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狼はもういない

――アルバ  「君はいつもそうだ!! 何もわかっちゃいない癖に、僕を馬鹿にして!!」

  ルドルフ 「それは誤解だ、アルバ。私は君の事を思って」

  アルバ  「だったらどうしてあの時、僕の言う事を信じてくれなかったんだ!!」――

                    劇作家 アルバート:作 悲劇『鏡の目』より




 グリードは夢を見ていた、幼い日の出来事を。

 彼は見ていた、父親との数少ない思い出を、言いようのない憎むべき日を。

――なんで今頃になって。

 彼が夢から覚めた時、最初にでてきた感想がそれであった。


 幼きグリードには友と呼べるような者は一人もおらず、大人達やあるいはその子が、時々によってその相手をさせられていた。

 グリードのわがままは幼少頃は今以上にひどく、彼らを困惑させ、迷惑をかけ、そして嫌われていた。

 最初の頃こそは無邪気と呼ぶべきか、そのような者達の態度に気付かずにいたが、次第に彼らの態度が意味するものを理解していくと、グリードは己の孤独に直面せざるを得なかった。

 言動はグリードを常に気遣い、敬うようなものだったが、その目は、その心は、それとは全く異なるものだと悟った時、彼は自分が愛情や、友情、敬意や、共感、そういった類いからは程遠い場所に存在してしまっている事を知った。

