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第七話:禁忌の書き換え

 ドアノブに鍵を差し込み、回す。カチャリ、という乾いた金属音が、これまでの喧騒と断絶された静寂への合図だった。

 ドアを開けた瞬間に鼻をついたのは、壁紙に長年染みついたタバコのヤニと、それを無理やり誤魔化そうとする安っぽい柑橘系の芳香剤が喧嘩しているような独特の匂いだった。


 ビジネスホテル『とまり木』、204号室。

 一泊二千円のこの空間が、今の俺たちにとっては何よりの休息地となる。


 六畳一間の狭い空間。

 その壁紙は黄ばみ、所々剥がれかけている。湿気った煎餅のような布団が敷かれたシングルベッドが一つ。部屋の隅には、いつの時代のものか分からない小さなブラウン管テレビが鎮座している。

 窓の外からは、まだ眠りにつかない青木ヶ原市の騒音と、それら全てを沈黙させるように聳え立つ富士山の稜線、そして冷ややかな月が見えた。


「……ふぅ、やっと落ち着けるな」


 俺がドアを閉め、チェーンロックをかけた。

 足元では、銀色の毛並みを持つ大型犬――神獣フェンリルであるフェンが、興味深そうに鼻をひくつかせながら部屋の中を嗅ぎ回っている。


『カズよ、ここが今日の寝床か? なんというか……狭いのう』


 脳内に直接響く念話。フェンは不満げに尻尾を下げ、部屋の中央でくるりと回った。


「文句を言うなよ。雨風をしのげて、足を伸ばして寝られる。それだけで十分だろ。それに、あのダンジョンのカビ臭い穴倉よりはマシなはずだ」


『ふん、まあな。泥の臭いがせぬのは良いことだ』


 フェンはベッドの上にドサリと飛び乗ると、スプリングの感触を確かめるように何度か身体を揺すった。安物のマットレスが、ギシギシと悲鳴を上げる。

 俺は荷物を床に下ろし、ネクタイを緩めた。

 どっと疲れが出た。

 今日一日で起きた出来事は、俺の人生のキャパシティを軽く超えている。裏切り、死の淵、神獣との契約、そして覚醒。

 泥と汗、そして乾いたモンスターの返り血が肌に張り付いて不快だ。


「まずは風呂だ。身体を洗わないと、ベッドに入れないぞ」

『風呂? ああ、人間が好む湯浴みか。……悪くない』


 フェンがベッドの上で身を起こす。


 俺は狭いユニットバスのドアを開けた。

 黄ばんだプラスチックの壁に囲まれた、トイレと浴槽が同居する空間。蛇口をひねると、ガボガボという不穏な音と共に、最初は赤錆の混じった水が吐き出され、やがて透明な湯へと変わっていく。

