戦争へ
一年という歳月。
それはある者には長く、また別の者にとってはあまりにも短いものであった。
オートリア帝国皇帝グリードが、打倒ロマリアの準備に許した期日が残り数日となった頃、ついにその時が訪れた。
ロマリア王国とスタンチオ公国の同盟成立である。
同盟の誕生は大々的に発表され、その知らせは大陸西部の国という国を瞬く間に駆け巡った。同盟を知った数々の国は帝国とこの二国の戦争が迫っている事を実感した。発表されたこの同盟の理念『二国の繁栄の為に、脅威に対して共に力を合わせ対抗する』、その一文が指し示す『脅威』が帝国の事であり、この同盟が軍拡を進める帝国を激怒させる事は容易に想像できたからである。
そして近い将来訪れるであろう大戦争に対する中小国の王達の思惑は様々なものがありながらも、いずれの国もその形勢を見守ろうという態度では一致していた。
同盟成立の報が帝国に届くとグリード達はすぐさま帝国各地に散り任務にあたる師団長達に召集をかけた。
幾日後、皇帝の間に集まった彼らに同盟が工作活動によるものである事が伝えられると、事前に工作の事を知らされていた一部の師団長達を除き、その突飛に思える外交工作には何人かは驚きの声を漏らし、ほぼ全ての者がその意図を訝しがった。
オイゲンが工作の目的を伝えると納得し感心する者も中にはいたが、リスクの高いその行為には否定的な意見が相次いだ。
しかし、実際すでに同盟は成立してしまっており、この工作活動の成果を否定しても何ら事態を改善させる案をだせるわけではなかった師団長達は結局、オイゲン将軍が示す作戦を遂行するしかなかった。だが、そのオイゲンが示した作戦自体、またもや師団長達を困惑させるものであった。
「本気でこのような作戦を決行されるおつもりですか?」
バスティアン討伐後、旅団長から師団長へ昇格となったフィリップは戸惑いを隠せぬ表情で場に集まった者達に問いかけた。
「何か他に良い案でもおありですかな」
ジェイドが平然とした態度でフィリップに代案を求める。
「他にと、言われても……。少なくともこの作戦は危険すぎます、戦争を回避し外交努力によって緊張を緩和させる方が懸命かと。ロマリアも戦争など望みはしないでしょう」
「と、フィリップ殿は申されていますがどう致しましょう」
ジェイドに発言を促がされると玉座に腰掛けるグリードは怒気をも含んだ低い声で言った。
「馬鹿げた事を言うな。俺はジェイド、お前の言葉通り一年待ってやったのだ。期待に応えてみせろ」
「もちろんで御座います陛下。……という事ですフィリップ殿、陛下のロマリア打倒の決意は固い。ご理解頂けましたかな」
「くっ、しかし……」
食い下がろうとするフィリップを制止し、割り込むようにしてメストが口を開く。
「ジェイド殿はえらくこの作戦に自信があるとお見受けする。必ずこの作戦が成功するとお考えか」
「当然。皆様方が協力し、与えられた指示をまっとうすれば、必ず成功しますよ。何せ歴戦の英雄であられるオイゲン将軍が考案なさったものです。私も多少お手伝いさせてもらいましたが」
「オイゲン殿も同じ様にお考えか?」
メストはオイゲンにも同じ質問をぶつける。
「八割、といったところだ、この作戦が成功する確率は」
オイゲンの言葉に場の空気はよりいっそう重くなる。
「八割!? これは遊びではないのですよ。この無謀な作戦は失敗した時には帝国にとって致命的なものになります。必勝のものでないのならば、もっと慎重に事を運ぶべきです」
フィリップの言葉にオイゲンは首を左右に振る。
「すでに事は動いた。この状況で打てる最善の策、それがこの作戦だ」
オイゲンの言葉に明確な代案持たぬフィリップはこれ以上食い下がる事はできなかった。それはオイゲンが素性の知れないジェイドとは違い帝国を長らく支えてきた英雄であり、フィリップ自身この老兵の軍才を認め、自分以上のものだと評価していた事も関係していた。
「将軍も謙虚なお方だ、これほど素晴らしい計画の成功率がたったの八割だなんて。フフ、それではみなさん異議なしという事でよろしいですね」
ジェイドが見回し、師団長達の表情をうかがう。みな神妙な面持ちながらもこれ以上異議の声があがる様子もなかった。
「それでは、各自与えられた指示通り動いてください。最後に陛下から一言お言葉を」
場の者達の視線がグリードの方へと集中する。
