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第六話:帰還の路、銀の温もり

 岩壁を登り切った先には、そこには地底の無機質な空気とは違う、生命の気配が満ちていた。

 まとわりつくような湿度が急激に上昇している。

 地下深層の研ぎ澄まされた刃物のような冷気とは違う。ここにあるのは、淀んだ水と苔、そして閉塞感が充満した、生温かく濃厚な大気だ。


 そこは既に見知ったダンジョンの中層エリアだった。


「ふん、空気が不味いな。下のほうがまだマシだったぞ」


 フェンが不愉快そうに鼻を鳴らす。

 確かに、ここには欲望と欺瞞に満ちた人間たちの臭いが染み付いている気がした。


 青木ヶ原ダンジョン、中層エリア。


 視界を覆うのは、頭上を圧迫する低い岩盤の天井と、迷路のように入り組んだ灰色の壁だ。壁面には不気味なほど巨大化した苔や蔦がびっしりと張り付き、大気中の魔力を燃料とした、ダンジョン特有の照明が、ここがかつては人の手が入ろうとした場所であることを示している。


「……戻ってきたな」


 俺は深く息を吸い込み、肺の中の空気を入れ替えた。

 カビ臭い土の匂いと、微かに混ざる獣の排泄物や腐肉の臭気。

 これこそが、探索者たちが命を削り、金を稼ぐ現場の匂いだ。

 数日前、俺が絶望と共に突き落とされた場所。あの時と同じ、逃げ場のない狭い通路。

 だが、今踏みしめている地面の感触は、あの時とは決定的に違っていた。


 俺の視界には、常に半透明のウィンドウが浮かんでいる。


『名称:ダンジョンの岩肌』

『構造:天然洞窟(一部補強あり)』

『注意:落盤の兆候なし』


『環境情報:湿度88%、通気性:低』

『周辺敵性反応:半径50メートル以内の通路に3体』


 世界が、その内側をさらけ出している。

 以前は、どこに足を置けばいいのか、曲がり角の先に何が潜んでいるのかさえ分からず、大河原たちの背中に隠れてビクビクしながら歩いていた。

 だが今は、この入り組んだ迷宮の構造が、立体地図のように頭の中に浮かび上がる。

 先が読める――つまりは安全が確保できるということだ。


「カズよ、ここは、随分とむさ苦しいのう」


 足元から、不満げな声が上がった。

 視線を落とすと、大型犬サイズに収縮した銀色の毛玉――フェンが、その美しい銀毛をテラテラと光らせている。


「ああ。人間にとっては、ここが稼ぎ場であり、死に場所でもある。狭くて逃げ場がないからな」

「死に場所か。……ふん、確かに淀んだ臭いがする。だが、それ以上に欲の臭いが鼻につくわ」


 フェンは赤い瞳を細め、暗い通路の奥を睨みつけた。


「行こう。地上まではまだ距離がある」


 俺は一歩を踏み出した。

 その瞬間、足裏に鋭い痛みが走った。

 思わず顔をしかめる。

 見れば、俺の足は泥と血にまみれていた。革靴は落下の際に行方不明になり、靴下も擦り切れてボロ布同然だ。深層からの脱出劇でアドレナリンが出ていたため無視できていた痛みが、緊張の緩和と共に一気に押し寄せてきたらしい。

