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第十九話:最速の証明と、腐ったエリートへの処方箋

 5階層のセーフティゾーン『アトリウム』。

 そこでコカトリスのモモ肉を平らげたフェンは、満足げに喉を鳴らしていた。


「カズよ、腹も満ちた。行くぞ」

「ああ。ここからが本番だ」


 俺たちは人混みを抜け、6階層へと続くゲートをくぐった。

 背後で閉ざされた分厚い扉が、賑やかな喧騒を遮断する。

 再び、張り詰めた静寂と、濃密な魔力の匂いが鼻孔をくすぐった。


 ここから先は、中層エリアへの入り口となる。

 出現するモンスターのランクも上がり、マップの構造も複雑化していく。

 だが、俺の足取りは軽い。

 先ほど食べた肉のエネルギーだけではない。

 この塔を登るという行為そのものが、今の俺にとっては、かつて感じたことのない高揚感をもたらしていたからだ。


「次は迷路か。……面倒じゃのう」


 フェンが進行方向を見据え、つまらなそうに尻尾を振った。

 目の前に広がっているのは、入り組んだ石造りの回廊だ。

 『石蛇の迷宮』と呼ばれるエリア。

 床も壁も天井も、すべてが同じ灰色の石材で構成されており、方向感覚を狂わせる仕掛けが随所に施されている。


「普通に行けば面倒だな。だが、俺たちには『案内板』がある」


 俺は視界に浮かぶ情報を指先で弾いた。

 【ラベル閲覧】。

 このスキルにかかれば、どんな複雑な迷路も、子供向けの塗り絵以下の難易度にしかならない。


『隠し扉:右側の壁、第三ブロック』

『罠:落とし穴(即死級)』

『最短ルート:直進20メートル後、左折』


 壁の向こう側にある構造から、床下に埋め込まれた圧力センサーの位置まで、すべてが手に取るようにわかる。

 俺は迷うことなく、一見すると行き止まりに見える壁に向かって歩き出した。


「こっちだ」

「ほう? 壁に激突する趣味でもできたか?」

「見てろ」


 俺が壁の特定の石を押し込むと、ゴゴゴ……という重い音と共に、壁が回転して通路が現れた。

 ショートカットだ。

 正規のルートを通れば三十分はかかる道のりを、わずか数秒で短縮する。


「なるほど、お主の目は便利じゃな。鼻の利く我でも、その仕掛けには気づかなかったぞ」

「俺のスキルは、世界の『裏側』を覗くようなものだからな」


 俺たちは隠し通路を進んだ。

 薄暗い通路には、蜘蛛の巣が張り巡らされ、カサカサという節足動物の這う音が響いている。

 本来なら気味の悪い場所だが、フェンが放つ神獣のオーラのおかげで、雑魚モンスターたちは恐れをなして逃げ散っていく。


 俺は歩きながら、手元のタブレット端末を確認した。

 電波は届いている。

 探索者専用の掲示板サイトには、すでに俺たちの話題が上がり始めていた。


『品川タワーに謎の二人組現る』

『スーツの男と銀色の狼』

『5階層の屋台で肉食ってたぞ』

『あいつら、攻略速度がおかしい。もう10階層を抜けたらしい』


 情報の拡散速度は速い。

 俺たちが休憩している間に、目撃情報がネット上を駆け巡っていたようだ。

 「謎の超大型新人」

 そんな見出しが躍っている。

 悪い気はしない。

 かつて会社で「無能」「お荷物」と呼ばれ続けた俺が、今や顔も知らない大勢の人々から注目され、驚愕されている。

 この反転。


 だが、手放しで喜んでばかりもいられない。

 注目を集めれば、それだけ面倒な連中――スカウトを装った引き抜き屋や、手柄を妬む同業者――が寄ってくる可能性も高くなる。

 有名税と割り切るには、少々高くつきそうだ。


「カズ、そこでじっと何をしておる」

「……ああ、そうだな」


 俺は、タブレットをしまった。

 さあ、ペースを上げよう。

 外野の声援、あるいはやっかみを背に受けて、俺たちはさらに加速する。



 十階、十二階、十五階。

 俺たちは、まるでエスカレーターに乗っているかのようなスムーズさで階層を突破していった。

 本来なら数日かけて攻略する道のりを、数時間で踏破する。

 他の探索者たちが血眼になって地図と睨めっこをし、罠の解除に冷や汗を流している横を、俺たちは散歩気分で通り過ぎていく。


「おい、あれ見ろよ!」

「なんだあの速さ!?」

「おい、今、壁をすり抜けたぞ!?」


 すれ違う探索者たちの驚愕の声が、心地よいBGMのように耳に届く。

 優越感がないと言えば嘘になる。

 だが、それ以上に俺を駆り立てているのは、実利的な目的だ。

 最短で深層へ。

 そして、マリーとの契約を果たす。

 そのためには、こんなところで足踏みをしている暇はない。


 そして到着したのが、第18階層。

 『電脳の樹海サーバー・ジャングル』。


 そのフロアに足を踏み入れた瞬間、凄まじい熱気とファンの回転音が俺たちを出迎えた。

 ここは、かつての巨大なサーバールームが暴走し、魔界の植物と融合した領域だ。

 黒塗りのラックが墓標のように整然と並び、そこから伸びる極太のケーブルが蔦のように床や壁を這い回っている。天井からは無数の配線がカーテンのように垂れ下がり、赤や緑のLEDが毒々しく明滅して、まるで呼吸しているかのような有機的な不気味さを醸し出していた。


