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第二十三話:不条理なオフィスのルール

 四十一階層の深淵は、物理的な深さではなく、認識の深さを試される場所だった。

 俺とフェンは、どこまでも続く回廊を歩いていた。


 いや、『歩いている』という表現すら正しいのか怪しい。

 俺たちの足裏は確かに床を捉えているが、視線の先にある風景は、三半規管を嘲笑うかのように捻じれ、狂っていたからだ。


 右手の壁には、重厚な社長室のドアが並んでいる。

 左手の壁には、なぜか床材であるはずのカーペットが敷き詰められ、そこに観葉植物が逆さまに生えている。

 そして頭上を見上げれば、そこには天井などなく、紫色の星雲が渦巻く宇宙空間が広がっているのだ。

 まるで、巨大なビルを雑巾絞りにして、宇宙の真ん中に放り出したような光景。


 『論理崩壊領域』。

 このエリアの呼び名は、あながち間違っていなかったらしい。


「カズ、なんだか気持ちが悪いのじゃ……」


 隣を歩く銀色の巨狼――フェンが、念話で弱々しい声を漏らした。

 無理もないだろう。彼女のような野性の感覚が鋭い獣にとって、重力の方向がデタラメなこの空間は、平衡感覚を直接かき回されるようなものだ。

 数メートル進むごとに、身体にかかるGの向きが変わる。


 一歩目は下へ。

 二歩目は右へ。

 三歩目は、なんと斜め後ろへ引かれるような感覚。

 俺たちは、目に見えない巨大な手に振り回されるサイコロのようなものだ。


「少し休憩するか? 酔い止めに、耳の後ろでも掻いてやろうか」

『うむ……頼む。地面がグニャグニャして、四本の足がどこにあるか分からなくなる』


 俺は立ち止まり、フェンの首筋の毛に指を沈めてマッサージしながら、周囲の空間情報を読み取るためにスキルを発動する。

 視界に浮かぶウィンドウの文字も、ノイズが混じったように明滅している。


 

『迷走する意思決定』

『現在地:第四十二階層『迷走する意思決定』』

『空間特性:重力変動ランダム

『環境汚染:論理矛盾』 

 

