戦況
新たな部隊が戦場に突如として姿を現したのは、ガエルの戦死後から程なくしての事だった。
それはジェイドが前線にでる直前に伝令を向かわせておいた部隊であり、戦局を決定付ける一手。
既に公国軍にはこれ以上の戦力を相手する余裕はなく、マランダの物見塔から敵の増援が向かっているとの知らせを受けたトレント達は即座に撤退を開始した。
撤退時の囮とされた傭兵達の中には、正規軍側の不審な動きを事前に察知していた者もおり、彼らは撤退指示がでる前から隙を見て、あるいは撤退時に上手く戦場から離脱したが、比較的経験浅い傭兵達は逃げ遅れ、追撃戦にうつった帝国の軍勢にあっという間に飲み込まれてしまう。
雇い主に見捨てられた傭兵達の中には戦意を失い、帝国側に降伏しようとする者達もいたが、街を焼き払い、その住民達を殺戮するような帝国軍が一度剣を向けた彼らを許すはずもなく、虐殺とも呼べる一方的な攻撃の餌食となってしまう。
こうして、公国軍は狙い通りに傭兵達を犠牲にして、正規軍戦力の温存に成功するがそれはトレントの采配が良かったというわけではなく、端から帝国側に本気で公国軍の戦力を追撃しようという意志がなかったからである。
帝国側の狙いは最初からロマリア王国軍を引き摺り出す事であり、その餌となる公国軍を壊滅させ、降伏させてしまうような事態は避けたかったのだ。
この一戦をとおして公国側は合計約七千五百名という大量の死傷者を出し、兵力を大きく削がれてしまう。
帝国側にとってこの成果は十分すぎるものであり、彼らはこの戦いの後、すぐに公国西部に追加の三師団規模の侵攻軍を投入し、電撃的に公国西部を攻略。西部と南西部合わせて六師団以上という圧倒的な戦力で攻めてくる帝国軍を前に公国軍は戦線を縮小せざるを得なく、多くの砦や城、街が放棄され、結果として国土の八割以上を彼らはわずか一週間と経たぬ間に失う事となった。
この一連の結果は公国側のロマリアに対する不信感を生む。
公爵家に代わり、事実上政治を行っていた公国商工会の有力者達は、最大の都市であるスタンチオノードに集結し対策を練っており、その中で、帝国がこれだけの戦力を公国方面につぎ込めるのはロマリア方面が手薄となっている証拠であり、それは裏で帝国とロマリアが組んでおり、公国を嵌めたのではないかという、一見馬鹿げたような疑いも、真剣に議論されるほどであった。
だが、どれだけ疑心を募らせようと、結局はロマリア軍なしには現状を打開できるはずもなく、彼らはどうにかこの窮状をロマリア側に伝え、助けを乞う必要があった。
幾人もの使者がロマリアに向けて放たれるが、帝国側は押し込んだ戦線を海上、陸上共に大軍をもってして封鎖。一人として公国の人間がその先には進めぬ状態となってしまっていた。
焦り、苛立つ大商人クレイグは、遂に同盟の提案者でもある男にその責任を負わせるようにして、ロマリアへの使いを命じる。
男が帝国の放ったスパイであり、その命令こそが帝国の狙いであるとは知らずに……。
公国からロマリアへ向けての決死の使者達が送られ始めるよりも幾日も前、ロマリア南部サウゾン地方に、国王ローラントの姿はあった。
ローラントの軍勢は南部側の国境に帝国軍が現れたとの知らせを受け、急ぎ駆けつけたのだが、そこで待っていた兵からの言葉は意外なものだった。
「……空だったのです」
「なっ、空とはどういう事だ」
ラワンが動揺しながら言った。
「そのままの意味であります。敵の姿は無く、無人の状態でありました」
報告する兵士の顔も自分でも信じられぬというような表情である。
彼が言うには、サウゾン地方の守備部隊はローラントの事前の指示通り、敵影を確認後、すぐに最前戦の二つの砦を放棄。後方の砦に待機し、さらに幾つかの砦をローラント達が援軍に現れ合流できるまで放棄する手筈だったのだが、最初の二つの砦を攻略したはずの帝国軍の動きがまったく無かった。不審に思った守備隊の将は彼と幾人かの者達に放棄した砦の様子を見てくるよう命じたのだが、命を受け彼らが向かった先で見たものとは占拠しているはずの帝国軍の姿ではなく、無人の砦であったというのだ。