「むぅ……暑苦しい。それに、耳障りな音がする」


 フェンが耳を伏せ、不快そうに唸る。

 数千台の冷却ファンが唸りを上げる重低音は、鋭敏な聴覚を持つ彼女には相当なストレスだろう。

 美しい銀色の毛並みが、湿気を含んで少し重たそうだ。


「我慢しろ。ここを抜ければ、少しは開けた場所に出るはずだ」


 俺は垂れ下がるケーブルの蔦をかき分け、先へと進んだ。

 その時だ。

 前方の開けた空間――巨大なメインフレームが鎮座する広場に、数人の人影が見えた。


「……ん?」


 フェンが不意に足を止め、鼻を空に向けてひくつかせた。

 その瞳が、鋭く細められる。


「カズ、臭うぞ」

「排熱の匂いだろ? 機械油と焦げた臭いが充満してる」

「違う。……もっと鼻持ちならない、腐った性根の臭いだ」


 フェンの言葉と同時に、俺の視界にも警告のウィンドウがポップアップした。


『検知:敵意を持った接近反応』

『数:5』

『所属:クラン「テラ・ダンジョン」』

『状態:攻撃的、軽蔑、嫉妬』


 ……なるほど。

 「腐った臭い」という表現は、あながち間違いではないらしい。

 さっき懸念していた「面倒な連中」が、早速お出ましというわけか。

 俺は足を止めず、あえて気づかないふりをして歩を進めた。


 ガサッ、と前方のケーブルの茂みが揺れる。

 現れたのは、深紅の戦闘服に身を包んだ五人の男たちだった。

 胸には金糸で刺繍されたエンブレム。

 国内でも有数の大手クラン、『テラ・ダンジョン』の精鋭部隊だ。

 装備は一級品。全員がBランク以上の実力者であることが、その立ち振る舞いから見て取れる。


 だが、彼らの表情に浮かんでいるのは、一流の探索者が持つべき冷静さではない。

 あからさまな嘲笑と、隠しきれない苛立ちだった。


「よう、お前らが噂の『アンノウン』さんかい?」


 中央に立つ男が、大げさな仕草で声をかけてきた。

 整髪料で固めた髪に、切れ長の目。顔立ちは良いが、その表情には隠しきれない傲慢さが滲み出ている。

 ハズキ。

 俺の【ラベル閲覧】には、彼の個人情報がしっかりと表示されていた。


『氏名:京谷 ハズキ』

『ランク:B』

『所属:テラ・ダンジョン 第3遊撃隊長』

『性格:権威主義、残忍、自己顕示欲』


 典型的な「勘違いエリート」といったところか。

 大手クランの看板を笠に着て、自分よりも格下だと思った相手には容赦なくマウントを取りに来るタイプ。

 俺は内心でため息をつきつつ、努めて冷静に応対した。


「……何か用か? 先を急いでるんだが」

「急いでる? ハッ、随分と余裕だな。田舎から出てきたばかりで、ここのローカルルールも知らないのか?」


 ハズキが顎をしゃくると、取り巻きの男たちがジリジリと距離を詰めてくる。