 『迷走する意思決定』か。

 なんとも皮肉なネーミングだ。

 俺はかつての職場を思い出さずにはいられなかった。


 朝の会議で「右へ行け」と指示した上司が、夕方には「なぜ左に行かなかったんだ」と怒鳴り散らす。

 方針が定まらず、現場の人間だけがその場の思いつきに振り回され、疲弊していく。

 この空間の重力変動は、まさにその理不尽さを物理現象として具現化したものだ。


 上に行けばいいのか、下に行けばいいのか。

 正解のない迷路を、永遠に彷徨わされる徒労感。


 だが、今の俺には『拒否権』がある。

 俺は右手をかざし、空間そのものの定義に干渉する。


「……上書き」


 俺とフェンの周囲、半径五メートル。

 その空間内における重力の定義を、強制的に書き換える。


『重力ベクトル:可変』 → 『重力ベクトル:俺の足裏方向へ固定』


 書き換え。


 ブゥン、という低い音が鼓膜の奥で鳴った瞬間、世界がカチリと音を立てて安定した。

 足元が吸い付くように床を捉える。

 振り回されるような浮遊感が消え、確かな質量を持った重みが戻ってくる。


「どうだ、フェン」


『おお! 止まったぞ! 世界が止まったのじゃ!』


 フェンがパッと顔を輝かせ、その場で軽く飛び跳ねる。

 銀色の毛並みがサラサラと揺れ、先ほどまでの不調が嘘のように尻尾が振られる。


『さすがカズじゃな。この訳の分からん場所でも、お主がいれば安心じゃ』

「そう言ってもらえると、俺も書き換えた甲斐があるよ。さあ、先へ急ごう。このエリアは長居するには精神衛生上よろしくない」


 俺たちは再び歩き出した。

 安定した足場を得た俺たちにとって、この異界の風景はもはやただのシュールレアリスムの絵画鑑賞でしかない。



 四十三階層、四十四階層と進むにつれて、空間の崩壊はさらに深刻度を増していった。

 目の前に現れたのは、上下左右が無限に連結された階段の迷宮だ。

 エッシャーのだまし絵を、そのまま立体化したような構造。階段を登っているはずなのに、いつの間にか下りていたり、元の場所に戻っていたりする。


 前方から、またしても奇妙な住人が現れた。

 今度は、のっぺらぼうの顔をした、グレーのスーツを着た集団だ。

 彼らは一様に、手にした空っぽの段ボール箱を抱え、階段を行ったり来たりしている。


『虚無の運搬者』


 彼らは何も運んでいない。

 ただ、「運んでいるふり」をして、忙しなく動き回っているだけだ。


 口々に虚ろな言葉を呟きながら、彼らは俺たちの進路を塞ぐように群がってくる。

 実害はないように見えるが、彼らに触れられると、こちらの思考速度が著しく低下するというデバフ効果がある。『思考停止』の感染だ。


『カズ、邪魔じゃ。蹴散らしてよいか?』


 フェンが鬱陶しそうに牙を剥く。


「いや、まともに相手をするな。彼らは『仕事をしているふり』がしたいだけなんだ。なら、仕事を与えてやればいい」


 俺は指先で空中にウィンドウを展開し、彼らの行動ルーチンに干渉する。


『優先タスク:徘徊』 → 『優先タスク:直立不動』


 書き換えた瞬間、数十体いた運搬者たちが、ピタリと動きを止めた。

 まるで電池が切れた玩具のように、その場で直立し、微動だにしなくなる。

 彼らが作り出していた「忙しい雰囲気」という名の壁が消滅し、ただの障害物へと変わった。


「通るぞ」


 俺たちは彫像と化した彼らの間を縫うようにして、その階段エリアを突破した。


 意味のない労働。目的のない移動。

 それがいかに虚しいことか。かつての俺も、机の上で書類を右から左へ移すだけの作業に、何の意味があるのかと自問自答した日々があった。


 だが、今の俺には明確な目的がある。

 美味しいものを食べ、快適な家で眠り、フェンという家族を守る。

 シンプルだが、これ以上ないほどに尊い目的だ。それがある限り、俺はこの虚無の迷宮に飲み込まれることはない。



 四十五階層を抜けた先で、風景が一変した。

 そこは、広大な宇宙空間に、無数のデスクが浮遊するエリアだった。


 床も壁もない。

 あるのは、果てしない暗闇と、点在する星々。そして、その中を小惑星帯のように漂う事務机やキャビネットの残骸たち。

 俺たちは階段の出口である断崖に立ち、その光景を見下ろしていた。


『カズ、道がないぞ。まさか、あの机の上を飛び移って行けと言うのか?』


 フェンが身を乗り出し、遥か彼方に浮かぶ出口らしき光の扉を見つめる。

 距離にして、およそ一キロメートル。その間には、不安定に回転する家具が点々と浮いているだけだ。落ちれば、底なしの宇宙の藻屑となる。


 俺は苦笑する。だが、この状況も想定内だ。

 ここが『論理崩壊領域』であるならば、こちらの論理を押し通せばいい。


「フェン、俺の近くへ。特急列車が出るぞ」

『特急? 電車が来るのか?』

「いや、俺たちが電車になるんだ」


 俺は【亜空の背嚢】から、一つのアイテムを取り出した。

 以前の階層で手に入れた『ミスリルの大盾』だ。

 俺はそれを虚空に浮かべ、自分とフェンを乗せる。


 そして、記述権を発動。

 対象、ミスリルの大盾。

『属性:防具』 → 『属性:乗り物』


 さらに、この空間の『空気抵抗』の数値をいじる。


『空気抵抗:ゼロ』

『推進力:付与(風魔法・強)』


「しっかり伏せて、爪を立ててろよ!」


 俺の合図と共に、フェンは素早く盾の上に腹這いになり、その鋭い爪をミスリルの縁に食い込ませた。

 次の瞬間、盾の後方から圧縮された空気が噴出した。


 ドォォォン!


 猛烈な加速Gが身体を襲う。

 俺たちはロケットのような速度で、虚空へと飛び出した。


『ひゃあぁぁぁっ!? カズ、速い! 速すぎるぞっ!』


 フェンが風圧で耳をペタンと伏せ、目を細めて叫ぶ。

 俺たちは浮遊するデスクの群れを、縫うようにして疾走する。

 迫りくる巨大なロッカーを紙一重でかわし、回転するコピー機の下をくぐり抜ける。宇宙空間をサーフィンするように、俺たちは一直線に出口を目指す。


「障害物、右前方!」


 行く手を塞ぐように、書類の竜巻が発生している。あれに巻き込まれれば、ただでは済まない。

 だが、ブレーキなど踏まない。

 俺は盾の先端に向け、新たな記述を撃ち込む。


『状態:無敵突進』


「突き破るぞ!」


 ズドォォォォン!!


