狂鬼士
――不安を捨てろ。恐れを捨てろ。そして希望を捨てろ。そうして残った感情こそが本物なのだ。さぁ行け、怒れる戦士達よ――
蛮怒王 ドドルガ
男には何も無かった。
臆病者と呼ばれ、名ばかりの騎士としての称号を持った父親とそんな父親に愛想を尽かした母親。男を愛し、男が愛すべきはずの者達は愛おしさとは程遠い存在であった。
曽祖父、祖父達が築いていった一族の富と名声は凡庸にすら劣る父親によってそのほとんどが消えてしまい、使用人達は皆、父の代でこの家は破滅すると話しまだ幼かった彼を哀れんだ。
男がわずか十五歳の時に、嫌々駆り出された戦場で臆病者の騎士が死ぬ。最後は逃げ回った末の無様な戦死だった。
一家の主が死ぬと残り少ない家の財を持ち出して母親は行方を眩まし、それから幾日かすると今度は城から使いの者達がやってきて、男に唯一受け継ぐ物だったはずの騎士の称号が剥奪される事が伝えられた。
当然だった、父親がした事を見れば当然の事なのだ。それでも、心の底から溢れていく純粋な感情をその時の男には抑える事などできはしなかった。
全てを無くした男は、何も持たぬ事に気付いた男は叫ぶ。
世の理不尽を、己の境遇を。
あんな奴がいなければこんな目には合わなかった。
その思いは他者への憎しみと怒り。
あんな奴がいなければ俺は生まれる事すら出来なかった。
その思いは自身への憎しみと怒り。
叫びが産声へと変わったまさにその瞬間に、男は真に生まれた。
十五歳のその日に、慈愛の中ではなく激しい怒りの中で男は生まれたのだ。
城からの使者達に襲いかかり瀕死の重傷を負わせ、それを止めようとした者達にも怪我を負わせた。
衛兵達が駆けつけて来ると、彼らから剣を奪いとり我流の剣技でさらに暴れまわった。
男が取り押さえられた時、最終的に死者は二十名近く、怪我人はその倍以上にのぼっていた。
捕らえれた男は死刑になるはずだったが、執行の前日に刑が取り消される。彼の存在に目を付けた者がいたのだ。
そして騎士の称号剥奪も取り消され、十五歳の騎士が誕生する。
男にとって手にした騎士の称号は取り返したモノでは無く、生まれて初めて掴み取ったモノだった。
十五歳の騎士は次々と戦場に赴き戦果をあげ、瞬く間に出世していった。
無我夢中に戦い続け十八で大隊長、二十で旅団長、そして二十一で師団長へと上り詰めていく。
彼がこれほど早く師団長にまで成り上がったのは実力はもちろんの事、運も大きな要因だった。
その運とは彼が十八の時に偶然手に入れた指輪、マジックリングとの出会いの事である。
その指輪の力が初めて彼のもとで発揮されたのは指輪を手にして一月ほど過ぎてからの戦場、彼が絶対絶命の危機に陥った時だった。
危機に陥った男は死を前にして恐怖するのではなく怒った。その万物に対しての怒りが指輪の力を解放させる事となる。
指輪に込められた魔力と爆発させた怒りで男は鬼と化し、その圧倒的な力で危機をのりきった。単騎で敵軍を圧倒するようなその戦い方は狂気すら感じさせるもので、男は狂鬼士ガエルと呼ばれ、当時同じく活躍していたオイゲン、ベルントと並んでオリバーの三騎士と称えられるようになる。
だが、高まる名声と莫大な富がガエルを満たす事は無く、ただ戦い続ける事だけが当時の彼の全てだった。
彼がその頃に拘っていたと言えるのは臆病者の父親とは違い、自身が騎士であるに値する者だという証。それは戦う事でしか彼には証明できないモノであった。
しかし、そうであったからこそ彼は怒りという感情に素直でいられたし、怒りに素直であり続ける限り、指輪はガエルに応え続けたのだ。
そんなガエルに変化をもたらしたのは一人の女性との出会いだった。
彼女がガエルに与えた愛情は、偉大な騎士を堕落させる事となる。
妻を持ち、子を持った男は愛を知り、力を失ったのだ。
希望、期待、愛情、人が人である為に必要なものは、鬼が鬼である為にはあってはならないモノだったのだ。
それらの感情は恐れと不安、そして躊躇いを生む。
