第二十二話:空調管理者の強制更迭
三十九階層から四十階層へと続く階段は、これまでの無機質なコンクリートや、剥き出しの鉄骨とは異なり、重厚な石造りへと変化していた。
一段登るごとに、空気の密度が変わっていくのが分かる。
肌にまとわりつくような湿気は消え失せ、代わりに喉の奥がヒリつくような、乾いた冷気が漂い始めていた。
それは単なる気温の低下ではない。
オゾン特有の刺激臭。
大気が極限まで張り詰め、いつ破裂してもおかしくないような緊張感。
俺は襟元をただし、隣を歩く相棒に視線を向けた。
「フェン、毛並みの具合はどうだ?」
『最悪じゃ。先ほどの湿気で少し重いし、今度はバチバチして毛が逆立つ。早く風呂に入ってトリートメントをしたいのう』
銀色の狼は、不快そうに身震いをした。
その美しい毛先からは、微弱な火花が散っている。静電気が発生しているのだ。彼女のようなモフモフとした存在にとって、乾燥と帯電は天敵と言えるだろう。
「辛抱してくれ。ここを抜ければ、上層階が待っているはずだ」
『うむ。それにしてもカズよ、先ほどから上でゴロゴロと鳴っておるが、あれは腹の虫か?』
「いや、あれは空腹の合図じゃない。もっと質の悪い、環境設備の騒音だ」
俺たちが最後の段差を登りきった瞬間、視界が一気に開けた。
そこは、天井のない巨大な闘技場のような空間だった。
いや、天井がないというのは正確ではない。
頭上を覆っているのは、墨汁をぶちまけたような漆黒の積乱雲だ。
渦を巻く雲の隙間から、紫色の雷光が不規則に明滅し、鼓膜を直接殴打するような轟音が絶え間なく響き渡っている。
バリバリバリッ! ドォォォン!!
暴風が吹き荒れ、俺のスーツの裾を激しくはためかせる。
台風の直撃を受けたビルの屋上など、比較にならない。
ここは、災害そのものが凝縮された場所だ。
そして、その嵐の中心に、一匹の巨竜が鎮座していた。
『アトモス・ドラゴン』
全長は三十メートルを下らないだろう。
全身を覆う鱗は、濡れた粘板岩のように黒く鈍い光沢を放っている。翼を広げた姿は、空そのものを支配する王の威厳に満ちていた。
長い首の先にある頭部には、捻じれた二本の角。
眼窩の奥で燃える金色の瞳が、侵入者である俺たちを捉えた。
『ガルルルル……!』
咆哮。
それだけで大気が震え、衝撃波となって俺たちに襲いかかる。
だが、フェンは一歩も引かず、逆に牙を剥き出しにして唸り返した。
『やかましいわ! 耳が痛かろう!』
神獣の咆哮が、ドラゴンのそれを相殺し、周囲の暴風を一瞬だけ凪がせる。
さすがは我が相棒だ。災害相手でも口喧嘩で負ける気がしないらしい。
俺は冷静に、目の前の巨竜を観察する。
この階層の主。中層エリアにおける最強の門番。
だが、俺の目には、それは単なる『生物』としては映らない。
視界の端にポップアップするウィンドウが、このドラゴンの正体を無機質なテキストとして告げている。
『対象:アトモス・ドラゴン』
『役割:中層エリア環境制御ユニット』
『権能:気象操作(豪雨、雷撃、竜巻)』
『状態:出力過剰』
なるほど
この塔において、モンスターとは単なる敵ではない。
下層の植物たちが『観葉植物』の成れの果てであったように、このドラゴンもまた、このビルの機能を担う『設備』の一部なのだ。
その役割は、おそらく『空調管理』。
ビル内部の空気循環や、温度調整を司るシステムの中枢。
それが何らかの原因で暴走し、快適な微風を送るはずの機能が、致死性の暴風雨を生み出す殺戮兵器へと変貌してしまった。
そうだとすれば、この目の前のドラゴンは、『設定を間違えた空調』の具現化なのだろうか。
「フェン、あいつはただのエアコンだ。ちょっと設定温度が低すぎるだけのな」
