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第二十八話:空を割る存在

 平和というのは、得てして退屈と隣り合わせだ。

 かつて俺が社畜として精神を擦り減らしていた頃は、この「退屈」こそが喉から手が出るほど欲しい贅沢品だった。だが、いざ手に入れてみると、人間というのは勝手なもので、今度はその凪いだ水面のような日々に微かな波紋を求めてしまうらしい。


 品川ベイサイド・レジデンス、最上階。

 地上二百メートルに位置する俺たちの城は、今日も静寂と快適な空調に守られていた。

 広大なリビングの床には、毛足の長い最高級の絨毯が敷き詰められ、その中央には銀色の小山が隆起している。

 フェンだ。

 本来の巨躯ではなく、室内用の大型犬サイズに収まった彼女は、窓から差し込む午後の日差しを浴びて、気持ちよさそうに昼寝を貪っていた。

 規則正しい寝息に合わせて、極上の銀毛が波打つ。首元に輝く『銀月の首飾り』が、時折キラリと光を反射して、彼女がただのペットではないことを主張していた。


「……平和だな」


 俺は淹れたてのエスプレッソを片手に、窓の外を見下ろした。

 眼下に広がるのは、東京のウォーターフロント。

 首都高速を行き交う車の列は血管を流れる赤血球のようで、林立するビル群は太陽を反射して無機質な輝きを放っている。

 かつて俺を押し潰そうとした「社会」という名の怪物は、ここから見下ろせば、精巧に作られたジオラマに過ぎない。


 青木ヶ原ダンジョンでの復讐劇――過去の遺物たちの「処分」を終えてから、数日が過ぎていた。

 彼らは自らの欲望と慢心によって破滅した。そして、今、俺の胸にあるのは、長年突き刺さっていた棘が抜けたような、清々しい空虚感だけだった。

 会社の経営権は、裏で手を回して取得済みだ。実務はギルドに丸投げし、俺は筆頭株主として配当を受け取るだけの立場に収まった。

 金も、地位も、力も手に入れた。

 隣には、世界最強の相棒がいる。


「ん……カズか?」


 コーヒーの香りに釣られたのか、銀色の毛玉が身じろぎし、眠そうな顔を上げた。

 ルビーのような瞳が、とろんと微睡んでいる。


「起こしたか?」

「いや、腹が減って目が覚めた。……肉はないか?」

「さっき昼飯に特大ステーキを食ったばかりだろ」

「あれは前菜だ。おやつには足りぬ」


 フェンは大きなあくびを噛み殺し、のっそりと起き上がると、俺の足元に身体を擦り付けてきた。

 甘えるような仕草だが、その質量は岩のように重い。

 俺は苦笑しながら、彼女の耳の後ろを指で掻いてやった。


「平和ボケしそうだな、俺たち」

「ふん、良いことではないか。闘争に明け暮れるのは疲れる。たまにはこうして、日向ぼっこをして過ごすのも悪くない」


 フェンは目を細め、喉をゴロゴロと鳴らす。

 彼女にとっても、今の生活は満更ではないようだ。

 かつてダンジョンの深層で、傷つき、泥にまみれ、世界を呪っていた孤独な狼の面影はもうない。

 今の彼女は、愛され、満たされ、そして王者の余裕を取り戻している。


 だが。

 俺の【ラベル閲覧】――レベル99に達し、さらに進化したその目は、この平穏な日常の裏側に、微かなノイズが走り始めていることを見逃していなかった。


 視界の端に浮かぶ、世界情報のログ。

 普段なら『天候:晴れ』『気温:適温』といった環境情報が流れるだけのスペースに、ここ数時間、見たことがない表記が混じり始めていたのだ。


『警告:異空間を検知』

『発生源:北西・新宿方面』

『深度:測定不能』

『種別:次元干渉』


 次元干渉。

 ただのダンジョン発生や、魔物の出現とはわけが違う。

 空間そのものが、外側から強く叩かれているような、不快な軋み。


