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第二十五話:忘れ去られた亡霊たち

 東京湾から吹き抜ける風が、高層階のテラスを優しく通り抜けていく。

 眼下に広がるのは、宝石を散りばめたような品川の夜景だ。無数の光の粒が明滅し、地上の星空となって広がっている。

 俺はテラスに置かれたリクライニングチェアに深く身を預け、冷えた炭酸水を喉に流し込んだ。喉を弾ける刺激が、心地よい覚醒を促してくれる。

 隣では、人間サイズの銀色の狼――フェンが、最高級の和牛ジャーキーを前足で器用に押さえながら齧っていた。


「カズ、この干し肉は絶品だな! 噛めば噛むほど味が染み出してくるぞ」

「まあ、『熟成黒毛和牛の特選ジャーキー』だからな。一袋で一般的なリーマンの数日分の食費が飛ぶしな」

「ふん、人間というのは妙なところに手間をかける。だが、その手間には敬意を表そう。美味いものは正義なのだ」


 フェンは満足げに鼻を鳴らし、再び肉に食らいつく。その姿は獰猛な魔獣そのものだが、俺に向けられる視線だけは、飼い主を慕う大型犬のように温かい。


 ここでの生活は快適そのものだった。

 アビス・タワーでの功績により、俺たちはギルドから最上級の待遇を受けている。金銭的な不安は消滅し、誰かに頭を下げる必要もない。

 かつて俺を縛り付けていた理不尽なノルマや、胃を痛めるような人間関係は、もはや遠い過去の記憶――いや、記憶の彼方に追いやられ、思い出すことさえ稀なゴミ屑となっていた。

 今の俺の頭の中にあるのは、明日の夕食は何にするか、次はどこのダンジョンでフェンと遊ぶか、といった平和で建設的な悩みだけだ。

 過去のことなど、綺麗さっぱり忘れていた。

 そう、本当に忘れていたのだ。

 あの不快な雑音が、再び俺の前に現れるまでは。


 室内に設置されたインターホンが、控えめな電子音を奏でた。

 俺は怪訝に思い、端末のモニターを確認する。

 コンシェルジュからの内線だ。


「矢崎様、お客様がお見えです」


 スピーカーから流れる丁寧な声に、俺は首を傾げた。


「客? 約束は無いはずだが」

「はい。ですが、矢崎様の以前のお勤め先の方だと名乗っておりまして……」


 以前の勤め先?

