第二十七話:絶望の宴と深淵の労働者
地獄の釜の蓋が開いた。
いや、ここは地獄のさらに底、深淵の胃袋だ。
「ぎゃああああ! 来るな! こっちに来るなあああ!」
「いやああッ! 足が、足が抜けない!」
「助けてくれ! 矢崎、いや社長! なんとかしてくれぇぇッ!」
青木ヶ原ダンジョン最深部の広大な空間に、高野たちの絶叫がこだまする。
アビス・ベヒーモスは、彼らをすぐに食い殺そうとはしなかった。まるで、新しい玩具を見つけたように、いたぶって楽しんでいるようだ。
丸太ほどもある前脚が振り下ろされる。
高野たちは無様に泥と菌糸にまみれながら、這いつくばって避けるのが精一杯だ。
彼らが身につけていた新品の高級装備は、ベヒーモスの甲殻に触れただけでガラス細工のように砕け散り、見るも無惨な姿になっていた。
「ひっ、ひぐっ……!」
かつて俺に仕事を押し付けていた大柄な男が、後ずさりをして何かに躓いた。
ガラガラと崩れたのは、岩ではない。
錆びついた剣、砕けた鎧、変色した鞄――。
それは、地下河川に乗って上層からこの吹き溜まりへと漂着した、かつての探索者たちの遺品――ガラクタの山だった。
男は自分がゴミの山の中にいることに気づき、腰を抜かす。その股間からは、情けない染みが広がっていた。
陰口が好きだった女社員は髪を振り乱し、半狂乱になって石ころを投げつけているが、ベヒーモスの黒曜石の甲殻には傷一つどころか、音さえも虚しく弾かれる。
事なかれ主義だった係長の男に至っては、すでに気絶したのか、湿った菌糸の上に白目を剥いて倒れていた。
俺はその惨状を、少し離れた岩棚の上から眺めていた。
フェンが俺の足元に寝そべり、退屈そうに欠伸をする。
『カズ、助けないのか? あいつら、もうすぐ肥料になるぞ』
『手出しは無用だ。これは彼らの「業務」だからな』
俺は腕を組み、冷徹な評価を下していく。
連携皆無。
判断力欠如。
戦意喪失。
探索者としては最低ランクだ。Fランクですらおこがましい。ただの餌だ。
「や、矢崎ィィッ!」
高野が腐葉土に顔を突っ込みながら、こちらに手を伸ばした。
その顔は涙と鼻水、そして黒い泥でぐしゃぐしゃになり、かつての威厳など欠片もない。
「頼む! 助けてくれ! 言うことを聞く! 何でもする! 靴でも舐める! だから、だからその化け物をなんとかしてくれぇぇッ!」
魂からの懇願。
プライドも羞恥心もかなぐり捨てた、生への執着。
俺が待っていたのは、この瞬間だ。
遠くで響く地底湖の水音に負けないよう、俺はよく通る声で告げた。
「おや、何を弱気なことを言っているんですか」
俺の声は、閉鎖的な空間によく響いた。
俺は一歩も動かず、ただ冷ややかに彼らを見下ろす。
「業務はまだ終わっていませんよ。あなた方には、このアビス・ベヒーモスの討伐を命じましたよね?」
「む、無理だ! 死ぬ! あんなの勝てるわけないだろ!」
高野が絶叫する。
俺は口角を吊り上げ、かつて彼から浴びせられた言葉を、一言一句たがわず、完璧なリズムで再現してやる。
「甘ったれるな。会社は遊び場じゃないんだぞ。ノルマを達成するまで、帰れると思うな」
高野の顔が凍りついた。
その言葉は、彼自身がかつて会議室で、俺に対して何度も吐き捨てたものだ。
『ノルマ達成までは帰るな』『死ぬ気でやれ』『つべこべ言わずに数字を出せ』。
彼は記憶の底からその言葉を思い出し、それが今、特大のブーメランとなって自分の首を刎ねようとしていることに気づいたのだ。
「か、会社のために……」
高野が掠れた声で漏らす。
「そう、会社のためです。あなたもよく言っていましたよね。『個人の都合よりも会社の利益が優先される』と。私はその崇高な理念を実行しているに過ぎません」
俺は彼の言葉を遮り、畳み掛けた。
「当然ですが、この業務を達成できるまで、ダンジョンからの退出は許可しません。これは業務命令です。拒否権はありません」
拒否権はない。
その言葉が、彼らにとっての死刑宣告となった。
ベヒーモスの巨大な前脚が、地面を叩く。
衝撃波が高野たちを吹き飛ばし、彼らは背後のガラクタの山に叩きつけられた。
「あぐっ……!」
「いやあああ!」
もはや、彼らに戦う力など残っていない。
彼ら自身が、ここに積まれたガラクタの一部になろうとしているのだ。
「では、私は地上に戻って、次の仕事の準備がありますので」
俺は踵を返した。
フェンがゆっくりと立ち上がり、俺の横に並ぶ。
彼女はベヒーモスを一瞥もしなかった。興味がないのだ、弱者には。
「待っ……待ってくれ! 置いていかないでくれ!」
「社長! お願いします! 助けて!」
背後から、彼らの慟哭が聞こえてくる。
だが、俺は一度も振り返らなかった。
ただ、背越しに最後の言葉を投げかける。
「皆さんの頑張りを、心の底から応援していますよ。せいぜい、会社のために死ぬ気で働いてください」
俺とフェンは、通路へと足を踏み入れた。
その瞬間、背後でグチャリという湿った圧壊音が響いた。
トマトが潰れるような音。
続いて、この世のものとは思えない絶叫が上がった。
「ギャアアアアアッ――!」
「嫌だ! 痛い! 食われる! 食われ――」
「あがッ、ごぼッ……!」
断末魔の叫びは、ベヒーモスの咀嚼音と、反響する水音にかき消されていく。
硬い骨が砕け、肉が裂ける音が、冷たい空気の中に響く。
アビス・ベヒーモスが食事を始めたのだ。
俺は歩みを止めなかった。
表情を変えることすらなく、淡々と地上への道を歩く。
罪悪感?
そんなものは微塵もない。
彼らは自らの選択でここに来て、自らの過去の行いによって裁かれただけだ。
これは因果応報という、自然の摂理に過ぎない。
しばらく歩くと、背後の音は聞こえなくなった。
静寂だけが、ダンジョンを満たしている。
全滅したのだろう。
かつて俺を苦しめた亡霊たちは、文字通り物理的に消滅し、深層の泥の一部となった。
地上への出口が見えてくる。
差し込む夕日が、いつもより鮮やかに見えた。
「それにしても、カズ、腹が減ったな。今夜は何を食う?」
フェンが俺の顔を覗き込む。
その瞳には、一点の曇りもない信頼の色があった。
「そうだな……。今日は奮発して、特上の寿司でも頼むか」
「スシ! あの、生魚を米に乗せたやつか! 悪くない!」
樹海の清浄な空気を吸い込み、俺たちは笑い合って歩き出した。




