虎狩り
命を受けて公国入りする一週間ほど前。
キュウジはマルセルに呼ばれ、彼の仕事場である一室を訪れていた。
「キュウジや」
キュウジが部屋のドアをノックすると、すぐに中から返事があった。
「どうぞ」
部屋に入ったキュウジの目に飛び込んできたのは、山のように書物が積まれ、びっしりと文字が書き込まれた紙が散乱している光景である。それらは本来、広い部屋であったはずのこの一室を窮屈なものへと変貌させていた。
「見苦しい部屋で申し訳ない。片付けようとは思っているんですが、このところ忙しいもので。それにあまり他人に見せれるものではないので、人を使って片付けさせるというわけにもいきません」
机に背を向けた状態で椅子に座りながらマルセルは部屋に入ってきたキュウジに対して、早々にこの部屋の現状についての謝罪と言い訳を述べた。
「俺にはかまわんのか」
「今のあなたにとっては役立たないものしかありませんよ」
そう言いながらマルセルは辺りを見回すと、少し困ったような表情を浮かべた。
「どうしましょう。椅子が今私が使ってるものしかありませんね。使います?」
苦笑しながら椅子から立ち上がろうとするマルセルをキュウジは制止する。
「いや、このままでかまわんよ」
「そうですか。それは助かります」
改めて椅子に座りなおそうとするマルセルの表情からは、連日の激務によるものであろう疲れの色が見えた。
キュウジよりも若いその男は三弟として師であるオイゲンを支えるだけではない。旧体制派追放後における帝国の内政の多くは、オイゲンとその弟子マルセルに任せられ、マルセルは一人で様々な仕事を連日こなしていたのだ。不精な性格でもないマルセルが片付ける暇もなく、これほど部屋を散らかしてるのは日々の仕事の量の多さをを裏付けるものであった。
「仕事の話を早いところ始めてくれ」
「ええ、二つほど頼みたい事があります。一つは北東にあるスタンチオ公国から兵士に必要な武具を密輸していただきたい。できるだけ多く頼みます。予算に関してはあなたに一任しますよ」
「二つ目は?」
二つあると言われて最初にでてくるのは楽な仕事の方だと決まっている、そして二つ目はわざわざマルセルがキュウジを部屋まで呼びつける必要があるほどの大きな仕事であるという事も。
「ロマリア王国とスタンチオ公国が同盟を結ぶよう、一仕事してもらえませんか」
奇天烈に思える依頼をマルセルは特に口調を変えるでもなく淡々とした口調で告げた。
「奇妙な話が耳から入ってきたような気がするが、俺の聞き間違いやないよな」
「ええ、ロマリアと公国、二つの国が同盟を結ぶように工作して欲しいのです」
「……、狙いを聞きたい」
わずかな沈黙の後、この策の真意をはかりかねるキュウジは素直にマルセルに説明を求めた。
「知らなくても仕事には差し支えないでしょう」
「無理に聞きたいとは言わん。やけど、目的を理解していた方が仕事が上手くいくこともある」
「聡明なあなたなら、少し考えれば答えがそのうちわかりそうなものですが」
「まぁ、話せんもんならしゃあない。一つ目の仕事は引き受けよう。二つ目はその少し考える時間を貰うとしよう」
マルセルが困惑の表情を浮かべる。
「珍しいですね。あなたがそこまで仕事の目的についてまで知りたがるとは」
「えらく珍妙な仕事に見えるものでね。多少興味が沸いた」
本当はキュウジには断る気などありはしない。もとより、自身の目的の為には困難な仕事であっても断る事など出来なかった。マルセルもその事を承知していたが、時の惜しさとキュウジへの仕事に関する信頼が話す事への躊躇を打ち消した。
「……いいでしょう。お話しましょう。ですが、話すからには引き受けていただきますよ」
「ああ」
「陛下は再びロマリアとの戦争を始めるつもりです」
ロマリアとの戦争、それは明言こそされていなかった事であったが十分と予期できるものでありキュウジに驚きはない。
