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婚約破棄された宮廷薬師は王都を去る――彼女が消えた途端に疫病が広がり、第一王子に迎え戻されました

作者: スナハコ
掲載日:2026/02/21

「――エリーゼ・フォン・ヴェルナー。私はお前との婚約を、本日をもって破棄する」


 百本の蝋燭が灯る王宮の大広間に、セドリック第二王子の声が朗々と響いた。


 夜会の只中だった。楽団の演奏が止まり、踊りの輪が静まり、二百を超える貴族たちの視線がたった一人の令嬢に集中する。


 薄茶の髪を地味に結い上げ、飾り気のない白いドレスに身を包んだ令嬢――エリーゼは、グラスを持ったまま瞬きもせずに立っていた。


「殿下。理由を、お聞かせ願えますか」


 その声は驚くほど静かだった。五年間この人の婚約者として過ごし、毎朝誰よりも早く王宮に通い、誰よりも遅く帰った。いつかこうなる予感を、どこかで飼い慣らしていたのかもしれない。


「理由など見ればわかるだろう。王妃には華がなければならない。国の顔だからな」


 セドリックは傍らに立つ女性の肩を引き寄せた。ロゼッタ・メルヴァイン男爵令嬢。金の巻き毛に翡翠の瞳、白磁の肌に薔薇色の唇。社交界で「咲き誇る百合」と称される美女だ。


「だが、お前はどうだ? いつも薬草の匂いをさせて、爪の間には土が挟まっている。夜会に出れば壁の花。五年も我慢した私を、むしろ褒めてほしいくらいだ」


 嘲笑が広間のあちこちから湧いた。ロゼッタがくすりと笑い、セドリックの腕にしなだれかかる。


「殿下ったら。あまり仰ると、可哀想ですわ」


 可哀想。その言葉が広間にさざ波のように広がった。エリーゼは目を伏せた。


 ああ、そうか。五年間、毎朝暗いうちに起きて、夜明け前の薬草園で大釜に火を入れ、七種の薬草を量り、煮詰め、王都の上水路に浄化薬を流してきた。


 雨の日も、熱を出した日も、一日も休まなかった。その全てが「無駄」だったのだ、この人にとっては。


「ええ。殿下の仰る通りかもしれません」


 深く一礼する。顔を上げたとき、琥珀の瞳に涙はなかった。


「五年間、ありがとうございました。どうぞお幸せに」


 踵を返す。背中に嘲りの声が追いかけてくる。けれどエリーゼは一度も振り返らなかった。大広間の扉を押し開け、長い石造りの回廊を抜け、月明かりの中庭を横切り、王宮の最奥へ向かう。




 薬草園。


 銀色の月光の下に、何百種もの薬草が整然と並んでいた。星明草、紅蓮花、月下蘭、七珠蕨、白鈴草、蒼露苔、金脈根。


 それぞれの区画で、月の光を静かに浴びている。エリーゼが五年間、一株ずつ植え、一枝ずつ手入れし、育て上げた庭だ。王宮の者は誰もここに来ない。この庭が何を意味するのか、知る者はほとんどいなかった。


「最後にこれだけは終わらせないと」


 エリーゼはドレスの裾をたくし上げ、銀の大釜に火を入れた。七種の薬草を決められた順序と量で投じ、三刻かけて煮詰める。聖浄水。王都の上水路に流す浄化薬だ。


 この薬が水に溶け込むことで、疫病の元となる瘴気が中和される。三年前に兆候が出た赤斑熱も、昨年港から入った腐水病も、全てこの薬が未然に防いだ。


 しかし、それを知る者は宮廷にほぼいない。エリーゼの肩書きは「王宮薬草園管理官」。書類上は庭師の延長に過ぎなかった。


「やはりここにいたか」


 低い声に振り返ると、月光の下にクラウス第一王子が立っていた。漆黒の髪に深い紺碧の瞳。王位継承権第一位でありながら政務と学問を好み、社交界にはほとんど姿を見せない。


