第二十九話:慈悲なき世界
ズドォォォォォォン!!
爆音と共に、新宿駅南口の広場にクレーターが穿たれた。
俺とフェンが着地した衝撃波だけで、密集していた下級の魔物たちが紙屑のように吹き飛び、霧散していく。
舞い上がる土煙の中、俺はフェンの背から降り立った。
「……趣味が悪いな」
俺はネクタイを少しだけ緩めながら、周囲を見渡して独りごちた。
かつて多くの人々が行き交っていたコンクリートの広場は、ひび割れ、信号機は根本から折れ曲がっている。
だが、もっとも目を引くのは、頭上に広がる光景だった。
まるで巨大な爪で引き裂かれたかのような暗黒の穴が、青空を浸食している。そこから垂れ流される赤黒い霧が、高層ビル群をゆっくりと飲み込んでいた。
『全くなのだ。父様の配下は、どうしてこうも美的感覚が欠如しているのだ。これではせっかくのデートが台無しではないか』
頭の中に、彼女の不満げな念話が直接響く。
隣に立つフェンは、乗用車ほどもある巨狼の姿のままだ。
月光を織り込んだような銀色の毛並みと、王者のごとき風格。彼女は俺の足元に体を擦り寄せ、その豊満な尻尾をペシペシと俺のふくらはぎに当ててきた。
「デートの行き先が戦場ってのは、俺たちくらいだろうけどな」
『カズと一緒なら、どこだってデートなのだ』
フェンは俺の脚に巨大な頭を預け、グリグリと甘えるように押し付けてくる。
ズボンの生地越しに伝わる、獣特有の高い体温。
この温もりこそが、俺が守るべき日常の全てだ。
周囲には、先ほどの衝撃波で生き残った魔物たちが、遠巻きにこちらを囲んでいた。
骸骨の兵士や、翼の生えた小型の悪魔たち。
彼らは俺たちの姿を認めると、飢えた獣のような声を上げて殺到してきた。
『邪魔だ』
念話と共に、フェンが軽く前足を振る。
それだけで、不可視の爪撃とも言うべき衝撃波が広場を薙ぎ払った。
迫りくる魔物の群れが、一瞬にして挽き肉へと変わる。
血飛沫が舞う中、俺たちは何事もなかったかのように歩き出した。
目的地は、新宿中央公園。
この異常事態の中心地であり、フェンを連れ戻そうとする「追手」が待ち構えている場所だ。
「行くぞ、フェン。さっさと片付けて、晩飯にしよう」
『賛成なのだ! 今日は奮発して、特上の寿司がいい!』
「はいはい、了解。お前の好きな大トロ、山盛りで頼んでやるよ」
俺はフェンの首筋の毛をワシャワシャと撫でながら、瓦礫の山となった甲州街道を進んでいく。
フェンは嬉しそうに喉を鳴らし、軽やかな足取りで俺の隣を歩く。
だが、俺の眼は常に周囲の情報を拾い集め、解析し続けていた。
【ラベル閲覧】のスキルが、視界にあらゆる情報を映し出す。
【 魔界兵(下級) 状態:死亡 】
【 ガードレール 材質:鉄(腐食進行中) 】
【 大気 成分:魔素濃度上昇 毒性あり 】
やはり、ただの侵略ではない。
この新宿一帯が、魔界の環境へと書き換えられようとしている。
物理法則が局所的にねじ曲がり、地球のルールが通用しなくなってきているのだ。
ビルの壁面を重力を無視して歩く魔物や、燃えながら凍り付いている街路樹。
常識外れの光景が次々と飛び込んでくる。
俺は、隣を歩く銀色の背中に視線を落とした。
彼女を魔界へ連れ戻そうとする意志。
それは、俺からこの温もりを奪おうとする行為に他ならない。
かつての会社で、俺は何もかもを奪われた。
尊厳も、時間も、自由も。
だが、今は違う。
俺には力がある。
そして何より、隣には彼女がいる。
『……カズ? どうかしたか?』
俺の視線に気づいたのか、フェンが黄金の瞳で見上げてくる。
「なんでもない。ちょっと気合いを入れただけだ」
俺たちは都庁の脇を抜け、中央公園へと足を踏み入れた。
◇
そこは、もはや東京ではなかった。
公園の緑はどす黒く変色し、木々は苦悶の表情を浮かべた人の顔のようにねじれている。
地面は泥沼のように泡立ち、空は紫色に染まっていた。
そして、その中央にある噴水広場。
水ではなく、ドロリとした赤い液体が噴き出るその前に、一人の男が立っていた。
燕尾服のような黒い礼装に身を包んだ、長身の男。
シルクハットを目深にかぶり、手には白手袋。
一見すれば手品師か執事のようだが、その全身から放たれる気配は、これまで遭遇したどの魔物とも桁が違った。
男は、俺たちに気づくと、優雅な動作で帽子を取り、一礼した。