「どういう事でしょうか」
困惑しながらラワンがローラントの方を見る。
「陛下、これはやはり……」
カルロのその言葉にローラントは険しい顔で頷き言った。
「急いで、ブレイ地方に引き返す」
最悪の事態に陥り始めている。そんな予感がこの瞬間において二人の男に共通していた。
だが、それはまだ絶望ではない。
ローラントは最低限の守備兵力を残したまま、再び軍勢をブレイ地方へと向かわせた。
「陛下、ご報告申し上げる事が」
夜を徹し、ブレイ地方へと引き返してきたばかりの国王ローラントにアーノルドがやや興奮した面持ちで言った。
「夜明け頃にケンロウの様子がおかしいとの報告があり、ただちに調べさせたのですが、信じられぬ事に一夜のうちに無人のものとなっているようで……」
「なんだと、こちらもか!! いったいこれは……」
アーノルドの報告を直接受けたローラントではなく傍にいたラワンの方が驚愕の声をあげた。
いくつもの戦を経験してきた男である彼がこれほど明らかな動揺を見せる事は、この状況がどれほど奇妙で不自然、不気味であるかを示していた。
「要塞内に何か細工をしているような事は?」
「はい、その可能性も考え調べさせましたが、今のところ何か見つけたとの報告は入ってきておりません」
「これは案外アーノルドの言っていた通り、帝国軍はうまく機能していていないという事ではないでしょうか?」
「そうです陛下、これは千載一遇の機会。ケンロウを占拠し、そこから一気に帝国軍を蹴散らしましょうぞ!!」
ラワンとアーノルドはこの奇妙な状況をどちらかと言えば楽観的に捉えているようで、危機感とい点においてローラントやカルロとは少しばかりか溝が出来ていた。
だが楽観的、悲観的どちらに考えようが、これ以上敵がくるのをただ座して待つだけには最早いかなかった。
ここからすぐにでも大きく動く必要性をローラントも考えはしたが、帝国の動きに翻弄されブレイ地方とサウゾン地方をほとんど休みなく移動した兵達の疲労は溜まっており、休息が必要だと判断する。
「安全が確認されしだいケンロウに入り兵の休息を取る、それから動く前に少しでも情報が欲しい。特に公国方面の戦況が知りたい。さらに斥候をだして周囲と公国側を調べさせるのだ」
「御意」
敵情を理解せずに、無闇に大軍を敵領土内で動かす危険性は高く、兵の休息が必須ならばその間に少しでも情報を集めさせる事はとても理に適ったものだった。
無人のケンロウの占拠は何一つ問題なくスムーズに行われ、ロマリアと帝国の長い戦いの歴史の中で難攻不落を誇った砦は呆気なくロマリアのものとなる。
やがて、ケンロウに入って三日は経った頃、ローラントの指示で放たれ斥候達が幾人か戻り、ケンロウからある程度の距離である周辺の情報はおおよそ明らかとなった。
斥候のもたらした情報は予想の範囲内のもので、少なくともこの辺りには大規模な敵軍は確認されておらず、いくらか小規模なものの姿があるだけでロマリア軍本隊の進軍に大きな支障をきたす存在ではなかった。
その情報と兵の疲れがほとんど取れた事を確認したローラントは、まだ公国方面の情報が不十分な中で主だった将兵を集め宣言する。
目指すは帝都オートリアであると。
これに多くの者達は喚声を上げ応えたが、カルロは急な進軍にわずかながらの懸念を口にした。
だが、ローラントもその危険性は十分と理解はしていたし、カルロも懸念を持ちながらも結局はこの作戦の必要性は理解していた為に、進軍は実行される事となる。
今までの手薄な敵戦力は直接知らせがなくとも公国の危機の可能性を十分と表しており、これ以上の躊躇は許されなかった。素早い正確な情報は大切なものであるが、遅すぎるそれを待つは価値を大きく損なうどころか、害となる事すらあるのだ。
帝都を手早く陥落させる事が帝国への致命の一撃となり、それは公国をも救う事になるのだと、この時彼らは考えていた。
そして国王ローラントの号令のもと総勢約六万八千もの兵がケンロウから帝都オートリアに向けて侵攻を開始するのだった。