第二十四話:魔界
アビス・タワー、第一階層エントランス。
かつては近代的なオフィスビルの回転扉があったはずの場所は、巨大な光の渦が巻く転移ゲートへと変貌していた。
その光の中から、俺とフェンは弾き出されるようにして地上へと帰還した。
足裏に伝わるアスファルトの硬質な感触。
鼻孔をくすぐる潮風と、排気ガスの混じった都市特有の匂い。
そして、鼓膜を震わせる街の喧騒。
静寂と不条理に支配されていた塔内部とは対照的な、生々しい「現実」の音がそこにはあった。俺は深く息を吸い込み、乱れたジャケットの襟を整える。
隣では、巨大な銀色の狼が、その毛並みをバサバサと振って、不快そうに鼻を鳴らしていた。
『カズ、空気がまずいのじゃ。埃っぽいし、鉄の味がする』
「それが東京の味だ。慣れろとは言わないが、我慢してくれ」
俺たちはゲートを背にして歩き出す。
背後では、これまで威圧的に明滅していたゲートの光が、急速に輝きを失い、沈黙していく気配がした。動力源であるコアを失ったことで、塔はその機能を停止したのだ。
まるで、電源を抜かれたサーバーのように。
周囲には、ゲートの異変を察知した探索者や、警備にあたるギルド職員たちが集まり始めていた。彼らは、突如として現れた俺たちと、背後で沈黙したゲートを交互に見比べ、ざわめき合っている。
「おい、あれ……あの二人組、どこから出てきた?」
「まさか、塔の中からか? 今まで封鎖されていたはずじゃ……」
「それに、あの巨大な銀色の狼……噂の『銀狼の主』じゃないか?」
ひそひそとした囁き声が波紋のように広がる。
どうやら、俺たちの知名度は、俺が認識している以上に高まっているらしい。SNSや掲示板での拡散力というのは恐ろしいものだ。
面倒なことになる前に、さっさと報告を済ませて帰るとしよう。
「行くぞ、フェン。まずはギルドだ」
『うむ。早く肉を食わせろ。……ここは視線が多くて落ち着かぬ』
俺たちは好奇の視線を向けてくる野次馬たちを無視し、品川の街へと足を踏み出した。
◇
品川ギルド本部、『セントラル・タワー』。
駅前の再開発エリアにそびえ立つそのビルは、全面ガラス張りの威容を誇り、日本の探索者ビジネスの中枢として機能している。
自動ドアを抜けると、そこは空港のロビーのように広大な吹き抜け空間だった。
床は鏡のように磨き上げられた大理石。壁面には巨大な電光掲示板が設置され、リアルタイムで魔石の相場や、ダンジョンの攻略状況が流れている。
行き交う人々も、泥臭い探索者だけではない。
高そうなスーツを着たクランの幹部や、素材の買い付けに来た商社マンたちが、忙しなく歩き回っている。ここは冒険の拠点というよりは、巨大な取引所だ。
俺は受付カウンターへと向かう。
フェンは退屈そうにあくびを噛み殺しながら、俺の足元に影のように寄り添っている。その巨体だけで周囲の人間が道を空けるので、移動はスムーズだ。
「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか?」
受付の女性が、完璧な営業用スマイルを浮かべて対応する。
その視線が、俺の胸元のランクバッジ(まだC級のままだ)と、連れている「犬」を一瞬だけ撫でた。わずかに侮蔑の色が見えたのは、気のせいではないだろう。
彼女にとって、俺たちは場違いな「田舎の探索者」に見えているのかもしれない。あるいは、ペット連れで冷やかしに来た観光客か。
「ダンジョン攻略の報告と、回収した物品の査定をお願いしたいのですが」
「攻略報告ですね。アビス・タワーの、何階層でしょうか?」
「五十階層です」
俺が短く告げると、受付嬢の手が止まった。
彼女は瞬きを数回繰り返し、困惑したように眉を寄せる。
「……お客様、冗談はおやめください。現在、アビス・タワーの到達記録は四十一階層です。それに、五十階層などというデータは……」
「データがないなら、更新すればいい。そのための証拠を持ってきました」
俺は背負っていた【亜空の背嚢】をカウンターの上に置いた。
そして、その口を少しだけ開け、中にある「それ」を取り出そうとする。
「ちょ、ちょっとお待ちください! ここで危険物は……!」
彼女の制止を聞かずに、俺は「それ」をカウンターの鑑定トレイの上にゴトリと置いた。
瞬間。
ロビーの空気が凍りついた。
置かれたのは、直径三十センチほどに圧縮した(背嚢から出すためにサイズ定義を一時的に変更した)、七色に脈動する結晶体。
【アビス・コア】。
その圧倒的な存在感。内包された魔力の密度があまりにも高すぎて、周囲の空間が陽炎のように揺らいで見える。
「こ、これは……?」
受付嬢が震える手で、鑑定用のスキャナーをかざす。
ピ、という電子音が鳴り、スキャナーが光を放つ。
その直後だった。
バチバチバチッ!!
