第四話:邂逅と契約、そして覚醒
意識が戻ったとき、最初に感じたのは強烈な吐き気だった。
次いで、全身を万力で締め上げられるような鈍痛。まるで内臓の位置がすべてずれてしまったかのような不快感に、俺は呻き声を上げ、重たい瞼を無理やり押し上げた。
暗い。だが、完全な闇ではなかった。
視界の端で、青白い燐光が揺らめいている。
目を凝らすと、それは天井も知れぬほど巨大な空洞の壁面に、びっしりと張り付いた発光苔だった。それらが放つ微弱な明かりが、広大な地下空間の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
「……生きているのか」
乾いた唇から漏れた声は、掠れていた。
俺はゆっくりと上体を起こそうとするが、背中から悲鳴のような痛みが走り、再び地面へと倒れ込む。
地面は柔らかかった。指先を沈めると、湿った感触が伝わってくる。何百年、何千年と降り積もった巨大な菌糸と腐葉土の層が、分厚いクッションとなって落下の衝撃を吸収してくれたらしい。
運が良かった。いや、あの高さから落ちて助かったのだ。幸運という言葉だけでは片付けられない確率だろう。
俺は数度の深呼吸で痛みを散らし、よろめきながら立ち上がった。
スーツはあちこちが破れ、泥と自分の血でどす黒く汚れている。足元を見ると、革靴は両方ともなくなっていた。
俺は裸足を引きずりながら、周囲を見回した。
そこは、地上の常識が通用しない異界だった。
見上げるような巨岩が牙のように突き出し、地底湖の水音がどこからか響いている。
人工的なものは何一つない。ただ、圧倒的な自然の造形と、濃密すぎる魔素が渦巻く、ダンジョンの最深部と呼ばれる場所なのかもしれない。
目的などない。地上へ戻るルートも分からない。
ただ、ここに留まっていても飢え死にするだけだ。
生存本能という名の残り火だけが、俺の足を前へと運ばせていた。
ペタ、ペタ、と裸足が湿った岩肌を叩く音が、虚しく反響する。
どれくらい歩いただろうか。時間の感覚が麻痺し始めた頃、前方の空間がわずかに開けた場所に出た。
吸い寄せられるように、俺はそこに向かって歩いた。
「なんだ、あれは……」
そこは、輝く結晶に囲まれた広場だった。
その中心にある平らな岩の上に、『それ』は横たわっていた。
最初は、銀色の岩だと思った。
だが、違う。
月光をそのまま織り込んで紡いだような、美しい銀色の毛並み。
巨大な狼だった。
フェンリル。
神話やゲームの中だけの存在だと思っていた、伝説の魔獣。
その威容は、たとえ横たわっていても圧倒的だった。もし立ち上がれば、体高は数メートルに及ぶだろう。
本来なら、遭遇しただけで腰を抜かし、地面に頭を擦り付けて命乞いをするような相手だ。
だが、今の俺に恐怖はなかった。
なぜなら、その狼は瀕死だったからだ。
美しい銀色の毛並みは、どす黒い液体で無残に汚れていた。
腹部には、巨大な何かに抉られたような深い裂傷があり、内臓を庇うように身体を丸めている。
誰かと正々堂々と戦って負けた傷ではない。騙し討ちだ。無防備なところを狙われ、罠に嵌められ、抵抗できない状態で一方的に痛めつけられた傷跡。
