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第十六話:腐ったエリート

 東京都心の朝は、どこまでも人工的だった。

 小鳥のさえずりなんて聞こえない。代わりに、遠くから重低音のように響き続ける車の走行音や、工事の音が鼓膜を揺らす。

 カーテンの隙間から差し込むのは、柔らかな日差しなんかじゃない。向かいにそびえるガラス張りのビルが反射した、刃物のように鋭利な光だ。


 品川ベイサイド・レジデンス、最上階。

 広大なリビングではなく、キングサイズのベッドの上で、俺は重たい感触と共に目を覚ました。

 右腕が痺れている。感覚がない。

 視線を向けると、そこには銀色の毛並みを持つ巨大な塊が、俺の腕を枕代わりにして熟睡していた。

 フェンだ。

 大型犬ほどのサイズに擬態した彼女は、俺の腕に鼻先を押し付け、スースーと規則正しい寝息を立てている。そのふさふさとした尻尾は、俺の足に絡みつき、安心しきった様子で脱力していた。


「……おい、起きろ。朝だぞ」


 俺は痺れる腕を無理やり引き抜き、その冷たい鼻先を指でツンツンとつついてやった。

 ピクリ、と三角形の獣耳がレーダーのように動く。だが、まぶたは閉ざされたままだ。


「いつまで寝てるんだ。今日はアビス・タワーの初日だぞ」


 俺が声を張ると、フェンは嫌そうに顔を背け、あろうことか俺の腹に顔を埋めて、さらに深く眠ろうとする姿勢を見せた。

 神獣としての威厳など、ここには欠片も存在しない。あるのは、ただの惰眠を貪る愛らしい同居人の姿だけだ。


「……朝飯は、東京名物の『深川めし』にでもするか。アサリの出汁が効いた……」


 ガバッ!


 食い物という単語が空気を震わせた瞬間、フェンはバネ仕掛けのように上半身を起こした。

 ルビーのように赤い瞳が、爛々と輝いている。


『メシか!? アサリとはなんだ! 肉ではないのか!?』


 脳内に直接響いてくる念話は、相変わらず騒がしい。


「貝だよ。……まあ、お前の好きな肉も焼いてやるから安心しろ」

『うむ! ならば許す! 早う支度をせぬか!』


 フェンはベッドから軽やかに飛び降りると、フローリングの上をスルスルと滑るように走り、キッチンの前で「お座り」の体勢をとった。その尻尾が、期待感に合わせて左右にバタバタと振られている。

