愛と憎しみ
満月がその美しい姿を、夜の闇に浮かべた頃になって、ようやく式を終えた二人は、これから共に過ごす事となるその部屋へと足を踏み入れた。
「どうだい、素晴らしい寝室だろう」
イリスに向けられたグリードの笑みが、自慢というだけではなく、そこに悪意が潜んでいた事に、鋭敏な感性を持つ少女が気付かぬはずも無い。
室内に飾られる豪華で貴重な品々は、帝国の武の、血塗れた欲の犠牲者達だった。不安に押し潰されそうになりながらも、それと必死に戦う少女もまた同じ事。
愛が二人を結び付けたのではない、恐怖が彼女の自由を奪ったのである。
「どうした。気に食わないか?」
「いえ……」
彼女が何に怯え、恐れているか。それに気付かぬほどグリードも鈍感な男ではない。
彼は楽しんでいた。もがく虫ケラの足を引き千切るように、葛藤する少女の反応を堪能していた。
「愚かだな」
「えっ」
何かまずい事でもしたのか、グリードの言葉はイリスを一瞬不安にさせたが、どうやらそうではないらしい。
「無力であるとは、何とも愚かな事だ。なぁ?」
グリードが何を言わんとしてるのかは理解できる。しかし、どう反応すべきかイリスには判断つかなかった。
「お前の国は弱かった。だから、小娘一人守れもせぬ」
グリードの腕がイリスの方へと伸び、その手が彼女の頬に触れる。
イリスは顔を伏せると、手を避けるようにしてついそのまま反らせてしまう。
その動作をしてしまった事を彼女は慌てて、謝ろうと顔を上げたのだが、そこにあったグリードの反応は意外なものだった。
「クックック、じゃあ誰が悪かった。ロマリアをそこまで弱く腐らせたのは誰だ?」
伸びた腕を戻すと、グリードは笑い、蔑んだ。
「お前の父親だ」
「そのような事は……」
「違わない。ロマリアの王の甘さが、今日のお前を生んだのだ。憎くはないか? お前を切り捨ててまで、和を望むあの男が」
「どうしてそのような事を……、陛下が望まねば私がこの場にいる事も無かったでしょう。それなのに、父を責めるなど……」
「俺が望んだ? クックック、そうだな。だからお前は捨てられたんだ。俺が望めば、娘すら売る男にな」
「それは違います。私は自身で覚悟を持って、この結婚を受け入れたのです。ロマリアに住む人々の、そして帝国の人々の為にもなると思って」
「民の為だと、馬鹿げた事を。お前は己に酔っているだけだ。逃れられぬ運命に、まるで自分から立ち向かわんとする偽りの姿に酔っているだけなのだ。お前が望もうが、望むまいが結果は同じだ」
「結果が同じだとしても、私が覚悟を持つ事がそんなにいけない事でしょうか。人々の為に、自ら歩を進めようとする事がそんなに卑下されねばならぬ事なのでしょうか」
「お前は誰の為でもない、己の為に酔っているだけだと言ってるだろうが。他者の為などと、偽りに酔うから腐るのだ。お前達の国は」
「国を治める者達が、他者の為に、民の為に生きぬのでは、意味がないではありませんか。善き世を作る為に、共に力を合わせる事こそ、国事に携わる者の使命ではありませんか」
「善き世だと? お前のいう善き世とは何だ」
「誰もが平和に暮らせ、貧しさとは無縁となれる世界を……」
「そんなものは存在しない。おとぎ話の世界ではないのだ。お前にはまだわからぬのか。それともロマリアの人間はお前のような夢想家ばかりなのか」
「たとえ困難であっても、それに近付くように努力する事が……」
「叶わぬ夢を見続ける馬鹿では、王は、皇帝は務まらん。この世の真理は弱肉強食、俺はロマリアを食ったのだ」
「武力で滅す事は出来ても、その全てを手にする事はできません。陛下、人の心は武力では決して手に入らぬのです」
「できるさ。俺が望めば、心など容易くな」
イリスは首を振る。
「愛情は、愛情によってしか応えぬのです。それを無下にすれば、世は腐敗し、混迷の時代が待っているだけではありませんか」
「愛? 他者の愛だと。クックック、そんなゴミは必要ない。必要なのは憎悪だ。それをうまく利用すればいい」
「それでは、善き世になるはずがありません」
「言ったはずだ、お前の望む世など、無意味な夢だと。真の善き世とは、強者の安泰にあり、その強者として君臨し続けられる世の事をいう。弱者は強者に思うまま操られる存在にすぎぬ。心すらも思うがままにな」
