第九話:衝撃と氷の女帝
青木ヶ原のギルド支部は、巨大な倉庫を強引に改装したような無骨な建造物だった。鉄骨がむき出しになった高い天井からは、業務用の大型扇風機が唸りを上げて回転し、探索者たちの熱気と汗、そして魔物の体液が腐敗した独特の獣臭を撹拌している。
俺たちの足元では、コンクリートの床が多くのブーツによって削られ、白く粉を吹いていた。
夕方の混雑時。一獲千金を夢見てダンジョンへ潜り、その結果としての僅かな戦利品を手にした男たちが、換金所のカウンターへ長蛇の列を作っている。
『カズよ、遅いのう。我の腹と背中がくっつきそうじゃ』
足元から、不満たっぷりの念話が脳内に響く。
大型犬ほどのサイズに縮んだフェンが、俺の足に鼻先を押し付けていた。周囲の目があるため、彼女は「従魔」としての演技を徹底している。だが、その尻尾はイライラと床を叩き、俺にだけ伝わる魔力のパスを通して空腹を訴え続けていた。
「もうすぐだ。我慢しろ」
俺は小声で宥めつつ、列の進みを待つ。
周囲の探索者たちの会話が、嫌でも耳に入ってくる。
「今日はシケてたなぁ。ゴブリンの耳が十個だけだ」
「薬代で赤字だよ。くそっ、明日はもっと下まで行かねえと」
「おい見ろよ、あいつ。スーツだぜ」
視線が集まる。
薄汚れた作業着や、継ぎ接ぎだらけの革鎧を着た男たちの中で、ビジネススーツを着込んだ俺は異物そのものだった。もっとも、そのスーツも泥と返り血でひどい有様だが、それでも仕立ての良さだけは隠しきれていないらしい。
「観光客が迷い込んだか?」
「いや、Fランクのタグぶら下げてるぞ。……ああ、噂の『社畜組』か」
「かわいそうになあ。会社に搾取されて、こんな時間まで残業かよ」
嘲笑と、優越感を含んだ同情。
彼らは俺を見て安心しているのだ。自分たちよりも下の存在がいる、という事実に。
俺は表情を動かさず、ただ前だけを見据えた。
彼らの頭上に浮かぶウィンドウ情報など、見る必要すらない。彼らの装備、所作、そして漂わせる覇気のなさだけで、その実力は知れている。
ようやく、俺の番が回ってきた。
カウンターの向こうには、事務服を着た若い女性職員が座っている。彼女の目は死んだ魚のように濁り、機械的な手つきで前の男が持ち込んだ汚い牙をトレイに放り込んでいた。
長時間労働と、荒くれ者たちの相手で疲弊しきっているのだろう。
「次の方、どうぞー。……身分証の提示をお願いします」
彼女は顔も上げずに言った。
俺はポケットから、再発行したばかりのFランクのギルドカードを取り出し、カードリーダーにかざす。
ピリッ、と電子音が鳴った。
「はい、矢崎カズ様ですね。本日の買取希望品をトレイにお出しください。分別はされていますか?」
彼女がようやく顔を上げ、俺の姿を見て一瞬だけ怪訝な顔をした。
スーツ姿のFランク。手には何も持っていない。
あるのは、背中に背負った黒いリュックサックだけだ。
「分別はしていない。全部まとめて頼む」
「はあ……。少量ならそのままで結構ですが、量が多い場合は手数料をいただきますよ?」
「構わない。ここに出せばいいのか?」
俺は『亜空の背嚢』を肩から下ろし、カウンターの頑丈な金属トレイの上に置いた。
職員が小さくため息をつくのが聞こえた。どうせ、ゴブリンの魔石が数個か、薬草の類だろうと思っている顔だ。
「どうぞ。トレイから溢れないように気をつけてくださいね」
彼女の言葉に、俺は内心で苦笑した。
溢れないように、か。それは少し難しい注文かもしれない。
俺はリュックの口を大きく開け、底の部分を持って逆さまにした。
一見すると、普通の登山用リュックだ。
だが、その内部は異次元の空間へと繋がっている。
ゴロリ。
最初に転がり出たのは、握り拳大の赤い結晶だった。
スケルトン・ナイトの胸郭から摘出した、高純度の魔石だ。蛍光灯の光を吸い込み、内側からドクドクと脈打つような輝きを放っている。
「え……?」
職員の目が点になる。
だが、それは始まりに過ぎなかった。
ジャラジャラジャラッ!
堰を切ったように、リュックの口から宝石の奔流が溢れ出した。
赤、青、緑。
様々な色と大きさの魔石が、硬質な音を立てて金属トレイの上になだれ込む。
トレイは一瞬で埋め尽くされ、積み上がった魔石がカウンターの向こう側へ、そして俺の足元へとこぼれ落ちていく。
「ちょ、ちょっと! 待っ、ストップ! ストップです!」
職員が悲鳴に近い声を上げた。
だが、俺は手を止めない。まだだ。まだ『メインディッシュ』が出ていない。
ドサッ!