『エアコン? あの冷たい風が出る箱か? ずいぶんと凶暴な箱もあったものじゃな』
「ああ。だから、これから俺が適正温度に設定し直す。少し時間を稼いでくれ」
『分かった!あやつの鼻っ柱をへし折ればよいのじゃな!』
フェンが大地を蹴る。
銀色の弾丸と化した彼女は、暴風をものともせずにドラゴンへと肉薄する。
ドラゴンが反応し、巨大な翼を羽ばたかせた。
カマイタチが発生し、不可視の刃となってフェンに降り注ぐ。
だが、フェンは空中で身をひねり、それらを紙一重で回避していく。
俺はその隙に、ドラゴンへの干渉を試みる。
右手をかざし、対象の情報を詳細に読み解く。
注目すべきは、攻撃手段のパラメータだ。
ドラゴンの口が大きく開かれ、喉の奥に眩い光が収束していくのが見えた。
周囲の静電気が一箇所に集まり、髪の毛が逆立つほどのプレッシャーが肌を刺す。
ブレスだ。
いや、あれは炎ではない。
『攻撃種別:極大雷撃ブレス』
『電圧:5億ボルト』
『電流:20万アンペア』
冗談ではない数値だ。
直撃すれば、防御力など関係なく蒸発する。
俺のスーツがいくら魔物繊維で強化されていようとも、物理法則の彼方にあるエネルギーには耐えられない。
だが、俺には『権限』がある。
脳内で素早く記述を書き換えていく。
「……設定変更」
まずは電圧の数値を削除。
『500000000V』という数字をバックスペースで消去し、代わりにこう入力する。
『30V』
次に電流。
『200000A』を削除。
『0.001mA』
ついでに、攻撃名称とその性質も書き換える。
『極大雷撃ブレス』 → 『冬場のドアノブ』
『効果:消滅』 → 『効果:指先がパチッとする』
書き換えだ。そして、世界が書き換わる感触。
同時に、ドラゴンの口から閃光が放たれた。
カッッッ!!!
視界が真っ白に染まるほどの光。
轟音……は、しなかった。
パチッ。
乾いた音が、静寂の中に小さく響いただけだった。
俺の目の前、わずか数センチの距離まで迫っていた雷撃は、まるで線香花火の最後のように、頼りなく瞬いて消滅した。
俺の人差し指の先に、わずかな刺激が走る。
「……痛っ」
思わず声が出た。
冬場、セーターを脱いだ後に金属に触れた時のような、あの不快な刺激だ。
地味に嫌な痛みだが、それだけだ。
命を刈り取るはずだった破壊の光は、ただの静電気へと成り下がっていた。
『ガルルル……?』
ドラゴンが目を見開き、困惑の声を漏らす。
自分の最強の攻撃が、人間一人殺せずに消えたのだ。その動揺は計り知れないだろう。
必死に喉を鳴らし、再び雷撃を放とうとしているが、出てくるのは「パチッ」「プチッ」という情けない火花だけ。
それはもはや、攻撃ですらなかった。
「残念だったな」
俺は冷ややかに言い放つ。
『カズよ、何をしたのじゃ? あやつの顔、鳩が豆鉄砲を食らったようになっとるぞ』
フェンが空中で制動をかけ、俺の隣に着地する。
「ただの電圧調整だ。家庭用電源よりも弱くしておいた」
『相変わらず、えげつないことをするのう。……だが、これであやつの武器はなくなったわけか?』
「ああ。あとは、あのでくの坊を撤去するだけだ」
俺はドラゴンの頭上、渦巻く黒雲を指差した。
「あの雲も邪魔だ。あれのせいで、洗濯物が乾かない」
俺は追撃の手を緩めない。
環境制御ユニットとしてのドラゴンそのものを、さらに書き換える。
『役割:中層エリア環境制御』 → 『役割:粗大ゴミ』
『装甲強度:オリハルコン級』 → 『装甲強度:発泡スチロール』
『飛行能力:有』 → 『飛行能力:無』
記述を確定させた瞬間、ドラゴンの巨体が大きく傾いた。
翼が空気を捉える力を失い、その重量を支えきれなくなったのだ。
ドズゥゥゥン!!