 小石や岩の破片が、容赦なく素足に食い込む。


「……っ」


 痛みを堪えて歩こうとした俺を見て、フェンが立ち止まった。

 彼女は呆れたように大きなため息をつくと、くるりと俺の方へ背中を向けた。


「乗れ」

「え?」

「聞こえなかったか? 乗れと言っておるのだ、我が背に」

「いや、でもお前、今はその……犬サイズだろ? それに、ここは狭いぞ。大きくなったらつっかえる」

「誰が犬だ! それに、我の『空間掌握』を甘く見るなよ。この程度の隙間、どうとでもなるわ」


 フェンが低く唸ると、その輪郭がぼんやりと発光した。

 光が晴れると、そこには体高一メートル半ほどの、堂々たる巨狼の姿と化していた。

 この通路いっぱいになるサイズだが、不思議と圧迫感はない。彼女の周囲の空間そのものが、彼女に合わせているようにすら見えた。


「ほら、早くせよ。腹が減って力が出ぬのだ」

「……悪いな。恩に着る」


 俺は遠慮なく、その銀色の背中に跨がらせてもらった。

 驚くほど柔らかい。

 極上の毛皮が俺の体を優しく受け止め、その下にある強靭な筋肉が、頼もしい熱を伝えてくる。


「しっかり捕まっておれよ。舌を噛んでも知らぬぞ」


 フェンが地面を蹴った。


 ジェットコースターだった。

 入り組んだ洞窟内を、フェンは速度を落とすことなく駆け抜けていく。

 迫りくる岩壁、天井から垂れ下がる鍾乳石。それらを、紙一重の動きで回避し、壁を蹴り、天井を走り、三次元的な軌道で突き進む。

 俺の動体視力では捉えきれない景色が、流れる線となって後方へ飛び去っていく。


 速い。だが、揺れはほとんどない。

 一歩進むのに数秒かかり、泥濘に足を取られて転びそうになっていた悪路を、今は疾風となって駆け抜けていく。


(……こんなに、単純な構造だったか?)


 ふと、そんな感想が漏れた。

 あんなに複雑で、恐ろしく、出口の見えない迷宮だと感じていた中層エリア。

 それが今、フェンの背に乗り、俺の【ラベル閲覧】で俯瞰すると、ただの少し曲がりくねった一本道のように感じられる。

 俺が変わったからか。

 それとも、隣にいる相棒の存在が大きすぎるからか。


 俺はフェンの首元の毛を、ぎゅっと握りしめた。

 温かい。

 この体温だけが、今の俺にとっての絶対的な真実であり、世界と俺を繋ぎ止める命綱だった。



 フェンの脚力をもってすれば、地上への道のりはそう遠くないはずだった。

 だが、ここは一本道の洞窟だ。

 敵と遭遇すれば、それはすなわち『鉢合わせ』を意味する。


「グルルッ……」


 フェンが低く喉を鳴らし、急ブレーキをかけた。

 狭い通路の前方を塞ぐように、複数の影がたむろしていた。


 豚の顔をした亜人、オークの集団だ。

 五体、いや六体か。

 手に手に錆びた斧や棍棒を持ち、鼻息を荒くしてこちらを威嚇している。逃げ場のない通路で遭遇した彼らの体からは、逃げ場のない悪臭が漂っていた。


『種族:ハイ・オーク』

『ランク:C』

『状態:興奮、通路封鎖』

『推定戦力:群れ全体でBランク相当』


 Cランクのハイ・オーク。

 かつて俺が所属させられていた底辺パーティなら、遭遇した時点で絶望するしかない状況だ。

 それが群れを成して道を塞いでいる。


「カズ、どうする? 踏み潰して通るか?少々狭いが」

「いや、無駄な戦闘は避けたい。お前も腹が減ってるだろうし、俺もヘトヘトだ。それに、こいつらの肉は臭くて食えたもんじゃない」


 俺は冷静に、視界に浮かぶ情報を解析した。

 オークたちの配置、彼らの持つ武器のリーチ。


『弱点解析完了』

『対象集団の構造的弱点:指導個体リーダーの喪失によるパニック』

『リーダー個体識別:最前列中央、右耳欠損個体』


 なるほど。

 群れを統率しているのはあいつか。通路のど真ん中で仁王立ちしている、右耳が欠けた個体。


 俺はフェンの大きな耳元で囁いた。


「真ん中の、耳が欠けてる奴がいるだろ。あいつが頭だ。あいつだけに殺気を叩きつけてやれ。他の奴らは無視していい」

「ほう? 雑魚を間引く手間が省けるというわけか。よかろう」


 フェンが一度だけ、大きく息を吸い込んだ。

 狭い洞窟内の空気が、彼女の肺へと収束していく。


「ガァッ!!」


 物理的な咆哮ではない。

 それは、圧縮された空気の塊のような、鋭い殺意の弾丸だった。閉鎖空間である洞窟内に、その衝撃は何倍にもなって反響する。

 フェンの視線が矢となって、リーダーのオークを直撃する。


 ピギィッ!?


