第十八話:安全地帯の不協和音
目の前にそびえ立つ巨人は、俺たちの行く手を阻む防波堤のように立ちはだかっていた。
ゲートキーパー。
アビス・タワーの深層へ進む資格を問う、最初の試練。
身長は三メートルを優に超え、その体躯は枯れ木とコンクリートの瓦礫が不規則に融合して構成されている。
顔面にあるのは、目も鼻もなく、ただ横一文字に裂けた巨大な口のみ。
その裂け目から、シューシューと蒸気機関のような音を漏らしながら、奴はゆっくりと、だが確実な殺意を持って右腕を振り上げた。
その腕は、かつてビルの支柱だったであろう太い鉄骨に、無数の蔦が筋肉のように巻き付いた凶悪な棍棒となっていた。
「……大きいな」
俺は首を少しだけ傾けて、その質量を見上げた。
恐怖はない。
かつての俺なら、腰を抜かして悲鳴を上げていただろう。だが、今の俺にとって、これは「処理可能な業務」の一つでしかない。
『図体ばかりデカくて、隙だらけじゃ』
フェンが呆れたように鼻を鳴らす。
彼女は身構えることすらしていない。ただ、尻尾をゆらりと揺らしながら、品定めをするように敵を見つめている。
『カズよ。あの木偶の坊、燃やしてもよいか? 枯れ木ならば、よく燃えるであろう』
「ここで火遊びはやめろ。スプリンクラーも作動しないだろうし、煙で視界が悪くなるのは御免だ」
『ちっ。……注文の多い契約者じゃ』
フェンは不満げに牙を鳴らした。
その瞬間、ゲートキーパーの腕が振り下ろされた。
大気を押し潰すような圧力が、頭上から降ってくる。
直撃すれば、人間などトマトのように潰れるだろう。
だが、俺は動かない。
避ける必要がないことを知っているからだ。
ドォォォォォン!!
轟音が響き、床のタイルが粉々に砕け散る。
土煙が舞い上がり、視界を白く染めた。
ゲートキーパーの腕は、俺が立っていた場所を正確に捉えていた。
しかし、そこに俺の姿はない。
「……遅い」
俺の声は、巨人の背後から響いた。
レベル99の脚力。
意識して筋肉を動かすまでもなく、体が勝手に最適な回避行動を選択している。
俺はすでに、ゲートキーパーの背中にある死角へと移動していた。
視界には、半透明の文字列が浮かび上がっている。
【ラベル閲覧】。
俺の目は、この怪物の構成要素をすべてデータとして捉えていた。
『名称:ゲートキーパー(門番樹)』
『構成素材:強化樹皮、廃材、鉄骨』
『弱点:背面の核(動力炉)』
『耐久度:A(物理耐性・高)』
なるほど、物理攻撃が効きにくいわけだ。
表面を覆う樹皮とコンクリートの装甲は、生半可な刃物では傷一つつかないだろう。
だが、俺には関係ない。
俺は指先を動かし、空中に浮かぶキーボードを叩くイメージを描いた。
【ラベル書き換え】。
対象は、ゲートキーパーの右腕。
先ほど地面を叩きつけ、まだ床にめり込んでいるその腕だ。
そこに貼られた『材質:鋼鉄の剛腕』というラベル。
俺はそれを、軽やかに書き換える。
『材質:老朽化したスポンジ』
確定。
変化は劇的だった。
ゲートキーパーが腕を引き抜こうと力を込めた瞬間、ブチブチッという湿った音が響いた。
鋼鉄の硬度を誇っていたはずの腕が、まるで水を含んで腐ったスポンジのように脆く崩れ去ったのだ。
ボロボロと崩れ落ちる腕の残骸。
巨人はバランスを崩し、大きくよろめいた。
「ガ、ガガ……ッ!?」
裂け目のような口から、困惑の呻き声が漏れる。
自分の体に何が起きたのか、理解できていないようだ。
知能の低い魔物にとって、俺の能力は未知の恐怖でしかないだろう。
「次だ」
俺は追撃の手を緩めない。
よろめく巨人の足元。
『材質:コンクリート床』のラベルを、『材質:潤滑油まみれの氷』に変更。
ツルッ!
漫画のような光景だった。
巨人の足が、ありえない速度で滑った。
三メートルの巨体が宙に浮き、受け身も取れずに背面から地面に激突する。
ズドォォン!
背中の装甲が砕ける音が響く。
そこには、弱点である『核』が隠されているはずだ。
「フェン、今だ! 背中を狙え!」
『うむ! 待っておったぞ!』
銀色の閃光が走る。
フェンが跳躍した。
彼女は空中で体をひねり、その鋭利な爪に魔力を集中させる。
まばゆい光を帯びた爪は、もはや物理的な刃物を超えた、概念的な切断力を宿していた。
『消し飛べ、木偶の坊!』
フェンの爪が、無防備になった巨人の背中を切り裂いた。
豆腐を切るよりも容易く。
装甲ごと、内部にある核を両断する。
パァァァァン!!