 俺は苦笑しながらベッドを降りた。

 この騒がしさこそが、今の俺にとっての日常だ。


 キッチンに立ち、冷蔵庫から食材を取り出す。

 冷蔵庫には高級食材が隙間なく詰め込まれていた。

 厚切りのベーコンをフライパンに放り込むと、脂の爆ぜるパチパチという音と共に、食欲を刺激する香ばしい匂いが立ち上る。

 俺は手早くスクランブルエッグを作り、軽く焼いたパンと共に皿に盛り付けた。フェンには、彼女専用の大きなボウルに、山盛りの肉と卵を入れてやる。


『いただきますなのだー!』


 フェンは待ちきれない様子で顔を突っ込み、ガツガツと猛烈な勢いで食事を開始した。

 俺もコーヒーを啜りながら、窓の外を見下ろす。

 眼下には、東京湾の穏やかな水面と、その周囲を埋め尽くすビルの群れが広がっていた。そして、その中心に突き刺さるようにそびえ立つ、黒い巨塔。

 アビス・タワー。

 今日から、あそこが俺たちの職場になる。


 少し前まで、俺はこの街の片隅で、死んだような顔をして働いていた。

 満員電車に揺られ、理不尽な上司に頭を下げ、数字を追いかけるだけの日々。

 あの頃の俺にとって、この景色は牢獄の壁そのものだった。

 でも、今は違う。


「……行くか、フェン」

『うむ! 腹も満ちた! いざ、出陣じゃ!』


 フェンは口周りの汚れをペロリと舐め取ると、勇ましく吠えた。

 俺はスーツのジャケットを羽織り、ネクタイを締めた。

 窓ガラスに映る自分を見る。

 そこにいるのは、以前のような、どこにでもいる疲れ切った会社員の顔ではない。

 レベル99の力と、最強の相棒を連れた、狩人の顔だ。


 俺たちはペントハウスを出て、高速エレベーターで地上へと降りた。



 マンションを出ると、そこはすでに戦場のような喧騒に包まれていた。

 品川の街を行き交う人々は、誰もが早足で、視線を真っ直ぐ前に固定している。

 その光景は、俺がよく知っているものだ。

 かつての俺も、あの中にいた。時間に追われ、見えない何かに急かされて、ただ言われたように身体を動かすだけの奴隷のように。


 その中には、多くの探索者たちの姿も混じっている。

 俺はその探索者たちの様子をそれとなく眺める。

 以前いた青木ヶ原の連中は、使い古した革鎧や、継ぎ接ぎだらけのローブ、あるいは俺のような安物のスーツが標準だった。泥と血の臭いが染み付いた、実用一点張りの装備。

 しかし、ここ品川の探索者たちは違うようだ。


「……ピカピカだな」


 俺の呟きに、足元のフェンが同意するように鼻を鳴らした。


『うむ。まるで舞踏会にでも行くかのような装いじゃ。あれで戦えるのか?』


 彼らが身につけているのは、最新素材で作られた軽量アーマーや、身体能力を強化するパワードスーツだ。その表面は傷一つなく磨き上げられ、胸元や肩には、スポンサー企業のロゴマークが派手な色彩でプリントされている。

 武器もまた、実用性よりもデザイン性を重視したような、発光ギミック付きの剣や、無駄に装飾の多い杖ばかりだ。

 彼らはダンジョンに潜る冒険者というよりは、企業の広告塔、あるいはプロスポーツ選手のような雰囲気を漂わせていた。


『見てみろ、カズ。あの男の鎧、背中に、えっと、なんとか製薬とか書いてあったぞ。薬屋の回し者か?』

「スポンサーだよ。広告費をもらって、宣伝しながらダンジョンに潜るんだ。この街じゃ、探索もビジネスだからな」


 俺は苦笑しながら説明した。

 効率と利益を追求する場所、東京。ここでは、個人の武勇よりも、いかに効率よく稼ぎ、いかに企業に貢献するかが評価されるのだろう。

 かつて営業部にいた俺には、その理屈が痛いほどよく分かる。

 すれ違う探索者たちは、俺たちの方を一瞥するが、すぐに興味を失ったように視線を外す。

 彼らの目には、俺のようなシンプルなスーツ姿の男と、大型犬を連れた組み合わせは、取るに足らない「素人」か、あるいは「観光客」にしか映らないらしい。

 誰も道を譲ろうとはしないし、挨拶もしない。

 無関心。

 それが、この街のルールであり、俺がかつて窒息しそうになっていた空気そのものだ。


 俺たちは人波を縫うようにして進み、アビス・タワーの基部へと到着した。

 近くで見上げると、その巨大さは圧巻だった。

 黒曜石のような外壁は、太陽の光を吸い込み、一切の反射を拒絶している。その表面には、血管のように赤いラインがチカチカと明滅し、塔全体が生きているかのようなリズムを伝えてくる。

 塔の周囲は広大な広場になっており、そこには厳重なセキュリティゲートが設置されていた。


『アビス・タワー 中央管理ゲート』


 空港の検査場を数倍厳格にしたような施設だ。

 数十台のドローンがブーンという羽音を立てて上空を旋回し、地上の探索者たちを監視している。入り口には武装した警備員と、自動認証ゲートが並び、長蛇の列を作っていた。


『……狭苦しい場所よのう。空から飛んで入ってはダメなのか?』

「撃ち落とされるぞ。ここはルールが厳しいんだ」


 フェンは不満げに耳を伏せたが、大人しく俺の足元に従った。

 俺たちは「ビジター・新規登録」と書かれたレーンに並んだ。以前の職場でもそうだったが、こういう手続きの融通が利かないのも、組織というものの常だ。


 列は遅々として進まない。

 前方に並んでいるのは、地方から一攫千金を夢見て上京してきた探索者たちだろうか。彼らの装備は青木ヶ原の連中と似ていて、どこか薄汚れている。

 彼らは緊張した面持ちで書類を確認したり、小声で励まし合ったりしている。


「次の方、どうぞー」


 事務的なアナウンスが響く。

 俺たちの番が近づいてきた時だった。


 カツ、カツ、カツ。


 硬質なブーツの音が、背後から近づいてきた。

 それも、一人や二人ではない。統率の取れた集団の足音だ。


「おい、そこ。退いてくれないか」


 頭上から降ってきたのは、丁寧語だが、拒否権を含まない冷ややかな声だった。

 俺はゆっくりと振り返った。

 そこには、五人の男女が立っていた。

 全員が、白を基調とした統一感のあるボディスーツに身を包んでいる。その胸元には、地球を模したロゴマークと、大手クランのものらしい文字が刻まれていた。

 先頭に立つ男は、長身で、整った顔立ちをしていた。金髪をオールバックにし、いかにも「できる男」といった風情を醸し出している。だが、その青い瞳の奥には、他人を見下すことに慣れきった、特有の濁りがあった。