 けれどこの薬草園には、時折ふらりと足を運んできた。


「殿下。夜会はよろしいのですか」


「途中で出た。……聞いた。セドリックの件だ」


「ああ、もうお耳に。早いものですね」


「エリーゼ。本当にこのまま去るつもりか」


 普段は感情を見せない声に、かすかな揺れがあった。エリーゼは大釜を撹拌する手を止めず、穏やかに答えた。


「もう決まったことですから。殿下にはいつも予算の件でお力添えいただきました。では、この調合が終わりましたら、引き継ぎ書を置いて参りますね」


「引き継ぎ書でどうにかなるのか、この調合は」


「全ての手順を記しました。新任の薬師なら、きっと」


「きっと、か」


 クラウスは何か言いかけ、しかし唇を結んだ。弟の元婚約者に対して、兄の立場でこれ以上踏み込むことは許されない。


「……わかった。だが何かあれば連絡をくれ」


「ありがとうございます、殿下」


 クラウスが去った後、エリーゼは最後の聖浄水を上水路に流し込んだ。銀色の液体が水路を伝い、王都の隅々へ届いていく。五年間、千八百日余り、一日も休まなかった仕事。これで終わりだ。




 翌朝、エリーゼは引き継ぎ書を薬棚に置き、私物を小さな鞄にまとめ、裏門から王宮を出た。正門の衛兵すら、彼女が去ったことに気づかなかっただろう。それほどに、エリーゼという存在は王宮の中で透明だった。


――それから二週間が過ぎた。


 最初の異変は王都南区の貧民街だった。


 井戸水を飲んだ子供が高熱を出し、赤い発疹が全身に広がった。


 翌日にはその家族も倒れ、三日目には隣家にまで伝染した。赤斑熱。かつて王都を幾度も襲った疫病だ。だが直近五年間は影を潜めていたはずの病が、堰を切ったように広がり始めた。


 南区に留まらなかった。一週間で東区の商業地帯にも飛び火し、港区の船乗りたちの間でも発症者が出た。市場は閉鎖され、通りから人影が消え、家々の窓に赤い布――感染者ありの目印――が次々と掛けられていった。


 その頃、セドリック第二王子は気にも留めていなかった。王宮の奥で新しい婚約者ロゼッタと晩餐を楽しみ、舞踏の練習に興じ、疫病の報告が届いても「宮廷薬師団に任せておけ」の一言で片付けた。


 あの地味な婚約者がいなくなって、ようやく自分らしい華やかな暮らしが手に入ったのだ。薬草の匂いを気にする必要も、土だらけの手を見る必要もない。セドリックは今の生活に満足していた。


 だが、疫病は止まらなかった。


 宮廷内でも対策会議が連日開かれた。ある大臣が恐る恐る切り出した。


「……以前の薬草園管理官を呼び戻してはいかがでしょうか。ヴェルナー伯爵令嬢を」


 セドリックが即座に遮った。


「必要ない。たかが庭師一人いなくなったくらいで、国が傾くわけがないだろう。宮廷薬師団に優秀な者はいくらでもいる」


「しかし殿下、現に薬師団では原因すら……」


「くどい。あの女の話はもういい」


 セドリックの声には苛立ちが滲んでいた。自分が切り捨てた女を呼び戻すなど、面目が立たない。それだけが理由だった。


 会議室を出たセドリックは、待たせていたロゼッタと腕を組んで回廊を歩いていった。その背中を、クラウスは黙って見送った。


 疫病はさらに広がった。王都の医師たちは昼夜を問わず走り回り、薬草の在庫は底をつき始めた。寺院には祈りを捧げる人々が溢れ、夜には泣き声が街路に響いた。商店は扉を閉ざし、市場から食料が消え、貴族の屋敷にすら感染者が出始めた。衛兵の欠員が増え、治安も悪化の一途を辿った。


 かつて清潔で賑わっていた王都は、わずか三週間で別の街のように変わり果てた。五年間疫病が起きなかったことを、人々は「当たり前」だと思っていた。それがたった一人の薬師の仕事だったなど、誰も想像もしていなかった。




 三週間目。事態はさらに深刻になった。


「発症者は千二百名を超え、死者は百五十名に達しました」


 宰相の報告を聞いた老王が、玉座の肘掛を拳で叩いた。


「なぜだ。なぜ突然こうなる。ここ五年、一度も起きなかったことではないか」


 クラウスは謁見の間の隅で、黙って拳を握っていた。宮廷薬師団は原因の特定すらできていない。しかしクラウスには、確信に近い心当たりがあった。


 その日の夜、クラウスは一人で薬草園を訪れた。


 かつてエリーゼが丹精込めて手入れしていた庭は、わずか二週間で見る影もなく荒れ果てていた。雑草が区画を侵食し、繊細な薬草は水を絶たれて枯れかけている。銀の大釜には煤がこびりつき、薬棚の瓶は無造作に転がされていた。


