第十四話:帝都へ
翌朝。
まぶたの裏を刺す陽光よりも先に、俺の覚醒を促したのは重量感だった。
キングサイズのベッドは大人三人が寝ても余るほどの広さがあるはずだが、俺の可動域は驚くほど狭い。なぜなら、銀色の毛皮をまとった巨大な塊が、俺を抱き枕――あるいは獲物――としてホールドしているからだ。
視線だけを動かすと、そこには朝日を浴びて神々しく輝く、大型犬サイズの銀狼がいた。
フェンだ。
当たり前のように彼女は、そのまま俺の腹に顎を乗せ、規則正しい寝息を立てている。ふさふさとした尻尾が俺の足に絡みつき、無防備に投げ出された前足の肉球が、シーツの上でピクピクと痙攣していた。
『……んぐ、むぅ……もんじゃ……逃がさぬぞ……』
脳内に直接響いてくる寝言は、相変わらず食い気全開だ。どうやら夢の中で、まだ見ぬ東京のグルメと激しい攻防を繰り広げているらしい。
俺は苦笑しながら、彼女の分厚い首周りの毛に指を沈めた。極上のシルクよりも滑らかで、それでいて生命の熱を帯びたモフモフの感触。
俺はあえて、その三角形の耳元で囁いた。
「おい、フェン。いつまで夢の中で戦ってるんだ」
ピクリ、と銀色の耳がレーダーのように反応する。
「起きろ。今日は忙しくなるぞ。……『もんじゃ』を、現実にしに行かなくちゃならないからな」
その単語を口に出した瞬間だった。
カッ! とルビーのような赤い瞳が見開かれた。
野生の覚醒。そこには寝起きのまどろみなど微塵もない。
「……誠か? 今すぐ食えるのか!?」
「ああ。そのためには、ここを出なきゃならないけどな」
俺が言うと、フェンはバネ仕掛けのようにベッドから飛び退いた。
着地と同時にブルブルと身を震わせ、寝癖など存在しない、ふさふさの毛並みを整える。
「ならば善は急げだ!支度をするぞ、カズ!」
彼女は爪をカチカチと鳴らしながら部屋中を駆け回り始めた。その背中からは『遠足当日の子供』そのものの雰囲気が溢れ出ている。
俺もベッドから這い出し、大きく伸びをした。
このペントハウス、グランド・青木ヶ原・レジデンスの最上階で過ごした日々は、短くも濃密だった。
泥とカビの臭いが染み付いた安宿から、街を見下ろす天空の城へ。
この劇的な環境の変化こそが、俺たちの勝利の証だった。
だが、不思議と未練はない。
ここはあくまで通過点。俺たちが羽を休めるための、一時的な止まり木に過ぎないのだ。
俺はクローゼットを開け、身支度を整え始めた。
荷造りといっても、俺には『亜空の背嚢』がある。
身の回りのものを次々と亜空間へ放り込んでいく。備え付けの高級家具はそのままに、自分で買い足した日用品や、フェンが気に入っていたクッションなどを回収する。
「カズ、これもだ! これも忘れるな!」
フェンが口に何かをくわえて持ってきた。昨日、彼女が噛み心地を気に入っていた高級ブランドのルームシューズだ。
「……お前、それ持っていくのか? 向こうで新しいのを買ってやるよ」
「嫌じゃ! これは我が狩った獲物じゃ!」
頑として離そうとしないので、仕方なくスリッパも背嚢へと放り込む。
準備は三十分ほどで終わった。
元々、俺たちは身軽だ。
最後に、空っぽになった部屋を見渡す。
生活の痕跡が消え、再びモデルルームのような無機質な空間に戻ったリビング。
窓の外には、俺たちが制覇した青木ヶ原の街並みと、雄大な富士山が見える。
だが、俺たちの視線はもう、その先へと向いていた。
「行くぞ、フェン」
『うむ! 目指すはトウキョウ! もんじゃの都だ!』
フェンが、高らかに遠吠え――ではなく、歓喜の念話を上げる。
俺たちはペントハウスのドアを開け、一度も振り返ることなく廊下へと踏み出した。
◇
エレベーターで一階へ降りると、顔なじみのコンシェルジュが飛んできた。
俺たちが大きな荷物を持っていないことには慣れているようだが、今日は雰囲気が違うことを察したのか、少し緊張した面持ちだ。
「矢崎様、お出かけですか?」
「ああ。……いや、今まで世話になったな。今日で退去する」
俺がカードキーをカウンターに置くと、コンシェルジュは目を丸くした。
「た、退去……ですか? 何か不手際でもございましたでしょうか?」
「いや、最高の部屋だったよ。ただ、次の場所へ行くだけだ」
俺は短く告げ、チップ代わりに深層で拾った小粒の宝石を一つ、カウンターに置いた。
コンシェルジュは慌てて辞退しようとしたが、俺は手を振って制した。
「とっておいてくれ。世話になった礼だ」