「……何か用か? ここは並んでいるんだが」


 俺が淡々と返すと、男は片眉を少しだけ上げて、呆れたようにため息をついた。


「見ればわかるだろう? 我々は優先パスを持っている。……そこを空けてもらおうか」


 男が指差したのは、俺たちが並んでいるレーンの横にある、閉鎖された通路だった。どうやら、彼らはそこを通るために、邪魔な俺たちをどかそうとしているらしい。

 俺は視線を横に向けた。確かに「優先レーン」という表示がある。だが、その通路へ行くためには、俺たちの列を横切る必要などない。少し回り道をすればいいだけだ。

 つまり、彼らはわざわざ俺たちの列を分断し、最短距離を通ろうとしているのだ。


「急いでいるんでね。……ああ、君のような地方からの観光客には分からないかもしれないが、時は金なりなんだよ。我々の一分一秒は、君の一生分の稼ぎに匹敵する」


 男の背後にいた、魔法使い風の女がクスクスと笑った。


「やめなさいよ、いじめたら可哀想よ。見て、あのスーツ。量販店で売ってるやつじゃない? それに、あんな大きな犬を連れて……動物園と勘違いしてるのかしら」


 金髪の男は、俺の足元にいるフェンを一瞥し、鼻で笑った。


「違いない。……おい、そこのC級。怪我をしたくなければ、さっさと道を開けろ」


 彼らの視線が、俺の胸元にぶら下げたギルドカードに向けられている。

 Cランク。

 この東京において、それは「凡人」の証明書でしかないらしい。

 彼らのカードは金色に輝くAランク。選ばれたエリートの証だ。


『……カズよ』


 脳内に、フェンの低く、冷たい念話が響いた。

 足元の彼女から、銀色の毛が逆立ち、ピリピリとした殺気が漏れ出している。


『この無礼者ども、噛み砕いてよいか? 特にあの金髪の男、我を見下したその目玉、くり抜いてやりたいのだが』


 フェンはプライドが高い。

 神獣である彼女にとって、人間ごときに、それも中身のない張りぼてのような連中に見下されることは、最大の屈辱だろう。

 今にも飛びかかろうとする彼女の背中に、俺はそっと手を置いた。


『待て。……ここで騒ぎを起こせば、入場禁止になるぞ』

『だが!』

『吠えるだけの小型犬を相手にするな。……時間の無駄だ』


 俺は視線を男に戻した。

 怒りはない。あるのは、冷徹な分析と、呆れだけだ。

 俺の視界には、すでに半透明のウィンドウが展開されていた。


 【ラベル閲覧】。


 この世界の真実を暴く俺の目が、彼らの虚飾を容赦なく剥ぎ取っていく。


『対象:金髪の男(大手クラン所属)』

『ランク:A』

『装備:対魔導式プロトスーツ(試作品)』

『状態:慢心、ドーピング反応』


 なるほど。

 ウィンドウに表示された情報は、彼らが見掛け倒しであることを雄弁に物語っていた。

 ランクAとは名ばかりで、実際には高性能な装備の力で数値を底上げしているに過ぎない。しかも、その装備も「試作品」――つまり、データ収集のための実験台だ。

 さらに、ドーピング反応。身体能力を薬物で無理やり引き上げているらしい。


 後ろの女も見てみる。


『対象:魔法使いの女(大手クラン所属)』

『ランク:A』

『装備:幻惑のローブ(装飾過多により性能低下)』

『状態:選民意識、浪費癖』


 どいつもこいつも、中身がスカスカだ。

 彼らは「強さ」を勘違いしている。

 金で買った装備と、ドーピング。そして組織の看板。それらで着飾ることが強さだと思い込んでいる。

 死線を潜り抜けた経験も、命を削るような修羅場も、彼らのデータには刻まれていない。

 以前の糞会社にもいたな、こういう手合いは。親の七光りや学歴だけで偉そうに振る舞い、実務は部下に丸投げする連中。

 そんな連中に、俺たちが反応する価値など、一ミリも存在しない。


「……聞こえなかったのか? どけと言っているんだ」


 男が苛立ちを露わにし、一歩踏み出してきた。

 その威圧的な態度は、これまで多くの弱者を踏みつけにしてきた経験からくるものだろう。

 だが、俺は動かない。

 一歩も引かず、ただ静かに彼を見上げた。

 営業スマイルすら浮かべない。淡々とした無表情で。