ゴトッ!
魔石の山の上に、重厚な毛皮の束と、鋭利な爪が落下した。
疾風のワーウルフの毛皮。
そして、深層付近で狩った名もなき魔獣たちの素材。
それらが山となり、カウンターの上に小高い丘を築き上げた。
シン……。
騒がしかったギルドホールが、水を打ったように静まり返った。
扇風機の回転音だけが、やけに大きく響く。
背後に並んでいた探索者たちが、呼吸をするのも忘れて、その光景を凝視している気配が背中に突き刺さる。
「な……なんですか、これ……」
職員の声が裏返っていた。
彼女は椅子から立ち上がり、目の前に積み上がった宝の山を呆然と見下ろしている。
Fランクの探索者が持ち込める量ではない。
いや、そもそもソロの探索者が一度に運搬できる物理的な限界を超えている。
「中層と、その少し奥で拾ったものだ。……全部、買い取ってくれるんだろう?」
俺はリュックを軽く振って、最後の一粒まで絞り出してから、何食わぬ顔で言った。
職員は震える手で眼鏡の位置を直し、それから俺の顔をまじまじと見た。
「や、矢崎様……これ、本当にお一人で? いえ、パーティの方はいらっしゃらないのですか?」
「俺と、そこにいる相棒だけだ」
俺が視線で指示を出すと、フェンが愛想よく尻尾を振った。
職員は混乱の極みといった表情で、俺とフェン、そして素材の山を交互に見ている。
「あ、ありえません……。これほどの量、しかもこの魔石の純度……中層の主クラスのものも混じっていますよ!? Fランクの方がどうやって……」
彼女の常識が、目の前の現実を拒絶しようとしている。
だが、素材はそこに厳然として存在する。
その圧倒的な質量が、全ての疑問をねじ伏せていた。
「どうやって、というのは俺のスキルの話だ。それをギルドに答える義務はないはずだが?」
「あ、いえ! 申し訳ありません! ですが、これほどの量となると私一人では……」
「査定を頼む。急いでいるんだ」
俺が少しだけ声を低くして急かすと、彼女は肩をびくりと震わせ、慌ててインカムに手を当てた。
「し、主任! 応援お願いします! 第三カウンターです! ええ、至急! トラブルではありません、その……異常事態です!鑑定機が足りません!」
数秒後、奥の通用口から、ベテランらしき白髪混じりの男性職員と、数人のスタッフが飛び出してきた。
彼らはカウンターの惨状を見るなり目を剥き、一瞬硬直したが、すぐにプロの顔つきになって作業を開始した。
専用の魔力測定器が次々と運び込まれる。
ピピピ、ガガガ、という電子音が連続して鳴り響き、ギルドホールに響き渡る。
その音を合図にしたかのように、周囲の探索者たちのざわめきが、波紋のように広がり始めた。
「おい、マジかよあれ……」
「ワーウルフの毛皮だぞ。しかも傷がひとつもねえ。どうやって狩ったんだ?」
「あいつ、何者だ? Fランクってのは偽装か?」
「あの犬……言葉を理解しているように見える。ただのペットじゃねえな。もしかして、希少なテイマーか?」
嫉妬、羨望、そして畏怖。
先ほどまで俺に向けられていた、見下すような視線は消え失せ、代わりに得体の知れない怪物を見るような、慎重な視線が注がれている。
心地よい緊張感だった。
俺はもう、彼らに踏みつけられる石ころではない。
十分ほどの時間が、永遠のように感じられた。
やがて、主任と呼ばれた男が、額の汗をハンカチで拭いながら、一枚の伝票をプリントアウトした。
その紙を持つ手が、微かに震えている。
「……お待たせいたしました、矢崎様。査定が完了しました」
男の声は、うわずっていた。
彼は俺に、まるで爆発物を扱うかのように慎重に伝票を差し出した。
「今回の買取金額の合計は……こちらになります」
紙面に印字された数字。
俺は視線を落とした。
『¥6,800,000-』
六百八十万円。
たった半日。
フェンと散歩がてら中層を駆け抜けただけで、俺の年収を軽く超える金額が弾き出されていた。
会社に搾取されていた頃、命懸けで働いて手に入れた月給の、何十倍もの価値。
数字の羅列が、俺の中で意味のある『力』へと変換されていく。
「……悪くない」
俺は短く呟いた。
声に出してみると、不思議と心が落ち着いていた。
狂喜乱舞するわけでもない。当然の結果だという感覚。
レベル99の世界において、金銭の価値などその程度のものなのだと、俺の本能が理解しているのかもしれない。
「即金で払えるか?」