激しいスパーク音と共に、スキャナーから黒煙が噴き出した。
「きゃあっ!?」
受付嬢が悲鳴を上げて飛び退く。
それだけではない。カウンターに設置されていた大型の解析モニターにも、赤い警告灯が激しく明滅し始めた。
『WARNING! WARNING!』
『MEASUREMENT ERROR』
『OVER FLOW』
無機質な警告音がロビー中に鳴り響く。
さらに、ロビーの照明までもが、コアの魔力干渉を受けて明滅を始めた。
「な、なんだ!? 敵襲か!?」
「おい、あのカウンターを見ろ! なんだあの光る石は!」
「魔力数値が……計測不能だと!? スカウターが壊れたぞ!」
周囲にいた探索者たちが騒然となる。
警備員たちが警棒を手に駆け寄ってくるが、コアから放たれるプレッシャーと、その横に鎮座する銀狼の眼光に押され、誰も近づけない。
「……おいおい、品川の設備は最新鋭じゃなかったのか?」
俺は呆れて溜息をつく。
少し出力を絞っておくべきだったか。だが、これでもかなり抑制したつもりなのだが。
『カズ、人間たちの機械は脆いのう。私のくしゃみ一つで壊れそうじゃ』
フェンが面白そうに、パニックになる人々を眺めている。
彼女にとっては、この騒ぎも一種の余興でしかないようだ。
騒ぎが収拾つかなくなりかけた、その時だった。
「――そこまでになさい」
凛とした、しかし妖艶な響きを含んだ声が、ロビーの上空から降り注いだ。
全員の視線が、吹き抜けの二階部分、回廊の手すりに向けられる。
そこに立っていたのは、紫がかった黒髪を波打たせ、深いスリットの入った魔導ローブを纏った女性だった。
『万象の魔女』、マリー・エリザベス。
この品川ギルドの長であり、日本屈指の魔法使い。
彼女は手すりに身を預け、眼下の混乱を冷ややかな、それでいて熱っぽい瞳で見下ろしていた。
「私の可愛いスキャナーを壊したのは、どこのどいつ……と言いたいところだけど」
彼女の視線が、カウンターの上のコアに釘付けになる。
その瞳孔が開いたのが、遠目にも分かった。
「……あら。とんでもない『お土産』を持ってきたようね」
マリーは指をパチンと鳴らす。
その瞬間、彼女の姿が掻き消え、次の瞬間には俺の目の前に転移していた。
空間転移。相変わらず、出鱈目な魔法使いだ。
「マリーさん、お久しぶりです。頼まれていたブツですが」
「ええ、ええ、見れば分かるわ。挨拶は後よ」
マリーは俺の言葉など耳に入らない様子で、コアに顔を近づける。
その美しい顔が、歓喜と興奮で紅潮している。
「素晴らしい……! この純度、この密度! 物理次元に存在していること自体が奇跡だわ!」
彼女は周囲の視線も気にせず、コアを愛おしそうに撫で回す。完全に自分の世界に入っている。
周りの職員たちが「ギ、ギルドマスター!?」と困惑しているが、彼女には聞こえていないようだ。
「あの、マリーさん。周りが怖がっています。場所を変えませんか」
「……っ、そうね。ここでは目立ちすぎるわ」
マリーは我に返り、周囲を一瞥する。
その一睨みで、野次馬たちは蜘蛛の子を散らすように視線を逸らした。
「ついてらっしゃい。特別に、私の『研究室』へ招待するわ」
彼女はそう言うと、コアを魔力で浮遊させ、エレベーターホールへと歩き出した。
俺とフェンも、その後に続く。
すれ違いざま、茫然としている受付嬢に、俺は軽く会釈をしておいた。
「スキャナーの弁償は、このコアの買取額から引いておいてください。……経費で落ちるはずですから」
◇
通されたのは、最上階にあるギルドマスター執務室――という名の、魔女の実験室だった。
重厚な扉を開けた先には、乱雑に積み上げられた古文書の山と、怪しげな液体が煮立つフラスコ、そして宙を舞う自律型の羽ペンたちが待っていた。