 立ち込める湯気が、狭い個室を白く塗りつぶしていく。


『よし!カズよ、特別に我の背中を流すことを許そう』


 いつの間にか、浴槽まで入ってきていた、もふもふ――フェンが尻尾を振っている。


「はいはい。お前の毛並みを綺麗にするのは大変だな」

『そこは主であるお主の腕の見せ所であろう?ほら、早く』


 有無を言わせぬ口調と共に、フェンはこちらを見ている。

 狭い。

 人間一人でも窮屈なユニットバスに、成人男性と大型犬サイズの狼が入るのだ。


 俺は衣類を脱ぎ捨て、狭い洗い場でシャワーヘッドを手に取った。

 熱い湯が、頭皮の毛穴の一つ一つを開いていくようだった。

 ダンジョンの泥、モンスターの返り血、そして何より、これまでの世知辛い世の中という牢獄で骨の髄まで染みついた冷たい脂汗。それら全てが、排水口へと吸い込まれていく。


「……あぁ」


 思わず、深い吐息が漏れた。

 生きている。

 心臓が脈打ち、温かい血が通っている。その当たり前の事実を、熱い湯が教えてくれる。


『カズよ、我にもかけろ。そこだ、耳の後ろが痒い』


 浴槽に浸かったフェンが、気持ちよさそうに目を細めて催促してくる。

 濡れた銀色の毛並みは、水分を含んでペタリと肌に張り付いているが、その輝きは失われていない。むしろ、水滴を弾いて宝石のように煌めいている。


「はいはい、神獣様のおおせのままに」


 俺は備え付けの安っぽいボディソープをスポンジにたっぷりと泡立て、フェンの背中を洗い始めた。

 ワシャワシャと泡立てると、柑橘系の香りが浴室に充満する。

 指先を通して伝わってくるのは、強靭な筋肉の張りとしなやかさ。そして、命の温もりだ。

 これが、伝説のフェンリルか。

 こうして洗っていると、ただの大型犬を世話しているような錯覚に陥る。


『んん……そこだ、そこが良い。お主、なかなか良い手つきをしておるな』


 フェンが喉をゴロゴロと鳴らす。猫のような重低音。

 俺はその音を聞きながら、無心になって彼女の身体を洗い続けた。

 尻尾の付け根、四肢の先、そして首周りのふさふさとした毛。

 泥汚れが落ち、白い泡が灰色に変わって流れていく。

 それと一緒に、俺の心にこびりついていた澱のようなものも、少しずつ溶けていく気がした。


「……綺麗になったな」


 シャワーで泡を洗い流すと、そこには月光そのもののような銀狼がいた。

 濡れた毛が照明を反射し、神々しいまでの美しさを放っている。


『うむ。さっぱりした。……やはり湯浴みは良いものだ』


 フェンがブルブルと身体を震わせ、水滴を弾き飛ばす。

 狭い浴室の中で豪雨が発生した。


「うわっ、こら! 拭いてからにしろって!」


 俺はびしょ濡れになりながらも、笑っていた。

 こんな風に誰かと笑い合うなんて、いつぶりだろうか。


 風呂から上がり、バスタオルでフェンの身体を拭く。

 一枚では足りず、二枚、三枚と使い、さらに備え付けのドライヤーを最大出力にして温風を当てる。

 ブォォォォ……という音と共に、濡れて重くなっていた銀糸が、ふわりと空気を含んで極上のふっくらとした状態へと戻っていく。


 モフモフの復活だ。

 ドライヤーを終えたフェンの毛並みは、最高級の羽毛布団すら裸足で逃げ出すほどの弾力と柔らかさを取り戻していた。

 思わず顔を埋めたくなる衝動に駆られるが、今は我慢だ。


「よし、完璧だ。……さて、仕事をするか」


 俺はコンビニで買った缶ビールをプシュリと開け、喉に流し込んだ。

 強烈な炭酸とアルコールが、風呂上がりの体に染み渡る。

 フェンはベッドの上で丸くなり、自分の毛づくろいを始めている。


 俺は『亜空の背嚢』を引き寄せ、中身をベッドの空いているスペースにぶちまけた。

 ゴロゴロと転がり出る、ガラクタの山。

 錆びた金属片、ひび割れた宝石、薄汚れた布切れ。

 はたから見ればゴミの山にしか見えないだろう。だが、今の俺の目――【ラベル閲覧】には、それらがダイヤの原石に見えている。


 だが、俺の手は止まった。

 探していたものがない。


「……ないな」


 魔力回復を助けるようなアイテム、特に俺自身が使えるポーションやスクロールの類を探していたが、めぼしいものは見当たらない。

 現状、俺のMPはフェンからの供給頼みだ。彼女という巨大なタンクが枯渇すれば、俺のスキルも使えなくなる。それは致命的な弱点だ。

 フェンは強力無比だが、彼女だけに頼り切りでは、いつか足元をすくわれる。何より、あの時――大河原たちに裏切られた時のような無力感を、二度と味わいたくない。


 自分のステータス画面を開く。


===================================

 氏名:矢崎 カズ (神獣フェンリルと契約中)

 種族:人間


 レベル:1

 HP:100/100

 МP:0/0(※フェンリルより供給中)

 

 ランク:F

 スキル:【ラベル閲覧】【空間掌握】【魔力共有】

 装備:賢者の小指輪

 装備:部屋着

==================================


 レベル1。

 この数字が、俺の無力さを象徴していた。

 Fランクのゴミ。荷物持ち。使い捨ての駒。

 アイテムを直すことはできても、俺自身の器が小さければ、高出力の魔力に耐えきれず自壊するかもしれない。

 フェンの隣に立つには、俺自身が強くならなければならない。


 ふと、脳裏に閃くものがあった。

 俺は、錆びた鉄屑を『聖剣』へと書き換えた。

 泥まみれの鞄を『魔法の鞄』へと書き換えた。

 物質の『状態』を書き換えることができるなら。

 このステータス画面という、世界が俺に貼り付けた『ラベル』そのものを書き換えることも、可能なのではないか?


