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第三十話:書き換えられた世界

 視界が赤い。

 自分の血で目が曇っているのか、それとも夕暮れ時の新宿がそう見せているのか、判別がつかなかった。

 呼吸をするたびに、肺が焼き石を飲み込んだように熱く、重い。

 地面に縫い付けられた四肢は感覚を失い、泥と瓦礫の中に埋没している。


 ヴォルグが背を向けた。

 その背中は、あまりにも無防備で、そして雄弁だった。

 俺など脅威ではない。

 路傍の石ころがつまずきの原因にならないよう、少し避けて歩く程度の認識。

 彼が指先ひとつで作り出した透明な箱の中には、フェンがいる。

 銀色の狼は、檻の中で暴れていた。

 前足で激しく壁を叩き、鋭い牙で噛みつこうとしている。

 その瞳から、雫がこぼれ落ちているのが見えた。

 悲痛な遠吠えを上げているのだろう。

 音は聞こえないが、その姿が『逃げて』と訴えているのは痛いほど分かった。


 ふざけるな。

 誰が逃げるか。

 誰が、置いていくか。


 俺は、かつての日々を反芻する。

 数字という名の暴力に殴られ続け、人格を否定され、ただ消費されるだけの部品だったあの日々。

 そこから俺を引っ張り上げてくれたのは誰だ。

 冷え切った俺の孤独に、土足で踏み込んできて、温かいスープのような居場所を作ってくれたのは誰だ。


 あいつだ。

 あの銀色の、生意気で、食いしん坊で、世界で一番優しい狼だ。


 それを奪う?

 連れ戻す?

 俺の目の前で?


「……俺の……」


 喉から、ヒューという音が漏れる。

 重力の檻が、俺の言葉を押し潰そうとする。

 だが、思考までは潰せない。

 俺の意識は、肉体の痛みを切り離して、冷徹に回転を始めていた。


 この空間において、ヴォルグの定めたルールは絶対だ。

 外部からの干渉、つまり俺の魔力を使った書き換えは拒絶される。

 ならば、リソースを変えればいい。

 外部エネルギーではなく、この空間の内部に存在するエネルギー。

 つまり、俺自身の「命」だ。


 俺は視界の端に浮かぶ、自身のステータスウィンドウを凝視した。

 そこにある【HP】という項目。

 それは単なる数値ではない。

 俺という存在をこの世界に繋ぎ止めている、根源的なソースだ。

 これを燃やす。

 魔力へと変換し、強引に「記述」を行う原資とする。


「……フェンに、触るなッ!」


 咆哮と共に、俺は着火した。

 体内にある導火線に火をつけた感覚。

 直後、血管の中をマグマが走り抜けたような激痛が全身を駆け巡った。


 バキバキバキッ!


 乾いた音が、身体の内側から響く。

 右腕の骨が、過剰な負荷に耐えきれず悲鳴を上げ、皮膚を突き破って裂けた。

 鮮血が噴水のように舞い上がる。

 だが、俺は動じない。

 痛みは情報に過ぎない。

 重要なのは、この対価によって得られた「権利」だ。


 俺の右腕から溢れ出した血が、地面に落ちる前に蒸発し、赤黒い文字の羅列へと変わる。

 それはヴォルグの支配する空間定義に、強引に割り込む病原体のような割り込み方だ。

 

 対象は一点。

 あの透明な箱。

 『絶対隔離結界』。


 【 定義:外部干渉の完全遮断 強度:∞ 】


 このふざけた文字列を、俺の命を削った定義で塗り潰す。

 左目の視界が、プツリと暗転した。

 視神経が焼き切れたか。

 構わない。

 右目があれば、標的は見える。


 書き換えろ。

 その定義を、もっとも脆く、もっとも儚いものへ。


 【 定義:外部干渉の完全遮断 】

  ↓

 【 定義:極薄の硝子細工 】


 【 強度:∞ 】

  ↓

 【 強度:1 】


 完了。

 思考と現象が直結する。

 世界が、ギシギシと音を立てて改変されていき、新しい形へと嵌まり込んだ。


 その異変に、ヴォルグが気づいた。

 数歩進んだ先で、彼は違和感を覚えたように立ち止まる。


「……む?」


 彼が箱を支えている指先に、微細な亀裂が走った。

 ピキ、という小さな音。

 それは、静寂に包まれた公園の中で、不気味なほど鮮明に響いた。


「なッ!?」


 ヴォルグが驚愕に目を見開く。

 その整った仮面のような表情が、初めて崩れた。

 あり得ない、という顔だ。

 自分が構築した論理、神にも等しい絶対的なルールが、何の前触れもなく書き換えられていることへの困惑。


 だが、その隙を、中の彼女が見逃すはずがなかった。


 パリンッ!


