戦の後は
シチニ街道、ヒミリ森林付近での戦いでロマリア軍は大敗北を喫する。多くの将兵が討ち死にし、精鋭の兵達を失う事となったのだ。
ロマリア王国国王ローラントが、苦渋の決断を下し故郷の地まで退却した時、彼の連れる兵は六万八千もの大軍から大きく減少し、わずか三万五千ばかりとなっていた。兵士達は帝国によって無惨にも殺され、五千名以上の者が捕虜となったのである。
そのうちの多くは亀裂により孤立させられた前方の部隊であり、長年ローラントのもとで仕える老兵の将ラワンの姿もそこにあった。
ラワンは、ローラント達の退却後もしばらくは戦い続けたが、王の退却の時間を十分と稼げたと判断すると、ジェイド達に兵達の身の安全を約束させ、部隊を降伏させた。
残虐無慈悲な振る舞いを続ける帝国に、そのような約束がはたして意味を持つかと言えば、冷静、客観的な視点で指摘すれば大きな疑問符が付くと言わざるを得ない。
しかし、鉄の心を持つはずの者達も、真の恐怖と絶望を前にわずかな希望にすがるしかなかったのである。
特に部下を持つ身の者には、それが部下の為であるという免罪符が付くのだ。その誘惑を断ち切る事は難しかった。
帝国はロマリアの戦いの後、彼らを呼び寄せる餌として残しておいたわずかばかりの公国領への最後の攻勢を行う。
多くの戦死者や、傭兵達との不和などで激減した戦力では帝国軍をまともに相手する事は出来るはずも無く、公国はわずか建国から百五十年ほどばかりでその歴史に終止符を打つ事となった。
公爵一家や有力商人のいくらかは海道を通り、大陸中央部へと逃れたがクレイグは混乱するスタンチオノードにて何者かにより殺害されてしまう。
それは商人の国とも呼ばれる事もあるほどの貿易国家の終焉を象徴する事件であった。
持ち出された資産や、戦火に焼失してしまった資産は莫大なものであったが、それでもなお公国の地には多くの財が残されていた。
帝国は残された公爵家の財産や商人達の商品を没収するだけでなく、住民達のわずかばかりの金品までも略奪を許可し、兵達に分け与えた。
人として誇りある一部の師団、者達はそのような行いを拒絶したが、結局はそれを喜び受け入れる者達の取り分が増えただけの事であった。
その中でもっとも醜く稼ぎに稼いだのは、言うまでも無く荒くれ者達の集まりでもあったジェイドやトンボの師団、第二十、第三十師団の者達であった。
彼らの行いは、公国の民だけでなく仲間であるはずの他の師団の帝国軍兵士達からも批難めいた言葉が聞かれるほどにひどいものであったが、皇帝の許可を得て行われた蛮行であるが為にそれを気に留める様子は無かった。
しかし非道なる事なれど、これらの行いは皮肉にも同じように皇帝らの蛮行に苦しむ帝国の臣民の生活を救う事につながった。
つまり、帝国は戦費としての大きな負担を長年強いてきた臣民にではなく、新たに帝国に加わる公国の民とその財に向けたのである。
長く続いた重い負担は、帝国の臣民の不満を爆発寸前の限界までに高めていたがこの戦争の結果、勝利と負担の矛先の変化によってそれは解消されていった。
この一戦は大陸西部の支配者が誰であるかを明確に示す戦いとなったわけだが、帝国は更なる飛躍の為に公国併合とロマリアの弱体化だけでは満足しなかった。
公国併合後、オートリア帝国皇帝グリードは兵達と共に帝都に無事帰還し、今だ戦争中であるロマリア王国との今後について臣下の者達と話合っていた。
ロマリア軍はあの一戦での敗北後、帝国領からほとんどの兵を退かせてはいたが、要所である大要塞ケンロウの支配は続行しており、帝国がロマリアの王都を武力によって攻略するにはこのケンロウか、天然の要害である南部ルートを通る必要があり、いずれも大きな被害が予想された。
しかし、この話合いでは今後どう動くかという類いのものが討議される事はなく、事前に決められていた事柄の軽い確認のようなものだけであり、グリードはオイゲンやジェイド達の話を満足そうに頷き、聞き任せるだけで終わる。
そう、全ては上手くいっていたのだ。この戦が始まる前にジェイドがグリードに話し望んだ通りに……。
「何だと、俺の耳がおかしくなったのかと思ったが、……貴様はそんな馬鹿げた事を正気で言っているのか?」
ロマリア、公国との戦争前、帝都の城でジェイドからその策の全てを聞く中で、グリードは驚きと同時に不満の声をあげた。
「もちろんでございます陛下」
「馬鹿を言うな。ロマリアなぞ捻り潰してしまえば良いだろう。何故生かす必要がある」
ジェイドから聞かされたのは、ヒミリ森林付近での戦の後、ロマリアとは講和しろという話だった。
もちろんその条件は帝国に有利なものではあるが、グリードは公国とロマリアは共に、併合する前提の戦だと思い聞いていたのでそれを簡単に了承する事はできなかった。
彼の不満はロマリア併合という帝国の悲願を達成できぬ事にもあったが、ジェイドの話にはそれ以外にも解せない事があった。
「捻り潰すにしても今の戦力では時間がかかりすぎます。ロマリアの地の利、そしてその防衛能力の高さは歴代の皇帝達との戦が示すとおり容易なものではありません」
「だからこそ、公国を餌に引き摺り出す。そう申したのは貴様だろうが」
「それでもです陛下。引き摺りだして殲滅に成功しようと、ロマリアの地の残兵共とその民の抵抗は激しいものとなりましょう」
帝国の領土ほどにないにしても、ロマリアの領土も大きなものであり、それら全てを無理に併合したところで、激しい抵抗に長年苦しめられる事になり、思うよな利を得られるとは限らない。
