第三話:遺棄と落下
湿り気を帯びた冷風が、頬を撫でていく。
視界を覆うのは、鬱蒼と茂る原生林と、それを侵食するように露出した灰色の岩盤だ。
青木ヶ原ダンジョン。
かつて観光名所として知られた樹海は、大崩落とともに異界の迷宮へと姿を変えた。地表部分は比較的安全な初心者向けエリアとされているが、地下へと続く空洞――通称『中層』より先は、生息するモンスターが劇的に変化する危険地帯だ。
ズシリ、と肩に食い込むベルトが、皮膚を擦り剥くような痛みを訴えている。
背負っているのは八十キロ近い物資だ。水、食料、予備の武器、テント、解体道具、そして魔石を保管するためのケース。
一歩踏み出すたびに、足首が悲鳴を上げ、太ももの筋肉が焼き切れるように熱くなる。
だが、足を止めることは許されない。
「オイ、テメェ! トロトロ歩いてんじゃねェよ!」
背後から、ネズの罵声が飛んできた。
同時に、硬いブーツの先で脛を小突かれる。
「あ、ぐっ……!」
「荷物持ちが遅れると、俺たちの行軍ペースが乱れんだよ。わかってんのか、ゴミ」
「……すみません。すぐに」
よろめきそうになる体を、意思の力だけで強引に立て直す。
ワイシャツはすでに汗で背中に張り付き、革靴は泥にまみれて本来の色を失っていた。
会社から支給された安物のスーツで来る場所ではない。
だが、彼らは俺に探索者用の装備を許さなかった。『道具に金はかけない』という、大河原の方針だ。
「あーあ、マジで湿気やばいんだけどぉ。肌ベタベタするし、最悪ぅ」
マミが手のひらで自分の顔を仰ぎながら、不機嫌そうに声を上げる。
彼女の軽装の防具は、周囲の瘴気から身を守るための魔力的な結界を張っているはずだが、それでも不快感は拭えないらしい。
「我慢しろよマミ。今回のヤマを当てれば、エステでも何でも行き放題だぜェ?」
先頭を歩く大河原が、マチェットで邪魔な蔦を払いながら振り返る。
その顔には、これから手に入るはずの富への執着が張り付いていた。
「ここ数日、中層エリアでのミスリル発見の報告が増えてる。しかも、まだ大手が手をつけてねえ穴場だ。俺たちがごっそり頂けば、一気にC級昇格も見えてくる」
「さすが大河原さん! 目の付け所が違いますねェ!」
ネズがすかさず追従する。
俺は荒い呼吸を整えながら、足元の悪い岩場を慎重に進んだ。
大河原の言う『穴場』という響きに、胸の奥で警鐘が鳴っていた。
大手が手をつけていない場所には、二つの理由がある。
一つは、資源的な価値がない不毛の地である場合。
もう一つは――リスクがリターンを上回る、危険な領域である場合だ。
「……あの大河原さん」
俺は、乾いた喉を鳴らして声をかけた。
「あぁん?荷物が勝手に喋ってんじゃねェぞ」
「誰も手をつけていない場所ということは、何か危険性があるということです……」
「ああ?てめぇ、俺に指図するってか?」
大河原は、俺の方へと大股で近づいてきた。
見上げるような巨躯から放たれるのは、圧倒的な威圧感と、弱者をいたぶることを好む嗜虐的な気配だ。
「なめてんじゃねーぞ!!!」
大河原の大声とともに、俺は吹き飛ばされた。
持っていた荷物ごと、俺の身体はダンジョンの床にたたきつけられる。
「うぐぅ…」
思わず、口から空気が漏れた。
そんな俺の様子を周囲の『仲間』がニヤニヤと笑っていた。
「お前は黙って荷物を運んで、罠を踏んでろ、カス。Fランクの素人が話しかけるな」
反論は許されない。
いや、違う。
こいつらは動物だ。だから、俺の真っ当な話に反論ができなくなると、つい手が出てしまうのだろう。
再び歩き出した三人の背中を見つめながら、俺はゆっくりと立ち上がる。そして、乱れた呼吸を整えた。
思考を停止させてはいけない。
理不尽な状況に感情をすり減らすのは無駄だ。今はただ、周囲の状況を観察し、生存確率を少しでも上げるための情報を集めることだけに集中する。
岩肌の様子が変わってきた。
先ほどまでの湿った苔生した壁面とは違い、乾燥してひび割れた岩盤が目立ち始めている。
足元の土も、粘土質から砂利交じりの乾いたものへと変化していた。
そして何より――静かすぎる。
先ほどまで聞こえていた、小型の蟲や鳥型の魔獣の鳴き声が、ピタリと止んでいた。
生物の気配がない。
それは、このエリアに『他の生物を寄せ付けない何か』が存在することを示唆している。
(……おかしい)
嫌な汗が背筋を伝う。
だが、先行する三人はその変化に気づいていないようだった。
大河原は地図アプリを開いた端末を片手にニヤつき、ネズとマミは下品なジョークを飛ばし合って笑っている。
彼らの慢心は、正常性バイアスによって補強されていた。
『これまで大丈夫だったから、これからも大丈夫だ』という根拠のない自信。
カツン。
不意に、硬質な音が洞窟内に響いた。
石と石がぶつかるような、あるいは金属が擦れ合うような、冷たく重い音。
「……ん?」
大河原が足を止める。
ようやく彼も異変に気付いたらしい。
だが、その反応はあまりにも遅く、そして緊張感を欠いていた。