高級なオフィス家具は部屋の隅に追いやられ、代わりに魔法陣が描かれた床が部屋の中央を占拠している。
「適当に座ってちょうだい。……ああ、そのソファは人食いミミックの標本だから気をつけて」
マリーは平然と言ってのけ、浮遊させていたコアを部屋の中央にある台座へと安置した。
俺は無難なパイプ椅子を選んで座る。
フェンは「生意気な椅子じゃ」とミミックを鼻先で小突き、牙を剥いて威圧してから、その上にドカリと寝そべった。ミミックはプルプルと震えながら、大人しく高級革張りのクッションのふりをしている。
神獣の尻に敷かれるとは、ミミックにしては光栄な最期かもしれない。
「さて、矢崎君。そして可愛いワンちゃん」
マリーは振り返り、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
だが、その瞳の奥には、鋭い探究の光に染まっている。
「あなたたち、これが何だか分かっていて持ってきたの?」
「タワーの動力源、アビス・コアですよね。五十階層で回収しました」
「ええ、そうよ。でも、それだけじゃない」
マリーは杖を一振りし、空中に複雑なホログラムを展開した。
それは、日本の地図と、各地に点在するダンジョンの位置を示す赤い点だった。
そして、その点の下には、地下深くへと伸びる無数の『線』が描かれている。
それらの線は、地殻を貫き、さらにその奥深くにある『別の領域』へと繋がっていた。
「単刀直入に言うわ。この世界にある全てのダンジョンはね、『門』なのよ」
「門……ですか」
「そう。異界――あなたたちの言葉で言うなら『魔界』へと繋がる、巨大なトンネル。それがダンジョンの正体よ」
俺は眉をひそめた。
ダンジョンとは、魔力溜まりが変質した地下空間だというのが一般的な定説だ。
だが、マリーの仮説はそれを根底から覆すものだった。
「本来、こちらの世界とあちらの世界は、強固な次元の壁で隔てられているわ。でも、何らかの理由でその壁に穴が開き、あちら側の空気が漏れ出してくることがある。その『漏れ出した空気』が魔力となり、周囲の環境を変質させてダンジョンを形成するの」
マリーはアビス・コアを指差す。
『ふん、やはりな』
それまで黙って、マリーが出した茶菓子の皿(マカロンが山盛りになっている)を前足で器用に引き寄せ、ガリガリと噛み砕いていたフェンが口を開いた。
『この石からは、懐かしい匂いがする。父上の庭……魔王城の裏手にある、彼岸花の園の匂いじゃ』
フェンの言葉に、マリーが目を見開く。
「魔王城……! あなた、やはりあちら側の……」
『詮索は無用じゃ、魔女。私は今はカズのパートナーであるからな』
フェンは興味なさそうに鼻を鳴らし、次のマカロンを口に放り込む。甘い菓子も、彼女にかかれば骨付き肉と同じ扱いだ。
俺は情報を整理する。
つまり、俺が引っこ抜いてきたこの石は、品川ダンジョンと魔界を繋ぐ要石であり、支柱だったわけだ。
それを取ってしまったということは……。
「マリーさん。支柱を取ってしまった今、アビス・タワーはどうなるんです?」
「崩壊するわね」
マリーは平然と言い放った。
「崩壊……?」
「ええ。あの塔は、このコアの魔力によって物理法則を無視して存在していたの。核を失った今、その構造を維持することは不可能よ。おそらく数日……いいえ、数時間以内に、ダンジョンとしての機能を失い、消滅するでしょうね」
彼女は楽しそうに、けれど恐ろしいことを言った。
品川のランドマークとも言える巨大ダンジョンが、消えてなくなる。
それは魔物が溢れ出すパニックとはまた別の、社会的な混乱を引き起こすだろう。
エネルギー資源の枯渇、探索者たちの失業、周辺経済への打撃。
考えるだけで頭が痛くなる話だ。
「……笑い事じゃないでしょう。そんなことになったら大騒ぎですよ。責任問題、賠償請求、マスコミの追求……」
