第十五話:魔都の洗礼と魔女の歓迎
品川駅の港南口を出て、俺たちはペデストリアンデッキを歩いていた。
眼下を行き交う車の列は、まるで血管を流れる赤血球のように途切れることがない。頭上にはモノレールの軌道が走り、定期的に巨大な車両が轟音を立てて通過していく。
何もかもが、青木ヶ原とはスケールが違っていた。
『カズ、見ろ! あの箱、空を飛んでおるぞ!』
俺の足元で、大型犬サイズに擬態した銀色の狼――フェンが、モノレールを鼻先で示して、興奮気味に念話を飛ばしてくる。
彼女の尻尾はプロペラのように回転し、隠しきれない好奇心が全身から溢れ出していた。すれ違う人々が「大きな犬だな」と驚いて避けていくが、フェンはお構いなしだ。
「モノレールだよ。……あまりキョロキョロするな、田舎者だと思われるぞ」
『むっ、誰が田舎者だ! 我は高貴なる魔界の姫だぞ! ただ、この街の人間どもの多さと忙しなさに、少し驚いているだけだ』
フェンは不満げに鼻を鳴らすが、その瞳は忙しなく周囲を観察している。
無理もない。青木ヶ原もダンジョン特需で賑わっていたとはいえ、ここは日本の首都、その玄関口の一つだ。人の密度、建物の高さ、そして空気中に渦巻く欲望の量が桁違いだ。
『カズ、臭うな』
「ああ。排気ガスと、人の匂いだな」
『違う。……魔力だ。青木ヶ原の清浄な森の気配とは違う、もっとドロドロとした魔力が混じっておる』
フェンが鋭い視線を向けた先。
高層ビル群の隙間から、異様な存在感を放つ『それ』が鎮座していた。
他のビルとは明らかに異質な、黒曜石のように黒く、鋭利な刃物のように天を突く巨塔。
周囲の空間を歪ませるほどの魔力を放ち、螺旋を描きながら雲を突き抜けている。
品川ダンジョン『アビス・タワー』。
地下へ潜るのではなく、空へ向かって伸びる逆さの迷宮。現代のバベルの塔とも呼ばれる、人類未踏の魔境だ。
『ほう……あれか。あれが我らの新しい遊び場か』
フェンが塔を見上げ、舌なめずりをした。
その瞳に、塔の黒い影と、燃えるような野心が映り込んでいる。
「ああ。あの中に、俺たちの求める答えがあるかもしれない」
俺はスーツの襟を正し、『亜空の背嚢』を背負い直した。
まずは挨拶だ。この街の管理者に、到着を告げなければならない。
俺たちは地図アプリを頼りに、品川ギルド本部を目指した。
この街のギルドは、駅前の高層ビルの一つを丸ごと借り上げているらしい。
『品川セントラルタワー』。
ガラス張りの威容を誇るそのビルは、周囲のオフィスビルとは一線を画す、独特の圧迫感を放っていた。入り口には屈強な警備員だけでなく、警備用の自律型ドローンが巡回し、出入りする探索者たちのIDを厳重にチェックしている。
俺たちが近づくと、警備員の一人が訝しげな視線を向けてきた。
「おい、そこ。ペット連れ込みは禁止だぞ」
警備員が手をかざして制止する。
その目は、俺のスーツの質を見て少し迷ったようだが、やはり大型犬連れという点が引っかかったらしい。
俺は無言で懐からギルドカードを取り出し、提示した。
C級ライセンス。そして、裏面にエリザが書き加えてくれた『特級従魔所持』の文字。
「……失礼しました。確認取れました、どうぞ」
警備員の態度が一変し、敬礼をして道を開ける。
やはり、このカードは水戸黄門の印籠並みに効果がある。
回転扉を抜けてロビーに入ると、そこは未来都市のような空間だった。
床も壁も真っ白な大理石で統一され、巨大なホログラムディスプレイが空中に浮かび、ダンジョンの攻略状況や素材の買取レートをリアルタイムで表示している。
行き交う探索者たちも、青木ヶ原の荒くれ者とは雰囲気が違う。