 俺の思考が一瞬、空白になる。

 数秒の間を経て、脳の深層から埃を被った記憶ファイルが検索された。

 ブラック企業、搾取、パワハラ、無能な上司、足の引っ張り合い。

 連想ゲームのように浮かび上がる負のキーワードと共に、一人の男の顔が再生される。


「……名前は?」

「タカノ様、とおっしゃっています。他にも数名、ご同行されていますが」


 タカノ。高野。

 ああ、いたな。そんな奴が。

 俺をゴミのように捨ててくれた、元上司の名前だ。

 正直なところ、名前を聞いても怒りより先に「まだ生きていたのか」という純粋な驚きが湧いてきた。それくらい、俺の中で彼らの存在は希薄になっていたのだ。


「……通してくれ」


 俺は短く告げた。

 門前払いすることもできたが、わざわざここまで足を運んできたのだ。その用件を聞いてやるのも、成功者の余興としては悪くない。

 それに、完全に忘却していた過去の遺物が、今の俺を見てどんな顔をするのか、少しばかり興味が湧いた。



 数分後、重厚な扉が開かれると同時に、騒々しい声が入り込んできた。


「おいおい、すげえとこだな! エントランスだけで俺の家より広いんじゃないか?」

「ちょっと、静かにしなさいよ。田舎者丸出しじゃない」

「へえ、矢崎の野郎、本当にこんな高級マンションに住んでるのかよ。生意気になっちゃって」


 聞き覚えのある、しかし聞きたくもなかった声の数々。

 リビングに入ってきたのは、高野を筆頭にした四人の男女だった。

 元上司の高野。相変わらず脂ぎった顔をしているが、着ているスーツは以前よりも少し上等なものに見える。

 その後ろには、かつて俺に仕事を押し付けて定時退社を繰り返していた大柄な男。

 俺の陰口を叩くのが趣味だった女性社員。

 そして、事なかれ主義で俺の窮地を見て見ぬふりをした係長の男。

 懐かしい顔ぶれだ。吐き気を催すほどに。


 彼らは俺の姿を見つけると、一斉に表情を変えた。

 驚愕、嫉妬、そして卑しい欲望。それらが混ざり合った、実に人間臭い顔だ。


「よう、矢崎! 久しぶりだなあ!」


 高野が親しげに手を挙げ、ズカズカと歩み寄ってくる。

 まるで、週末に遊びに来た友人のような気安さだ。俺たちが最後にあんな形で決別したことなど、彼の脳内では都合よく編集されているらしい。


「……何のご用ですか、高野さん」


 俺は椅子から立ち上がりもせず、冷ややかな視線を向けた。

 だが、高野はその態度を気にする様子もなく、勝手に俺の向かいのソファに腰を下ろした。他の連中もそれに続く。


「おいおい、そんなに冷たいこと言うなよ。かつての仲間が訪ねてきたんだ。もっと歓迎してくれてもいいだろう?」

「仲間、ですか」

「そうだとも! 同じ釜の飯を食った、家族のようなものじゃないか」


 高野はニカっと笑い、白い歯を見せた。その笑顔の裏に張り付いた下心が、透けて見えるようだ。


「で、単刀直入に聞きますが。今日は何の用ですか? 昔話をしに来たわけではないでしょう」


 俺が水を向けると、高野は「さすが、話が早い」と大袈裟に頷いた。


「実はな、矢崎。君に折り入って頼みがあるんだ」

「頼み?」

「ああ。会社に戻ってきてくれないか?」


 予想外の言葉に、俺は思わず眉を上げた。

 会社に戻る?

 この俺が?