「は、はい! 少々お待ちください! 金庫から現金を……いえ、高額ですので小切手にされますか?」
「いや、現金でいい。とにかく金がいるんだ。……家を借りるためにな」
「か、かしこまりました!」
主任が奥へ走り、分厚い封筒を持って戻ってくる。
中身を確認するふりをして、俺は札束の感触を指先で確かめた。
ずしりと重い。
これが、この世界における力の重さだ。
俺が封筒を懐にしまい、カウンターを離れようとした時だった。
背後で様子を伺っていた探索者の一人が、我慢できなくなったように声を上げてきた。
「お、おい兄ちゃん! あんた、どこのパーティだ? そんなに稼げる穴場、どこで見つけたんだよ!」
その男は、薄汚れたバンダナを巻いた巨漢だった。目は欲にぎらつき、あわよくば情報を引き出そう、あるいは脅してでも奪い取ろうという下心が透けて見える。
俺は足を止め、ゆっくりと振り返った。
視界にウィンドウが浮かぶ。
『氏名:源田生 クズ ランク:D 状態:借金苦、威嚇』
取るに足らない雑魚だ。
俺は口を開かず、ただ静かに彼を見つめた。
威圧スキルなどは使っていない。ただ、レベル99の生物としての格の違いを、視線に乗せただけだ。
食物連鎖の頂点に立つ者が、足元の蟻を見るような目。
「ひっ……!?」
男の顔色が瞬時に青ざめた。
彼は何かに喉元を掴まれたように後ずさり、持っていた斧を取り落としそうになった。
生物としての本能が警鐘を鳴らしたのだろう。
目の前の男に関わってはいけない、と。
「……邪魔だ」
俺が一言だけ呟くと、人垣がモーゼの海割れのように左右に開いた。
誰も声をかけない。
誰も目を合わせようとしない。
俺はフェンを連れて、静寂に包まれたホールを悠然と歩き去ろうとした。
その時だった。
「お待ちください、矢崎カズ様」
凛とした、しかし絶対的な強制力を含んだ声が響いた。
振り返ると、そこには黒いスーツを着た長身の男たちが数人、俺の退路を塞ぐように立っていた。
彼らの耳にはインカム。その身のこなしは、ただの職員ではない。
ギルド直属の警備部門、あるいはさらに上位の――。
「……何の用だ? 換金は終わったはずだが」
俺は警戒し、フェンも足元で低く唸り声を上げる。
男たちの中央が割れ、一人の男が進み出てきた。
「ギルドマスターがお呼びです。ご同行願えますか」
周囲が再びどよめいた。
先ほどの換金の衝撃を上書きするような騒ぎだ。
ギルドマスターからの直接の呼び出し。それは、一般の探索者にとっては雲の上の話であり、重大なトラブルか、あるいは極めて名誉なことの前触れだ。
「断ると言ったら?」
「……推奨しません。それに、これは貴方にとっても、悪い話ではないはずです」
男は丁寧だが、有無を言わせない態度だ。
俺は少し考え、頷いた。
ここで騒ぎを起こすのは得策ではない。それに、これだけの騒ぎになった以上、上層部が出てくるのは予想できたことだ。
話を聞くだけならタダだ。
「分かった。案内してくれ」
俺は男たちに囲まれるようにして、関係者以外立ち入り禁止のゲートをくぐった。
背後から突き刺さる無数の視線を遮断するように、重厚な扉が閉ざされた。
◇
案内されたのは、ギルド支部の最上階だった。
下の喧騒が嘘のような静寂。
長い廊下の突き当たりにある、重厚そうな扉の前で、案内役の男が足を止めた。
「どうぞ。中でお待ちです」
俺はノックをして、扉を開けた。
そこは、壁一面が本棚に覆われた、知的な静謐さに満ちた執務室だった。
空調はかなり低めに設定されており、肌寒いほどだ。
部屋の中央、巨大な執務机の向こうに、一人の女性が座っていた。
金色の髪を完璧にまとめ上げ、一切の乱れも許さないタイトなスーツに身を包んでいる。
眼鏡の奥にある碧眼は、氷河のように冷たく、そして全てを見透かすような鋭さを秘めていた。
青木ヶ原ギルド支部長、エリザ・スチュワート。
『氷の支配者』の異名を持つ、この街の実質的な支配者だ。
「よく来てくれましたね、矢崎カズ様。……いえ、これほどの素材を持ち帰る実力者に対しては、別の呼び名が必要かしら?」
彼女は手元の書類から顔を上げ、薄い唇に微かな笑みを浮かべた。
だが、その目は笑っていない。俺という存在を、値踏みしている目だ。
「ただの矢崎でいい。……それで、要件は? 俺はこれから家を探しに行かなくちゃならないんだが」
俺は臆することなく、彼女の正面にある革張りの椅子に、許可も得ずに腰を下ろした。