最新鋭のパワードスーツを装着した者、洗練された魔導ローブを纏った者。皆、企業のスポンサーロゴが入った装備を身につけ、プロスポーツ選手のような洗練された空気を漂わせている。
『……ふん、小綺麗な場所よのう。泥の匂いがせぬ』
「効率と利益を追求するビジネスの街だからな。泥臭さは排除されるんだよ」
俺たちは受付カウンターへ向かった。
銀行の窓口のように整理券発券機が置かれ、数十人の列ができている。
俺はため息をつきつつ、発券ボタンを押そうとした。
「あの、すみません」
横から声をかけられた。
振り返ると、眼鏡をかけた知的な雰囲気の女性職員が立っていた。タブレット端末を手に、俺の顔と画面を見比べている。
「矢崎カズ様……でしょうか?」
「ああ、そうだが」
「お待ちしておりました。青木ヶ原のエリザ様より連絡をいただいております。……こちらへどうぞ、別室にて手続きをさせていただきます」
ここでもVIP待遇か。
俺たちは列に並ぶ探索者たちの視線を感じながら、職員の案内で奥のエレベーターへと向かった。
通されたのは、最上階にある特別執務室だった。
重厚な扉が開かれると、そこはオフィスというよりは、書斎と魔法使いの部屋をミックスしたような、混沌とした空間だった。
壁一面の本棚には古今東西の魔導書がぎっしりと詰まり、デスクの上には解析中のアーティファクトや、怪しげな薬液が入ったフラスコが所狭しと並べられている。
その部屋の中央、書類と魔道具の山に埋もれるようにして、一人の女性が座っていた。
紫がかった黒髪をボブカットにし、ゆったりとした魔法使いのローブを現代風にアレンジしたようなドレスを纏っている。
片目にはモノクルのような魔導具を装着し、眠たげな瞳で手元の水晶玉を覗き込んでいた。
「……ん?ああ、来たわね」
彼女は顔を上げ、気だるげに微笑んだ。
「ようこそ、品川へ。私がここのギルドマスター、マリーよ」
品川ギルド支部長、マリー。
ネット上の情報をまとめると、『万象の魔女』の異名を持つ、国内屈指の魔法使いであり、アビス・タワーの研究に生涯を捧げている変わり者、らしい。
「初めまして。矢崎カズです。エリザからの紹介で――」
「ええ、知ってるわ。あの堅物のエリザが、『とんでもない劇薬を送るから取り扱い注意』だなんて連絡してくるんだもの。……待っていたわよ」
マリーは立ち上がり、ふらりと俺たちの方へ近づいてきた。
甘い香水の匂いの中に、薬品と古い紙の匂いが混じっている。
彼女は俺の前で立ち止まると、次に足元のフェンをじっと見下ろした。
モノクルの奥の瞳が、妖しく輝く。
「……なるほど。これが噂の『従魔』ちゃんね」
マリーは感嘆のため息を漏らした。
「なるほど、そこに『在る』けど、物理的には『無い』ような……。魔力迷彩と、多重構造の結界。……ふふ、解剖して中身を見てみたいわね」
『グルルルッ……!』
フェンが即座に反応し、牙を剥いて低く唸った。
冗談ではなく、本気で解剖されそうな気配を感じ取ったのだろう。
「こら、マリーさん。うちの相棒を脅さないでくれ」
「あはは、ごめんなさい。冗談よ、半分はね」
マリーはクスクスと笑い、デスクに戻った。
「貴方のことも聞いたわよ、矢崎君。……なんでも、世界のルールそのものを書き換えるような力を持っているとか?」
「……エリザはお喋りだな」
「彼女とは学生時代からの腐れ縁なのよ。それに、ここ、品川のアビス・タワーでは、既存の法則が通用しない、深層エリアがある。貴方の力は、私の研究にとっても興味深いの」