 リーダー個体が、見えない巨大な拳で殴られたかのように吹き飛んだ。

 背後の岩壁に激突し、白目を剥いて泡を吹き、地面に崩れ落ちる。

 一瞬の静寂。

 残された手下たちは、何が起きたのか理解できず、ただ震えながら壁際へとへばりついた。


「通るぞ」


 フェンが静かに、しかし王者の風格で一歩を踏み出す。

 それだけで十分だった。

 絶対的な捕食者を前にして、オークたちは武器を取り落とし、蜘蛛の子を散らすように通路の脇へと退避し、震えながら道を譲った。


「……ふん、口ほどにもない」

「さすがだな。睨んだだけで終わりかよ」

「王たるもの、いちいち羽虫の相手などしておれんわ」


 フェンは得意げに鼻を鳴らし、再び速度を上げた。

 俺は背中の上で苦笑する。

 戦わずして勝つ。これこそが、俺たちが目指すべき『最強』の形だ。


 しばらく進むと、洞窟の構造が徐々に変化してきた。

 岩肌の湿り気が減り、人工的に削られた跡や、補強用の鉄骨などが目立ち始める。

 浅層エリア、そして入り口に近い証拠だ。

 と同時に、別の気配も増えてくる。


 人の気配だ。


「……カズ、人間がいるぞ。あちこちに」

「ああ、わかってる」


 【ラベル閲覧】が、入り組んだ通路の向こうに点在する反応をレーダーのように拾っていた。


『種族:人間(探索者)』

『パーティ名:暁の翼』

『状態:休息中(横穴)』


 ここはまだ中層だが、入り口に近いエリアだ。

 フェンの姿は目立つ。銀色の狼、しかもこのサイズだ。狭い通路で鉢合わせれば大騒ぎになる。


「フェン、サイズを戻してくれ。ここからは歩きだ」

「む……仕方ないのう。もう少しで外だというのに」


 フェンは速度を緩め、暗い横穴の陰に入ったところで体を縮小させた。

 再び、大型犬ほどのサイズに戻る。

 俺は彼女を背中から降ろし、自分の足で地面に立った。

 ズキリ、と泥だらけの足が痛むが、我慢だ。


「他の連中に見つからないように、なるべく気配を殺して行くぞ」

「コソコソするのは性分ではないが……まあ、主の命とあらば従おう」


 俺たちはメインの通路を避け、地図にないような細い亀裂や、崩落しかけの旧坑道を選んで進んだ。

 途中、岩陰の隙間から、あるパーティの姿が見えた。

 若い男女の四人組。ランタンを囲み、楽しそうに談笑している。

 装備はピカピカに磨かれ、彼らの顔には希望と野心が満ちている。

 かつての俺が、遠くから羨望の眼差しで眺めていただけの物語の『主人公』たちだ。


(……あいつらには、今の俺がどう見えるんだろうな)