感情の爆発で自我を失い、そのまま破滅するやもしれぬと躊躇う騎士に指輪がその力を与える事はなくなった。
それでもガエルは幸せだったのだ。
偉大な騎士はその幸福によって眠りに付き、もう目覚める事はないはずだった。
あの男が現れる事が無ければ……。
「グァアアアア!!」
言葉になっていない叫びが大地を揺らした。
「鬼とはよく言ったもんだ」
ジェイドの視界に映るのは、うっすらと人の面影を残した鬼である。
異様なまでに隆起した筋肉は身に付けている防具までも破壊しそうなほどで、その体を覆う魔力は重々しく禍々しい。
さきほどまでは確かにあった大きな傷も、指輪の力によってか完全に塞がっていた。
「グォオオオオオ!!」
叫ぶ鬼の顔は怒りに歪んでいた。
「今度はもっと楽しませろよ。俺は見てみたいんだ、鬼がナクところを」
「ァァアアアアアアアア!!」
二人がほぼ同時に動く。
――ガキーン。
速度は互角だった。
――キーン。
だが、パワーには差があった。
荒々しく暴力的なガエルの攻撃は空を斬るだけでもその空気を揺すほどのもので、強化魔法のかかったジェイドを凌駕していた。
――シュン、ブオン、キーン。
攻撃を絶妙なタイミングで避け、受け流すジェイドだが反撃する機会が見つからない。
ガエルの防御を捨てた狂気染みた攻撃が、逆に反撃の隙をなかなか与えなかったのだ。
――チッ、無理矢理でも。
ジェイドは押され崩れかけた体勢から強引に片手を空け魔法を発動させる。
――バーン。
瞬時に手から炎が炸裂し、ガエルの肉体を十メートル近くも吹き飛ばした。
無理な体勢から短時間で発動させたその魔法では、狂鬼と化した今のガエルにとって致命の一撃にはなるまい事をジェイドも承知していた。
鬼が起き上がろうとする間にすぐに次の魔法を練り上げる。怪しき魔力の塊がジェイドの肉体から放たれ、それは忌々しい魔力の霧となり、ゆっくりと目標の方へ向かっていく。
迫り来る魔力の霧をガエルは避けようともしない。
――見えてないのか?
ジェイドのその考えはすぐに否定される。
命中したはず魔力の霧はガエルのオーラに掻き消されたのだ。
ジェイドの放った魔法は衰弱の魔法だった。先ほどのゴールとの戦いでは恐ろしい効力を見せた魔法も今のガエルにはまったく効かない。
それは今のガエルが真の戦士である証だった。
「クックック」
ジェイドは笑った。
それは余裕や恐怖からくるものではなかったし、強敵との戦いが楽しいわけでもない。
強敵を我が手で殺せる快楽を想像すると笑わずにはいられなかったのだ。
――ヒュン……キン!!
二人の戦場に邪魔が入る。突如公国兵達が現れ、矢をジェイドに向けて放ったのである。
「ガエル様!! こんなところに」
現れた公国軍の兵士は三人だけ、炎の中の生存者を探しにきたのか、あるいはガエルを探しにきたのかジェイドには判断つかぬところであったがどちらにしろ邪魔者には変わりない。
まずその邪魔者達から始末しようとジェイドが動こうとすると同時に。
「ぎゃああああああ」
公国兵達は悲鳴をあげ絶命した。
ガエルが彼らを襲ったのである。
もはや、ガエルには敵味方を区別するほどの思考すら残っていなかった。そのわずかな思考能力すらも怒りの力に変えていたのだ。
「クックック、いいぞ。それでいいんだガエル!!」
理性の欠片をも失うほどに怒り狂った狂人と歪んだ快楽に溺れる狂人。二人の狂人同士の戦いは凡人が束になろうと止められはしない。
「来いガエル!! 俺は今のお前を殺したくて仕方がないぞ!!」
「アアアアアアアア!!」
鬼が吼えジェイドに斬りかかる。
――ガキーン。
強力なその一撃をジェイドは剣で受ける。彼の体からはブラッドマジックの魔力が溢れ出ていた。
ジェイドは鬼の圧倒的パワーに対抗する為、限界を超えるほどに自身へ強化魔法をかけたのだ。
そんな無茶をした魔法の効果は長く続かない。それどころか、魔法によって死や障害の残る危険性が増大していた。
――ガキーン、キーン。
だが、関係ないのだ。