「常識的に考えりゃ、今から戦争を始めようって相手の同盟国を作るなんて愚策。それにロマリアは帝国の北西側、公国は北東側にある。こっちの戦力が分散するだけやろ」
それは普通の人間なら誰もが思うであろう疑問だった。
「まったく戦力を分散させない、というわけにはいきませんがある程度戦力の集中を行う事は出来ますよ。それにこの策の目的は単純なものなのです」
「単純?」
「虎穴に入らずんば虎子を得ず。ですが、親虎を狩るのにわざわざ危険を冒して虎穴に入る必要はない」
「そこで公国を餌にするわけか」
「その通りです。スタンチオ公国の危機、それを餌にしてロマリアという虎を狩るのです」
帝国軍は圧倒的な戦力を持ちながらこれまで何度もロマリアとの戦に敗れてきた。その最大の要因は戦場となるのがロマリア領内であったが為にロマリアの自国の自然、地形を有効に使った戦略、戦術によって部隊が大損害を受けていた事にあった。それを防ぐ為に挟撃される事になるかもしれないリスクを負ってでもロマリアを領内から引きずり出す必要があるとオイゲン達は判断したのだ。
「そんなに上手くいくかね」
「上手くいってもらわないと困りますので、上手くいかせてみせますよ。ですので、あなたも上手くやってください。同盟を成立させないと話が進みませんので」
マルセルは微笑みながらキュウジに難題を突きつけたのである。
「一仕事?」
眉間に皺を寄せながらクレイグはキュウジに次の言葉を促す。
「はい。この国とロマリア王国の同盟、その橋渡しを私にぜひやらせていただきたいのです」
場に一瞬の静寂が訪れる。
「何を言い出すのかと思えば……。そのような事を申されても悪い冗談にしか聞こえませんな」
素性の知れぬ男の馬鹿げた要求にクレイグも半ば呆れ気味に嘲笑した。
「真面目な話です。帝国はこの国の脅威であり、災いとなります。すぐにでもロマリアと手を組み。脅威を排除する必要があるのです」
「あなたが帝国の存在をどう考えるかは勝手だが、私はただの商人だ。政治を自由に動かせるわけがない。私にそのような主張を説かれても困りますな」
「建前は抜きにしましょうクレイグさん。この国はすでに公爵家のものではなく商人達のものだ。実際に政治を動かしているのはスタンチオ公国商工会。そしてその役員メンバーの中でもあなたは一番の影響力を持っている。クレイグさん、間違いなくあなたはこの国の政治を動かせる人間ですよ」
クレイグは目の前にいる人物を計りかねていた。
よくいる媚びを売るだけの無能だと思って接していたのだが、自分がこの国の有力者であると認知し、おそらく悪行の一端ぐらい耳にしているであろうに、物怖じする事なく踏み込んでくるこの男からは、自惚れた馬鹿者では済まされないものがあるように思えてきたのだ。
「いいでしょう。ですが、アカサ殿。あなたも建前は抜きにしてほしい。あなたは流れの商人だ。あなたの言う脅威があるこの国でわざわざ腰を据えて商売を始めずともいくらでも他に行けば良いのでは?」
キュウジに問いかけるクレイグの表情からは侮蔑の類いのものは消えていた。
「この国ほど、良い場所はそうはありません。この国を動かすのは貪欲な皇帝でもなければ無能な王でもなく、才能に溺れた傲慢な魔術師達でもない。自身の力によって財を成す商人達だ。私は嫌なのです。ただある血筋に生まれただけの存在や大した苦労もなく権力を手にする存在に振りまわされるなど。……この国では自身の力のある者が政治に関われ、無能な者はやがて政治の舞台から淘汰される。商人にとってこの国は本当に素晴らしいものなのです。私は有能なあなたの力になりたい、この国に役立ちたい。そしてこの国の繁栄の恩恵を受けたいのです」
キュウジは落ち着きがありながらも力強い口調で自称商人アカサの本心を放った。その偽りの熱意が多少伝わったのか、クレイグは嘲笑とは違った笑みを浮かべる。
