血辱の三十日
そのおぞましい箱が最初にローラントのもとに届けられたのは、ひどく長く続く雨のせいで三日も太陽がその姿を見せずにおった頃であった。
ロマリアのおかれた状況は非常に危うく、その未来を暗示するかのような空は人々の心までも曇らせていた。
そんなこの国の国境を、覚つかない足取りで歩く一人の若い男がいた。身に纏う衣服は、衣服と呼べぬぼろきれのようなものであり、彼は衰弱しきった表情で、弱々しくも必死に一つの箱を抱え歩を進める。
あと一歩、あと一歩とまるで何かにとり憑かれたかのようにひたすら歩き続けた男だったが、ついに力尽き、もう一歩も動けぬとその場に倒れそうになった。
「おい!! そこのお前、止まれ!!」
国境を警備するロマリア兵達がそんな男の姿を見つけ彼に駆け寄る。
「こ、これを」
男は兵士達に必死に自分が抱えていた箱を手渡そうする。しかし……。
「うっ」
兵士達はその箱から放たれる強烈な腐臭に顔をしかめた。
「なんだ、これは」
気狂いの乞食かと、見下げる兵士達に男は涙を浮かべて訴える。
「ああ、どうか、どうか陛下に」
「馬鹿を言え、こんなもの!!」
箱を叩き落とそうと、兵士が腕を振り上げると男は抱え込むようにしてその場に倒れこみ絶叫した。
「届けねばならんのだ!! 陛下に届けねば!! この箱を、ラワン様の御首級が入るこの箱を!!」
男の正体は帝国との戦いで捕虜となった若いロマリア兵だった。
帝国は捕虜となっていたラワンを処刑すると同時に一人の若いロマリア兵を解放し、彼にラワンの首と共に、厳しい講和条件が書かれた書状を持たせた。
男はロマリアとの国境沿いで開放される事となったのだが、そこまでの移送には結構な日数を要し、首の腐敗が進行してしまっていた。
当然の如く、首を納めた箱からは異臭が漂う事になるわけだが、幸か不幸か解放されたロマリア兵の鼻は拘留中での度重なる拷問によって機能しなくなっていた。
そう、帝国は身の安全を約束して降伏させたロマリア兵士達に日夜拷問を繰り返し、痛めつけていたのだ。
拷問を受けるロマリア兵達には自分達が何故このような仕打ちを受けるのか理解できなかった。彼らにはただ非情な帝国兵達がそれを楽しんでいるかのようにしか見えなかった。
吐くべき情報も無く、日々繰り返される終わり無き過酷な試練に耐えられずに、自らその命を絶つ者もでていた。
彼らの帝国に対する憎悪は増すばかりであったが、それ以上に罪無き仲間達への慈悲を望む気持ちが強くなっていったのは至極当然な事だった。
しかし、それこそが帝国の狙いであった。
「ああ、なんと労しい事か」
ローラントの前に置かれた箱、その蓋が取られると同時に悲愴に満ちた声がそれを見守る人々から漏れた。
「なんと惨い事を」
亡き忠臣の無惨なその姿を見て、ローラントの内に怒りの感情が湧き起こらぬわけがない。だが、それは怒涛のように押し寄せるものではなかった。
それどころか、己の無力さを懺悔するかのような思いと、人の生の、人の心の無情さを嘆く感情が、この瞬間において彼の内の多くを占めていたのである。
ラワンの首は語る。これほどまでに人は醜くなれるのか、と。
醜きは帝国の蛮行か、それとも己の亡骸か、王の無力さか。いや、人の世が築く全てが、人の持つ本質こそが醜いのだと叫び声が聞こえる。
「陛下、このような蛮行決して許せはできませぬ。必ずやラワン殿の無念、晴らしてみせましょうぞ!!」
将達の怒声にも似た音も、今のローラントには浮いて聞こえた。
「陛下!!」
「ああ、わかっておる。それで、これを届けた者は?」
「はい、衰弱激しいですが。治療のかいあって命は取り留められるでしょう」
「そうか。そやつにも苦労をかけたな。十分と労ってやれ」
「はっ!!」
他の者が講和について王に尋ねる。
「陛下、書状の内容についてですが。これは我々が到底受け入れられるものではないかと」
ローラントも黙って頷く。
「奴等は完全に我々の事をなめておるのです。必ずや思い知らせてやりましょうぞ」