「お初にお目にかかります。そして、お久しぶりでございます、フェンリル様」
声は、驚くほど澄んでいた。
だが、そこには一切の感情が乗っていない。
ただ事実を伝達するためだけの、冷ややかな響き。
『……ヴォルグか』
フェンが、嫌悪感を隠そうともせずに唸り声を上げる。
俺の視界に、男の情報が表示された。
【 ヴォルグ 種族:魔人(魔将) 】
【 能力:空間操作、物理法則改変 】
【 危険度:測定不能 】
魔将。
魔王軍における最高幹部クラス。
俺がこれまで倒してきたダンジョンのボスたちとは、存在の格が違う。
ヴォルグは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、爬虫類のように細長く、金色に輝いている。
彼は俺のことなど視界に入っていないかのように、銀色の狼だけを見つめていた。
「魔王様がお待ちです。このような下等生物の住処で、随分と長い家出でございましたね。野良犬のような真似はおやめになって、さあ、参りましょう」
まるで、迷子を諭すような口調。
そこには、フェンの意志を確認するという工程が欠落している。
連れ帰ることは決定事項であり、彼女の拒絶など想定すらしていない傲慢さ。
『断る』
フェンは、俺の前に一歩出ると、牙を剥き出しにしてヴォルグを威嚇した。
『私は帰らない。今の生活が気に入っているのだ。カズとの食事が、父様の城で食べる冷めた料理よりも数万倍美味いのでな』
「……食事、ですか」
ヴォルグは、呆れたように肩をすくめた。
「高貴なるフェンリル様が、そのような俗事にかまけるとは。やはり、この界隈の穢れた空気に長く触れすぎたようです。少し洗浄が必要ですね」
『ふん、余計なお世話だ。……カズ、こいつは私がやる。下がっていろ』
フェンが、重心を低くして戦闘態勢に入った。
その体から、銀色の魔力が爆発的に膨れ上がる。
だが。
パチン、と。
乾いた指の音が、響いた。
その瞬間だった。
フェンの周囲の空間が、四角く切り取られた。
『え……?』
フェンの動きが止まる。
いや、止められたのだ。
彼女の周囲に、透明な正六面体が現れていた。
それはガラスのようにも見えたが、もっと硬質で、絶対的な「拒絶」を具現化した壁だった。
巨狼の姿をした彼女ですら、すっぽりと収める巨大な檻。
「フェン!」
俺は叫び、反射的に駆け出した。
だが、フェンの声は聞こえない。
彼女が何かを叫び、内側から壁を前足で叩いているのが見えるだけだ。
音すらも遮断されている。
「お手を触れぬよう」
ヴォルグの冷淡な声が届くより早く、俺は全速力でフェンの元へ迫っていた。
俺の足元、アスファルトが重力に耐え切れず陥没する。
レベル99の身体能力による踏み込み。
たとえ戦車だろうと一撃で粉砕する勢いで、俺は右手に魔力を集中させた。
狙うは、あのふざけた透明な箱。
【ラベル書き換え】で、あの箱の強度をゼロにしてやる。
俺は視界を凝らし、あの箱の情報を読み取ろうとした。
【 対象:絶対隔離結界 】
【 強度:∞ 】
【 属性:概念干渉拒絶 】
ふざけたステータスだ。
だが、俺のスキルならば、どんな理不尽な数値でも書き換えられる。
俺は意識を研ぎ澄まし、その文字列に干渉しようとした。
書き換えろ。
強度を『紙くず』へ。
属性を『もろいガラス』へ。
『概念干渉を拒絶』
俺の意思の中では、その真っ赤な警告が明滅した。
……は?
思考が一瞬、空白に落ちる。
弾かれた?
俺の【記述権】が?
「無駄ですよ」
背筋が凍るような気配が、すぐ目の前にあった。
気づけば、ヴォルグが俺の目前に立っている。
瞬間移動ではない。
空間そのものを折り畳んで、距離を消失させたのだ。
「貴様のその奇妙な能力……『世界の改竄』とでも呼びましょうか。確かに厄介な力です。下級の魔物や、未熟なダンジョンならば好き放題できたでしょう」
ヴォルグは、俺の顔を覗き込むようにして、嘲るような笑みを浮かべた。
「しかし、ここは私が再定義した領域。私の庭です。他人の家で、勝手に家具の配置を変えられると思わないことです」
俺は歯を食いしばり、拳を振り抜いた。
スキルの援護がなくとも、俺の肉体はレベル99だ。
物理的な破壊力だけで、この優男の顔面を陥没させることはできるはずだ。
拳が、ヴォルグの鼻先に迫る。
ガギィッ!