「恩恵を受けたいですか。いやぁ、結構、結構。力ある人間。有能な人間には確かにそれを受ける権利がある。だが、あなたがそのような人物であるとはかぎらない」
「有能でない人間にはこのようなモノを手に入れる事は出来ないでしょう」
キュウジが自身の持ってきた小箱の方を見ながら言った。
「なるほど……。しかし、それだけではあなたの言う事に納得して、では同盟の手伝いをしていただきましょうとはいくらなんでもなりませんよ」
「私を信用できないと仰られるなら、それは非常に残念ですが仕方のない面もあります。何せ今日会ったばかりなのですから。ですが、これだけは言えます。ロマリアとの同盟なしにこの国の未来はないと」
「誤解してもらっては困るが、あなたの主張をまったく理解できない訳ではないのだ。帝国の危険性を認識しているからこそ、我々は輸出品に制限をかけた。だが、ロマリアとの同盟は、帝国への宣戦布告と同義と言っても過言ではないもの。商人は大きすぎるリスクを背負う事は嫌うものだ」
クレイグの本心は別として、それが、公国内での現在の主流となっている考えである事は間違いなかった。この国の商人達は他国間で戦争が起こる事を常に望みながら、自国が戦場となる事は極端に恐れ嫌っていたのだ。
「最近、ついに帝国はロマリアへの航路での検閲まで始めたそうですね」
「ほう、さすが、情報が早い」
「事実上、封鎖に近いものと聞いています。……クレイグさん、あなたは理解していらっしゃるはずです。帝国との関係は既に改善できるものではない。もし、ロマリアと帝国が争い、ロマリアが敗れるような事があれば、次に帝国の刃はこの国に向けられるでしょう。そうなってからでは全てが手遅れなのです」
「わざわざこちらから帝国を刺激する必要もないと思いますが? もし、帝国がロマリアに再び戦争を仕掛けるようならば、その時に決断しても遅くはないでしょう」
「遅いです」
キュウジは言い切った。
「帝国に対抗するには事前にロマリアとの関係を密にする必要があります。そして、それは戦後にも大きな意味を持つでしょう」
「戦後?」
「帝国亡き後、この国は帝国に代わり大国としてロマリアと共に二つの大国して大陸西部に君臨する事になります。その時に、いたずらに関係を緊張したものにさせない為にも早くからお互いの信頼を高める事は重要な事。ロマリアに対して事前に共闘の意思を示すか、便乗参戦するかでは大きく違ってくるのです。信頼もそして当然、得られる利益も」
「帝国亡き後ですか。これはまた大胆な予想をしておられる。たった一度の敗北であの強大な国家が倒れるとは考えにくい」
「滅びますよあの国は、戦争で負けるような事があれば簡単に。帝国の軍事力は脅威です。しかし、体制を維持する力強さはすでになく、強大にあらず只々巨大な国家となってしまっている。もはや帝国は限界の状態にあり、次に戦で敗れるような事あれば、それは帝国の終焉を意味する事となりましょう」
クレイグは考え込むようにしばらく沈黙し、大きくひとつ息を吐き出す。そして、キュウジに背を向けるように椅子から立ち上がると部屋の窓の外を眺め始めた。
「……最近、私の事を嗅ぎ回るネズミがいると聞いていたが、たいそう鼻の利くモノだったようだ」
それがキュウジのことを言っているのは明白だった。
「良い商人というのはみな鼻が利くものです」
「目だけでなく鼻もですか、たしかにそうだ。それに口が上手いとくる。……いいでしょう、アカサ殿。あなたの話、買いましょう。実は私もあなたに近い考えをしていた。ただ、その時期を迷っていたのだ」
「光栄です。近い将来、英断だったと思えるものとなりましょう」
クレイグが振り返りキュウジの顔を見る。
「ただし、条件はいくつかつけさせてもらいますよ。……その自信に見合う成果を期待しておきましょう」
クレイグの言葉に困難な任務の達成の糸口がようやく掴めたのだとキュウジは感じていた。