 兄バスティアンはひどくいじわるであり、グリードの方から避けていたし、イェンスは父オリバーの跡を継ぐ為の教育を熱心に受けて、幼い弟に構う暇などありはしなかった。

 そして、オリバーも、帝政とイェンスの教育にほとんどの時間を費やし、残る二人の息子については、他の者に任せっきりであった。

 グリードの存在は、血の通った者達の中ではひどく軽く、薄いものだった。むしろ、血のつながらぬ者達の嫌悪や、侮蔑の中の方にこそ、はっきりと存在できていた。

 だから彼は、それを好しとするしかなかったのだ。

 やがてグリードは頻繁に世話係の隙を見て部屋を抜けだすようになり、大人達の困惑した顔や狼狽した顔を見て楽しむ日々を過ごすようになる。

 その日の出来事もまた、係りの者から放れ、城内の中庭に一人いた時の事であった。

 帝都、そして帝国の力を象徴する存在でもあるオートリア城は、大陸中でも有数の巨城であり、その中庭となるとかなり規模があった。

 巡回の兵士はもちろん何人もいるのだが、広い中庭に隠れるグリードを見つける事は容易い事ではない。

――今度は見つけるのにどれぐらいかかるかな。

 花々に囲まれた場所に身を隠し、ほくそ笑むグリード。

 それから彼は空を眺めるようにして、その場に倒れこみ目を閉じた。

――何だか疲れたな。

 彼はいつものように考えた。

 ここで寝てしまったところで問題はない。どうせここには、自分を嫌う人間は数多くいれど、襲う人間などいやしないのだから。

 その日は意識が遠ざかる感覚が、彼にははっきりと感じられた。

 それからどのぐらいの時間が過ぎたか、一時間か二時間か、あやふやな時の流れの中で彼は目を覚ますとその異常に気付く。

 変な感覚だった。時が止まったように、空気の流れが淀み。それでいて、心地良さが彼の周囲を覆っている。

 陽をみると、眠る前から高さが変わっていないように見える。

――おかしいな。結構寝ていたと思ったんだけど。

 違和感はそれだけではない。

 鳥も、虫も、人も、それらが発する音が全く聞こえてこないのだ。

――ああ、まだ夢を見てるのか。

 グリードは自然とそう考えた。

――どうしよう。

 誰も、何もいない夢の世界。

 そこで彼にできる事、彼がしたい事など何もなかった。

 しかし、それを苦痛に感じる事もまたなかった。

 何故ならこの夢の世界は、彼の日常とそう違ったものではなかったのだから。

――もう少しこうしていよう。

 グリードは漠然と景色は眺め続けた。誰もいない世界を眺め続けた。

 誰も、何もいない世界でよかった。彼が急いで退屈な現実へと戻る必要はないのだ。

――悪くない。

 少なくとも、この夢の世界には不思議な心地良さがある。

――ガサッ。

 突然、音のないはずの世界で、草花を揺らす音がした。

 慌てて音のする方へとグリードが視線をやると、そこには真っ白な体を持つ狼が彼を見つめていた。

――えっ……。

 グリードは固まってしまう、ただ自分を見つめるだけの白狼の眼差しに。

 そこには敵意や憎悪といったものはなく、愛情や同情といったものもなかった。共感や賛同といったものはなければ、肯定や否定もなかった。そして、善や悪もない。

 ただ見つめていたのだ。その存在全てを見透かすかのように。そして、その行く末を見守るように。

 それは観察者というべき眼だった。

 獣が人間を害意なしに観察していた。

――ああ、そうか夢だったか。

 最初に思考能力だけが動き出した。

 夢ならば不思議ではない。それが放つものは、現実にはありえないはずなのだから。

 身勝手な少年に、瞬時に畏怖の念を抱かさせるほどの圧倒的な存在感と、神々しさは夢の中の存在でしか持ち得ぬのだ。ただの白い獣が皇子であるグリードの存在全てを凌駕しているなど架空の世界でしかありえないのだ。