マリーは引き出しから一枚のカードキーを取り出し、テーブルの上を滑らせた。
「これはエリザからの贈り物よ。探索者専用のタワーマンション、『品川ベイサイド・レジデンス』の最上階のカードキーよ」
「……随分と良い待遇だな」
「家賃は私が持つわ。その代わり、今後ダンジョンで見つけた『面白いもの』は、優先的に私に見せてちょうだい。……研究材料としてね」
ギブアンドテイクというわけか。
悪い話ではない。研究熱心なパトロンがいるというのは、探索者にとっては心強い。
「分かった。……ただし、解剖はナシだぞ」
「努力するわ」
マリーは意味深に微笑み、最後に表情を引き締めた。
「それと、一つ情報をあげる。……アビス・タワーの50階層。そこで最近、ある魔力反応が観測されているの」
「50階層?」
「ええ。深層への入り口にあたる場所なんだけど、空間が不安定になっていて、探索者の行方不明が多発しているわ。……企業連中のエリート部隊も調査に入っているけど、情報は封鎖されている」
彼女はモノクルを指先で直した。
「貴方たちの力なら、その歪みの正体を見極められるかもしれない。……期待しているわよ、『銀狼の主』」
「……頭の片隅に入れておくよ」
俺はカードキーを受け取り、部屋を後にした。
背後から、「ああ、フェンリルちゃんの毛並み、触ってみたかったなぁ……」というマリーの呟きが聞こえた気がしたが、聞かなかったことにした。
◇
ギルドを出ると、日は既に傾き始め、ビル風が冷たく吹き抜けていた。
俺たちはタクシーを拾い、マリーに指定されたマンションへと向かった。
『品川ベイサイド・レジデンス』。
運河沿いに建つ、真新しい超高層マンションだ。
青木ヶ原のレジデンスも豪華だったが、ここはさらに洗練されている。エントランスは美術館のようで、行き交う住人も有名人や成功した探索者ばかりだ。
最上階の部屋に入ると、そこは一面ガラス張りのオーシャンビューだった。
東京湾の夜景、レインボーブリッジの輝き、そして遠くにはアビス・タワーの黒い影が見える。
間取りも設備も最高級。
だが、フェンにとってはもっと重要なことがあったらしい。
『カズ! 腹が減ったぞ! 限界だ!』
リビングのソファに飛び乗るなり、フェンが抗議の声を上げた。
新幹線で駅弁を食べてから数時間が経過している。
神獣の燃費の悪さは、相変わらずだ。
「わかってる。……これから飯に行こう」
『おお! ついに「もんじゃ」か!』
「ああ。月島に行くぞ」
俺が言うと、フェンは尻尾をブンブンと振り回して喜んだ。
だが、俺は彼女を制した。
「待て。その姿で行くわけにはいかない」
『む? なぜだ? いつも通り、この愛らしい犬の姿で――』
「もんじゃ焼き屋は狭いし、鉄板を使うんだ。犬の姿じゃ危ないし、店に入れてもらえない可能性が高い」
青木ヶ原のような田舎ならともかく、ここは東京の下町だ。衛生管理もうるさいし、何より鉄板の油が跳ねる。
フェンの美しい毛並みが油まみれになるのは避けたい。
「それに、お前も人間の姿で、ヘラを使って食べてみたいだろ?」
『むぅ……確かに、あの「へら」という武器を使って、鉄板から直接食らうのが作法と聞いた』
フェンは少し考え込み、やがて渋々といった様子で頷いた。
『わかった。……人の姿になろう』
「よし。じゃあ、着替えるぞ」
『着替える? Tシャツで良いではないか。いつものやつを出せ』
「ダメだ」
俺は即答した。
部屋の中ならともかく、Tシャツ一枚のほぼ下着姿で東京の街を歩かせるわけにはいかない。
俺の理性が許さないし、社会通念上もアウトだ。職質待ったなしである。