俺は、ふらふらと狼へと足を向けた。
近づくにつれ、狼の巨大な瞼がわずかにピクリと動くのが見えた。
『……グルルル……』
喉の奥から、濡れたような低い威嚇音が響く。
だが、それには殺意よりも、深い怯えと不信という主張が濃く滲んでいた。
その薄く開かれた瞼の奥から覗く、ルビーのように赤い瞳。
そこにある感情を、俺は知っていた。
絶望。孤独。そして、信じていた世界すべてに対する憎悪。
ああ、同じだ。
俺が、あのとき。大河原たちに裏切られ、背中を蹴られ、ゴーレムの群れの中に突き落とされたとき。俺もきっと、こんな目をしていたに違いない。
「……お前も、一人なのか」
俺はポツリと呟き、その場にドサリと腰を下ろした。
巨大な銀色の身体に背中を預ける。
ゴワゴワとした毛並みからは、血の匂いに混じって、不思議と甘い、花のような香りがした。
『ガッ……!』
残った気力を振り絞り、狼が牙を剥く。俺の首を噛み千切ろうとする動き。
だが、その速度はあまりにも遅く、力がない。
それでも、俺はそれを避けなかった。
もはや、彼女の命の灯火が消えるのは時間の問題だった。内臓は破裂し、魔力の源である心臓部も弱りきっている。誰がどう見ても『助からない』状態だ。
「痛えな……何もしないよ。ただ、座らせてくれ」
俺は手を伸ばして、狼の頬に触れた。
冷たい。死が、すぐそこまで迫っている感触。
その時だった。
頭の中に、普段使っているあの『メモ帳』スキルが、勝手に起動しようとする感覚がした。
『……エラー。対象の解析不能……』
『……高位存在を確認。干渉レベルを引き上げます』
【状態:死にゆくモノ(修復不可)】
――なんだ、これ。
まるで壊れかけのARグラスをかけた時のように、狼の身体の上に『文字』が浮かび上がっていた。
それは薄汚れた紙切れのような見た目で、彼女の身体にベタリと張り付いている。
それが、世界が彼女に下した『決定事項』なのだと、なぜか直感的に理解できた。
(……ふざけるな)
俺の中で、どす黒い反骨心が鎌首をもたげた。
会社に捨てられ、仲間に裏切られ、今また、目の前で同じように傷ついた存在が、世界の理不尽なルールによって消されようとしている。
死にゆくモノ? 修復不可?
誰だ、そんな勝手なレッテルを貼ったのは。
(そんなふざけたラベル……俺が剥がしてやる)
無意識だった。
俺は頭の中で、その汚いラベルを『メモ帳』で塗りつぶした。
いや、違う。俺は、新しい言葉を書き殴っていた。
――死ぬな。生きろ。
俺の意思が、脳内で変換される。
俺のスキル『メモ帳』が、ただの記録媒体から、別の何かへと変質していく感覚がした。
俺は、その虚空に浮かぶその文字列の上から、新しい認識で上書きする。
【状態:生存】
空間が悲鳴を上げた。
まるで水と油を無理やり混ぜ合わせたような、強烈な反発作用。
世界が「彼女は死ぬはずだ」と主張し、俺の上書きした情報が「いや、生きている」と否定する。二つの真実が衝突している。
「ぐ、うぅぅッ……!」
脳漿が沸騰するような頭痛。
だが、俺は記述を止めなかった。
その強引な『上書き』が完了した瞬間――。
カッ!