「……通路は、あちらにありますよ」


 俺は淡々と言った。

 それは提案でも反抗でもない。単なる事実の提示だ。


「ここを通る必要はないはずだ。……それとも、最短距離を通らないと死んでしまう病気にでもかかっているんですか?」


「な……ッ!?」


 男の顔が赤く染まる。

 予想外の反撃に、言葉を詰まらせたようだ。

 彼にとって、C級の男に口答えされることなど、想定外だったに違いない。


「き、貴様……! 我々を誰だと思っている! このタワーの主要スポンサーの一つだぞ!」

「そうですか。それは凄いですね」


 俺は興味なさそうに肩をすくめた。

 その態度が、火に油を注いだらしい。


「ふざけるなよ……! ただで済むと思うな!」


 男が腰の剣に手をかけた。

 周囲の空気が凍りつく。列に並んでいた他の探索者たちが、悲鳴を上げて後ずさる。

 警備ドローンが警告音を発し、こちらへ向きを変える。


 俺はため息をついた。

 本当に、時間の無駄だ。

 こんなところで、こんな連中の相手をしている暇はないのに。


 その時。


『……カズ。許可をくれ』


 フェンの声が、今までになく低く、重いトーンで響いた。


『噛み殺しはせぬ。……だが、少しばかり「躾」が必要なようだ』


 俺は足元を見た。

 フェンは動いていない。

 だが、その赤い瞳だけが、男を射抜いていた。

 俺は小さく頷いた。

 騒ぎにならない程度なら、構わない。


 フェンが、わずかに口を開けた。

 咆哮ではない。

 ただの「あくび」のような動作。

 だが、その口の隙間から、人間には知覚できない「何か」が放たれた。


 神獣の威圧。

 そのほんの欠片。


 ズンッ。


 空間が重くなったような錯覚。

 重力が、そこだけ数倍になったかのような圧力が、男たちだけに襲いかかった。


「……っ!?」


 男の動きが止まった。

 剣を抜こうとしていた手が、痙攣するようにガタガタと震えている。

 顔色が一瞬で真っ青になり、額から大量の脂汗が噴き出した。

 彼の本能が、理解してしまったのだ。

 目の前にいる「犬」が、自分たちなど比較にならないほどの、絶対的な捕食者であるということを。


「あ、あ……う……」


 後ろにいた女も、腰を抜かしたようにその場にへたり込んだ。

 他の取り巻きたちも、ガクガクと膝を震わせ、声も出せない状態になっている。

 周囲の人々には何が起きたのか分からないだろう。

 ただ、偉そうだったエリートたちが、突然幽霊でも見たかのように怯え始めたようにしか見えないはずだ。


「……どうかしましたか? 急がないんですか?」


 俺はわざとらしく首を傾げた。

 男は、パクパクと口を開閉させ、何かを言おうとしたが、声にならないようだった。

 その目は、俺の足元にいるフェンに釘付けになり、恐怖で見開かれている。


「ひ、ひぃ……ッ!」


 男は短い悲鳴を上げると、脱兎のごとく踵を返し、逃げ出した。

 優先レーンの方へすら行かず、出口の方へと走っていく。

 取り巻きたちも、慌ててその後を追って逃げ去った。

 後に残されたのは、静寂と、彼らが落としていった高そうなサングラスだけだった。


「……なんだ、アイツら」

「急に腹でも痛くなったのか?」


 周囲の探索者たちがざわめき始める。

 俺は何もなかったかのように前を向き、受付の順番を待った。


『……ふん、腰抜けめ』


 フェンがつまらなそうに鼻を鳴らす。


『少し睨んだだけで逃げ出すとは。……ここの人間は、肝が小さいのう』

『お前の睨みは、普通の人間なら心臓が止まるレベルだぞ。手加減したんだろうな?』

『当然だ。……気絶させぬよう、調整してやったわ。感謝してほしいものじゃ』


 まったく、とんでもない相棒だ。

 だが、おかげで静かになった。

 俺たちはスムーズに手続きを済ませ、ついにゲートの前に立った。


 巨大な鋼鉄の扉。

 その向こうには、アビス・タワーの第一階層が広がっている。

 俺はカードリーダーにギルドカードをかざした。

 電子音が鳴り、重いロックが外れる音がゴウンと轟く。


「行くぞ、フェン」