 計りようのない時を狼と少年が見つめ合う。

 そして、その中でゆっくりとだが確実にグリードの意識や思考が明瞭になっていく。

 それは世界を、夢の世界を揺るがした。

 グリードは無意識のうちに忘れていたまばたきを一度だけ行う。

 たった一度だけ、その一度のわずかな間に白狼はグリードの前から消えていた。

 その事実を認識した途端に彼は、音が帰ってきた事を知る。

 鳥の声、草花が風に揺れる音、巡回しているであろう兵士達の声に、足音。

「ハァ、ハァ、ハァ」

 長い間止まっていたかのようにグリードの呼吸は荒れていた。

――夢……、なんだよな。

 呆然と立ち尽くすグリード。

 立ったまま見ていた夢。そう考えるしかない。

 だが、それでは納得しようもないものがあるのも確かだった。

「グリード様!! 何度も申してるではありませんか、勝手に動き回ってはいけませんと!!」

 今日の護衛を命じられた兵士が、ようやくグリードの姿を見つけて駆け寄ってきた。

 しかし、そんな兵士の焦燥を込めた言葉も幼い皇子にはほとんど届いてはいなかった。

「そこに……」

 グリードが兵士に教えるように指を差す。

「そこに狼がいたんだ、白い狼が」


 グリードの話を聞いた者達は最初こそは驚きの表情を浮かべたが、すぐにそれは普段のものへと戻っていった。

 何故なら、彼らはみな同じように考えていたからだ。

 厳重な警備で守られる巨大な城の中庭に、狼が一匹迷い込むなど有り得ぬ。また、つまらない嘘を言い出したと。皇子には本当に困ったものだと。

 表面上は信じる素振りを見せたり、夢だと言い聞かせようとするなどの違いはあっても、彼らの本心には、嘘に呆れたというような心情が共通していた。

 それは余計にグリードを腹立たせ、彼はあの不自然な夢の世界が現実のものだったと強く考えるようになっていく。

 そして、この世であの白狼の存在を認めるのは、彼だけというわけでもなかった。

 なんと父であるオリバー帝が、グリードの話に一番強い関心を持ったのだ。

 オリバーは珍しく息子グリードの部屋を訪れると、わざわざ世話の者達をその部屋から退出させ、二人きりの空間を作ってから尋ねた。

「それは本当なのか、グリード」

 真剣な目をしていた。彼は、幼い息子の虚言だけとは考えていなかったのである。

「本当の事です、父上。あれは到底夢の事だとは思えぬ出来事でした」

 普段自分に向けられる事のない父親の視線、それが妙に嬉しくて仕方がなかったのか、グリードは一時は夢ではないかと考えていた出来事を強く、真の光景だったと主張した。

「そうか」

「はい!!」

 息子の部屋で親子二人だけでの会話、一般の家庭では至極当たり前のそれも、この二人にとっては希有なものだった。

 自然と興奮状態にあるグリードを見たオリバーは、それが白狼を見た事によるものだと解釈してしまう。

 もし、この時に違ったものをオリバーが理解し、それを受け入れる事が出来たなら、未来は、グリードの運命は大きく変わったのかもしれない。

 されど、この帝国の英雄オリバーには、雨が天から降る事はあっても、地から昇る事がないように、政治の流れは見れても、息子一人の感情の流れまでは見れてはいなかった。

 いや、それどころか最初から見ようともしてこなかったのである。

 彼にとって息子とは、自分の跡を継ぐ可能性のある人物、帝国の未来を担うかもしれぬ人物であるにすぎなかった。

 だからこそ、もっと与えるべきものがあろうというのに……。

「お前は戦狼の話はもう聞いた事あるのだろうな」

「センロウですか? えっと……」

「まさかないのか?」

「えっと、聞いた事あるような、ないような」

 曖昧な態度を見せるグリードに、オリバーは戦狼とそれに纏わる伝説を話し聞かせる。

 戦狼とは古くから大陸中に知られた伝説上の存在であった。

 真っ白な体を持つ狼として描かれる事が多く、また様々な宗教の教典や古典でもそのように記述されている事が多い。

 ある者は神として崇め、ある者は神の使いと信じ信仰しており、多種多様な宗教に肯定的な存在として捉えられていた。

 特に広く知られる言い伝えに、時代の英雄達がみな白い狼、つまり戦狼を見るというものがあり、そういう話もあってか武人から信仰される事が特に多かった。

 ただし、信仰と言ってもその多くは、深く、排他的なものなどではなく、縁起がよい程度の浅い信仰である。

 もとより大陸西部一帯の国々では、宗教というものはそれほど熱心に信仰されているわけではなく、一部の国や種族を除けば、信仰は浅く多種多様なものにわたり、無神論者や無宗教といった者すらいた。

 これにははるか昔にオートリア帝国が大陸西部のほとんどを支配していたある時代、時の皇帝が、皇帝こそ神であるとして元来の宗教そのものを否定し、弾圧した事の影響がある事は否定できない。

 神々を信仰する宗教こそは弾圧されたが、当時の帝国は非常に豊かであり、また皇帝自体も総合的に見れば非常に才に長けた者達ばかりであったので、民は無理に信仰を維持する必要を感じていなかったのだ。

 長く続いた弾圧は多くの者達から神々に対する信仰というものを消し去り、皮肉にも皇帝の神格化というたった一つの宗教を急速に普及させていった。

 だが、そういった状態が長く続くわけもない。

 少数なれど一部の者達は従来の信仰を強烈なものへと変貌させていたし、皇帝に対する信仰と呼ぶべきほどの崇拝は、名君、あるいは最低でも凡君であれば維持できたであろうが、時代の流れの中で生まれる暗君、それがもたらす帝国の腐敗によって簡単に崩れさせってしまうのだ。

 グリードの時代には、もう本心から皇帝を神と同等として崇める人間なぞほとんど存在しなくなっていた。

 幼少のグリード自身、宗教といったものには興味がなく、戦狼の話が少しばかり耳に入る事はあっても、それをまるで覚えていなかった。

「おお!! では父上、私が見たのはその戦狼だと言う事ですか。なんと素晴らしい、英雄達の仲間入りとは!!」

「お前が見たというのが嘘か夢でないのならばな」

「嘘なものですか、夢なものですか。あれは間違いなく、真の出来事でした!! 父上、私は神に選ばれたのですよ!!」

 喜びを隠す事もしないグリードを渋い顔のまま見つめるオリバーが、一つ溜め息をついてから口を開いた。

「グリード、これからはイェンスと共に行動せよ」

 イェンスと共に行動する。それが意味するのは父親から直接、帝王学を学ぶ事になるという事だ。

「父上それは……」

「いろいろと教えておかねばならんのかもしれん」

 生まれて初めてグリードの存在が父親の視界に入ってきた瞬間であった。


「兄上、私は選ばれたのですよ」

 空いた時間、イェンスと兄弟二人きりになると、幼い弟は第一後継者である兄にその話をよくした。

 戦狼に出会ったのだと、すごい事なのだと。繰り返し、繰り返しグリードは兄に話した。

「そうか。それはすごいな。でも、何度も聞いたよその話は、他の者達に話してあげるといい。きっとみなも驚く」

 言ってる事とイェンスの表情は乖離している。

 興味のなさそうな、まるで信じていないようなそれが、グリードには不快だった。

「もう城の者達はみな知っております。兄上、皇帝は優秀な者こそがなるべきだとは思いませんか」

 グリードは暗にイェンスに第一後継者から辞退すべきだと言いたいのだ。戦狼に会った、その一点だけを強調して。

「そうだね。僕もそう思うよ」

 いつもの調子で話すイェンスに余計に苛立つグリード。

 彼に皇帝になりたいという欲求がまったくないわけではなかったが、この頃に関して言えば、実際には本気で兄の代わりに皇帝になろうというよりも、兄が自分に対して嫉妬や羨望して欲しいという感情からくる言葉だった。