以前の俺なら、彼女の放つ圧倒的な「格」の差に当てられて、直立不動で震えていただろう。だが今は、彼女と対等な視線で向き合える。
足元のフェンも、つまらなそうに欠伸をしている。彼女にとっては、人間の権力者など道端の石ころと同じ価値しかないのだろう。
「家、ですか。……ふふ、面白い方です」
エリザは眼鏡の位置を指先で直しながら言った。
「単刀直入に言いましょう。貴方が持ち込んだ素材、特にあのワーウルフの毛皮。……鑑定士からの報告によれば、その切断面があまりにも『綺麗すぎる』と」
彼女は一枚の写真をテーブルに滑らせた。
それは、昨日俺が持ち込んだ毛皮の拡大写真だった。
「切断面に一切の乱れない。まるで、最初からそこで切れることが決まっていたかのように、一撃で断絶されている。……これは、通常のスキルや武器で可能な芸当ではありません」
鋭い。
さすがは腐ってもギルドマスターだ。現場を見ていなくとも、残された結果から事象を逆算してくる。
「それに……貴方の装備」
彼女の視線が、俺の腰にある『竜殺しのダガー』へと向けられた。
その双眸が、鋭く光る。
「ギルドのデータベースと照合を行いましたが、該当なし。形状は数百年前に失われたとされる伝説の武器に酷似していますが……素材の放つ波動が、現代の魔道具とは一線を画しています。まさか、本物ではありませんよね?」
カマをかけてきている。
俺は表情を崩さず、肩をすくめた。
「ただの拾い物だ。運が良かっただけさ。ダンジョンの奥には、まだ誰も知らないガラクタが眠ってることもある」
「運、ですか。……貴方の言う『運』は、随分と都合よく働くようですわね」
エリザは声を立てて笑った。氷が割れるような、冷たくも美しい笑い声だった。
「いいでしょう。貴方の秘密を無理に暴こうとは思いません。探索者にとって、手札の秘匿は命綱ですからね。……ですが、ギルドとしては、その力を野放しにしておくわけにはいきません。特に、そのお隣にいる可愛らしい『わんちゃん』も含めてね」
エリザの視線がフェンに向けられる。
フェンがピクリと耳を動かし、不愉快そうに鼻を鳴らした。
一瞬、部屋の空気が張り詰める。
だが、エリザは動じない。
「そこで、取引をしませんか、矢崎カズ様」
「取引?」
「ええ。貴方は先ほど、家を探しているとおっしゃいましたね? 懐には大金が入っているようですが……一つ、忠告しておきましょう」
彼女は組んだ両手の上に顎を乗せた。
「この街で、本当に安全で快適な住居――例えば、セキュリティが完備された場所を借りるには、金だけでは足りません」
図星だった。
たしかにそれは俺が懸念していたことだった。
「信用、ですか」
「その通り。特に貴方のような、身元がはっきりしない――失礼、つい先日までFランクで、急に大金を手にしたような人物には、まともな不動産屋は部屋を貸しません。犯罪の拠点にされるのを恐れますからね」
痛いところを突かれた。
金があれば何とかなると思っていたが、やはり社会的な信用というのは、そう簡単に買えるものではないらしい。
ブラック企業を追い出された俺は、今となっては単なる無職なのだ。
「そこで、私の提案です。……私が、貴方の身元保証人になりましょう」
エリザが言い放った言葉に、俺は目を見開いた。
ギルドマスターが直々に保証人になる。それは、この街において最強のパスポートを手に入れるに等しい。
「……条件は?」
「ギルドの特別管理下に入っていただくこと。具体的には、『C級への特別昇格試験』を受けていただきます。貴方の実力が本物であると証明されれば、ギルドは貴方を全面的にバックアップします。住居の手配はもちろん、面倒な輩への牽制も」
彼女は俺を戦力として評価し、囲い込もうとしているのだ。
悪い話ではない。ランクが上がれば活動の幅も広がるし、ギルドの後ろ盾があれば、今後も付きまとうであろう雑魚どもの相手をする手間も省ける。
何より、フェンとの安息の地を確保できる。
「……分かった。その話、乗ろう」
俺が答えると、エリザは満足げに頷き、デスクの上のインターホンを押した。
「契約成立ですね。……すぐに不動産部門へ連絡を入れます。最上階のスイートを用意させましょう」
彼女は立ち上がり、俺に手を差し出した。
「ようこそ、こちらの世界へ。……期待していますよ、『銀狼の主』」
俺はその手を握り返した。
冷たい手だったが、その握力は確かな力強さを持っていた。