 薄汚れた敗残者か。それとも、正体不明の不審者か。

 ランタンの明かりが、今の俺にはひどく遠い世界の出来事のように感じられた。


「カズ?」

「なんでもない。行くぞ」


 今はまだ、彼らと交わる時ではない。

 俺にはやるべきことがある。



 洞窟の出口が見えてきたのは、外が完全に夜の帳に包まれた頃だった。

 前方に、ぽっかりと開いた巨大な穴が見える。そこから、冷たい夜風と共に、本物の月明かりが差し込んでいた。


「やっと着いた……」


 俺たちは警戒を解かずに、岩陰から外の様子を伺った。

 かつて賑わっていた観光用の広場は、今は探索者たちの駐車場兼、資材置き場となっている。

 だが、深夜に近いこの時間は、人の気配はほとんどない。数台のトラックと、居眠りをしている警備員の詰め所が遠くに見えるだけだ。

 これなら、検問や面倒な職務質問を受けずに済みそうだ。


「フェン、外だ。だが、まだ油断するなよ。ここは人間のテリトリーだ」

「ふん、分かっておる。……しかし、やっとあのカビ臭い穴から出られるのか」


 俺たちは音もなく洞窟の開口部を抜け、アスファルトで舗装された広場へと足を踏み出した。



 外の空気だった。

 洞窟内の湿った澱んだ空気とは違う、富士の裾野を吹き抜ける乾いた夜風が頬を撫でる。

 見上げる夜空には、本物の満天の星空が広がっていた。

 そして背後には、黒々とした巨大なシルエット――富士山が、月光を背に鎮座している。


「……帰ってきた」

「ここが外か」


 フェンが目を細めて星空を見上げる。

 遠く、樹海を抜けた先の方角に、街の灯りが小さく瞬いているのが見えた。

 東京のような不夜城ではない。だが、ダンジョン特需で栄えた、富士山麓の拠点の街だ。


「街へ降りるぞ。まずは、腹ごしらえと宿だ」

「肉! 肉を忘れるなよ!」

「わかってるって」


 俺たちは樹海を貫く県道を、街へ向かって歩き出した。

 途中、フェンに背負ってもらい、風のように森を駆け抜ける。


 やがて、文明の光が近づいてきた。

 樹海を切り開いて作られた太いバイパス道路の先――それはまさに不夜城のような輝きだった。

 東京のような洗練された輝きではない。もっと下品で、ギラギラとした原色のネオンサインの集合体。


 青木ヶ原市。


 かつては過疎化が進む静かな地方都市だった場所だ。

 だが、ダンジョンの出現と共に、ここは『ゴールドラッシュ』の最前線へと変貌した。

 一攫千金を夢見る探索者、彼らを目当てにした商売人、そして欲望に群がるハイエナたちが集まり、膨れ上がったダンジョン特需の街。



 青木ヶ原市の夜は、深夜でも独特の熱気を発していた。

 街の入り口付近には、巨大なトラックが列を成して行き交っている。ダンジョンから運び出された資源を、都心や海外へ輸送するための大型車両だ。排気ガスの臭いと、建機の駆動音が絶え間なく響いている。


 大通り沿いには、二十四時間営業の素材買取所、探索者向けの武具店、そして『即日現金化』『高価買取』と書かれた派手な看板が乱立していた。

 その隙間を埋めるように、赤提灯を下げた居酒屋や、派手な衣装の女性が立つ風俗店が軒を連ねている。

 命を賭けて稼いだ金を、その日のうちに酒と女と博打で溶かす。そんな刹那的な空気が、アスファルトからの熱気と共に立ち上っていた。


 俺たちは人目を避けるように路地裏を選んで歩く。

 足元のアスファルトは所々ひび割れ、補修工事の跡だらけだ。急激な都市化にインフラが追いついていないのだろう。

 小石を踏むたびに裸足の足裏に痛みが走るが、その痛みさえも、今は心地よい現実感の一部だった。


 コンビニの明かりが前方に見える。

 その手前で、俺はふとポケットを探った。

 財布はない。あの日、全て会社に置いてきたか、あるいは落下の衝撃でどこかへ消えたか。

 無一文だ。それどころか、身分証やスマホすら今はない。


「……しまった」

「どうした? 肉がないのか?」

「いや、金がない。換金所に行かないと」


 俺は記憶を検索した。

 この近くに、探索者向けの二十四時間営業の自動換金機があったはずだ。レートは少し悪いが、背に腹は変えられない。


 路地裏にある、使い込まれたATMのような機械の前へ。

 落書きだらけの筐体が、薄暗い街灯の下で鈍く光っている。

 周囲に人がいないことを確認し、俺は背嚢から比較的小さな魔石を一つ取り出した。

 中層で拾った、そこそこの純度の魔石だ。赤く脈打つような光を放っている。


 機械のトレイに乗せる。

 ウィーン、ガチャン。


『査定金額:100,000円』


 悪くない。

 以前の俺なら、Fランクダンジョンで一日中泥まみれになって集めたクズ魔石で、ようやく数千円だった。

 それが、道端で拾ったような石ころ一つでこれだ。

 力の差が、そのまま経済格差になる世界。

 俺はその不条理さを、今度は利用する側に回ったのだ。


 吐き出された紙幣を掴み取る。

 久しぶりに触れる現金の感触。インクと手垢の匂いがする薄い紙切れ。

 これで、とりあえずの衣食住は確保できる。


「よし、行くぞフェン。まずはコンビニだ」

「こんびに? それは肉の種類か?」

「食料庫みたいなもんだよ。お前の好きなチキンもある」


 街道沿いのコンビニに入ると、白い蛍光灯の暴力的なまでの明るさに目が眩んだ。

 店内には、泥だらけの作業着を着た探索者たちがたむろしており、床は泥汚れで黒ずんでいる。だが、そんなことよりも、店の外で待たせている相棒からの『念話』が、俺の脳内をガンガンと揺さぶっていた。