狼の身体が、まばゆい銀色の光に包まれた。
抉れていた腹部の肉が、時間を巻き戻したかのように盛り上がり、塞がっていく。溢れ出ていた血が止まり、枯渇していた魔力が回復していく。
それは治療ではない。
「健康である」という結果を、世界に無理やり定義させたことによる、因果の改変だった。
「う、わっ……!?」
衝撃で後ろへ弾き飛ばされる。
光が収束していく。巨大な狼のシルエットが、徐々に小さく、凝縮され、人の形へと変化していく。
やがて、光が晴れた。
そこにいたのは、一人の少女だった。
流れるような銀髪は、地面に広がるほど長く、光の粒子を纏って輝いている。
肌は陶器のように白く、血管が透けて見えそうなほど透明感がある。
何も身につけていないその姿は、神々しいまでの美しさを放っていた。
致命傷だったはずの傷跡は、跡形もなく消え去っている。
少女が、ゆっくりと瞼を開ける。
そこにあるのは、あの狼と同じ、燃えるような紅蓮の瞳。
だが、その瞳は見開かれ、信じられないものを見るように俺を凝視していた。
「……な、なぜだ」
鈴を転がすような声が震えている。
「なぜ、我が癒えている……? あの傷は、魂そのものを腐らせる呪いの一撃だったはず。治癒魔法など通じぬ、確定した『死』であったはずだ」
彼女は自分の身体をペタペタと触り、そして俺を見た。
その視線には、警戒心を超えた、畏怖と好奇心が入り混じっていた。
「お主……今、何をした?」
「……何って」
俺は朦朧とする意識の中で答える。
「気に入らない張り紙があったから……書き直しただけだ」
「書き直した……だと?」
少女は呆気にとられた顔をし、次の瞬間、楽しそうに口元を歪めた。
「ククッ……、カハハハハ! 面白い。実に愉快な男だ!」
彼女は笑った。それは狂気ではなく、心からの歓喜のようだった。
「世界の理そのものに札を貼り、定義を書き換えるとは! 神域の御業か、あるいは悪魔の欺瞞か。……しかもそれを、無自覚に行うとはな」
彼女は立ち上がり、ふわりと宙に浮いたかのように俺の目の前へと移動してきた。
至近距離で覗き込まれる。
甘い香りが鼻孔をくすぐる。
「それに……お主、気づいておらぬのか?」
「え……?」
「先ほど、お主の魂が我に触れた時、干渉を感じたぞ。お主の持つその力……『王』の資質などという生温かいものではないな。もっと根源的な、世界を侵食する『支配者』としての才覚だ」
「……?俺のスキルは、ただのメモ帳だぞ……?」
「メモ帳? くくっ、そうか、お主にはそう見えているのか。世界を、好き勝手にできる筆が。……実に勿体ない」
彼女はニヤリと笑い、俺の頬に冷たい手を添えた。
「名は、なんと申す」
「……矢崎カズだ」
「カズか。よい名だ。……カズよ、責任を取ってもらおうか」
彼女の顔が近づく。
拒否する理由など、どこにもなかった。俺は一人では無力だ。彼女もまた、俺がいなければ死んでいたかもしれない。
何より、この底知れぬ孤独な場所で、彼女の手の冷たさだけが現実だった。
「責任?」
「そうだ。確定していた我の『死』を、お主が勝手に『生』へと書き換えたのだ。ならば、この拾った命、お主が使い潰すまで面倒を見てもらうぞ」
フェンは俺の瞳を覗き込み、誘うように囁いた。
「契約せよ、カズ。我がお主の剣となり、盾となろう。その代わり、お主は我に全てを捧げよ」
「契約……」
それは悪魔の囁きか、それとも女神の救済か。
どちらでもよかった。今の俺には、彼女の手を取る以外に道はない。
「ああ、分かった。俺の命でいいなら、好きに使え。……どうせ、ここで終わるはずだった命だ」
俺が答えると、彼女は満足げに微笑んだ。
それは、これまで見たどんな宝石よりも美しい笑顔だった。
「よき返事だ。……我が主よ。我の名はフェンリル。だが、カズは『フェン』と呼ぶがいい」
彼女の唇が、俺の唇に重なった。
柔らかい感触。
その直後、心臓を直接掴まれたような、強烈な衝撃が全身を駆け巡った。
ドクンッ!!
熱い。体内を、マグマのようなエネルギーが逆流してくる。
俺のちっぽけな魔力回路が、彼女の底なしの魔力によって強引にこじ開けられ、拡張されていく感覚。
血管が焼き切れそうだ。脳細胞が沸騰する。
魂が、書き換えられていく。
「ぐ、がぁぁぁぁぁッ!!」
俺は絶叫した。
視界がスパークする。世界が割れる。
俺の意識の中で、何かが音を立てて砕け散り、そして組み変わっていく。
バチバチバチッ!
