婚約。亡者達は怨嗟の声を上げ続けているのだろうか。
血塗られた幸福など、許されるものではないのかもしれない。
それでもイリスは、グリードの腕に抱かれながら感じていた。
今日は久しぶりに、とてもよい日だったと。
――「狼を見たんだ」
「狼?」
「白い狼を見たんだ……」