 半包囲の形。

 手慣れている。こうやって新入りや弱小パーティを囲んで、圧力をかけるのが彼らの日常業務なのだろう。


「ルール? ギルドの規約には、通行料を取るようなルールはなかったはずだが」

「ギルドの規約なんて関係ねえよ。ここは俺たち『テラ・ダンジョン』の管理区域シマだ。新入りはまず、先輩に挨拶をして、誠意を見せるのがスジってもんだろ?」


 ハズキがニヤリと笑い、親指と人差し指を擦り合わせた。

 金か、あるいはアイテムか。

 どちらにせよ、強請りたかりの類だ。

 大手クランの看板を背負っていることをいいことに、やりたい放題らしい。


「悪いが、持ち合わせがないんでな。通してくれないか」

「あぁ? ……チッ、使えねえな」


 ハズキが舌打ちをし、苛立ちを隠そうともしなくなる。

 彼の視線が、俺の足元にいるフェンへと移った。


「それに、なんだその犬は。保健所の野良犬か? 汚らしい毛並みしやがって。ここは神聖な職場なんだよ。そんな雑種を連れ込まれると、こっちの格まで下がるんだよ」


 瞬間。

 フロアの空気が凍りついた。

 ファンの駆動音すら掻き消すような、重く、冷たい殺気がフェンから溢れ出したのだ。

 俺の背筋に、冷たい汗が流れる。

 それはハズキへの恐怖ではない。

 俺の隣にいる、誇り高き神獣の怒りを感じ取ったからだ。


『……ほう?』


 フェンの喉奥から、地獄の蓋が開いたような低音が響く。

 彼女の銀色の毛が逆立ち、その周囲に青白い雷光がバチバチと迸る。


『雑種、と言ったか? この我を? 誇り高き月光の系譜を、そこらの駄犬と同列に語ったか?』


 念話の内容は怒りに満ちている。

 フェンの目が、理性的な金色から、暴虐の深紅へと染まっていく。


 まずい。


 これは本気で怒っている。

 俺は慌ててフェンの首元を撫でて宥めようとしたが、彼女の殺気はすでに臨界点を超えていた。


「おいおい、なんだその犬。唸ってんじゃねえぞ。躾がなってねえな」


 ハズキはまだ状況を理解していない。

 彼が持っている高価な魔導具のセンサーが、フェンの放つ圧倒的な魔力量を「計測不能」として処理してしまっているのだろう。

 無知とは、時に最大の罪であり、死への最短ルートだ。


「……下がってろ、フェン。俺が話す」


 俺は一歩前に出て、ハズキと対峙した。

 これ以上フェンを刺激させると、連中、死体すら残らないに違いない。

 それはそれで、事後処理が面倒だ。


「あんたたち、勘違いしてるようだが」

「あ?」

「迷惑なのはどっちだ。道の真ん中で道を塞いで、下らない因縁をつけて。……そんな暇があったら、少しは腕でも磨いたらどうだ? だからいつまで経っても『二流』なんだよ」