 わがままな少年はかまって欲しかっただけだった。常に自分より優秀で、常に父オリバーに期待される兄に。

「だったら!!」

「でも、僕に言われても困るよ。父上にも相談するといい。僕は反対しないよ」

「そのような事、私から言えるわけ……!!」

「そうかい、なら僕から父上に相談してみよう」

 兄の視界には自分の約束された将来を脅かそうという弟すら入っていなかったのだ。

 わかりきった事か、イェンスからの申し出をオリバーは一蹴する。

 イェンスは長兄である以外にも三兄弟のうち飛びぬけて物覚えが良く、優秀だった為、グリードの話と言い伝えだけを信じ、代わりとするなど有り得なかったのだ。

 グリードも兄の頭の良さはわかっていた為に、一連の態度はその余裕からくるものではないかと感じていた。つまり、馬鹿にされているのではないかと。

 明確に存在する兄との差、そしてそれから生まれる言い様のない焦り、劣等感は少年に致命的な過ちを犯させてしまう事になる。

「父上、また戦狼が!!」

 嘘。

「今度は傍まで来て」

 徐々に大袈裟になっていく嘘。

「戦狼が話しかけてきました!!」

 父親が自分の存在を見失わないように、自分の価値を証明する為に、それは肥大化し、脆くなってなお繰り返された。

 本人だけは気付かぬ。本人だけがわかっていなかった。

 もう、誰もがそれを偽りと知っている事に。

「グリード、どうしてそんなつまらない嘘を付く」

 ある日オリバーは息子の部屋を訪れると、ひどく落胆した表情で息子を問い詰めた。

「えっ……」

「お前のつまらない嘘のせいで、多くのモノを無駄にしてしまったのだぞ」

「父上、何を言って……」

 理解したくない現実が顔を出す。

「もうよい。私が馬鹿だったのだ。お前の言う事を信じたばかりに。イェンスはお前と同じぐらいの歳でもっと物事の分別がついていたぞ」

「父上!! 私は本当に戦狼と話を!!」

 見えていても、見えぬふりをしていた現実がそこにはあった。

「もうよいと言っておるだろう」

「父上!! 本当に戦狼が私の傍まで!!」

 受け入れざるを得ない現実がそこにはあった。

「くどい」

「父上!! 本当に戦狼と出会ったのです!! 私は!!」

 九の偽りの中にある一の真を、誰が知りえようか。

「グリード」

 オリバーの目からグリードの姿が再び消えていく。

「もうイェンスと共に動かずともよいぞ。これ以上、迷惑ばかりかけるな」

「父上……、本当に私は見たんです」

 もうグリードの絞るような声も、オリバーには届かない。

 部屋から去っていくオリバーの姿を見て、グリードは実感した。

 世界が閉じていく、何かに引き戻されていく感覚を。

 気付けば彼はいつもの場所に立っていた。

 侮蔑と敵意、軽蔑と憎しみしかない世界に戻ってきたのだ。

 夢の世界は終わった。ただそれだけの事にすぎない。

 何も苦痛なはずはない、何も辛いはずはない。

 どれだけの時間、少年は呆然とその部屋で突っ立っていたのか。

 尋ねてきたオイゲン将軍の姿に気付いたのは声をかけられてからであった。

「グリード様」

「オイゲン、俺は見たんだ戦狼を……」

「ええ」

「どうしてみな信じてくれぬ」

「私は信じますとも、……私も一度見た事がありますから」

 まるで鏡だった。

 オイゲンの言葉は、グリードの姿を映す鏡だった。

 なんと滑稽で、なんと醜悪で、なんと愚かである事か。

 父オリバーが見たもの、感じたものがそこに映っていた。

 それを見たなら、見てしまったならば、そこから生まれるモノは同じだった。

――オイゲン、どうしてそんなつまらない嘘をつく……。

 もう、この世界に狼はいない。

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