 一体何をどう考えれば、そんな提案ができるのか。

 高野は俺の反応を待たずに、熱弁を振るい始めた。


「知っての通り、我が社は今、事業拡大のチャンスを迎えているんだ。だが、優秀な人材が不足していてね。そこで白羽の矢が立ったのが、君だ」

「私が優秀、ですか。以前は『無能』だの『穀潰し』だのと言っていた気がしますが」

「ははは! 何を言ってるんだ。あれは君を奮起させるための、愛の鞭だよ。そのおかげで、君はこうして立派な探索者に成長したんだろう? 感謝してほしいくらいだ」


 その厚顔無恥さには、呆れを通り越して感心すら覚える。

 過去の発言を「愛の鞭」と変換するそのポジティブ思考。これこそが、彼が出世し、そして他人を踏みつけてきた原動力なのだろう。

 後ろに控える大柄な男たちも、調子よく追従する。


「そうそう、俺たちも矢崎ならやれるって信じてたぜ?」

「水臭いわよ、矢崎君。成功したからって、私たちを見捨てるなんてこと、しないわよね?」


 彼らの目は笑っていない。

 その瞳の奥にあるのは、俺という「資源」をいかにして搾取するかという計算だけだ。

 彼らは勘違いしているのだ。

 俺がまだ、彼らの顔色を窺い、理不尽な命令にも従う、あのおとなしい「矢崎カズ」のままだと。

 成功して金を手に入れたとしても、本質的な上下関係は変わっていないと思い込んでいる。

 だからこそ、こうして平然と「戻ってこい」などと言えるのだ。


「カズ」


 不意に、低い唸り声が響いた。

 フェンが身を起こし、金色の瞳を細めて高野たちを睨みつけている。

 彼女の全身から立ち昇る魔力が、周囲の空気をピリピリと震わせていた。


「この無礼な猿どもはなんだ? カズの視界に入ることすら汚らわしい。肉片に変えて、東京湾に撒いてやろうか?」


 純粋な殺意。

 フェンにとって、俺を害する者、不快にさせる者はすべて排除対象だ。

 高野たちがビクリと肩を震わせ、顔を引きつらせた。


「な、なんだこの犬は……いや、女か? 随分と躾がなってないな」


 高野は恐怖を隠すように虚勢を張る。

 その言葉がフェンの逆鱗に触れることを、彼は知らない。


「待て、フェン」


 俺は片手を上げて彼女を制した。


「食事の席を汚すことはない。それに、彼らは客だ。一応はな」

「……カズがそう言うなら」


 フェンは不満げに鼻を鳴らし、再び床に寝そべった。だが、その視線はいつでも喉笛を噛み千切れるよう、高野たちから外されていない。


 俺は高野に向き直り、考え込むふりをした。

 正直、彼らの提案に乗るメリットは皆無だ。

 だが、ここで追い返したとしても、彼らは粘着質に付きまとってくるだろう。それに、ただ追い返すだけでは面白くない。

 彼らは俺を利用しようとしている。

 ならば、俺も彼らを利用させてもらおう。

 かつて受けた屈辱の清算。それを果たすには、絶好の機会かもしれない。


「高野さん。会社に戻るとして、条件があります」

「お、条件か! 聞こうじゃないか」


 高野が前のめりになる。釣れた、という顔だ。


「待遇については、こちらの希望を通してもらいます。それと、私の活動には一切の口出しをしないこと」

「もちろんだとも! 君は我が社のエースとして迎えるんだ。特別待遇を約束するよ」


 安請け合いだ。

 彼の中では、一度会社に取り込んでしまえば、あとはどうとでもなると考えているのだろう。契約書の縛りや、組織の論理で絡め取れば、以前のように操れると思っている。


「分かりました。少し考えさせてください。トイレをお借りしても?」

「ああ、構わんよ。じっくり考えてくれたまえ」


 高野は余裕たっぷりに頷き、持参した菓子折りをテーブルに広げ始めた。勝手に茶を淹れる準備までしている。

 俺はその図々しさを背中で感じながら、リビングを出て洗面所へと向かった。


 洗面所の扉をロックし、俺は鏡の前に立った。

 鏡に映る自分の顔は、無表情だ。

 だが、その瞳の奥には、冷たい炎が宿っていた。

 俺は懐からスマートフォンを取り出し、ある番号を呼び出した。

 青木ヶ原のギルドマスター、エリザへの直通回線だ。

 数回のコールの後、艶やかな声が耳に届いた。


『あら、カズ? 珍しいわね、あなたから連絡してくるなんて』

「久しぶりです、エリザさん。少し、ビジネスの相談がありまして」

『ビジネス? あなたが? 興味深いわね。言ってみなさい』


 俺は声を潜め、早口で要件を伝えた。


「ある会社の経営権を取得したいんです。裏から手を回して、株式を買い占めてもらえませんか?」

『……なるほど。どこの会社?』

「以前、私が所属していた探索者派遣会社です。名前は……」


 俺が社名を告げると、エリザは少し驚いたような声を上げた。


『ああ、あそこね。最近、かなり強引な手口で利益を上げているって噂の。……いいわよ、お安い御用だわ。あそこの経営状態、表向きは順調そうに見せかけてるけど、株主構成は脆弱そのもの。私のコネクションを使えば、過半数を取得するのは造作もないことよ』