次々と将達がそれに同調の声を上げる。
しかし、王と一部の将達は、厳しい現実をよくよく理解しており、その威勢に単純に同調する事は出来なかった。
とは言っても、この段階において帝国との講和が考えられないのは彼らも同じである。
そんな者達と威勢よく勇ましい発言を繰り返す者達の心境が変化していくのは、それから一月ほどかけてであった。
つまりはこの日が『血辱の三十日』と呼ばれる日々の始まりであった。
ラワンの首が届けられた次の日、また同じように一人の若いロマリア兵が国境にて発見される。
彼もまた帝国の捕虜となっていた者であり、その手にはラワンが納められていた箱よりも一回り大きな箱が抱えられており、その中には大量の耳が詰められていた。
それは無論、帝国に拷問を受け、虐殺された兵士達のものであった。
箱を運んできた男は泣き叫びながら訴えた、自分の目の前で彼らは殺されたのだと。
その次の日も、やはり同じように一人のロマリア兵が保護された。そして彼も同じように箱を運ばされており、その中には目玉だけが詰められいたのである。
毎日、毎日、帝国から解放された一人のロマリア兵が箱を抱えて、故郷の地で保護され、その箱の中には鼻、指、歯と代わる代わる人体の部位が詰められていた。
箱を届けた者達は一様にそれらが彼らの目の前で殺されたロマリア兵達のものである事を話した。
箱が届けられ始めて、一週間。その日箱を届けた男は一枚の書状を持たされており、そこには簡潔な一文だけが書かれていた。
『講和に応じぬ場合、その代償は全ロマリア国民の血で償う事になるであろう』
それは帝国側が示した常軌を逸した行動によって証明されていた。この一文が決して例えや誇張などでは無く、文字通りの意味である事を。
この帝国の書状を見て多くの者は胆を冷やした。
ラワンの首が届けられた日、威勢よく発言していた者達ももはやそのような虚勢は張れず、暗い現実を直視せざるを得なかった。
国王ローラントもまた、誰よりもロマリアの行く末の危うさを理解しており、帝国との講和の機会を無下にする事はもはや出来なかった。
それでも、平気で約束を反故にし、外道の振る舞いを続ける彼らを無条件に信用し受け入れる事は不可能である。
その不可能を可能にせざるを得なかった出来事が起きたのは箱が届けられ始めてから二十九日目の事であった。
「陛下、どうか御慈悲を!! どうか御慈悲を!!」
一人の男が跪き、慈悲の心にすがった。帝国皇帝の慈悲では無く、主君であるロマリア国王ローラントの慈悲に。
慈悲を乞う彼もまた、箱を届ける役目が与えられたロマリア兵であった。その全身には無数の痣があり、片目は大きく腫れて塞がっている。
男が泣きながら自らの王に訴えるのは、今だ帝国に捕らえられ、拷問を受け続ける仲間達の無事であり、それが何を意味しているかは彼自身もよく理解していた。
「貴様!! 自分が何を言ってるかわかっておるのか!! 陛下にそのような事を!! 筋違いも甚だしいぞ!! ええい、こやつをとっとと連れ出せ!!」
一部の将が男に罵声を飛ばし、男をローラントの前から連れ出そうとする。
男は他の兵士達に引きずられながらも、叫び続けた。
「御慈悲を、どうか御慈悲を!!」
その言葉ばかりを繰り返す男の、戦士としての精神はとうの昔に死んでいたのである。
この出来事が、ローラントに一つの重大な決断を促がし、翌三十日に箱が届けられると、彼は将達を集めて、帝国との講和を模索する事を宣言した。
その決定に、一部の者達は当然の事ながら反対の声をあげたが、多数の者達は現状を理解して、王の言葉に従った。
しかし、ロマリア側も無条件に帝国の要求を受け入れるわけにもいかず、少しでも厳しい講和内容を軽減できないかと、話し合いの席を設ける事を帝国へと要求し、それを受けた帝国側は軍において、皇帝やオイゲン将軍に次ぐ、実力者になりかけていたジェイドを使者としてロマリアへと送る事となった。
この決定はジェイド自身が志願したものであった。