この戦いは限界を超えた者同士の戦いであり、そうしなければ確実な死が相手から与えられるだけである。
限界を超えず死ぬか、限界を超えて死ぬかもしれないを選ぶか、……ジェイドは後者を選んだ。
「アアアアアアアアアア!!」
ジェイドの頭上へ、ガエルの渾身の一撃が振り下ろされる。
――ドドーン。
間一髪の所で避けられたガエルの剣は音をたてて大地を裂く。
その隙に後方へ飛びのいたジェイドは高速に剣を操り、空間を斬った。
そうすると、いくつもの真空の刃が生まれ、ガエルに向かって飛んでいった。
「ガアアアアアアア!!」
次々と命中する真空刃、だが鬼の体には浅い傷しか付けられない。
飛んでくる刃にもかまわず、ガエルは強引にジェイドとの距離を詰めていく。
――ガキーン。
両者の剣がぶつかるとジェイドの腕が跳ね上がり、剣が飛ばされてしまう。
「腕の一本ぐらいくれてやるぞ!!」
その言葉に従うわけではなかったが、体勢を崩したジェイドの左腕をガエルは勢いよく斬り付けた。
魔法で強化された片腕を斬り跳ばそうと力んだその瞬間、ガエルの動きがわずかに鈍り、隙が生まれる。
「終わりだ、ガエル!!」
ジェイドは空手となった右手から強力な魔法の短剣を作りだし、ガエルの首めがけて突き立てた。
「ガアアアアアアア!!」
ナイタ鬼の首をそのまま掻き切るようにして切り裂くとどす黒い血が噴き上がる。
そのまま倒れるようにしてガエルは崩れ落ちた。
「ハァ、ハァ……、ハハ、ハッハッハ、アッハッハッハ」
斬り落とされた左腕の事など気にする素振りをみせず笑うジェイド。
「ハッハッハッハ、良い声でナイタなぁ、アハハハハハ」
ジェイドの脳は十分な睡眠をとった後の人間のように冴えきっており、胃は十分な食事にありつけた人間のように満たされていた。……彼は射精していた。
これだけが、この快楽だけがこの狂人にとって本物だった。
「ハッハッハッハッハッハ……」
突然、快楽に溺れる男の狂気の笑いが止まった。
転がるソレが動いたのだ。
「ガッァ、ガァ、ァァアアァ!!」
止めを刺したはずの鬼が彼の目の前でゆっくりと動き立ち上がる。
満身創痍のジェイドにもう勝ち目はない。左腕は無く、武器も無く、強化魔法の効果はきれてしまい、魔力もほとんど底をついている状態だった。
そんな絶望的な状況で常人には理解しえない言葉が自然とでる。
「いいねぇ」
ジェイドにとって今のガエルはこの世でもっとも美味な食事であり、どんな美女よりも魅力ある存在なのだ。それだけのモノを目の前にした彼からそういう言葉がでても仕方のない事だった。
「ァアアアアアア!!」
立ち上がった鬼が目の前で咆哮し、狂人を滅殺せんと天高くその拳を振り上げる。
それでもなおジェイドは笑みを浮かべた。
死を前にして恐怖も絶望もなかった。
ただ彼が惜しんだのはこの狂鬼を殺す快楽、今の自分にそれをものにするだけの力がない事だった。
「アアアアアアア!!」
破滅の一撃が振り下ろされようとしたその時、突然鬼の動きが止まった。
ジェイドにとって悪い予感が、彼の脳裏に浮かぶ。
「オイ、ふざけるなよ……」
鬼の形相のまま微動だにしないガエル。
「ふざけるな……」
ジェイドの中から快楽が消え、怒りが生まれる。
「ふざけるな、……ふざけるなぁああああ!!」
ジェイドが絶叫した。
しかしガエルは動かない、いや動けなかった。
指輪の魔力の効果なのか、ガエルは拳を上げまさに振り下ろさんと叫んだその姿で石のように膠着し、息絶えていたのだ。
許せるはずがない。
ジェイドにとって、自分の手によってではなく、怒りと指輪の力に耐え切れず死んだガエルを見ることは、美食家の前で一流の料理を腐らせるようなものであり、絶世の美女が老いて醜悪な老女となっていく姿をみるようなものであり、苦痛でしかなかった。
だが、どれだけジェイドにとって耐え難きものであっても、現実の光景は彼に残酷な勝利を告げていた。
彼は生き残ったのだ、ガエルの鬼としての寿命に助けられて。