 新任の薬師が引き継ぎ書に従って聖浄水の調合を試みたが、七度やって七度失敗したという。薬草の配合は寸分の狂いも許されず、温度管理は一刻ごとの調整を要する。


「このような精密な調合を毎朝一人でこなしていたとは信じ難い」という報告書が、クラウスの執務机に載っている。


 クラウスは枯れかけた星明草の前に屈み、その葉に触れた。


 エリーゼがいつも最初に摘んでいた薬草だ。彼女の荒れた手と短い爪を思い出す。セドリックが嫌ったあの手は、この草を毎朝摘み続けた手だった。


 大釜の傍に、新任薬師が残した走り書きがあった。「配合比率は正確に守ったが、煮沸の段階で必ず分離する。何が足りないのかわからない」。七回の失敗記録が几帳面に並んでいる。エリーゼはこれを五年間、一日も失敗せずにやり遂げていた。


 クラウスは薬草園の隅に住み込んでいた老女中を訪ねた。エリーゼの身の回りを世話していた者だ。


「エリーゼ様は毎朝四刻にお起きになって、暗いうちから大釜の前に立っておられました」


 老女中は目を潤ませながら語った。


「雨の日も、雪の日も、ご自身が熱を出されたときも一日もお休みになりませんでした。お体の具合が悪くても、『今日だけは休めないの』と仰って。あの方がいなくなってから、この庭はすっかり……」


「他に何か気づいたことは」


「ええ。最後の年は特にお辛そうでした。予算がまた減らされたとかで、ご自分のお召し物を売って薬草を買い付けておられました。冬物の外套も手放されて、真冬に薄着で調合なさっていたこともございます」


「誰かに相談はしなかったのか」


「いいえ。一度だけ、私が『どうして上に報告なさらないのですか』とお尋ねしたことがございます。エリーゼ様は少しだけ困った顔をされて、『騒ぎになったら薬草園が閉じられるかもしれないでしょう。それだけは駄目なの』と仰いました。王都の民のことしか考えておられませんでした。ご自分のことは、いつも後回しで」


 老女中が涙を拭った。クラウスは目を閉じた。その光景を想像するだけで、胸が軋むように痛んだ。


 翌日から、クラウスは本格的な調査に入った。


 まず手を打てることを試した。隣国の王立薬学院に急使を送り、聖浄水に類する浄化薬の調合が可能な薬師を派遣してほしいと要請した。


 しかし返答は期待できるものではなかった。「聖浄水の配合は古代の処方に基づくもので、当院にその技術を持つ者はいない。そもそも七種の薬草を同時に制御する技法自体が失伝に近い」。


 王都内の民間薬師にも声をかけたが、引き継ぎ書を見た者は皆、首を横に振った。ある老薬師は書を読んで顔色を変えた。「この工程を毎朝一人で? 正気とは思えぬ。少なくとも三人がかりで一週間訓練してようやく成功するかどうかの代物だ」。


 エリーゼが王宮で果たしていた仕事の異常さが、外部の専門家の言葉によって裏付けられた。


 代替手段が全て断たれた。この国にエリーゼの代わりを務められる者はいない。その事実が、クラウスの中で静かな怒りに変わった。これほどの技術を持つ人間を、宮廷は正当に評価するどころか、嘲笑の的にして追い出したのだ。


 薬草の匂いがする、地味だと。爪に土がある、王妃にふさわしくないと。その「地味な仕事」がなければ今頃この国はどうなっていたか。現にこうして人が死んでいる。


 怒りを力に変えて、クラウスは調査の方向を証拠収集へ転じた。エリーゼを追い出した者たちの目の前に、この真実を叩きつけるために。たった一人の薬師の献身を笑い、蔑み、踏みにじり、捨てたことの代償を、この宮廷全体に思い知らせるために。


 文書庫から過去十年分の王都衛生記録を取り寄せた。黄ばんだ羊皮紙の束を一枚一枚めくり、年ごとの疫病発生件数と死者数を表にまとめる。結果は明白だった。


 エリーゼ着任前の五年間――赤斑熱が三度、腐水病が二度、紫斑症が一度。死者の累計は千六百名を超える。


エリーゼ着任後の五年間――疫病発生件数ゼロ。死者ゼロ。


「まさか……たった一人で、この王都を」


 クラウスは表の数字を何度も見返した。信じ難かった。しかし数字は嘘をつかない。エリーゼの着任と退去を境に、疫病の発生が完全に止まり、そして再発した。


 これは彼女の技術だけが王都十万の命を守っていたことを意味する。一人の薬師の、誰にも評価されない毎朝の仕事が。


 次に会計記録を調べた。


 薬草園の年間予算は二千金貨。しかし実際に薬草園に届いていたのは千四百金貨だけだった。残る六百金貨はメルヴァイン男爵を経由する口座に消えていた。


 帳簿上は「特別薬草調達費」と記されているが、該当する調達実績は存在しない。架空の取引を記録し、五年間で総額三千金貨を私的に流用していた。

 