その懸念を緩和、あるいは排除するには大規模な領土の割譲と共に講和し、なおかつロマリアを属国として支配するのが得策であるジェイドは考えていたのだ。
この策の要はロマリアが属国であれど、存続する事にある。それは割譲され帝国領となる領土に暮らすロマリア国民達の不満を帝国だけでなく、自分達を切り捨てたロマリア王国へと向ける為である。
同じロマリアの民であった者同士に不和を生ませ、団結した独立運動を阻止するのが目的だった。
領土の割譲によって国力を低下させ、敵性国家としての脅威を排除し、なおかつ新たな領土の反乱を効率的に抑え統治する。
そのジェイドの狙いは理に適った策であったが、グリードには理屈でそれを理解できても、よしとするだけの感情までは持てずにいた。
それはロマリア独立後、歴代の皇帝達の悲願でもあり、偉大な英雄として賛美された父オリバー帝すら成し得なかった偉業に対する、あるいは父親そのものに対する無意識なうちのこだわり、コンプレックスがさせた事か。この若き皇帝はなんとかロマリアを完全に併合すべきと結論付けれないか思案する。
究極的わがままによって、理なき結論を断行する事は簡単な事であるが、彼もそこまでは愚かな人間では無かったのである。
「全て焼いてしまえば良い」
苦し紛れにでた言葉にすぎなかった。そして、ジェイドはそれをあっさりと否定する。
「それではいけません。大陸統一の戦いはまだまだ続きます。その費用を賄うにはロマリアという財を無駄に消耗させるわけにはいきません。不毛の大地にしてしまい、その全てを併合するのでは無く、生かし、搾れるだけ搾り取るのが上策なのです」
「公国の街は焼き払うのにか」
ロマリアに劣らぬ豊かな貿易国家、商人国家のスタンチオ公国。その街もまた焼き払うには惜しいだけの財である事は事実だった。
「それはやむを得ない事なのです。ロマリアを確実に誘きよせる為には必要な事です」
「ふん、搾り取る対象ならこの帝国にもいくらでもいるだろう。奴等の血肉で戦費を補えば良い」
「もはや、臣民の負担は限界まできています陛下。いま必要なのはその負担を代わりに負わせる家畜共の存在です」
「家畜だと、……そうかロマリアの奴等は家畜と申すかジェイド」
「一度陛下に刃を向けた者達です。その程度の扱いで十分でありましょう」
物怖じせぬ口ぶりはグリードを変に刺激し、愉快な気分にさせた。
「クックック……、そしてその畜生を妻に迎えろと? このオートリア帝国皇帝であるグリードの妻に畜生を充てよと言うのか貴様は?」
不気味な笑みの後、明らかに不快であるという口調で話すグリードの瞳には重く静かな怒りと、憎悪と言うべきほど感情が浮かんでいた。
ジェイドの話す講和の条件にはロマリアの属国化、大規模な領土の割譲そして、ローラント王の一人娘であるイリス姫との婚約があったのだ。
それが人質としての意味合いの強いものである事は明白だったが、ジェイドが家畜にすぎないとまで呼んだロマリアの人間と、偉大なオートリア帝国の皇帝との婚約が釣り合うはずもない。屈辱、侮辱、恥辱、そう思えるほどにグリードは特にこの講和条件を嫌った。
もはや、衰退し滅び行く王国の王族なぞ、彼の眼中には無かったのである。
しかし、ジェイドはこの婚約の重要性を説き、グリードを説得した。彼は物事の道理、理屈だけで皇帝の理解が得られぬ事を悟るとその感情に働きかけた。
「陛下、それでロマリアの動きを抑えれるのです。婚約、結婚など別に形だけのもので何の問題もありません。……それにイリス姫との婚約はローラント王が一方的に破棄した事、オリバー帝との誓いを遂行させる事にも少なからずとも意味がありましょう」
ロマリアの一方的な婚約破棄はバスティアン帝の怒りを買い戦争につながった。そしてそれはグリード達の反乱のきっかけとなったのである。
今こうして、この皇帝の座にグリードがいるのはイリス姫との婚約破棄というものがあったから、そう呼べなくもない。
再びの婚約はグリードにとっても不快であったが、それを強要されるロマリア側もまた屈辱的に感じるには違いなく、そしてそれは嫌いだった兄バスティアン帝が身を滅ぼし、叶える事のできなかった事なのである。
そう考えれば、新たな時代を迎えた帝国の最初の一歩の、勲章、証。それに相応しくもあるのではないか。
そして、そう考えるしかグリード自身、この講和に婚約の条件を加える事に対する、彼の本能的拒絶を抑える術は無かった。
「不必要になる時がくれば、……その時はお好きになさって下さい。新たな方を皇妃にするも良いでしょう。されど、しばしの間だけでもイリス姫がこの帝国に嫁ぐ必要があるのです。ご理解下さい、陛下」
皇妃というのは簡単に挿げ替えられるほど、価値のないものなのか。いや、本来そのような事は断じてない。
だが、若き皇帝の新たに生まれ変わったこの帝国ではそれが許される。それどころか、何の問題も無かった。
全ては皇帝の意志。皇妃なぞ絶対神そのものとなった男の前ではその程度の存在として扱う事が許された。
皇帝自身がそれを許すのだから、それは許されるのだ。
「皇妃を処分するも自由か。まさに家畜の扱いだな」
「ですが、多少は御気に召すところも見つかるかと、何せ非常にお美しい方だそうですから」
「せめてそうでないと困るな。……だが、所詮は畜生だ」
肥え太った豚のような青年は、薄笑いをしながらジェイドの要求を呑んだ。