目の前に、無数の光の文字が走った。
『システム権限リクエスト……承認』
『外部魔力リソース【神獣フェンリル】との接続を確認』
『ユニークスキル【メモ帳】のアップデートを開始します』
『……リソース充足。ロックを解除』
『概念干渉レベル……上昇』
『情報解像度……最大化』
『再構築中……再構築中……完了』
『成功。スキル【ラベル閲覧】が顕現しました』
機械的なアナウンスが脳内に直接響く。
同時に、身体中を蝕んでいた痛みが、嘘のように引いていった。
流れ込んできたフェンの魔力が、俺の傷ついた細胞、骨、神経を、瞬く間に修復していく。
俺は膝をつき、荒い息を吐いた。
汗が滝のように流れる。だが、身体は軽い。かつてないほどの力が、指の先まで満ち溢れているのを感じる。
顔を上げる。
世界が変わっていた。
いや、風景は同じだ。だが、見え方が決定的に違っていた。
岩壁、地面、そして目の前に立つフェン。
あらゆるものの上に、半透明のウィンドウのようなものが浮かんでいる。
『名称:ダンジョンの岩盤(深層)』
『材質:魔素硬化岩』
『状態:極めて硬い』
『弱点:音波振動に脆い』
情報だ。世界を構成するデータが、すべて視覚化されている。
これまで俺のスキル【メモ帳】は、ただ自分のステータス画面上で、文字を書いて貼り付けるだけの、子供の落書きのようなゴミだった。
だが、これは違う。世界の側から、俺にその秘密の真実をさらけ出してきている。
「……見える」
俺は震える手で、自分の身体を見た。
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氏名:矢崎 カズ (神獣フェンリルと契約中)
種族:人間
レベル:1
HP:100/100
МP:0/0(※フェンリルより供給中)
ランク:F
スキル:【ラベル閲覧】【空間掌握】【魔力共有】
装備:ボロボロのスーツ(靴なし)
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視線をフェンに向ける。
彼女の頭上にも、ウィンドウが浮かんでいた。
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氏名:フェン
種族:神獣
レベル:57
HP:20000/20000
МP:20000/20000
スキル:【ラベル閲覧】【空間掌握】【魔力共有】
好感度:興味津々(変な男を見つけた)
状態:契約中(矢崎カズ)
補足:お腹が空いている
装備:なし
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思わず、口元が緩んだ。
神獣様も、空腹には勝てないらしい。
「どうしたのだ、カズ。目が泳いでいるぞ? 契約の負荷でおかしくなったか?」
フェンが心配そうに、長い銀髪を揺らして顔を覗き込んでくる。
その赤い瞳は、先ほどの孤独な色ではなく、新しいおもちゃを見つけた子供のように輝いていた。
「いや、なんでもない。ただ、世界が少しクリアになっただけだ」
俺は立ち上がり、拳を強く握りしめた。
力はある。相棒もいる。
そして、敵を知り、世界を知るための『目』も手に入れた。
まだ、あの「書き換え」が何だったのか、どうすればまた使えるのかは分からない。だが、少なくとも今の俺は、ただのゴミじゃない。
これなら、やれる。
俺をゴミのように捨てた連中。俺を搾取し続けた会社。
俺を見下し、嘲笑ったすべてを、この底の底からひっくり返してやる。
「行くぞ、フェン」
俺が手を差し出すと、フェンは嬉しそうに目を細め、俺の手に自分の手を重ねた。
その瞬間、彼女の姿が光に包まれ、一瞬にして銀色の狼の姿へと戻った。ただし、先ほどの巨体ではなく、大型犬ほどのサイズだ。
「ふぅ……やはり人の姿は、スースーして落ち着かぬな」
そんなことを言いながらも、俺の足に身体を擦り付けてくる毛並みの感触は、確かに温かかった。
もう、寒くはない。
俺たちは歩き出した。