 挑発。

 効果は覿面だった。

 ハズキの顔が沸騰したように赤く染まる。プライドの塊のような彼にとって、格下だと思い込んでいる相手からの説教ほど、腹の立つものはないだろう。


「……言ったな、三流が」


 ハズキが背中の槍を引き抜いた。

 カーボン製の柄に、ミスリル合金の穂先がついた特注品だ。

 取り巻きたちも一斉に武器を構える。


「俺たちに歯向かって、タダで済むと思ってんのか! 『教育』してやるよ。二度とダンジョンに潜りたくなくなるようにな!」

「やれやれ……」


 俺は肩をすくめた。

 結局、暴力か。

 能のない連中ほど、すぐに力を誇示したがる。

 だが、彼らが振るおうとしている力など、俺たちにとってはそよ風にも劣る。


「行くぞ、野郎ども! ボコボコにして、身ぐるみ剥いでやれ!」


 ハズキの号令と共に、四人の男たちが殺到した。

 剣士が斬りかかり、魔法使いが炎の球を放つ。

 連携は悪くない。一般の探索者なら、これだけでパニックになって終わっていただろう。


 だが。


「……止まって見えるな」


 俺の目には、彼らの動きがスローモーションのように映っていた。

 【ラベル閲覧】とレベル99の力によって、彼らの筋肉の動き、視線、魔力の流れを先読みし、未来の軌道が読める。

 俺はポケットに手を入れたまま、最小限の動きで剣をかわした。

 切っ先が鼻先を数ミリ掠める。

 それだけで十分だ。


「なッ!?」


 剣士が目を見開く。

 俺は彼の横をすり抜けざまに、足を軽く出した。

 足をかける。ただそれだけの動作。

 だが、タイミングは最適だ。

 剣士は自らの突進の勢いを殺せず、派手に前のめりに転倒した。


 ズザァァァッ!


 地面を顔面で削りながら、剣士が滑っていく。

 俺はその隙に、床を這うケーブルに視線を落とした。


 【ラベル書き換え】

 対象:LANケーブル

 状態:静止 → 状態:捕縛


 シュルッ!

 足元のケーブルが蛇のように跳ね上がり、別の男の足首を絡め取って吊り上げた。


「魔法だ! 焼き尽くせ!」


 魔法使いが杖を振るう。

 放たれた火球が、俺の顔めがけて飛来する。狭い通路での火属性魔法。回避は困難だ。

 普通ならば。

 俺は動かない。

 代わりに、空中の文字列を書き換える。


 【ラベル書き換え】

 対象:火球ファイアボール

 属性:炎 → 属性:石鹸水


 パンッ!


 俺の目の前で、火球が弾けた。

 だが、熱波は来ない。

 代わりに、大きな泡がふわりとその場で浮かんでいる。

 もはや、ただのシャボン玉だ。


「は……?」


 魔法使いが杖を取り落とし、呆然と口を開けている。

 自分の最強の魔法が、子供の遊び道具に変わったのだ。理解が追いつかないのも無理はない。


「さて、次は大将のお出ましかな」


 俺は視線をハズキに戻した。

 彼は顔を引きつらせながらも、槍を構え直している。


「な、何をした……? 今の魔法は……」

「これが俺の戦闘スタイルだ……で、まだやるのか?」

「舐めるなァァァッ!」


 ハズキが絶叫し、槍を突き出してくる。

 直線的で、速い。

 だが、心が乱れているせいで、軌道が単調だ。


「フェン」

「うむ」


 俺が呼ぶと同時。

 銀色が走った。

 フェンが、ハズキの槍の穂先を、その牙でガシリと受け止めたのだ。


「え……?」


 ハズキの動きが止まる。

 ミスリル製の穂先が、フェンの牙の間で悲鳴を上げている。

 フェンは退屈そうに鼻を鳴らすと、首を軽く横に振った。


 バキンッ!!