「なんだ今の音。ネズ、お前なんか蹴っ飛ばしたか?」
「へ? いや、俺じゃないっすよ。奥の方から聞こえたような……」
カツン、カツン。
音は近づいてくる。
一つではない。
二つ、三つ……いや、もっと多数だ。
規則的なリズムを刻むその足音は、生物のそれとは決定的に異なっていた。
呼吸音が聞こえない。
獣臭もしない。
ただ、無機質な質量だけが、闇の奥から迫ってくる。
「……おい、何か来るぞ」
大河原が背中の大剣に手をかけた。
ネズも短剣を抜き、マミが杖を構える。
俺も反射的に身構えようとしたが、八十キロの荷物がそれを阻害する。
「矢崎! テメェは前に出ろ! 盾になれ!」
大河原の怒声が飛ぶ。
拒否権などない。
俺はよろめきながら、三人の前に押し出された。
ヘッドライトの光が、前方の闇を切り裂く。
そこに浮かび上がったのは――銀色の絶望だった。
「な……ッ!?」
息を呑んだのは、俺だけではない。
背後の三人もまた、喉の奥で引きつった声を漏らした。
身長二メートルを超える巨体。
全身を覆うのは、鈍く光る銀白色の装甲。
関節部分からは青白い魔力の光が漏れ出し、頭部には感情のない単眼が赤く灯っている。
ミスリル・ゴーレム。
その装甲は、魔法金属ミスリルで構成されており、生半可な物理攻撃は全て弾き返す。
通常、この階層に出現する敵ではない。さらに深層にいるはずの魔物だ。
しかも、一体ではない。
狭い通路を埋め尽くすように、五体、六体……奥にはさらに多くの赤い瞳が揺らめいている。
群れだ。
本来、単独またはペアで行動するはずのゴーレムが、軍隊のような規模で行進してきている。
「う、嘘だろ……ミスリル・ゴーレムだぞ!? なんでこんな大量に!」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
ネズとマミが悲鳴を上げる。
パニックが伝播する。
大河原の顔からも、先ほどまでの余裕は消え失せ、脂汗が滝のように流れていた。
「くそッ! 情報が違げぇぞ! こんなの聞いてねェ!」
彼は大剣を構えたまま、じりじりと後退る。
戦う気がないのは明白だった。
勝てるわけがない。
C級パーティが全力で挑んで、ようやく一体を倒せるかどうかの相手だ。
それが群れを成している。
この戦力差は、象の群れにアリが挑むようなものだ。
ギギギ……。
先頭のゴーレムが、俺たちを敵性存在として認識したのか、腕を振り上げた。
岩塊のような拳が、風を切る音を立てて迫る。
逃げなければ。
だが、背負った荷物がアンカーのように体を縛り付ける。
「ひッ!」
ネズが情けない声を上げて尻餅をついた。
その隙を突くように、ゴーレムの進軍速度が上がる。
地響きが洞窟を揺らし、天井からパラパラと土砂が降ってきた。
全滅。
その二文字が、誰の脳裏にもよぎった瞬間だった。
俺の背後で、大河原の目が異様な光を宿したのを、気配で感じ取った。
それは恐怖の色ではない。
もっと冷酷で、計算高い、生存への渇望。
「……おい、ネズ」
大河原が低く呟いた。
「は、はい!?」
「『囮』を使うぞ」
その単語が出た瞬間、ネズの顔色が恐怖から安堵へ、そして卑劣な笑みへと変わった。
マミもまた、瞬時に意図を理解し、冷ややかな目で俺を見た。
囮。
アイテムではない。
だとすれば……この場において、最も価値がなく、最も動きが鈍く、そして最もモンスターの注意を引きつけられる肉塊。
「おい、ゴミ野郎!」
大河原の声が、やけに明るく響いた。
「え――」
振り返ろうとした瞬間、強烈な衝撃が背中を襲った。
ネズの蹴りだ。
正確に、バックパックの中心を捉えたその一撃は、俺のバランスを完全に破壊した。
重い荷物に引っ張られるように、体がつんのめる。
「う、わぁぁぁッ!?」
視界が回転する。
踏ん張ろうにも、八十キロの重りがある状態ではどうにもならない。
俺の体は、ボールのように前方へと転がり出た。
迫りくるゴーレムの群れの足元へと。
「ギャハハハ!いい顔してるぜ!」
「あばよ!せいぜい時間を稼げよ!」
「死ぬ気で頑張ってねぇー!」
嘲笑が遠ざかっていく。
彼らは俺が転倒した瞬間、踵を返して全力で逃走を開始していた。
迷いなど微塵もない。
最初から決めていたのだ。
不測の事態に陥ったら、俺を切り捨てることを。
俺は仲間ではなく、消費アイテム『身代わり』として連れてこられたのだ。
「が、はッ……!」
地面に叩きつけられた衝撃で、肺の中の空気が強制的に排出される。
口の中に鉄の味が広がる。
顔を上げると、そこには巨大な銀色の足があった。
見上げれば、無機質な赤い単眼が、俺を見下ろしている。
殺される。
本能が警報を鳴らし続ける。
ゴーレムが拳を振り上げた。
単純な、しかし絶対的な質量攻撃。
直撃すれば、俺の体など熟したトマトのように弾け飛ぶだろう。
「く、そぉぉぉッ!」
俺は恐怖で麻痺しそうになる手足を叱咤し、泥の上を這いずった。
バックパックのベルトを引きちぎるようにして外し、身軽になった体で横へと転がる。
ドォォォォン!!