 心臓が、早鐘を打ち始める。

 ドクン、ドクン。

 それは禁忌の領域だという警鐘が、本能の奥底で鳴り響く。

 自分自身の存在定義をいじる。失敗すれば、廃人になるか、あるいは存在ごと消滅するかもしれない。


 だが、俺の手は止まらなかった。

 恐怖よりも、渇望が勝った。

 もう、誰にも馬鹿にされたくない。誰にも、大事なものを奪わせない。

 理不尽な世界に抗うには、理不尽な力が必要だ。


「フェン、こっちに来てくれ。……少し、無茶をする」


 俺の声色が変化したのを敏感に察知したのか、毛づくろいをしていたフェンがスッと顔を上げ、ベッドの上を這い寄って俺の正面に座った。


『無茶とは? お主、何をする気だ』


「俺自身の『定義』を変える。……お前の魔力を、ありったけ貸してくれ」


『……ほう。己を書き換えると言うか。面白そうなことをする』


 フェンの赤い瞳が、至近距離で妖しく光る。

 彼女は俺の覚悟を読み取り、ニヤリと笑った(ように見えた)。


『よかろう。我が全て、お主に委ねる。好きに使え、我が主よ』


 頼もしい相棒の言葉と共に、莫大な魔力がパイプを通じて流れ込んでくるのを感じる。

 俺は深く息を吸い込み、【ラベル閲覧】を自分自身に向けた。


 目の前に浮かぶ、俺自身の情報ウィンドウ。

 俺は、その中の『レベル:1』という数字を睨みつけた。

 意識を研ぎ澄ます。

 頭の中で、世界に対するコマンドを打ち込む。


 ――レベル1? ふざけるな。

 ――俺の価値は、そんな数字じゃ決まらない。


 『1』を消す。

 新たな数値をイメージする。

 中途半端な数字はいらない。目指すなら、システム上の上限、頂点だ。


 『99』。


 レベル99。そのイメージを強く貼り付けて、フェンから借りた魔力を全て注ぎ込む。


 ブォンッ!!


 瞬間、脳内で何かが焼き切れるような音がした。

 視界が赤く染まる。


『警告:論理エラー発生』

『対象の経験値履歴が存在しません』

『因果律との矛盾を検知』

『成長プロセスが欠落しています』

『システムの崩壊を防ぐため、処理を中断しています。エラー……エラー……』


 世界が拒絶している。

 それを表現するかのように、無数の赤い警告ウィンドウが視界を埋め尽くし、俺の思考を押し潰そうとしてくる。

 頭が割れるように痛い。全身の血管が沸騰しそうだ。

 世界の修正力が、俺という矛盾を排除しようとしている。


「ぐ、うぅぅぅッ……!」


 歯を食いしばり、口の中に鉄の味が広がる。

 ふざけるな。

 履歴がない? 経験がない? だからどうした!

 過程なんてどうでもいい! 俺が必要なのは、今この瞬間に敵をねじ伏せる『結果』だけだ!

 俺は、俺の人生の主導権を取り戻すんだ!


 俺は警告ウィンドウを思考の彼方へ吹き飛ばした。

 そして、世界の記述権としての権能を、無理やり行使する。


【命令:矛盾を無視せよ】

【命令:結果を固定せよ】

【確定:レベル99】


 カッッッ!!!!


 視界が真っ白に染まった。

 全身の筋肉が、骨が、細胞の一つ一つが、一度分解され、再構築されていくような感覚。

 ミシミシ、バキバキという音が体内から響く。

 貧弱だった筋肉繊維が断裂し、瞬時に鋼のような強度を持って再生する。

 細かった魔力回路が、ダムの放流を受け止める水路のように太く、強靭に拡張される。

 感覚器官の解像度が跳ね上がり、空気中の塵の動きさえも捉えられるようになる。


「ガァァァァァァァッ……!!」


 喉から、人間のものではないような咆哮が漏れる。

 痛みと、快楽と、万能感がないまぜになった絶叫。


 やがて、光が収まった。

 俺はベッドの上で荒い息を吐き、全身から湯気を立ち上らせていた。

 汗が滝のように流れる。だが、疲労感はない。

 身体が軽い。羽が生えたようだ。指先一つ動かすだけで、空気を切り裂くイメージが湧く。


 再びステータス画面を見る。


===================================

 氏名:矢崎 カズ (神獣フェンリルと契約中)