「ここは東京だ。Tシャツ一枚じゃ浮く。……ほら、これに着替えろ」
俺は『亜空の背嚢』から、ここに来るまでに駅の商業施設に寄って、買っておいた服を取り出した。
黒のパーカーと、動きやすいデニムのショートパンツ。それにスニーカーだ。
シンプルだが、フェンの銀髪と赤い瞳を引き立てるようなデザインを選んだつもりだ。
『えええ……面倒くさいのう。布が増えるではないか』
「文句を言うな。もんじゃが食いたくないのか?」
『食いたい! 食いたいです!』
食欲には勝てないらしい。
フェンはため息をつくと、ソファの上でボンッ!と煙に包まれた。
現れたのは、全裸の美少女。
夕闇に染まる部屋の中で、その白い肌が艶かしく光る。
見慣れたとはいえ、やはり心臓に悪い光景だ。
「ほら、バンザイしろ」
俺は手早くパーカーを被せ、袖を通させる。
フェンは「きゅうくつだ」「首が苦しい」と文句を垂れながらも、されるがままになっている。
ショートパンツを履かせ、靴下とスニーカーを履かせる。
最後に、トレードマークの『銀月の首飾り』をパーカーの上に出してやる。
「……うん、悪くない」
鏡の前に立ったフェンは、パーカーのフードをいじりながら、まんざらでもなさそうにポーズを取った。
オーバーサイズのパーカーから伸びる細い脚。現代っ子のようなカジュアルな格好だが、その人間離れした美貌が、逆にミステリアスな雰囲気を醸し出している。
「似合ってるぞ」
「ふん、当然だ。素材が良いからな!」
フェンは人間の口調で生意気そうに言い、スニーカーの爪先で床をトントンと叩いた。
「この『靴』というのも、慣れぬな。地面の感触が遠い」
「すぐに慣れるさ。……よし、行くぞ。もんじゃが待ってる」
「うむ! いざ、月島へ!」
俺たちはペントハウスを出て、エレベーターへ向かった。
人の姿のフェンと並んで歩くのは、なんだか新鮮な気分だ。
彼女が時折、パーカーの袖を気にして引っ張る仕草や、慣れない靴で少しぎこちなく歩く様子が、普通の少女のようで微笑ましい。
だが、その瞳の奥には、もんじゃ焼きへの飽くなき執念が燃え上がっていた。
◇
タクシーで月島へ向かう。
車窓から見える夜の東京は、光の洪水だった。
フェンは窓に張り付き、「あれは何だ?」「光る魚が泳いでおるぞ(屋形船)」と、いちいち反応しては俺を質問攻めにする。
月島に到着すると、そこは香ばしいソースの匂いで満たされていた。
『もんじゃストリート』。
古い長屋と新しいビルが混在する通りに、無数のもんじゃ焼き屋が軒を連ねている。
「カズ、臭いぞ! いや、良い匂いだ! 暴力的な香りがする!」
フェンが鼻をひくつかせ、興奮気味に俺の袖を引っ張る。
「焦るな。……予約した店はこっちだ」
俺たちは路地裏にある、老舗の名店に入った。
店内は鉄板の熱気と活気に包まれている。
俺たちが席に案内されると、周囲の客が一瞬、フェンを見て息を呑んだのが分かった。
パーカー姿のラフな格好でも、彼女の美貌は隠しきれない。銀色の髪と赤い瞳は、カラーコンタクトや染髪だと思われているのだろうが、その存在感は圧倒的だ。
「ご注文は?」
「明太子もちチーズと、ベビースターもんじゃ。あとビールとコーラで」
店員が持ってきたのは、キャベツと具材が山盛りになったボウルだ。
「……カズよ。これは生ではないか? サラダか?」
フェンがボウルを覗き込み、不満げに眉を寄せた。
「違う。これを今から焼くんだよ。……見てろ」
俺は油を引いた鉄板に、具材だけを先にぶちまけた。
ジューッという音と共に、湯気が上がる。
二本のコテを使い、リズミカルにキャベツを刻んでいく。
カンカンカンカン!