巨大な質量が地面に叩きつけられる。
本来なら地響きが起きるところだが、発泡スチロールのように軽くなった巨体は、ボヨンと間の抜けた音を立ててバウンドした。
鱗の光沢が失われ、安っぽいプラスチックのような質感へと劣化していく。
もはや、そこに王の威厳はない。
ただの巨大な、空っぽの模型が転がっているだけだ。
『……哀れよのう』
フェンが呆れたように呟く。
『誇り高き竜が、あのような姿になるとは。カズを敵に回したのが運の尽きじゃな』
「同情するなら、介錯してやってくれ。あいつ自身も、壊れた設定のまま暴走させられるのは苦痛だったはずだ」
俺の言葉に、フェンが頷く。
彼女の全身から、銀色の魔力が溢れ出した。
それは先ほどの静電気のような頼りないものではない。純粋で、圧倒的な神獣の力。
『さらばじゃ、空調係!』
フェンが口を大きく開ける。
そこに収束するのは、絶対零度の冷気。
ドラゴンの雷撃とは対極にある、万物を静止させる氷のブレスだ。
『氷結の咆哮』
放たれた冷気は、一直線にドラゴンへと向かい、その巨体を瞬時に氷像へと変えた。
抵抗する間もなかっただろう。
カチン、と硬質な音が響き、ドラゴンの動きが完全に停止する。
そして次の瞬間。
パリーンッ!!
氷像は粉々に砕け散り、キラキラと輝くダイヤモンドダストとなって空中に霧散した。
後に残ったのは、心臓部にあったバスケットボール大の魔石のみ。
主を失ったことで、空を覆っていた黒雲が急速に薄れていく。
激しかった風が止み、雷鳴が遠ざかる。
静寂が戻った四十階層は、先ほどまでの地獄絵図が嘘のように、静謐な空気に包まれていた。
「……ふぅ。これでやっと、静かになったな」
俺は大きく息を吐き、乱れたネクタイを締め直す。
地面に転がる巨大な魔石を拾い上げ、【亜空の背嚢】へと放り込む。
これ一つで、都内の一等地にビルが建つほどの価値がある代物だ。まさにボーナス確定といったところか。
『カズ、終わったか?腹が減った。ペコペコなのじゃ』
「分かってるよ。今日は特別に、厚切りのステーキにしよう。ソースはオニオンとガーリック、どっちがいい?」
『両方じゃ! あと、デザートも忘れるなよ』
「はいはい」
俺は苦笑しながら、彼女の頭を撫でる。
指通りが良くなった銀髪は、もう静電気でバチつくこともない。
その先には、上層階――四十一階層へと続く、螺旋階段が姿を現していた。
その階段は、まるで天へと続く道のように、白く輝いている。
だが、俺の【ラベル閲覧】は、その先に待つ世界の異質さを既に捉えていた。
『エリア名称:論理崩壊領域』
『危険度:測定不能』
ここから先は、真の魔境だ。
しかし、どんな理不尽が待っていようと、俺たちの行先を邪魔することは許さない。
「行くぞ、フェン」
『うむ!』
俺たちは、新たな階段へと足を踏み入れた。
◇
四十一階層へと到達し、そのフロアへ一歩足を踏み入れた瞬間、俺は平衡感覚を失いかけた。
「……なんだ、ここは」
思わず声が漏れる。
そこは、これまでのどの階層とも異質だった。
オフィスビルの廊下のように見える場所だが、壁と天井の区別がない。
俺たちが立っているのは『床』のはずだが、すぐ隣の壁には、逆さまになったデスクや観葉植物が張り付いている。
いや、張り付いているのではない。あちら側にとっては、あそこが『床』なのだ。
視線を上に向ければ、天井があるべき場所には、底知れぬ深淵が広がっている。
星々が瞬く宇宙空間。
だが、その星の配列は、俺が知る星座のどれとも一致しない。