視線を浴びながらグリードは師団長達へ不気味な笑みを浮かべ言い放った。
「俺がお前達に期待する事はたった一つだけだ。……一年待ったのだ、俺を退屈させるような真似だけはしないでくれよ」
会議が終わったその夜。オートリア城の一室で、ついに始まろうとしている大戦争を前にオイゲンはイェンスと交わした言葉を思い出していた。
「この国は誰の為にあるのだろう」
亡き父オリバーに代わり皇帝になろうという男はオイゲンの目の前でそう呟いた。
「何を仰いますか。この帝国は皇帝陛下の為にこそ存在し、そして」
「そして皇帝は臣民の為に在れか」
イェンスが冷めた口調で言った。
「『臣民は帝国の為に、帝国は皇帝の為に、皇帝は臣民の為に』、そんな古い理想はもう当の昔に死んでしまったよ」
「イェンス様、これからお父上に代わり帝国を導かんとする貴方様がそのような考えでは困ります」
「父はこの国を救おうと奔走し、荒れ果てたこの国にかつてのような平穏を取り戻した。だけど、それは一時的な、見せかけのものでしかない。この国の根本を、運命を変える事はできなかったんだ」
「それではお父上の成し遂げられなかった事をイェンス様こそが」
「僕に父親以上の才覚などありはしないよ、自分の事は自分がよく知っている」
「及ばずながら私もイェンス様のお力に」
「オイゲン、僕は父がすべき事はこの国を救う事なんかでは無かった。そんな気がするんだ」
「イェンス様……」
「あまりにも長い時の流れは、帝国という存在を怪物にしてしまった。怪物は生きる為に臣民を喰うだけに足らず、皇帝すらも喰らう存在になってしまったんだ。……たぶん僕はこの先長くはないだろう。だから、この怪物を討つのは僕なんかではないし、きっと君でもないのだろう」
悲しみと諦めの帯びた表情で語るイェンスにオイゲンはかけるべき言葉を失う。
「喰らうものすら失くし破滅するのが先か、正義と信念を持った英雄に討たれるが先か。……いや、案外もっと単純な存在が終わらすのかもしれないな、フフッ」
そう言って笑うイェンスの表情はオイゲンの脳裏に焼きついたのだった。
――トントン。
部屋の戸を叩く音がオイゲンを物思いから覚ました。
「ミロスラフです」
「入れ」
ドアを開けて入ってきた弟子の表情は険しいものであった。
「何か問題でもあったのか」
「いえ、そうではありません」
「自分の役割が不服か、ならば他の者に……」
「そうではありません!! ただ、作戦全体がオイゲン様らしくないといいますか……」
「私らしくないか」
「そうです、この作戦からはこの国に住む人々の事が抜け落ちています。まるで犠牲になるのも厭わないかのような」
「事実そうであろう。何せ作戦の発案者はジェイドだ」
「ジェイド? あの男のですか」
「そうだ、私はそれにすこし手を加えただけなのだ」
「他に策は本当に……」
「陛下の決心が揺るがぬ今、これがもっとも目的を達成する為に最善の策である事は間違いないであろう」
「その為に多くの民が犠牲になる可能性があってもよいと」
「それが陛下の望んだ事だ」
「陛下が望むのであれば、何万、何十万の人間の身を危険に晒してもかまわぬと」
弟子の問い掛けにオイゲンはゆっくりと静かに頷いた。
「それもやむを得まい」
『貴公らが策した同盟が帝国を脅かさんと意図するものである事は明白であり、そのような事を謀る愚か者達を帝国が是認する事は決して有らず。事ここに至っては武をもって征する他なし』
オートリア帝国がロマリア王国、スタチンオ公国に宣戦布告し、大戦争の火蓋が切られたのは同盟成立から二週間と三日後の事だった。
宣戦布告を受けたロマリア王国国王ローラントは帝国との西部国境地帯であるブレイ地方に兵を展開し、帝国軍の侵攻に備えた。ブレイ地方は幾度となく繰り返された帝国のロマリア侵攻、その拠点となる帝国の大要塞ケンロウからの侵攻ルートとなる場所であった。
帝国がここを侵攻ルートとしてきたのには、ブレイ地方を通るのが王都ロマリアへの最短ルートである事が大きい。自然豊かなロマリア領内において帝国が大軍を運用する事は容易ではなく、補給線の距離が長くなる事を嫌ったのだ。
幸いにしてこの国境地域の帝国側にはロマリア側を見渡すような巨大な崖があった事から、そこにケンロウ要塞が建築される事となる。