「……フェン。何か感じないか?」


 俺が尋ねると、フェンの動きがピタリと止まった。

 彼女は鼻を空に向けてひくつかせ、耳をそばだてる。

 先ほどまでの弛緩した空気は一瞬で消え失せ、その全身から銀色の毛が逆立った。


「……臭うな」


 低い、地を這うような声。


「鉄錆と、腐った血。それから……焦げた空気の臭いだ。風に乗って流れてくる」

「方角は?」

「あっちだな」


 フェンが睨みつけたのは、新宿の方角だった。

 高層ビル群が霞むその空に、肉眼では見えないはずの「亀裂」が走っているのを、俺の目は確かに捉えていた。


 ――バリンッ。


 幻聴ではない。

 世界中のガラスが一斉に砕け散ったような、甲高い破砕音が鼓膜ではなく脳髄を直接揺らした。

 同時に、リビングの窓ガラスが激しく共振し、テーブルの上のコーヒーカップがカタカタと震える。


「……来たか」


 俺はカップを置き、立ち上がった。

 安穏な午後は、唐突に終わりを告げた。



 テレビをつけると、どのチャンネルも緊急ニュースを報じていた。

 画面に映し出されているのは、新宿上空の映像だ。

 ヘリコプターからの空撮映像は、動揺を示しているのか、激しく揺れる。


『緊急速報です! 本日午後二時頃、新宿区上空に未知の空間亀裂が発生! 現在、裂け目から正体不明の飛行物体が多数出現し、地上への攻撃を開始しています!』


 アナウンサーの声が裏返っている。

 カメラがズームする。

 真っ青な秋晴れの空に、まるでインクをぶちまけたような黒い裂け目が走っていた。その長さは数キロメートルにも及ぶだろう。

 そして、その傷口から、どす黒い点のようなものが無数に零れ落ちてくる。

 雨ではない。

 一つ一つが、明確な意志を持って地上を目指す「軍勢」だ。


「……悪趣味なパレードだ」


 俺は【ラベル閲覧】を、ディスプレイ越しに発動し、直接現地の情報を解析した。


『種別:魔界兵・突撃隊』

『ランク:B+〜A』

『装備:魔鋼の鎧、呪いの武器』

『特性:物理法則の改変』


 BプラスからAランク。

 そんな化け物が、数百、数千という単位で降り注いでいる。

 ダンジョンブレイクなんて生易しいものではない。

 これは「侵略」だ。

 こちらの世界を塗り潰し、彼らのルールで上書きしようとする、明確な敵意。


「……カズ」


 フェンの声が震えていた。

 恐怖からではない。怒り、そして深い忌避感を含んだ震えだ。

 彼女は窓ガラスに前足をかけ、赤い瞳孔を極限まで細めて新宿の空を睨みつけている。


「あやつら……父上の臭いがする」


「父上って……魔王か?」


「そうだ。……あの軍勢、見覚えがある。『黒の軍団』だ。魔界でも精鋭中の精鋭、父上の親衛隊だ」


 フェンが牙を剥き出しにして唸る。


「迎えに来たのだ。……我を」


 その言葉が、重く室内に響いた。

 魔王の追手。

 いつかは来るかもしれないと思っていたが、まさかこんな派手なやり方で来るとは。

 こっそりと連れ戻すのではなく、都市一つを人質に取るような、力尽くのやり方。

 いかにも、絶対権力者のやりそうなことだ。


 テレビ画面の中では、黒い鎧の騎士たちが探索者たちの攻撃を無効化し、一方的に蹂躙する様子が映し出されていた。

 銃弾は弾かれ、魔法は霧散し、大剣は鎧に触れただけで砕け散る。

 現地の戦力では、時間稼ぎにすらなっていない。


「……お前の親父さん、随分と過保護だな」

「笑い事ではないぞ! あやつらは止まらぬ! 我を回収するまで、人間を根絶やしにするつもりだ!」


 フェンが叫んだその時、映像の中で高層ビルの一つが黒い炎に包まれて崩落した。

 逃げ惑う人々。爆発音。

 平和ボケしていた日本という国が、一瞬で戦場へと変わる様。