『うむ。……ここからが本番じゃな』


 扉が開く。

 中から吹き出してきたのは、濃厚な魔力を含んだ、冷たく乾いた風だった。



 ゲートを抜けた先は、広大なホールのような空間だった。

 天井は高く、壁面は無機質な金属パネルで覆われているが、所々に植物が入り込み、人工物と自然が混ざり合ったような景観を作り出している。

 アビス・タワー、第一階層から第十階層までは『低層エリア』と呼ばれているらしい。

 かつてのビル内部がダンジョン化し、異常成長した植物によってジャングルのようになっている場所だ。


「……ふむ。青木ヶ原の森とは、また違った趣があるな」


 フェンが周囲を見回し、感想を漏らす。

 彼女の鼻が、ヒクヒクと忙しなく動いている。


「鉄と、油と、草の匂いが混じっておる。……それに、微かだが甘い匂いもするぞ」

「魔物のフェロモンか、あるいは誘引性の植物だろうな。……気をつけろよ、この塔の植物は肉食だ」


 俺の視界には、すでに無数のウィンドウが展開されていた。


 【ラベル閲覧】。


 この閉鎖空間において、俺のスキルは最大の威力を発揮する。


『名称:キラー・アイビー』

『ランク:D』

『状態:擬態、待機中』

『弱点:根元の球根部分』


 壁に張り付いているただの蔦に見えるものが、実は獲物を待ち構える捕食者であることが、赤字で警告されている。

 さらに、奥の通路からは複数の生体反応が接近している。


『敵性反応:5体』

『種族:メタル・ラット』

『ランク:D』

『特徴:金属質の皮膚、鋭い前歯』


 俺は腰のダガーに手を添えた。

 『竜殺しのダガー』。

 この最強の武器を抜くまでもない相手だが、準備運動には丁度いい。


「フェン、来るぞ。……右から三体、左から二体だ」

『分かっておる。……足音がうるさいわ、雑魚どもめ』


 フェンが身を低くする。

 その瞬間、物陰から金属の光沢を持つ巨大なネズミたちが飛び出してきた。

 メタル・ラット。

 小型犬ほどの大きさがあり、その名の通り鋼鉄のような皮膚を持っている。普通の剣なら弾かれる硬さだ。


 キシャーッ!!


 先頭の一体が、俺の喉元を狙って跳躍した。

 速い。

 一般の探索者なら、反応できずに致命傷を負う速度だろう。

 だが、レベル99になった俺の目には、止まっているようにしか見えない。


「……遅い」


 俺は一歩踏み込み、ダガーを閃かせた。

 斬撃の軌道すら見えない神速の一撃。

 空中でメタル・ラットの身体が両断される。

 金属音が響くことすらない。豆腐を切るような手応え。


 断面から火花と体液を撒き散らしながら、ネズミの死骸が地面に転がる。

 残りの四体が、仲間の死に動揺して動きを止めた。

 その隙を、銀色の風が見逃すはずがない。


『遅いぞ、カズ!』


 フェンが駆けた。

 銀色の残像。

 彼女はすれ違いざまに、鋭い爪で二体の首を刎ね、残る二体をその強力な顎で噛み砕いた。

 一瞬の勝利。

 戦闘開始から、わずか数秒で決着がついた。


「……まあ、こんなものか」


 俺はダガーについた体液を振り払い、鞘に収めた。

 フェンも、口元の汚れを気にするように前足でゴシゴシと拭っている。


『硬いな、こやつら。歯触りが悪い』

「金属だからな。……腹の足しにはならんぞ」

『ふん、承知しておる。……だが、魔石は悪くない』


 フェンが鼻先でつついたネズミの死骸から、小さな光の粒がコロリと転がり出た。

 Dランクの魔石。

 青木ヶ原のものよりも、純度が高い気がする。

 やはり、この塔の魔力は異常だ。


「回収して、先へ進むぞ。……ここはまだ玄関口だ」


 俺は手際よく魔石を拾い集め、『亜空の背嚢』へと放り込んだ。

 目指すは上層。

 そして、マリーが言っていた「50階層」。


 俺たちは薄暗い回廊を、足音を忍ばせて進んでいった。

 背後で、自動ドアが閉まる音がドンと重く響く。

 前へ。ただ前へ。

 それだけが、ここに来た理由なのだから。

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