ケンロウは長い歴史の中で改修、増築を繰り返し、大要塞ケンロウとして帝国の侵攻拠点となるだけではなくロマリアから敗走する事となってしまった軍の逃げ場、そしてロマリアの反攻を阻止する要としての機能も持ち合わせていた。
「敵はやはりケンロウから攻め入るつもりのようです。敵軍の入城が確認されました。規模的には一個師団かと思われます」
ローラントのもとに斥候からの報告を受けた将がやってきて帝国軍の動向を伝える。
「予想通りの動きですな。どう致しましょう」
老兵ラワンがローラントに今後の確認をとる。
「ケンロウから攻め込むつもりならば手筈通りに動いてくれればよい。しかし……」
ローラントがその先を言いよどむと彼のそばにいた若い男が王の代わりとばかりに口を開いた。
「しかし、一個師団というのが気になります」
「どういう事だカルロ」
ラワンはその若き将カルロに説明を求める。
「我々が軍をこの地に展開している事は相手も承知のはず。ならばこのブレイ地方を突破するのにはもっと多くの兵が必要なのは自明の事。すでに我々がこの地に展開して二日目ほど経ちましたが、あの要塞にいるのは常駐兵とさきほどの援軍を合わせて、多く見積もっても一万の兵にも満たないものかと」
「囮だと言いたいのか?」
「その可能性は十分にあるかと」
「陛下もそのようにお考えで?」
「うむ」
ローラントはカルロの事を高く評価していた。
カルロは軍人一家の長男として生まれ、幼い頃から一軍の将としての英才教育を受けその才を磨き、若くして数々の戦功をあげていた。
また、人格的にも問題のない人間であり、ローラントはもし自身の娘イリスに君主足る才無き場合は彼を養子とする事を検討するほどの人物であった。
「しかし、急な同盟で帝国側の用意がととのってなかっただけの可能性も……」
大男の将アーノルドが別の可能性を指摘する。
「それもないとは言い切れぬ」
「でしたら陛下。ここはこちらから仕掛けてみるのも手かと」
相手が仕掛けてくる前に侵攻拠点となるケンロウを先に攻略してしまえば、帝国はブレイ地方方面からの侵攻が困難となる。そして、地理的に防衛しやすい他方面からの侵攻を余儀なくされ、ともすれば王国への侵攻そのものを断念させる事も可能となる。
「それこそが、相手の狙いやもしれん」
ローラントは懸念を抱いていた、オイゲン将軍が準備もままならぬ状態で宣戦布告などという失態を演じるのだろうかと。グリード帝がよほどの無能であり焦って戦を強行した可能もないわけではなかったが、そんな希望的観測で戦況を判断するのは危険すぎるように思えた。
「では、このまま相手が動くのを待つおつもりで?」
アーノルドは不満ありげに言った。
「そうしたいところなのだが……」
「これだけ敵の動きが鈍いとなりますと主力が我が方ではなく、公国の方に向かった可能性があるかと」
「わかっておる」
カルロの指摘にローラントは渋い顔のまま答えた。
ローラントは帝国が主力を公国に向ける可能性は低いと考えていた。
帝国が主力を持ってロマリア王国に勝つのと、スタンチオ公国に勝つのでは大きな違いがあったからである。
もし、帝国がロマリアに勝つ事ができたならばスタンチオ公国は降伏、最低限でも停戦協定を結ばざる終えなくなる。同盟の軍事的主力がロマリア軍であり、とても公国だけでは帝国には対抗できないからだ。
逆に、帝国が先に公国を降伏させる事に成功したとしてもロマリアには戦闘で傷ついた帝国軍を破るだけの軍事力がある。
その事は帝国がリスクを背負ってまで公国に主力を向けるという可能性を限りなく小さなものにしている。そうローラントには思えた。
だが、今起こっている出来事はその小さかったはずのものを大きくしていっていた。
悩むローラントのもとに新たに慌てながら兵がやってきて叫んだ。
「伝令!! 敵がサウゾン地方から進入してきたとの事です!!」
「何だと!!」
アーノルドが驚きの声をあげる。
サウゾン地方はロマリア南部側の国境で森深き地域、天然の要害と呼べる場所である。
「やはり、ケンロウの部隊は囮なのか。陛下、すぐにでも」
「慌てるな、予期できた事だ。ラワン、カルロ、兵を率いてサウゾンに向かうぞ。アーノルド、お前にはケンロウの見張りを任せたぞ」
「御意」
ようやく事態が動き出したのだとロマリア軍は感じていた。
だが、実際には彼らの知らぬところで戦況は既に大きく動いていたのだった。