 盛大な破砕音と共に、透明な箱が粉々に砕け散った。

 ダイヤモンドよりも硬いはずの結界が、まるで砂糖菓子のように空中で四散し、キラキラとした光の粒子になって消えていく。


 その中心から、爆風のような魔力が噴出した。

 ヴォルグが耐えきれずに数メートル後退する。

 解き放たれた銀色の影が、地面に着地した。


 フェンだ。

 だが、その姿は、俺がいつも撫でている愛らしい狼のものではない。

 

 彼女は、俺を見ていた。

 血まみれになり、右腕が異様な形にねじれ、泥の中に倒れている俺を。

 その紅蓮の瞳が、限界まで見開かれている。


『カズ……?』


 念話による震える声。

 それは恐怖ではない。

 悲しみでもない。

 理解を超えた光景に対する、純粋な問いかけ。


 俺は、残った左目だけで彼女を見て、ニヤリと笑ってみせた。

 口の端から血が垂れる感覚がある。

 酷い顔をしているだろう。

 デートの最中だというのに、こんな姿を見せてしまって申し訳ない。


「……へへ。……割れたな」


 俺の軽口が、彼女の何かに火をつけた。

 フェンの全身の毛が、怒りで逆立つ。

 地面に食い込んだ爪が、アスファルトをバターのように切り裂いている。


 彼女の視線が、俺からヴォルグへと移動した。

 その瞬間、周囲の気温が十度以上、急激に低下した。

 いや、物理的な気温ではない。

 彼女から放たれる殺気が、大気を凍らせているのだ。


『貴様……』


 地底から響くような低い唸り声。

 

『私が捕まったことなど、どうでもよい。父様の命令? 魔界の都合? そんなものは知ったことではない』


 彼女の足元から、銀色の光が渦を巻いて立ち昇る。

 それは公園の木々を薙ぎ倒し、アスファルトを捲り上げ、天を衝く柱となった。


『だが……よくも』


 光の中で、彼女の輪郭がさらに強く輝く。

 神話に語られる災厄そのものとしての覇気が、周囲の空間を圧倒していく。


『よくも、私のカズを! 私のために、傷つく必要のないあやつを! ここまでボロボロにしてくれたなああああああッ!!!」


 絶叫のような咆哮。

 それは空を引き裂き、新宿の高層ビル群の窓ガラスを一斉に振動させた。

 光が弾ける。

 そこに現れたのは、怒れる神獣フェンリルそのものだった。

 その毛並みは一筋一筋が魔力の奔流であり、呼吸をするたびに口元から青白い雷光が迸っている。


 ヴォルグは、顔を引きつらせながらも、優雅さを保とうと努めていた。

 帽子を被り直し、冷や汗を拭う。


「……おやおや、フェンリル様。いよいよ獣の本性を現しましたね。しかし、そのままでは、城の広間には入れませんよ」


『黙れ、下郎』


 フェンリルの一声で、衝撃波が発生する。

 ヴォルグは片手を前に突き出し、空間障壁を展開した。


「威勢が良いのは結構ですが、お忘れですか? ここは私の領域。貴女がいかに強大な力を持とうとも、私の定義した『防御』を突破することは――」


 ヴォルグの前に、何重もの幾何学模様が浮かび上がる。

 絶対防御の術式。

 物理、魔法、概念、あらゆる攻撃を無効化する最強の盾。


 俺は、泥の中で指を動かした。

 まだだ。

 まだ、俺の仕事タスクは終わっていない。

 フェンが全力を出せるように、邪魔な障害を取り除く。

 それが俺の役目だ。


 俺は残りのHPを確認する。

 

 【 HP:12/100 】


 風前の灯火。

 だが、十分だ。

 あと一回。

 あと一回だけ、書き換える。


 俺は再び、自身の命を燃やした。

 今度は、内臓が溶け出すような感覚に襲われる。

 口から、大量の血塊を吐き出した。

 視界が明滅し、意識が遠のきそうになるのを、奥歯を噛み砕くことで繋ぎ止める。


 見ろ。

 あいつの盾を。

 あいつが過信している、あの障壁を。


 【 対象:ヴォルグの多重空間障壁 】

 【 属性:物理無効・魔法反射 】

 【 硬度:SSS 】


 立派なスペックだ。

 だが、俺が修正を入れる。

 