鉄板とコテがぶつかる軽快な音が響く。
フェンは目を丸くして、俺の手元を凝視している。
「……剣術か? いや、これは二刀流の演舞か?」
「料理だって言ってるだろ。……ほら、土手を作るんだ」
キャベツがしんなりしてきたところでドーナツ状の土手を作り、その中央に出汁を流し込む。
グツグツと出汁が煮立ち、とろみがついてくる。
最後に全体を混ぜ合わせ、薄く広げて焦げ目をつける。
「完成だ。……ほら、この小さい『ハガシ』を使って、押し付けて食うんだ」
俺が手本を見せて、熱々の塊を口に運ぶ。
ソースの焦げた香ばしさと、明太子の辛味、チーズのコクが口いっぱいに広がる。
「熱ッ……! でも美味い」
「ほう……では、我も」
フェンは小さなヘラをぎこちなく持ち、鉄板の上のドロドロとした物体をすくい上げた。
ふーふー、と息を吹きかけ、恐る恐る口に運ぶ。
「……!!」
彼女の目が、カッと見開かれた。
「熱い! だが……美味い!!」
フェンが叫んだ。
「なんだこれは! 見た目は怪しいが、味は複雑怪奇にして美味! パリパリとした部分と、トロリとした部分が混ざり合い、口の中で踊っておる!」
「それは『おこげ』だ。そこが一番美味いんだよ」
「気に入った! もんじゃ、恐るべし!」
そこからは戦争だった。
フェンは猫舌、もとい狼舌のはずだが、食欲が勝ったのか、ハフハフと言いながら次々と鉄板の上の領域を侵食していく。
パーカーの袖をまくり上げ、額に汗を浮かべながら、真剣な表情でヘラを振るう姿は、さながら戦場のヴァルキュリアだ。
「おかわりだ! 次はあの黄色い麺が入ったやつを所望する!」
「はいはい。ベビースターね……今度は自分で焼いてみるか?」
「やる! 我にもその二刀流を教えよ!」
二枚目はフェンに焼かせてみた。
彼女は見よう見まねでコテを振るい、キャベツを粉砕していく。力加減を間違えて鉄板を凹ませそうになったが、なんとか形にはなった。
「どうだカズ! 我の作ったもんじゃは!」
「……形は不格好だが、味は悪くないな」
「ふふん、才能があるかもしれん!」
フェンは鼻に小麦粉をつけながら、得意げに笑った。
その笑顔を見て、俺は連れてきてよかったと心から思った。
ダンジョンでの殺伐とした時間も、高級なペントハウスでの静かな時間もいいが、こうして下町の喧騒の中で、肩を並べて熱いものを食べる時間。
これこそが、俺が守りたかった日常なのだ。
結局、メニューの端から端まで制覇し、店を出る頃には二人とも腹がはち切れんばかりになっていた。
夜風が涼しい。
隅田川沿いのテラスを歩きながら、俺たちは駅へと向かった。
「ふぅ……満足じゃ。トウキョウ、侮れぬ街よのう」
フェンがパーカーの腹部をさすりながら呟く。
「まだ序の口だぞ。……明日はアビス・タワーだ。あそこには、もっと刺激的な何かが待ってるはずだ」
「うむ。……腹ごしらえは済んだ。次は狩りの時間だな」
フェンの瞳が、街灯の光を受けて赤く輝いた。
俺たちは人目が少なくなった場所で立ち止まった。
「……カズ、服が苦しい。戻って良いか?」
「ああ、もういいぞ」
フェンが頷くと、一瞬で彼女の姿がブレた。
パーカーとパンツがふわりと浮き、消滅する。
次の瞬間、そこには銀色の毛並みを夜風になびかせる、美しい狼が立っていた。
『ふぅ……やはり、この毛皮が一番落ち着く』
フェンは大きく伸びをし、俺の足元に身体を擦り付けた。
『服というのは窮屈なものだ。人間はよくあんなものを一日中着ていられるな』
「慣れだよ。……それに、お前のその姿だって、俺から見れば最高級の毛皮のコートみたいなもんだろ」
『ふふん、当然だ。この手触りは、誰にも真似できまい』
俺はしゃがみ込み、彼女の首元の毛を撫でた。
温かくて、柔らかい。
「帰ろう、フェン。……俺たちの新しい城へ」
『うむ。……明日はあの黒い塔を征服するぞ』
見上げれば、ビルの合間にアビス・タワーの黒い影がそびえ立っている。
魔都の象徴。
明日からは、あそこが俺たちの職場だ。
俺たちは夜の闇に溶け込むように、品川の街を歩いていった。