ガラスが割れるような高い音が響き渡った。
ゲートキーパーの動きが、唐突に停止する。
その巨体が、光の粒子となって分解を始めた。
魔物が死に、魔力へと還る瞬間だ。
「……ふぅ」
俺はネクタイを少し緩め、息を吐いた。
汗一つかいていない。
以前の俺なら、C級の魔物一匹と戦うだけで、泥だらけになって必死に逃げ回っていただろう。
それが今では、エリアボス相手に接待プレイのような余裕を持っている。
力の差というのは、残酷なほどに世界の見え方を変えてしまう。
『手応えのない奴じゃ。……所詮は門番、ということか』
フェンが着地し、つまらなそうに尻尾を振った。
彼女の足元には、光の粒の中から現れた戦利品が転がっていた。
拳大の大きさを持つ、深い緑色の宝石。
Bランク魔石だ。
「上出来だろ。これ一つで、俺の前の月収の数倍にはなる」
『世知辛い話じゃのう。……して、肉は出ないのか?』
「植物系の魔物だからな。サラダなら作れるかもしれないが」
『いらん! 草など食えるか!』
フェンは露骨に嫌な顔をした。
俺は笑いながら魔石を拾い上げ、『亜空の背嚢』へと放り込んだ。
この鞄も便利だ。どれだけ詰め込んでも重さを感じないし、容量の底が見えない。フェンの四次元胃袋と同じような原理なのだろうか。
ゲートキーパーが消滅した場所の奥に、上へと続く階段が現れていた。
その先にあるのは、5階層。
このダンジョンの最初のセーフティゾーンだ。
「行くぞ、フェン。休憩だ」
『休憩よりも、飯じゃ。……あそこには美味いものがあると言ったな?』
「言ってない。……まあ、なんか売店くらいはあるだろ」
俺たちは階段を登った。
冷たいコンクリートの階段を一歩ずつ踏みしめるたびに、周囲の空気が変わっていくのを感じる。
魔力の濃度が薄まり、代わりに人工的な、どこか懐かしいような匂いが漂ってくる。
消毒液と、コーヒーと、安っぽい芳香剤の匂い。
階段を登りきり、重厚な扉を押し開けた。
そこには、予想を遥かに超えた光景が広がっていた。
◇
5階層。
通称『アトリウム』。
そこは、かつてビルのエントランスホールだった場所を改築した、巨大な休憩施設だった。
高い天井からはシャンデリアのような照明が吊るされ、フロア全体を明るく照らしている。
床は磨き上げられた大理石。壁際には観葉植物がセンス良く配置され、BGMとして優雅なクラシック音楽が流れている。
そして何より目を引くのは、フロアを埋め尽くす企業のブースだ。
『ダンジョン・マート』『ポーション本舗』『魔石買取センター』……。
色とりどりの看板が並び、制服を着た店員たちが声を張り上げている。
「いらっしゃいませー! 回復ポーション、今なら二本で一割引ですよー!」
「魔石の高価買取実施中! 他店より一円でも安ければご相談ください!」
「最新装備のレンタルはいかがですか? Cランク対応の防具、入荷しました!」
まるでデパートの物産展か、あるいは高速道路のサービスエリアだ。
ここが魔物の巣窟であるダンジョンの内部だとは、とても思えない。
多くの探索者たちが、ベンチで食事をしたり、装備の手入れをしたりしてくつろいでいる。
彼らの表情には、先ほどまでの殺伐とした緊張感はない。完全に「オフ」の顔だ。
『……なんじゃここは。祭でもやっておるのか?』
フェンが目を白黒させている。
彼女の野生の勘が、この異様な平和さに混乱しているようだ。
「これが東京のダンジョンだよ。……安全地帯さえも、金儲けの場に変えてしまう。たくましいもんだ」
俺は苦笑いを浮かべた。
資本主義の触手は、異界の深淵にまで伸びているらしい。
俺たちは人混みを避けるようにして、フロアの端を歩いた。
だが、フェンの存在はあまりにも目立つ。
銀色の毛並みを持つ巨大な狼。
すれ違う人々が、驚きの声を上げて振り返る。
「おい、見ろよあの犬。でかくね?」
「モンスターか? いや、テイムされてるっぽいぞ」
「すげー毛並み。高そう」
「飼い主、ただのサラリーマンじゃん。どういう組み合わせだよ」
ひそひそ話が聞こえてくる。
俺は無視を決め込み、早足で進んだ。
目立つのは避けたいが、この状況では無理な相談だ。
フェンはといえば、周囲の視線を気にする様子もなく、むしろ「見ろ、愚民ども」と言わんばかりに胸を張って歩いている。
『カズ、いい匂いがするぞ』
フェンが鼻をピクつかせ、ある一点を凝視した。
そこは、『魔物肉グリル・サトウ』という看板を掲げた屋台だった。
鉄板の上で、分厚いステーキが焼かれている。
ジュウジュウという音と、焦げた醤油の香りが、強力な誘引剤となってフェンを引き寄せている。
「……食べるか?」
『食う! 今すぐ食う!』
即答だった。
俺は仕方なく屋台に並んだ。
店員のおじさんが、フェンを見てギョッとしたが、すぐに商売人の顔に戻って注文を聞いてきた。
「へい、らっしゃい! ……ワンちゃんも食べるのかい?」
「ええ。一番大きいのを二つ。レアで」
「あいよ! コカトリスのモモ肉、特大二丁!」
渡された肉は、人間の顔ほどの大きさがあった。
串に刺さったそれを、フェンは一口で半分ほど食らいついた。
『美味い! ……少し筋っぽいが、野性味があってよい!』
「そりゃよかった。……ほら、口の周りがタレだらけだぞ」
俺はハンカチでフェンの口元を拭いてやる。
周囲の探索者たちが、その光景をスマホで撮影しているのが視界の端に見えた。
「猛獣使いのサラリーマン」というタイトルで拡散されるのも時間の問題かもしれない。
まあいい。
悪いことをしているわけではないのだ。堂々としていればいい。