鈍い音がして、俺の手首に激痛が走った。
ヴォルグの顔の数センチ手前。
そこに見えない壁があったわけではない。
俺の拳が、止まっていた。
いや、空気が、空間そのものが、コンクリート以上に硬化して俺の攻撃を阻んでいた。
「人間ごときが、私の領域に触れられると思うな」
ヴォルグが、再び指を鳴らす。
ドォォォォン!
直後、俺の体は、見えざる巨大なハンマーで殴打されたかのように、地面へと叩きつけられた。
肺の中の空気が強制的に排出され、視界が明滅する。
重力だ。
俺の上空だけ、重力が数十倍、いや数百倍に増幅されている。
地面がクレーターのように沈み込み、俺の四肢を泥の中へとめり込ませていく。
「が、は……っ!」
口の中に、鉄の味が広がった。
骨がきしむ音が、体内から直接響いてくる。
指一本動かすことすら困難な圧力。
これが、魔将の実力か。
俺は泥にまみれた顔を、必死に上げた。
視線の先には、透明な箱に閉じ込められたフェンの姿がある。
彼女は爪でガラスのような壁を引っ掻き、俺に向かって吠えていた。
口の動きと、必死の形相。
『逃げろ』と言っているのが分かる。
だが、その声は届かない。
あの箱は、彼女を「無傷で」運ぶための籠。
外からの攻撃だけでなく、内側からの干渉も、音も、全てを断絶しているのだ。
「おや、まだ意識がありますか。頑丈なことですね」
ヴォルグは、汚いものを見るような目で俺を見下ろした。
彼は懐から白いハンカチを取り出し、俺の拳が触れそうになった空間を拭う仕草をした。
「姫君をたぶらかした害虫として、即座に潰してもよかったのですが……まあいいでしょう。姫君の目の前で貴様を殺せば、彼女の心に傷が残る。ここでじっくりと、自らの無力さを噛み締めながら朽ちていくといい」
彼は踵を返し、フェンの入った巨大な箱を宙に浮かせた。
そのまま、上空の次元の裂け目へと向かって歩き出す。
「待、て……」
俺は喉から血を絞り出すようにして言った。
だが、体はピクリとも動かない。
圧倒的な重力の檻。
そして、干渉を許さない拒絶。
この空間において、ヴォルグのルールは絶対だ。
俺のスキルは、彼の作ったルールの上書きを拒否されている。
通常の手段では、手詰まりだ。
……通常の手順では、な。
俺は、霞む視界の中で、自分自身のステータス画面を呼び出した。
【 氏名:矢崎 カズ 】
【 HP:65/100 】
【 MP:測定不能(フェンリルより供給中) 】
【 状態:重力圧迫、骨折(全身)、出血多量 】
ボロボロだ。
だが、まだ命はある。
俺の最大の武器である【記述権】。
その本質は、単なるパラメータの書き換えではない。
「世界の定義」そのものの改変だ。
外部への干渉が拒絶されているのなら、自分自身をリソースにするしかない。
奪われるくらいなら。
フェンを、あの温かい日常を奪われるくらいなら。
俺の命など、安い燃料だ。
俺は、意識の中で、自身の「HP」という項目に指をかけた。
数値の書き換えではない。
この生命力そのものを、魔力変換の触媒として定義し直す。
たしかに生命への危険があるかもしれない。
しかし、ここでフェンを失うなら、生きていても死んでいるのと同じだ。
「……ヴォルグ、言ったな」
俺の呟きに、ヴォルグが足を止めた。
「俺が、害虫だって?」
俺の体から、どす黒いオーラが立ち昇る。
それは魔力ではない。
俺の生命そのものが燃焼し、力へと変換される輝きだ。
重力波が悲鳴を上げ、俺の周囲の空間が歪み始める。
「なら、見せてやるよ。害虫が、神の庭を食い荒らすところを」
俺は残りのHPを全て掛ける覚悟を決めた。
痛みなど、とうに麻痺している。
あるのは、冷え切った怒りと、焦げ付くような殺意だけ。
俺は血に濡れた唇を歪め、最期の切り札を切った。