不気味な紫色の星雲が渦を巻き、時折、巨大な眼球のような天体が瞬きをする。
『四十一階層:不条理なオフィスの理』
俺がつけた仮称だが、あながち間違っていないだろう。
ここでは『上』と『下』、『右』と『左』という概念が、数メートルごとにランダムに入れ替わっている。
三半規管を直接揺さぶられるような、強烈な不快感。
まるで、二日酔いの状態で回転する椅子に座らされているような気分だ。
『カズ、気持ち悪いぞ……。地面がグルグルしておる』
フェンも顔をしかめ、俺の腕にしがみついてくる。
彼女のような野性の感覚が鋭い生物にとって、この空間の歪みは人間以上に堪えるはずだ。
「少しじっとしててくれ。今、足場を安定させる」
俺は即座にスキルを発動する。
この空間の『定義』を読み取る。
『領域:歪曲空間』
『重力ベクトル:ランダム(可変)』
『空間接続:非連続)』
なるほど。
重力の向きが一定ではないから、あちこちで物が落ちたり浮いたりしているわけか。
これでは、前に進むことは難しい。
俺は、俺とフェンの周囲半径五メートルほどの空間を指定する。
そして、その領域内の『重力ベクトル』を、『足元の床方向』へ固定する記述を書き加えた。
『重力定義:絶対固定(下方向)』
記述完了。
フワリと浮遊感が消え、しっかりと地に足がついた感覚が戻ってくる。
「ふぅ……これで酔わずに済みそうだ」
『おお、楽になった! さすがカズじゃな』
フェンが安堵の表情を浮かべる。
だが、安心するのはまだ早い。
通路の奥から、奇妙な音が近づいてくる。
カチカチカチカチ……。
まるで時計の秒針のような、あるいはキーボードを高速で叩くような音。
現れたのは、首のないスーツ姿の人形たちだった。
『残業の亡者』
手には書類の束や、ひび割れたタブレット端末を持っている。
彼らは壁や天井を這いずり回りながら、うめき声を上げて迫ってくる。
「ノウヒン……ノウヒン……」
「シュウセイ……サシモドシ……」
聞きたくもない呪詛を吐きながら。
その姿は、かつての俺の成れの果てを見ているようで、背筋が薄寒くなった。
「……趣味の悪いモンスターだ」
俺は不快感を隠そうともせず、眉をひそめる。
『カズ、あやつら、なんか陰気臭いぞ。見ていてイライラする』
フェンが牙を剥く。
「ああ。関わり合いになると、こっちまで精神を病みそうだ。さっさと片付けよう」
俺は迫りくる亡者たちの群れを見据える。
彼らの攻撃手段は、手にした書類を投げつける『精神汚染攻撃』や、タブレットから放つ『怪光線』らしい。
まともに食らえば、ステータス異常【疲労】【鬱】が付与される厄介な敵と記述されている。
だが、対処法はシンプルだ。
彼らの存在意義を否定してやればいい。
俺は記述権を行使する。
対象、残業の亡者全体。
『状態:勤務中』 → 『状態:定時退社』
『行動指針:業務遂行』→ 『行動指針:帰宅』
コマンドを実行する。
その瞬間、壁を這い回っていた人形たちの動きがピタリと止まった。
そして。
「……オツカレサマデシタ……」
一斉に深々と頭を下げると、彼らは書類を放り投げ、スゥと消滅していった。
後に残されたのは、静寂と、床に散らばった紙屑だけ。
『……帰っていったのか?』
フェンが不思議そうに首を傾げる。
「ああ。家に帰してやったんだ。それが一番の供養だからな」
俺は散らばった紙屑を踏み越えて進む。
「さて、次はどんな理不尽が待っているやら」
俺たちは歪んだ回廊を、迷うことなく進んでいく。
目指すは最上層、五十階層だ。