 『強制書き換えを実行』


 俺の血が、再び空中に文字を刻んでいく。

 ヴォルグはフェンに気を取られ、足元の瀕死の人間になど注意を払っていない。

 それが、お前の敗因だ。


 書き換えろ。

 その堅牢な城壁を、ただの紙切れへ。


 【 硬度:SSS 】

  ↓

 【 硬度:紙   】


 【 属性:物理無効 】

  ↓

 【 属性:可燃性 】


 記述完了。

 同時に、俺の意識を繋いでいた糸が、プツリと切れそうになった。

 だが、最後までは見届ける。

 俺の最高傑作である彼女が、あの気取った男をぶっ飛ばす瞬間を。


 フェンリルが、大地を蹴った。

 その巨体が、質量を無視した速度で加速する。

 銀色の閃光となり、ヴォルグへと肉薄する。


 ヴォルグは余裕の笑みを浮かべていた。

 自分の盾が絶対であると信じて疑わない。


「無駄です。その爪は、私には届か――」


 ズパァァァンッ!!


 小気味よい音が響いた。

 ヴォルグの展開した多重障壁が、濡れた半紙を指で突いた時のように、呆気なく破れた音だ。

 ヴォルグの目が点になる。

 防御術式が、何の抵抗もなく引き裂かれ、フェンリルの巨大な爪がそのまま彼の胴体へと深々と食い込んだ。


「は……?」


 ヴォルグの口から、間の抜けた声が漏れる。

 次の瞬間、彼の体はボールのように弾き飛ばされた。

 公園の木々を十本以上へし折り、瓦礫の山へと突っ込む。


「ガハッ……!? な、なぜだ……私の障壁が……なぜ……!?」


 瓦礫の中から這い出してきたヴォルグは、自身の胸に刻まれた三本の深い爪痕を見て、狼狽していた。

 青い血が流れている。

 再生能力を発動しようとするが、傷口が焼けるように熱く、塞がらない。

 フェンリルの爪には、神威が宿っている。

 生半可な再生など許さない、絶対的な破壊の権能。


 フェンリルが、ゆっくりと彼に歩み寄る。

 その一歩ごとに、地面が揺れる。

 彼女の喉の奥から、低く、重い唸り声が漏れていた。

 それは言葉としての意味を成していなかったが、感情は痛いほど伝わってきた。

 

 『許さない』

 『よくもカズを』

 『消えろ』

 『消えろ』

 『消えろ』


 ヴォルグは、迫りくる死の化身を前に、初めて恐怖という感情を思い出したようだった。

 後ずさりし、背中が倒壊した街灯にぶつかる。


「ま、待て……! 話し合おう、フェンリル様! これは魔王様のご意志で――」


『父様にも伝えておけ』


 フェンリルが、大きく口を開けた。

 その口腔内に、膨大な魔力が収束していく。

 周囲の空間が歪み、光さえも吸い込まれていく。

 銀色の粒子が圧縮され、臨界点を超えた高エネルギー体へと変化する。


『私の居場所は、私が決める。そして私のカズを傷つける者は――神だろうが魔王だろうが、この牙で噛み砕くとなッ!!』


 『銀狼波フェンリル・ハウリング』。


 解き放たれたのは、咆哮という名の破壊光線だった。

 銀色の奔流が、ヴォルグを飲み込む。

 彼は悲鳴を上げる間もなかった。

 その存在が、細胞の一つに至るまで光に分解され、新宿の空へと消えていく。

 光の帯はそのまま直進し、公園の彼方にある高層ビルの上層部を消滅させ、夜空の雲を一直線に切り裂いた。


 圧倒的な静寂。    

 俺は、その光景を薄れゆく意識の中で見ていた。  

 すごいな。  

 やっぱりフェンは最強だ。  

 あんなすごいのが、いつも俺に「お腹すいた」って甘えてくるんだから、人生分からないものだ。


 ヴォルグの消滅と共に、彼が展開していた異界のルールが霧散していく。  

 俺を地面に縫い付けていた重力の檻も消えた。  

 だが、体の自由は戻らない。  

 代償として支払ったHPは戻ってこないからだ。


 寒い。  

 指先の感覚がない。  

 心臓の鼓動が、ゆっくりと、頼りなく打っているのが分かる。


 俺の体は支えを失い、重力に従ってゆっくりと前へ傾いた。  

 地面が迫ってくる。  

 受け身を取る力も残っていない。


 ああ、まずいな。  


 俺の意識はそこで、プツリと途切れた。


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【悪役令嬢/もふもふ/スローライフ】
追放令嬢が拾った伝説の魔獣は、食いしん坊な黒猫でした。 ~「不敬だぞ!」と怒る最強魔獣を、ご飯とブラッシングで完全攻略しました~


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