 王国の衛生を支える予算を食い物にし、その不足をエリーゼ一人に押し付けていたのだ。組織的で、悪質で、そして致命的な横領だった。


 そしてエリーゼは、不足した予算を黙って自分の財で補っていた。持参金、伯爵家からの仕送り、果ては母の形見の装飾品まで売り払い、薬草の購入費に充てていた。五年間の補填総額は三千金貨を超える。ヴェルナー伯爵家が急速に困窮した理由が全て説明がつく。


 彼女は横領を知っていたはずだ。だが告発しなかった。予算争いで薬草園が政争に巻き込まれれば、聖浄水の安定調合が危うくなる。だから全てを飲み込み、自分の身を削って、民の命だけを守ることを選んだ。


 クラウスはヴェルナー伯爵家にも書簡を送り、確認を取った。返信には老伯爵の震える筆跡でこう記されていた。


「娘は王宮の仕事に必要だからと毎年仕送りを求めてきた。我が家の蓄えは底をつき、領地の一部を手放す話まで出ている。しかし娘が何のために金を使っていたのか、今この書簡で初めて知った。あの子は一度も実家に事情を打ち明けなかった。迷惑をかけまいと、一人で全てを背負っていたのだ」


書簡の最後の数行は、涙の痕で滲んで読めなくなっていた。


 クラウスは書簡を閉じ、窓の外の夜空を見上げた。


 五年間の記憶が次々と蘇る。早朝の薬草園で、朝露に濡れた髪のまま大釜の前に立つエリーゼ。夜会で壁際に佇み、誰にも話しかけられないまま微笑んでいたエリーゼ。


 社交界で「地味」「つまらない」と嗤われても、翌朝にはまた薬草園にいた。あの手が、あの笑顔が、何も知らない者たちの命を守り続けていたのだ。


 クラウスはずっとそれを見ていた。見ていたのに、何も言えなかった。弟の婚約者だからと自分に言い聞かせていた。


 ある冬の朝のことを思い出す。薬草園の前を通りかかったとき、エリーゼが素手で凍りついた薬草の根を掘り起こしていた。吐く息が白く、指先は赤く悴んでいた。


 外套を持っていないことに気づいた。売ったのだ。薬草を買うために。声をかけようとして、足が止まった。弟の婚約者だ。他の男が外套を差し出す理由がない。彼女はふいに顔を上げて空を見て、小さく微笑んだ。凍える手を擦り合わせて、また作業に戻った。その笑顔が胸に刺さって、今も抜けない。


 けれど本当は――あの笑顔を自分のものにしたいという感情を、認めることが怖かっただけだ。


 だが、もう黙ってはいられない。


 クラウスは机に向かい、十年分の衛生記録、薬草園の会計帳簿、メルヴァイン男爵の出納記録、エリーゼの持参金払い出し記録、新任薬師の報告書、老女中の証言、ヴェルナー伯爵の返信――全てを一冊の報告書にまとめ上げた。


 表紙に記した題目は「王都衛生崩壊の原因と宮廷不正の全容」。百頁を超える分厚い報告書を手に、クラウスは父王の執務室へ向かった。


「緊急の宮廷会議を開いていただきたい。この疫病の原因と、宮廷内の重大な不正について、全貴族の前で報告する必要があります」


 老王は息子の鬼気迫る表情を見て、即座に頷いた。


 会議の準備を進める三日間、クラウスはほとんど眠らなかった。


 報告書の文言を何度も推敲し、証拠の順番を組み替え、反論の余地を一つ残らず潰した。メルヴァイン男爵は宮廷内に人脈がある。


 セドリックは王族だ。中途半端な告発は揉み消される。だからこそ、一撃で全てを決着させなければならない。これはエリーゼのためだけではない。功労者を見捨て、横領を見過ごし、表面的な華やかさだけを求めてきたこの宮廷の在り方そのものを、白日の下に晒すための戦いだ。


 会議の前夜、クラウスは薬草園を最後にもう一度訪れた。月光の下で枯れかけた七種の薬草を見つめ、銀の大釜に手を置いた。


 エリーゼの手が毎朝握っていた柄杓がまだそこにあった。使い込まれて柄が磨り減っている。千八百回以上この柄杓を振るい、千八百回以上聖浄水を王都に届けた。その全てが一人の薬師の手仕事だった。クラウスは柄杓を握り、小さく呟いた。