 俺たちは白い紙吹雪を撒き散らしながら、竜巻の中心を強引に突破した。

 視界が開ける。目の前に、四十六階層への扉が迫っていた。


「到着だ!」


 俺は逆噴射の記述を書き加え、強引に減速をかける。

 キキキキキッ!

 見えないレールが軋むような音と共に、俺たちの乗った盾は、扉の前のプラットホームに滑り込んだ。


 完全停止。静寂が戻る。


『……ハァ、ハァ……。カズ、お主、たまに無茶をするのう』


 フェンが目を回したようにふらつきながら、盾から降りる。

 その自慢の毛並みは風でボサボサになっていたが、表情はどこか楽しげだった。


「最短距離で行くのが、効率的だろう?」


 俺は盾を回収し、乱れた髪を手櫛で整える。

 これが俺流の攻略法だ。ダンジョンのルールに従ってちまちまと足場を渡るなんて、時間の無駄だ。ルールがないなら、作ればいい。それが『管理者』の特権なのだから。



 四十六、四十七、四十八……。

 階層を進むごとに、世界の崩壊は抽象的な色合いを濃くしていった。


 ある部屋は、すべての色が反転していた。白い影と、黒い光。

 またある部屋は、時間の流れが狂っていた。

 俺たちは、それら全ての異常事態を、淡々と処理して進んだ。


 色が狂っていれば、網膜に届く信号の定義を書き換えて補正する。

 時間が狂っていれば、自分たちの周囲だけ『標準時』を適用して無視する。

 どんな不条理も、俺の【記述権】の前では、単なる『誤字脱字』に過ぎない。

 見つけ次第、修正し、正しい形へと整える。


 そして、ついに。

 俺たちは四十九階層の最深部へと到達した。


 そこには、一枚の巨大な扉が立っていた。

 材質は不明。黒とも白ともつかない、見る角度によって色を変える不思議な金属でできている。

 これが、五十階層――タワーのコアへの入り口だ。


 だが、その扉の前には、最後の番人が待ち構えていた。

 それは、形を持たない『影』だった。

 人の形をしているようにも見えるし、獣のようにも見える。定まらない形状、揺らぐ存在感。


【虚構の番人】


 ステータスを表示しようとした俺は、眉をひそめた。

 ウィンドウに表示されたのは、文字化けしたような意味不明な羅列だけだったからだ。


 ===================================

 対象:■■■■

 種族:概念体

 HP:∞/∞

 属性:無

 特性:【■■無効】【■■反射】【存在固定】

 ===================================


 HPが無限大。属性なし。

 まさに『無敵』の設定を盛り込まれた、子供が考えた最強キャラのような理不尽さだ。


『カズ、あやつ……妙だぞ。匂いがしない。気配もない。なのに、そこに居る。気味が悪いのう』


 フェンが前足を低くし、唸り声を上げる。

 番人は言葉を発することなく、ただそこに立ち尽くしている。だが、奴が右手を上げただけで、空間が悲鳴を上げた。


 バキバキバキッ!!