「憎しみだけでは、心とは呼べません」
「憎悪こそが、人間の根幹だ。心だ」
「どうして、そんな考えを……」
この異常に歪みきった思想はどこから生まれるのか。
イリスは少しばかり躊躇した後、決心するとグリードに尋ねた。
「陛下は、陛下は誰かを愛した事はありますか? 誰かからの愛に触れた事はありますか?」
激怒するかに思えた。もし、歪んだ思想がコンプレックスからくるものだとしたら、それに触れようとした彼女に怒りが向けられるのだと。
しかし、そうであればどれほど良かっただろうか、そうであればどれほど救いがあったか。
グリードは頬を緩ませ笑う。
「ああ、当たり前じゃないか。俺は誰よりも深い愛情を受け育ったのだ。最も尊き愛を、唯一皇帝の愛を受ける存在だ」
「それは、お父様の?」
「クックック、父上だと? とっくの昔にあの男は死んだ。お前でも知らぬわけなかろう」
「でも……」
「皇帝は唯一人。この俺だけだ」
「えっ……」
突風が寝室の窓を強く叩く。
それは男の深い闇の一端に彼女が初めて触れた瞬間、少女を打った衝撃音のようだった。
無言の時。
あまりにも深い絶望は、ただただ哀れであり、それを前にした彼女からは怯えと恐れが消えた。
「陛下……」
イリスの瞳の変化は、グリードを困惑させ、その正体に気付くと、部屋の空気を一変させた。
「何だその目は」
先ほどまでの余裕の表情は消え失せ、怒りの感情がグリードから顔を出す。
「何だと言ってるんだ!!」
「きゃあ!!」
突然グリードはイリスを床に押し倒すと、馬乗りになりその太く短い腕を振り上げた。
――バシン!!
平手が、イリスの頬を叩く。
「お前は憎いんだろ!! お前をこんな目に合わせる俺が、お前を切り捨てた父親が、国が!!」
怒号が室内に響き渡る。
グリードは両手でイリスの衣服の襟を掴み、起こしあげ顔をつきつける。
「俺の顔を見ろ!!」
イリスの眼には、涙が浮かびはすれど、そこにあるべき感情をグリードは見つける事が出来ない。
「お前は自分が置かれた状況がわかっているのか!!」
――バシン!!
容赦ない平手がまたイリスの頬を打つ。
「陛下!! 陛下!! どうかしましたか!!」
さすがの騒ぎに、見張りの兵達が寝室のドアを叩き確認を取る。
「うるさい!! 馬鹿にしつけしてる最中だ!! お前達は黙って見張りをしてろ!!」
グリードに一喝された兵士達はもう何もできない。下手に逆らえば平気で首が飛ばされるのだ。彼らに出来る事は、イリスが次ぎの朝日を無事拝めるように祈る事ぐらいだった。
――バシン!!、バシン!!
殺意まで込められた憎悪にグリードは包まれていた。
これほどまでに人はおぞましくなれるものなのか。愛情と信頼に囲まれ育った少女は、この時初めて、人間の持つ狂気、本質の一端に直面した。
圧倒的な恐怖が、理性や知性を凌駕する。止めようのない震えが、彼女を襲う。
「ハァ、ハァ、どうだ理解できたか。自分の立場を」
馬乗りのまま、息を切らし、睨みつけるグリード。イリスには、何故これほど急に彼が激怒したのか理解出来ない。
「も……、申し訳ありません陛下。どうかお許し下さい」
それでも、何を詫びてるのかもわからぬままに彼女は自分の頬を何度も打った男に許しを乞うた。
圧倒的な狂気に、まだか弱い少女は屈せざるを得なかった。
「フンッ」
手をイリスから放し、立ち上がるとグリードは寝室から出て行く。そしてそのまま、この日は部屋に戻ってはこなかったのだった。
その夜、少女は泣いた。
打たれた頬が痛くて泣いたのではない。恐怖に怯え泣いたのでもない。
情けなくて、悔しくて仕方がなく泣いたのだった。
故郷の地を発つ時に、あれほど決心していたはずだったのに。目の前にした圧倒的な恐怖に屈した事が、己が許せなかった。
詫びた事が、許しを乞うた事が我慢できぬのではない。恐怖に震えた事が許せぬのだ。
それに立ち向かうはずだった。結果は変わらぬとも、心は強くあろうとしていたのに。
――愛が必ずしも愛を生むとは限らない。それでも、憎しみは憎しみしか生まない。だったら、私は……。
朝焼けの光と共に、少女は再び決意する。
もう二度と、この夜のような涙は見せぬと。