一瞬前まで俺の頭があった場所が、クレーターへと変わった。
爆風のような衝撃波が頬を叩く。
砕けた岩の破片が散弾のように降り注ぐ。
痛い。熱い。
だが、生きている。
俺は立ち上がり、逃げた三人とは別の方向――道の奥へと向かって走り出した。
彼らを追っても無駄だ。
彼らは逃げ足だけは速い。それに、もし追いつけたとしても、再び蹴落とされるだけだ。
ならば、一縷の望みをかけて未知のルートへ逃げ込むしかない。
心臓が早鐘を打ち、血管が破裂しそうだ。
背後からは、ズシン、ズシンと、地獄の追手が迫ってくる音が響く。
奴らは決して速くはない。
だが、止まらない。
障害物を粉砕し、壁を削り取りながら、一直線に俺を追ってくる。
「はぁッ、はぁッ、はぁッ……!」
呼吸が喉を焼く。
なぜだ。
なぜ俺がこんな目に遭わなければならない。
真面目に働いてきた。
理不尽なノルマにも耐えた。
誰かを陥れたことなんてない。
それなのに、会社からは捨てられ、同僚からは見放され、ここでは道具として使い捨てにされる。
怒りが、恐怖を押しのけて湧き上がってくる。
ふざけるな。
誰が死んでやるものか。
ゴミのような高野も、クソみたいな同僚も、大河原も、ネズもマミも。
俺を見下し、嘲笑った連中全員に、吠え面をかかせてやるまでは。
このまま終わってたまるか。
生存本能という名の燃料を燃やし、俺は暗闇の中を疾走する。
地図にはない脇道。
崩落しかけの狭い通路。
どこに繋がっているかもわからない。
それでも、止まること即ち死である以上、足は止められない。
だが、運命は残酷だった。
無我夢中で逃げ込んだ先。
そこは、絶望的な光景で終わっていた。
行き止まり。
巨大な岩盤の崩落によって、道が完全に塞がれていたのだ。
左右は壁。
背後は迫りくる銀色の死神たち。
「あ、あぁ……」
乾いた絶望の声が漏れる。
終わりか。
ここで、誰にも知られず、肉塊となって朽ち果てるのか。
ゴーレムたちが、逃げ場のない獲物を追い詰め、ゆっくりと包囲網を狭めてくる。
その赤い瞳には、慈悲も油断もない。
ただ排除するという命令だけが実行されているのだろう。
俺は背中を冷たい岩壁に預ける。
スキル【メモ帳】。
こんな時、俺にできるのは自分のステータス画面を開いて、そこに遺書を書くことくらいか。
自嘲の笑みが浮かぶ。
その時だった。
グラリ、と足元の感覚が揺らいだ。
地震か?
いや、違う。
ゴーレムたちの重量と、先ほどの攻撃による衝撃。
それが、脆くなっていたこのエリアの地盤に、最後の一押しを与えたのだ。
俺が立っている床そのものが、悲鳴を上げていた。
ミシミシ、バキィッ!!
亀裂が走る。
足元が割れる。
支えを失った岩盤が、重力に従って崩落を開始する。
「あ、あ――」
浮遊感。
内臓が持ち上がるような気持ちの悪い感覚。
俺の体は、瓦礫と共に暗黒の底へと吸い込まれていった。
上空に見える、僅かな光。
そこから覗き込む、ゴーレムたちの赤い瞳。
それらが、急速に遠ざかっていく。
落下。
落下。
落下。
風切り音が耳を劈く。
どこまで落ちるのか。
底はあるのか。
恐怖叫ぶ間もなく、意識が暗転しそうになる。
だが、薄れゆく意識の中で、俺は不思議と冷静だった。
少なくとも、あの銀色の化け物に潰されるよりはマシかもしれない。
それに、もし生きていれば。
もし、万が一、この落下を生き延びることができたなら。
その時は――。
俺を突き落とした世界そのものに、復讐してやる。
俺の意識は完全に断ち切られた。