「必ず取り戻す」


 それは薬草園のことだけを指した言葉ではなかった。




 三日後。大広間に全貴族が集められた。あの夜会と同じ場所だが、華やかさは欠片もない。疫病で領民を失った地方貴族たちの顔は蒼白で、王家への不信と怒りが広間の空気を重く染めていた。


 セドリックとロゼッタも出席を命じられていた。セドリックは不機嫌そうに腕を組み、ロゼッタは居心地悪げに扇で顔を隠している。二人はまだ何も知らない。この場で何が明かされるのかも、自分たちの足元がすでに崩れ始めていることも。


 宰相がまず疫病の現状報告を行い、薬師団の対応の遅れを説明した。貴族たちの間から不満の声が上がる。


「そもそも五年間は疫病がなかったではないか。なぜ急に」


「その疑問にお答えする」


 クラウスが壇上に立った。普段は決して表に出ない第一王子の登壇に、広間が水を打ったように静まった。


「この五年間、王都の上水路には毎朝、聖浄水という浄化薬が流されていた。調合していたのはたった一人、ヴェルナー伯爵令嬢エリーゼだ。着任前の五年間で千六百名が疫病で死んだ。彼女の五年間で発生はゼロ。そして彼女が去った途端、この事態だ」


 広間がどよめいた。セドリックの顔から血の気が引く。


「加えて、薬草園予算から年間六百金貨がメルヴァイン男爵に横領されていた。エリーゼは私財で補填し続けた。この国を守ることだけを選んだ女性を、我々は嗤い、切り捨てた」


「まさか……」


 貴族たちの視線がセドリックとロゼッタに集中した。


「いえ、私は父のことなど……」


 ロゼッタが震えるが、クラウスが書簡を掲げた。


「横領への加担を示す書簡が出ています」


 ロゼッタの膝が折れた。セドリックが叫ぶ。


「だって、僕は何も知らなかった!」


「五年間、婚約者が何をしていたか一度も聞かなかったのだろう。それが全てだ」


 老王が立ち上がった。


「メルヴァイン男爵を拘束し、セドリックは公務停止。エリーゼ嬢には正式な謝罪と叙勲を行う」


 クラウスは会議の終わりを待たず厩舎へ走った。


 翌朝。ヴェルナー領の小さな屋敷。


 エリーゼは庭の片隅の薬草畑で朝露に濡れた草を摘んでいた。王宮の広大な庭に比べれば猫の額ほどだ。けれど七種の薬草を少しずつ植えてある。手が覚えているから、やめられなかった。


 馬蹄の音に顔を上げると、朝霧の中から黒馬が現れた。飛び降りたクラウスの目の下に濃い隈がある。それでもエリーゼを見つけた途端、その瞳が柔らかく揺れた。


「殿下……? なぜこちらに」


「迎えに来た」


 クラウスはエリーゼの前で片膝をつき、蒼い宝石の指輪を差し出した。


「五年間ずっと見ていた。お前が報われなくても立ち続けていたことを。弟の婚約者だからと何も言えなかった自分が情けない。だが、もう黙らない。エリーゼ、俺の妻になってくれ。お前の力を正しく示せる場所で、俺の隣で生きてほしい」


 五年間堪えていたものが、一気に込み上げた。婚約破棄の夜も泣かなかった。嗤われた日も、私財を削った日も。けれど今、この人の言葉が、凍りついた胸の奥を溶かしていく。


「だって……私は地味で、薬草の匂いしかしない女ですよ」


「それがいい。薬草の匂いのする朝が好きだ。毎朝お前の隣で目覚めたい。五年前からずっとそう思っていた」


 涙が頬を伝った。エリーゼはそれを拭わず、小さく笑った。


「……ええ。喜んで」


 クラウスが立ち上がり、土と薬草で汚れた手を取って指輪を嵌めた。不格好で、けれどこの上なく誇らしい手だと思った。そして二人は朝日の中、王都への道を並んで歩き出した。


 後にエリーゼは王太子妃となり、薬草園は国家事業として十倍に拡張された。セドリックは辺境に左遷され、メルヴァイン家は爵位を剥奪された。


 かつて「地味な薬師」と嗤った相手が国中から敬われる姿を、遠い辺境から聞く日々。それは自業自得というほかない。


 そしてクラウスは約束通り、毎朝エリーゼの隣で目覚め、薬草の香る朝を誰よりも幸せそうに過ごしている。

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