『カズ! なんだこの香りは! この暴力的なまでの脂と香辛料の匂いは!』

『……頼むから脳内に直接叫ばないでくれ。ただのホットスナックだ』

『ほっとすなっく? 魔法の呪文か!? おい、我慢できぬ! そのガラスケースの中にある黄金色の塊をよこせ! 全部だ!』


 自動ドアのガラス越しに、フェンが前足をカリカリとかきながら、恨めしそうにホットスナックのケースを凝視しているのが見える。その瞳は、獲物を狙う肉食獣そのものだ。

 俺はため息をつき、カゴを手に取った。


「……すみません。このフライドチキン、あるだけ全部ください。あと、フランクフルトと肉まんも五個ずつ」


 店員の眠そうな目が、驚きで見開かれる。

 だが、俺の注文はそれだけで終わらない。フェンの底なしの胃袋と、自分自身の飢餓感を満たすため、俺は陳列棚を端から荒らす勢いで商品をカゴに放り込んでいった。


 唐揚げ弁当、ハンバーグ弁当、カツ丼。

 おにぎりは鮭、昆布、ツナマヨを鷲掴み。

 サンドイッチに、デザートのシュークリーム。

 水2リットルのペットボトルと、タオルや下着などの日用品。さらには、ビジネス用シューズまで購入した。そのサイズは俺にあったものではあったが、コンビニで売られている安物だ。


 カゴ一つでは収まりきらず、二つ目のカゴが山盛りになる。

 会計は五万円近くになった。先ほど換金したばかりの全財産の二分の一近くが、一瞬で食料へと消えた計算だ。


「……買いすぎたか?」


 レジ袋二つを両手に下げて店を出ると、待ち構えていた銀色の影が飛びついてきた。


「遅いぞカズ! 貴様、我を餓死させる気か!」

「悪かったって。ほら、死ぬほど食わせてやるから」


 俺たちは駐車場の隅、街灯の明かりが届かない車止めに腰を下ろした。

 袋からフライドチキンを取り出す。包み紙を開けた瞬間、スパイシーな香りが夜の空気に弾けた。


「ほら」


 差し出した瞬間、フェンは包み紙ごと食いつきそうな勢いで、それをひったくった。

 ガツガツ、ムシャムシャ。

 野性味あふれる咀嚼音。


「……うまい! なんだこれは! 衣はカリカリで、中から肉汁が溢れ出してくる! 魔物の肉より美味かもしれん!」

「ジャンクフードっていうんだ。身体には良くないが、魂には効く」

「次だ! 次はどれだ!? その黒い海苔が巻かれた塊か!?」

「はいはい、順番にな」


 フェンはまるで雛鳥のように口を開けて待っている。

 俺は次々と封を開け、唐揚げを、フランクフルトを、おにぎりを彼女の口へと放り込んでいく。

 大量の食料が、魔法のような速度で消えていく。


 俺も自分の分の唐揚げ弁当を開き、冷めた白飯と揚げ物をかっこんだ。

 味の濃いタレと脂が、疲労した体に染み渡る。

 生きている。

 その実感が、過剰なカロリーと共に胃袋を満たしていく。


「ふぅ……食った食った」

「うむ、悪くない。人間界の飯というのも、なかなか侮れんのう」


 空になったプラスチック容器の山を見下ろし、フェンが満足げに舌なめずりをする。

 結局、買った食料の八割は彼女の胃袋に収まった。


「さて、腹も満ちたし寝床を探すか」


 俺が向かったのは、街外れにある探索者崩れや訳ありの人間が集まる安宿街だ。

 かつての農地を潰して建てられた、プレハブ同然のアパートや簡易宿泊所が密集しているエリア。

 薄汚れた看板が並ぶ一角。


 『ビジネスホテル とまり木』

 『一泊 2000円〜』

 『探索者歓迎 長期滞在割引あり』


 ここなら、おそらくペット連れでも、追加料金を払えば、文句は言われないはずだ。

 俺はそのホテルのドアへと向かう。



 自動ドアが開くと、カビ臭い空気が漂ってきた。

 フロントに座っていたのは、無愛想な老婆だった。テレビのバラエティ番組を見ながら、煎餅をかじっている。

 俺の姿を見ても、眉一つ動かさない。ここでは、血まみれの客など珍しくもないのだろう。


「一部屋。あと、こいつも一緒だ」

「……犬はプラス千円だよ。部屋を汚したら弁償だからね」

「わかった」


 先ほどの紙幣をカウンターに置く。

 鍵を受け取り、狭い階段を登る。

 壁紙は剥がれかけ、床のカーペットには何かのシミがついている。かつて会社の寮にいた時よりもひどい環境かもしれない。

 だが、ここでの俺は、誰からの指図も受けない立場だ。


 204号室。

 その場所へ向かった。


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【悪役令嬢/もふもふ/スローライフ】
追放令嬢が拾った伝説の魔獣は、食いしん坊な黒猫でした。 ~「不敬だぞ!」と怒る最強魔獣を、ご飯とブラッシングで完全攻略しました~


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