 硬質な音がフロアに響き渡る。

 ハズキの自慢の槍が、飴細工のように噛み砕かれた。


「嘘……だろ……」


 ハズキが折れた槍の柄を握りしめ、腰を抜かしてへたり込む。

 勝負ありだ。


『我を雑種と呼んだ罪、万死に値するが……カズの顔に免じて、これくらいにしておいてやる』


 フェンがハズキの顔の前に顔を近づけ、低い声で囁く。

 その口から漏れる殺気だけで、ハズキは泡を吹いて気絶寸前だ。


「行こう、フェン。時間の無駄だ」


 俺は彼らに背を向けた。

 トドメを刺す価値もない。

 彼らのプライドは、今の時点で粉々に砕け散っている。

 これ以上の制裁は不要だ。

 背後で、「覚えてろ」「ただじゃおかないぞ」という負け惜しみが聞こえた気がしたが、俺は振り返らなかった。

 雑音に構っている暇はないのだ。



 第十九階層。


 電脳樹海を抜けた先には、タワーの内部とは思えないほど広大な吹き抜け空間が広がっていた。

 かつては巨大な商業施設のアトリウムだったのだろう。

 数階層分の高さがある天井にはひび割れたガラスドームがあり、そこから紫色の不気味な光が差し込んでいる。

 錆びついたエスカレーターが空中で途切れ、色あせた広告バナーが亡霊のように垂れ下がっている。

 俺たちの目の前には、この吹き抜けを横断して向こう側のフロアへと続く、一本の連絡橋がかかっていた。

 左右は壁のない手すりだけの構造。

 下を覗き込めば、遥か下層の闇が見える。落ちれば即死。

 そんな緊張感を強いる場所だ。


「……懲りない連中だ」


 俺は橋の手前で足を止め、ため息をついた。

 【ラベル閲覧】が、対岸の店舗跡の陰に潜む複数の反応を捉えていたからだ。

 先ほどのハズキたちだ。

 彼らはショートカットを使って先回りし、待ち伏せをしている。

 しかも、今度は正面から挑んでくるつもりはないらしい。


『設置トラップ:魔物誘引香(高濃度・軍用)』

『ターゲット:橋の中央』

『作戦:飛行型モンスターによる圧殺』


 腐っている。

 自分たちは安全圏に隠れて、モンスターの群れに俺たちを襲わせるつもりか。

 探索者として、いや、人間としての一線を越えている。


「カズ、あの臭いがするぞ。……さっきよりも強烈な、ドブの臭いだ」


 フェンが顔をしかめる。

 アトリウム特有の空気の流れに乗って、甘ったるい紫色の煙が漂ってくる。

 魔物誘引香だ。


 対岸の陰で、ハズキたちがニヤニヤと笑っているのが見える。

 彼らはこのフロアの空調設備を操作し、風が橋の上に滞留するように調整しているのだ。

 俺たちが橋を渡り始めたら、吹き抜けの上下から湧いてくる飛行系モンスターに挟み撃ちにされる。

 逃げ場のない空中の回廊で、鳥の餌になるという寸法だ。


「へへ……これで終わりだ、田舎者ども」


 風に乗って、ハズキの嘲笑が聞こえてくる。

 彼らは勝利を確信している。

 だが、彼らは致命的なミスを犯している。

 この場に、世界の理を書き換える人間がいることを計算に入れていないのだ。

 そして、ここが「建物の中」であり、空調によって空気が管理されているという事実を。


「フェン、少し風通しを良くしようか」

「なんじゃ? 吹き飛ばすか?」

「いや、もっと面白いものを見せてやる」


 俺は指先を動かした。

 視界の中で、この広大な空間を管理する空調設備のデータを開く。


 【ラベル書き換え】

 対象:アトリウム空調制御

 設定:循環(橋周辺) → 設定:逆流噴射(対岸エリア集中)

 追加設定:最大出力


 書き換えた瞬間。

 アトリウムの壁面に設置された巨大な排気口が、唸りを上げて逆回転を始めた。


 ゴオォォォォッ!


 物理法則を無視した突風が吹き荒れる。

 紫色の煙が生き物のようにうねりを上げて、ハズキたちの元へと逆流していく。


「あ……? おい、風向きが変わったぞ!?」

「な、なんだ!? 煙がこっちに……うわっ、ベタベタする!?」


 悲鳴が上がる。

 粘着性を帯びた煙は、彼らの服や髪にまとわりつき、洗っても落ちない強力なフェロモンとなって染み込んでいく。

 彼らは今、歩く「最高級の餌」と化したのだ。


 ギャァァァァァッ!!