 種族:人間


 レベル:99

 HP:9999/9999

 МP:9999/9999(※フェンリルより供給中)

 

 ランク:F

 スキル:【ラベル閲覧】【空間掌握】【魔力共有】

 装備:賢者の小指輪

 装備:部屋着

==================================


 成功した。

 俺は、世界のルールをねじ伏せたのだ。


『カズ……お主、今……』


 フェンが、信じられないものを見る目で俺を見つめていた。

 彼女は本能で理解したのだ。目の前の男が、一瞬にして『ただの人間』から、自分と同じ次元の『化け物』へと変貌したことを。


「作り変えた。……俺はもう、誰にも負けない」


 俺は自分の拳を握りしめた。溢れ出る力が制御しきれず、周囲の空気がビリビリと震える。


「次は、お前の番だ」


『我もか?』


「ああ。お前も今は不完全な状態だろ? 57なんて数字、神獣様には似合わない」


 俺はフェンに向き直り、彼女のステータスを表示させた。


『レベル:57』


 深層で死にかけていた影響で、本来の力の半分も出せていない状態だ。

 俺は迷わず、その数字に意識を集中する。

 一度成功した感覚があるのだ。道筋は見えている。もう迷いはない。


 『99』。


 ドクンッ!!


 フェンの体が、銀色の光の柱に包まれた。

 部屋の空気が震え、窓ガラスがガタガタと共振する。

 彼女の銀髪が、内側から発光するかのように輝きを増し、その体躯から放たれる魔力が濃密なオーラとなって渦巻く。


『……くっ、うぅぅ……! 力が……力が溢れてくるぞ! 体が熱い!』


 フェンが心地よさそうに目を細め、身をよじる。

 その体が一回り大きくなったように感じられた。筋肉の密度が増し、毛並みの一本一本にまで魔力が満ちている。


 光が収束すると、そこには以前にも増して神々しい雰囲気を纏った銀狼がいた。

 見た目は変わらない。だが、その瞳の奥に宿る光と、内包するエネルギー量は、桁違いに跳ね上がっていた。


===================================

 氏名:フェン

 種族:神獣


 レベル:99

 HP:99999/99999

 МP:99999/99999

 

 スキル:【ラベル閲覧】【空間掌握】【魔力共有】


 好感度:信頼している(おいしいものをくれる)

 状態:契約中(矢崎カズ)

 状態:絶好調

 装備:なし

==================================


「……凄まじいな」


『カハハ! なんだこれは! 全盛期どころの話ではないぞ! 今の我なら、星すら噛み砕ける気がするわ!』


 フェンが歓喜のあまり、俺に飛びついてきた。


 ドスンッ!