「費用は私が持ちます。いくらかかっても構いません」

『太っ腹ね。でも、そんな端金でいいの? あなたなら、力ずくで潰すこともできるでしょうに』

「潰すだけじゃ面白くないんですよ。飼い主が変わったことを知らずに吠える犬を見るのも、一興かと思いまして」

『ふふっ、悪い男ね。……好きよ、そういうの。分かったわ。すぐに手配する。手続きが完了するまで、少し時間を稼いで頂戴』

「助かります。では」


 通話を切り、俺は鏡の中の自分に向かって口角を上げた。

 これで準備は整った。

 高野は経営陣ではない。ただの中間管理職だ。会社の所有者が誰に変わったかなんて、すぐには気づかないだろう。

 俺は洗面所を出て、リビングへと戻った。


「お待たせしました」


 俺が戻ると、高野たちは我が物顔で寛いでいた。大柄な男に至っては、勝手に冷蔵庫を開けてビールを取り出している始末だ。


「おお、戻ったか。で、返事は?」


 高野がビールの泡を髭につけたまま問う。


「ええ、決めました。古巣のよしみです。協力させていただきますよ」

「おお! そうかそうか! いやあ、やはり君は分かっている男だ!」


 高野は歓声を上げ、大柄な男たちとハイタッチを交わした。


「これで安泰だぜ!」

「ボーナス確定ね!」


 彼らの浮かれようは、見ていて滑稽なほどだ。

 高野は鞄から一枚の書類を取り出した。


「では、早速だがこれにサインをしてくれ。専属探索者としての契約書だ」


 差し出された書類には、細かい文字で契約条項がびっしりと書かれている。


 『獲得した利益の八割を会社に納めること』

 『会社の指示するダンジョン探索を拒否できないこと』

 『契約解除には多額の違約金が発生すること』


 ……奴隷契約そのものだ。

 以前の俺なら、これを読んだだけで絶望しただろう。あるいは、威圧されて震える手でサインしたかもしれない。

 だが今は、ただの紙屑にしか見えない。

 なぜなら、この契約の前提となる「会社」そのものが、間もなく俺の所有物になるのだから。

 自分がオーナーになる会社と、探索者として契約する。

 それはつまり、自分で自分を雇うようなものだ。どんな理不尽な条項も、オーナー権限で後からどうとでも書き換えられる。あるいは無効化できる。

 彼らは、自分たちが用意した檻に、自分たちが閉じ込められることになるとも知らず、鍵を渡してきているのだ。


「分かりました。サインしましょう」


 俺は内容をろくに確認するふりもせず、ペンを走らせた。

 サラサラと名前を書き終えると、高野がひったくるように書類を回収した。


「よし! これで契約成立だ! 君は今日から、再び我が社の社員だぞ!」


 高野の声が一段大きくなった。

 契約書を手に入れたことで、彼の中での序列が確定したのだ。

 俺はもう「成功した元部下」ではなく、「支配下にある部下」に戻った。

 その瞬間に見せた彼の態度の変化は、実に分かりやすかった。

 ソファの背もたれにふんぞり返り、尊大な態度で俺を見下ろす。


「さて、矢崎君。復帰早々だが、仕事の話をしようか。君には期待しているんだ。明日から早速、高難易度ダンジョンに潜ってもらう」

「明日からですか? 少し準備期間が欲しいのですが」

「甘ったれるな! 会社は遊び場じゃないんだぞ。君が遊んでいる間も、給料は発生しているんだ。即戦力として働いてもらわなきゃ困る」


 先ほどまでの猫なで声はどこへやら。

 これが彼の本性だ。

 大柄な男もニヤニヤしながら口を挟む。


「おい矢崎、ビールがなくなったぞ。新しいの持ってこいよ。お前、一番下っ端なんだから気が利かないとな」

「私にはスイーツね。あそこの有名店のやつ、買ってきてよ」


 女性社員も調子に乗って注文をつける。

 彼らは完全に、昔の関係性に戻ったつもりでいる。

 俺が、あの頃の無力な矢崎カズだと信じて疑っていない。


 俺は静かに立ち上がった。

 怒りは湧かなかった。

 ただ、彼らのその無防備な首筋が、あまりにも哀れで、そして美味しそうに見えた。


「分かりました。ビールですね、持ってきますよ」


 俺は従順な部下を演じ、キッチンへと向かう。

 その背後で、高野たちの笑い声が響く。


「へへっ、やっぱあいつは使い勝手がいいな」

「ちょろいもんですよ。ちょっとおだてりゃ、すぐこれだ」

「これで俺たちの評価も鰻登りだな」


 笑っていればいい。

 今のうちに、せいぜい楽しんでおけばいい。

 その笑顔が凍りつき、絶望に歪む瞬間を想像すると、俺の足取りは自然と軽くなった。

 キッチンに入り、冷蔵庫を開けるふりをして、俺は再び端末を確認した。

 エリザからのメッセージが届いている。


『手付金、振り込み確認いたしました。株式の取得完了まで、あと二十四時間ってところかしら。楽しみにしていてね』


 あと一日。

 たった一日だけ、彼らの「会社ごっこ」に付き合ってやろう。

 そして二十四時間後、本当の支配者が誰なのかを、骨の髄まで教えてやる。


「お待たせしました、課長」


 俺は缶ビールとグラスを盆に載せ、最高の営業スマイルを張り付けてリビングへと戻った。


「おう、遅いぞ! まあいい、注げ」


 高野がグラスを突き出す。

 俺は恭しくビールを注ぎながら、心の中でカウントダウンを開始した。

 断罪の時まで、あと少し。

 泡立つ黄金色の液体の向こうで、フェンが楽しそうに欠伸をした。



 彼らが帰った後、部屋には静寂が戻った。

 散らかった空き缶や菓子の包み紙が、嵐の後のような惨状を呈している。

 だが、不快ではなかった。

 これは祭りの準備のようなものだ。


「カズ、あいつらを殺さなくてよかったのか?」


 フェンが不思議そうに首を傾げる。


「殺すよりも、もっと面白いことになるからな」

「ふうん? よく分からんが、カズが楽しそうならそれでいい」


 俺はテラスに出て、夜風に当たった。

 品川の夜景は変わらず美しい。

 だが、明日見る景色は、今日よりもっと美しく見えることだろう。

 俺はポケットから、彼らが置いていった契約書の控えを取り出した。

 そこに記された俺のサインを指でなぞる。

 この紙切れ一枚が、彼らにとっての地獄への片道切符になるとも知らずに。


 俺は小さく笑い、その紙を夜風に晒した。

 復讐劇の幕は上がった。

 主役はもちろん俺だが、彼らには最高の道化として踊ってもらおう。

 ステージの床が抜けるその瞬間まで。


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