 俺たちの周囲の空間に、ガラスのような亀裂が走る。『空間断裂』。

 物理的な攻撃ではない。俺たちの存在そのものを、世界から切り離して消去しようとしているのだ。


「……ッ、フェン! 離れろ!」


 俺はとっさにフェンをかばい、バックステップで回避する。

 直後、俺たちが立っていた場所の空間が、ごっそりと抉り取られた。床も空気も光も消滅し、完全な『無』の穴が空いている。


『カズ! 無事か!?』

「ああ、かすり傷ひとつない!」


 俺は体勢を立て直し、番人を睨みつける。

 HP無限。物理無効。

 だが、どんなプログラムにも必ず『穴』はある。


 俺は冷静に、奴の『構成』を解析し始めた。

 文字化けしているのは、奴自身が『読み取られないように暗号化』されているからだ。

 俺は集中力を極限まで高める。0と1の奔流。意味不明な記号の羅列。

 その中にある、わずかな法則性を見つけ出す。


 ……見つけた。

 奴の『中核』となる定義ファイル。そこに書かれていたのは、たった一行の命令文だった。


『定義:この扉を通る者を拒絶する』


 それだけだ。その単純な命令を実行するためだけに、奴は存在している。

 逆に言えば、その命令さえ無効化できれば、奴は存在意義を失う。


 俺はニヤリと笑った。

 真正面から殴り合って勝てる相手ではない。ならば、こちらは『事務手続き』で対抗するまでだ。


 俺は右手を突き出し、虚空に新たなウィンドウを展開する。

 それは攻撃魔法の詠唱ではない。『申請書』の作成だ。


『入室許可申請書』

 宛先:論理の番人殿

 申請者:矢崎カズ

 目的:施設点検および清掃


 俺はその書類データに、俺の魔力をインク代わりにして署名する。

 そして、そのデータを番人の『中核』へと送信した。


「……提出」


 番人の動きが止まった。

 振り上げられた腕が、空中で静止する。

 奴の内部で、新たな命令と、既存の命令が衝突を起こしているのだ。『拒絶せよ』という命令と、『許可された者は通せ』という矛盾。


 俺はさらに畳み掛ける。


『承認印:可』


 俺自身が承認者となって、強引にハンコを押す。

 自作自演の決裁。だが、この世界の記述権を持つ俺の承認は、絶対的な効力を持つ。


 ピシッ……。


 番人の身体に、亀裂が入った。

 『拒絶』という役割を失った概念体は、その形を保てなくなる。

 ガラガラと音を立てて、影の身体が崩れ落ちていく。無限のHPなど関係ない。戦う理由そのものを奪われた兵士は、戦場に立つことすらできないのだ。


 数秒後。そこには何も残っていなかった。

 ただ、閉ざされていた扉が、重々しい音を立ててひとりでに開き始めただけだ。


 ゴゴゴゴゴゴ……。


 開かれた扉の向こうから、眩い光が溢れ出してくる。

 それは、これまでの禍々しい魔力とは違う。純粋で、どこか神聖ですらある、圧倒的なエネルギーの奔流。


「行こうか、フェン」

『うむ! いよいよ大詰めじゃな!』


 俺たちは並んで、光の中へと足を踏み入れた。



 光を抜けた先に広がっていたのは、巨大なドーム状のホールだった。

 壁も床も天井も、すべてが透明なクリスタルのような素材でできている。

 そして、その中央に、ひとつの巨大な結晶体が浮かんでいた。


 直径十メートルはあるだろうか。

 七色に輝くその結晶は、心臓の鼓動のようにゆっくりと脈動している。


『名称:アビス・コア』


 これが、この塔の動力源であり、心臓部。

 そして、マリーが欲しがっていた『お土産』だ。


「……綺麗じゃな」


 フェンがポツリと漏らす。

 彼女の紅い瞳に、虹色の光が反射している。


「ああ。これを持って帰れば、マリーも喜ぶだろう」


 俺はコアに近づく。

 コアの周囲には強力な結界が張られているようだが、今の俺には障子紙ほどの強度にも感じられない。

 俺は記述権で結界を解除し、コアに手を触れる。

 温かい。膨大なエネルギーが、指先を通じて流れ込んでくる。


 俺は【亜空の背嚢】の口を開き、その巨大な結晶を丸ごと収納した。

 ズズズ……と音を立てて、コアが異空間へと吸い込まれていく。


 収納が完了した瞬間、周囲のクリスタルの壁が輝きを失い、急速に薄暗くなっていった。

 塔の機能が停止したのだ。

 これで、アビス・タワーはただの巨大な廃墟と化した。二度と、あのような理不尽な環境で探索者を苦しめることはないだろう。


「仕事完了だ」


 俺はパンと手を叩く。

 これで晴れて、俺たちは自由だ。マリーとの約束も果たした。

 あとは地上に戻って、約束のステーキを食べるだけだ。


「帰ろう、フェン。腹が減った」

『うむ! 肉じゃ! 肉が待っておる!』


 俺たちは、コアがあった場所の直下に浮かび上がった魔法陣の上に立つ。

 転移の光が視界を白く染め上げ、俺たちの意識を地上へと運んでいった。


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