 重量感のあるタックル。だが、レベル99になった俺の身体は、その衝撃をしっかりと受け止めた。

 胸元に顔をうずめ、スリスリと甘えてくる銀色の塊。

 柔らかい感触と、爆発的な魔力の圧力が同時に押し寄せる。


「おい、落ち着け。暴れるとホテルが倒壊するぞ」


『カズ、お主は天才か! 愉快、実に愉快だ! これなら魔王である父上とも殴り合えるかもしれん!』


 はしゃぐフェンを何とか宥め、俺は安堵と共にどっと疲れが出た。


「さて、これで戦力の不安はなくなった。……最後にもう一つだけ、仕上げだ」


 俺はベッドの上に残された、最後のガラクタを手に取った。

 黒い煤と油汚れにまみれた、古びた紐のようなもの。

 だが、俺の『神の目』となった【ラベル閲覧】は、その真の姿を捉えていた。


『名称:銀月の首飾り』

『ランク:A-』

『状態:汚染・呪い(微弱)』

『効果:精神安定、状態異常耐性(中)、着用者の魅力を引き立てる』


 俺は指先で汚れを拭いながら、静かにスキルを発動する。

 今の俺にとって、この程度の書き換えは児戯に等しい。


【状態:最高品質への研磨】

【付与:絶対守護】


 カッ。

 光と共に、黒い煤が霧散した。

 現れたのは、細い白金のチェーンと、その先に揺れる三日月形のペンダントトップ。

 素材はミスリル銀。薄暗い部屋の中で、そこだけが清浄な月光を宿しているかのように輝いている。

 三日月の中央には、燃えるような赤色の宝石が埋め込まれていた。


『……ん? なんだそれは。キラキラして、目障りな』


 俺の手元を覗き込んだフェンが、興味なさそうに、しかし視線は釘付けのまま言った。

 分かりやすい奴だ。光り物に目がないのは、カラスも狼も変わらないらしい。


「フェン、ちょっとじっとしてろ」


『な、なんだ。急に改まって』


「首元、失礼するぞ」


 俺はフェンの首に手を回した。

 ふさふさとした極上の毛並みをかき分け、その下にある温かい首筋に触れる。

 白金のチェーンを回し、カチリと留め具を止める。


 俺が手を離すと、かき分けた毛が戻り、その隙間から銀の月が輝いた。

 胸元に揺れる三日月の中央にある赤い宝石が、彼女の瞳と共鳴するように輝く。

 銀色の毛並みに、赤と白金がよく映えていた。

 まるで最初から彼女のために作られたかのように、誂えたように似合っている。


「……やっぱりな。ぴったりだ」


『……これは、我にか?』


 フェンが首をかしげ、自分の胸元にあるペンダントを前足で器用に触れようとする。


「ああ。装備品としての効果もある。『精神安定』と『状態異常耐性』だ。それに、さっき俺が『絶対守護』も書き加えておいた。どんな攻撃からもお前を守るし、汚れも弾く。……これで、泥んこ遊びをしても安心だな」


 俺は冗談めかして言ったが、本音は違う。

 ただ、彼女に贈りたかったのだ。

 地獄の底で俺を拾い上げ、生きる意味をくれた彼女に。

 俺が初めて手に入れた力で、形に残る感謝を示したかった。

 首輪、という意味ではない。これは、俺たちの絆の証だ。


『絶対守護……か。大層な名よの』


 フェンは少しの間、黙って首飾りを見下ろそうとしていたが、自分ではよく見えないらしい。

 彼女はベッドから飛び降り、部屋にある姿見の前へと移動した。

 鏡に映る自分――銀色に輝く狼の姿と、その首元で揺れる赤い宝石。

 彼女は右を向いたり、左を向いたりして、その輝きを確認している。


『ふむ……悪くない。我の瞳と同じ色だ。……センスだけは褒めてやろう』


 鏡越しに目が合う。

 彼女の尻尾が、ブンブンと音を立てて振られているのが見えた。

 言葉ではツンとしているが、全身で喜びを表現している。

 その姿が愛らしくて、俺は思わず破顔した。


「気に入ってくれたなら何よりだ」


『ふふん、主がどうしてもと言うなら、着けてやらんこともないぞ。……大事にする』


 最後の言葉は、とても小さな声だったが、確かに聞こえた。


 時計を見ると、深夜二時を回っていた。

 レベルアップによる興奮は残っているが、体は急速に休息を求めている。

 細胞レベルでの作り変えを行ったのだ、当然だろう。


「寝るぞ、フェン。明日は忙しくなる」


 俺は電気を消し、ベッドに潜り込んだ。

 狭いシングルベッドだ。男一人が寝るのがやっとのスペース。

 だが、すぐにその余白は埋められた。


 ドサッ。


 重みと共に、巨大な温かい塊が乗ってきた。


『カズよ、狭いのう』


「お前が乗ってくるからだろ。……向こうに行けよ」


『嫌だ。ここが暖かい』


 フェンは俺の隣、というよりは俺の上に半身を乗せるようにして丸くなった。

 背中に感じる、極上のモフモフ感。

 顔を横に向けると、そこには銀色の壁がある。

 俺は観念して、その毛並みに顔を埋めた。

 甘い花の香りと、陽だまりのような匂いがする。


 ドクン、ドクンという彼女の心音が、直接伝わってくる。

 これは、どんな高級な寝具よりも、俺に安眠を約束してくれる最強の抱き枕だ。

 いや、俺が抱き枕にされているのかもしれないが。


「……おやすみ、フェン」


『うむ。よい夢を、我が主』


 意識が、深い闇へと落ちていく。

 だがそれは、かつて感じていた孤独な絶望の闇ではない。

 明日への希望と、絶対的な相棒の体温に満ちた、穏やかな休息の闇だった。


 レベル99のステータス。

 最強の装備。

 そして、この温かい背中。

 今の俺たちに、恐れるものなど何もない。


 明日は、反撃の狼煙を上げる日だ。

 待っていろ、世界。

 俺たちは、もう誰にも止められない。

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