 吹き抜けの底から、耳をつんざくような咆哮が響いた。

 ハーピー、ガーゴイル、怪鳥。

 アトリウムの闇に潜んでいた飛行モンスターたちが、一斉に飛び立ったのだ。

 空間が黒く染まるほどの群れ。

 その全ての目が、血走った赤色に染まり、一点を見つめている。


 橋の上にいる俺たちではない。

 紫色の煙に包まれ、咳き込んでいるハズキたちを。


「ひ……ッ!?」


 ハズキが空を見上げ、絶望に顔を歪める。

 そこには、彼が俺たちに味わせようとしていた地獄が、そのまま彼自身に降り注ごうとしていた。


「た、助け……!」


 懇願の声が聞こえたが、俺は静かに首を横に振った。

 自業自得だ。

 他者を陥れようとした悪意は、倍になって自分に返ってくる。

 因果応報というやつだ。


「行くぞ、フェン。混雑する前に通り抜ける」

「うむ。……自ら餌になるとは、奇特な連中じゃのう」


 俺たちは悠々と橋を渡った。

 頭上を、モンスターの群れが嵐のように通り過ぎていく。

 対岸からは断末魔の悲鳴と、装備が破壊される音が響き渡っていたが、俺は一度も振り返らなかった。


 エリートたちの焦燥は、本物の恐怖へと変わり、そしてアビス・タワーの深淵へと消えていった。



 第二十階層。

 『重役エリア・ラウンジ』。


 地獄のような十九階層を抜けた先には、静寂に包まれたセーフティゾーンが待っていた。

 低層エリアの最上部にあたるこの場所は、かつて企業の重役たちが使用していた特別な空間だ。

 床は大理石、天井にはシャンデリア。

 荒廃した中にも、かつての栄華と権威を感じさせる荘厳さが漂っている。

 窓の外には、毒々しい紫色の雲海が広がっているのが見えた。いつの間にか、随分と高いところまで登ってきていたようだ。


 俺は広場の中央にある革張りのソファに腰を下ろし、大きく息を吐いた。


「ふぅ……ようやく静かになったな」

「カズ、終わったか? 肉の時間か?」


 フェンが待ちきれない様子で、尻尾をブンブンと振っている。

 さっきの騒動など、彼女にとっては道端の石ころ以下の出来事だったらしい。

 その無邪気さに、俺は自然と笑みがこぼれた。


「ああ、約束通りな。とっておきのやつを出してやるよ」


 俺は『亜空の背嚢アイテムボックス』から、調理器具と食材を取り出した。

 昨日、デパ地下で奮発して買った、A5ランクの和牛ステーキ肉だ。

 霜降りの美しい肉を見た瞬間、フェンの瞳が星のように輝いた。


「おお! それだ! その赤き宝石を待っていたのだ!」


 俺は携帯用コンロに火をつけ、フライパンを熱した。

 牛脂が溶け、甘い香りが立ち上る。

 肉を乗せると、ジュウウ……という極上の音が静かなラウンジに響いた。


「焼き加減は?」

「レアだ! 滴るようなやつがいい!」


 俺は手早く肉を焼き、塩コショウでシンプルに味付けをして、フェンの前の皿に置いた。

 彼女は待ちきれない様子で、ガツガツと肉にかぶりついた。


「美味い! ……さっきの鳥肉とは格が違うわ!」

「そりゃどうも」


 俺も自分用のコーヒーを淹れ、香りを楽しみながら一口啜った。

 苦味が、疲れた脳に染み渡る。


 ここから先は、中層エリア。

 ビルの外壁が消失し、剥き出しの鉄骨と硝子の足場だけで構成された『天空の回廊』が待ち受けている。

 そこは、常に突風が吹き荒れ、一歩間違えれば雲海へと真っ逆さまに落ちる危険な領域だ。

 だが、不思議と不安はなかった。

 隣には最強の相棒がいて、俺には世界を書き換える力がある。

 かつて見上げることしかできなかった「高み」へ、俺たちは確実に近づいている。


「おかわりはあるか?」

「あるよ。……さあ、食べて力をつけろ。明日はもっと上に行くぞ」


 俺は二枚目の肉を焼きながら、確信していた。

 この塔の頂点に立つのは、間違いなく俺たちだ、と。

 肉の焼ける匂いとコーヒーの香りが混ざり合う中、俺たちの夜は静かに更けていった。


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【悪役令嬢/もふもふ/スローライフ】
追放令嬢が拾った伝説の魔獣は、食いしん坊な黒猫でした。 ~「不敬だぞ!」と怒る最強魔獣を、ご飯とブラッシングで完全攻略しました~


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