「だからこそ、口止めが必要なのよ」
彼女は悪びれもせずに笑うと、デスクの引き出しから一枚のカードを取り出し、俺に向かって投げた。
俺はそれを空中でキャッチする。
金色に輝くカードには、ギルドの紋章と、『A』の文字が刻まれていた。
「これは?」
「A級探索者のライセンスよ。特例措置での昇格ね」
俺はカードを裏返す。そこには既に『YAZAKI KAZU』の名が刻まれていた。
用意周到だ。最初から、この結末をある程度予測していたのかもしれない。
会社の不祥事を隠蔽するために、現場の人間を昇進させて口をつぐませる。
よくある話だ。
「今回の件、ギルド本部としては公にできないわ。『品川のダンジョンが、探索者がコアを持ち去ったせいで消滅しました』なんて発表したら、責任問題になるもの。だから、表向きは『未知のエネルギー資源の発見による功績』として、ダンジョンの消滅は『自然現象』として処理するわ」
「口止め料、というわけですか」
「相応の対価よ。あなたの実力なら、Aランクのほうが何かと詮索されることはないでしょう」
一瞬、目立つAランクというものを拒否しようと考えた。
しかし――そうだ。
この俺がダンジョンを攻略した事実は、早かれ遅かれ広まるに違いない。
だとすれば、それ相当のランクに収まっていたほうが、面倒がない。
そう、俺が求めているのは、名誉でも権力でもない。
フェンと美味しいものを食べ、快適に眠るための『自由』だ。
いちいちギルドからの呼び出しに煩わされることなく、好きな時に潜り、好きな時に休む。
このカードは、そのためのパスポートだと考えればいいのだ。
「……いいでしょう。受け取ります」
俺はカードをスーツのポケットに収めた。
取引成立だ。
「ただし、俺たちはあくまで『自由』に行動させてもらいますよ。ダンジョンが崩壊しようが、魔界への門がどうなろうが、俺の生活を邪魔しない限りは関知しません」
「ええ、分かっているわ。……でも、きっと向こうから『お客様』がやって来ると思うけれどね」
マリーは意味深に微笑むと、視線をコアに戻した。
彼女の中では、もう俺たちとの会話よりも、目の前の研究対象の方が重要になっているようだ。
「用件は済みましたね。帰りますよ、フェン」
『うむ。腹が減って背中と腹がくっつきそうじゃ。マカロンとやらでは腹の足しにもならぬ』
フェンがミミックのソファから飛び降りる。解放されたミミックが、安堵したようにぐったりと萎れた。
俺たちは執務室を後にする。
◇
ギルドを出ると、外はすでに夜の帳が下りていた。
品川のビル群が放つ人工の光が、星の見えない夜空を焦がしている。
俺とフェンは、ベイサイドのマンションへと続く遊歩道を歩いていた。
海風が火照った頬に心地よい。
ダンジョンの中の、あの黴臭く、ピリついた空気とは大違いだ。
「カズ、今日の飯は何じゃ?」
フェンが、巨大な狼の頭を俺の腰に擦り付けてくる。
彼女の関心事は、世界の命運よりも、今夜の夕食にあるらしい。
その単純さが、今はたまらなく愛おしい。
「約束通り、ステーキだ。最高級のシャトーブリアンを用意してある」
「しゃと……ぶり? なんじゃそれは。強いのか?」
「強さで言えば最強クラスだな。口に入れた瞬間、とろけるぞ」
「おお! それは楽しみじゃ!」
フェンが太い尻尾をブンブンと振る。
その無邪気な様子を見ていると、先ほどの『魔界の門』の話など、遠い世界の出来事のように思えてくる。
これからの俺の視線の先にあるのは、温かい食事と、柔らかいベッド。
そして、隣を歩くこの頼もしい家族との未来だけだ。
「帰ろう、フェン。肉が待ってる」
「うむ! 肉じゃ! 早く焼くのじゃ!」
俺たちは足早に家路を急ぐ。
背後の空では、アビス・タワーの灯りが、ひとつ、またひとつと消え始めていた。