「……行くぞ、フェン」


 俺は上着を羽織った。

 もちろん、オーダーメイドの戦闘用スーツだ。

 ネクタイを締め直し、腰に『竜殺しのダガー』を吊るす。


「カズ? 正気か? あれはただの魔物ではない。魔界の軍隊だぞ。しかも、あの気配……魔将クラスが指揮を執っているかもしれん」

「だからどうした」


 俺はフェンを振り返り、ニヤリと笑ってみせた。


「せっかく手に入れたこの『平和で退屈な日常』を、これ以上壊されてたまるか……それに、俺の相棒を勝手に連れ戻そうなんてふざけた真似、魔王だろうが神様だろうが許さない」


 俺の言葉に、フェンは一瞬きょとんとし、それから嬉しそうに、獰猛に口角を吊り上げた。


「……ふん、言うようになったな。よかろう! 我が主の命とあらば、父上の軍勢ごとき、蹴散らしてくれるわ!」


 フェンの体が光に包まれ、本来の巨狼の姿へと戻る。

 部屋が狭く感じるほどの圧倒的な威圧感。

 フェンは俺を促すように、その屈強な背中を低くした。


「乗れ、カズ! 風よりも速く連れて行ってやる!」


「ああ、頼んだ。……遅刻は厳禁だからな」


 俺は窓を開け放ち、バルコニーの手すりを蹴って、フェンの背中に飛び乗った。

 剛毛の感触と、溢れ出る魔力の熱。

 最高の乗り心地だ。


「行くぞッ!」


 ドンッ!


 フェンが床を蹴ると同時に、俺たちは空へと飛び出していた。

 眼下には、パニックになり始めた東京の街。

 重力を無視した加速が、俺の体を後方へと引っ張る。

 フェンは空気を足場にするようにして、ビルの屋上から屋上へと跳躍を繰り返す。

 品川から新宿へ。

 一直線の軌道を描く銀色の流星となって、俺たちは戦場の空へと駆け出した。



 風圧が顔を叩く。

 フェンはビルの屋上を足場にして、弾丸のように跳躍を繰り返していた。

 品川から新宿まで、直線距離で約七キロ。

 電車の遅延も渋滞も関係ない俺たちにとっては、数分の距離だ。


 近づくにつれて、空気の味が変わっていくのが分かった。

 鉄錆と硫黄、そして濃厚な死の臭い。

 新宿エリア一帯が、物理的に「魔界」へと浸食されつつあるのだ。

 空の色が紫色に変色し、太陽の光が届かない薄暗い空間が広がっている。


「……ひどいな」


 新宿駅周辺の上空に到達した俺は、眼下の惨状に息を呑んだ。

 かつて世界一の乗降客数を誇ったターミナル駅は、瓦礫の山と化していた。

 駅ビルは半壊し、甲州街道は炎上する車で埋め尽くされている。

 そして、その瓦礫の上を、黒い鎧に身を包んだ異形の騎士たちが闊歩していた。


 地上では、警視庁の機動隊や、急行した探索者たちが応戦しているのが見える。

 だが、戦況は一方的すぎた。

 こちらの攻撃は無効化され、あちらの攻撃だけが通る。

 ルールそのものが書き換えられた、極めて不公平なゲームが展開されている。


「……カズ、あそこだ」


 空中で静止したフェンが、鼻先で一点を指し示した。

 新宿駅南口の広場。

 そこには、多数の魔物たちが集結し、逃げ惑う人々を追い詰めていた。

 そして、その奥――新宿中央公園の方角から、桁違いの魔力が膨れ上がっているのを肌で感じた。


「ああ、感じるぞ。……親玉は公園か」


 俺はダガーの柄を強く握りしめた。

 まずは、あの広場に降りて、このふざけたパレードを止める。

 そして、公園で待つ元凶を叩く。


「行くぞ、フェン。派手な登場といこうぜ」


「うむ! 我が咆哮で、雑魚どもを震え上がらせてやる!」


 フェンが空中で身を翻す。

 重力に引かれるまま、俺たちは真っ逆さまに降下を開始した。


 狙うは、敵がひしめく広場のど真ん中だ。


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