「は、はい……! ありがとうございます! 矢崎様の益々のご活躍をお祈り申し上げます!」
深々と頭を下げる彼に見送られ、俺たちはレジデンスを出た。
外の空気は、いつもと変わらない。
ダンジョン特需に湧く地方都市の、少し埃っぽくて、活気に満ちた空気だ。
だが、今の俺には、その空気が少し狭苦しく感じられた。
「カズ、あっちだ! ギルドはあっちだぞ!」
フェンが俺の足元で、銀色の狼の姿になって先を急かす。
尻尾が左右に激しく振られ、彼女のワクワク感が伝わってくるようだ。
「わかってるよ。そんなに走ると転ぶぞ」
「神獣が転ぶわけなかろう! 早くせぬか、もんじゃが冷める!」
「まだ焼いてすらないっての」
俺たちは大通りを歩く。
すれ違う人々が、俺たちを見て道を空ける。
『銀狼の主』。
その視線には、相変わらず畏敬と羨望が混じっている。
だが今日、その中には少し違った色が混じっているような気がした。
「おい、矢崎さんが荷物をまとめてるって噂、本当か?」
「まさか、他の街に行くのか?」
「嘘だろ……この街の英雄がいなくなるのかよ」
探索者たちの囁き声が耳に入る。
情報は足が速い。
俺たちがペントハウスを出たことは、既にどこかの情報屋を通じて広まっているのかもしれない。
通りの向こうから、馴染みの武器屋の親父が顔を出した。
頑固そうな顔に、珍しく寂しげな色が浮かんでいる。
「よう、矢崎の旦那。……本当に行くのかい?」
「ああ。世話になったな、親父さん」
「へっ、世話になったのはこっちだよ。あんたが持ち込む素材のおかげで、うちは大繁盛だったんだからな」
親父さんは照れ隠しのように鼻をこすり、俺に小さな包みを投げ渡した。
「餞別だ。砥石のいいやつが入ったんでな。向こうでも、そのダガーの手入れは怠るんじゃねえぞ」
「……ありがとよ。大事に使わせてもらう」
俺は包みを受け取り、ポケットにしまった。
重みが、心地よい。
かつて、俺をゴミのように扱ったこの街。
だが、ここで俺は生まれ変わった。そして、俺を認めてくれる人たちとも出会えた。
全ての人間が腐っていたわけではない。
俺が見ていた世界が狭かっただけなのかもしれないし、俺が力を得たから世界が変わったのかもしれない。
どちらにせよ、今の俺はこの街を憎んではいない。
ただ、卒業するだけだ。
「人気者だな、カズ」
フェンが念話で茶化してくる。
「まあな。立つ鳥跡を濁さず、ってやつだ」
「ふん。我らが飛び立った後は、暴風で更地になるかもしれんがな」
「縁起でもないことを言うな」
軽口を叩きながら、俺たちはギルドの巨大な建物を見上げた。
ここが、最後の関門だ。
◇
ギルドホールに入ると、いつもの喧騒が一瞬だけ遠のいた。
数百人の視線が俺たちに集中する。
俺はそれを無視して、一直線にエレベーターへと向かった。
受付の女性職員が、何かを言いたそうに口を開きかけたが、俺の決意を悟ったのか、無言で深く一礼した。
その礼に応え、俺たちはエレベーターに乗り込む。
最上階。ギルドマスター執務室。
重厚な扉の前に立ち、俺は短くノックをした。
「入れ」
中から聞こえたのは、氷のように冷たく、それでいて心地よい緊張感を帯びた声だった。
俺はドアノブを回し、中へと入った。
広い執務室の奥、マホガニーのデスクの向こうに、彼女はいた。
エリザ・スチュワート。
『氷の支配者』の異名を持つこの街のギルドマスターは、書類の山から顔を上げ、俺たちを静かに見据えた。
「……随分と早いお着きですね。それに、その身軽さ。まるで、散歩にでも行くかのようですわ」
彼女は眼鏡の位置を指先で直し、薄い唇に微かな笑みを浮かべた。
俺たちがここに来る理由を、彼女は既に察しているようだった。
この人に隠し事はできないな、と改めて思う。
「散歩の延長みたいなもんだよ。……ただ、少し遠くまで足を伸ばそうと思ってな」
俺は許可も得ずに、いつもの革張りのソファに腰を下ろした。
フェンも「よっこらせ」と言わんばかりの動作で、俺の足元にお座りをする。
エリザはため息をつくこともなく、手元の万年筆を置いた。
「東京、ですね」
彼女の口から出た言葉は、質問ではなく確認だった。
「ああ。……この街は居心地がいい。良すぎるくらいだ。だが、それじゃダメなんだ」
俺は言葉を選びながら、正直な気持ちを伝えた。
「俺たちは強くなりすぎた。この街のダンジョンじゃ、もう刺激が足りない。それに、これ以上ここにいたら、俺たちはただの『地元の名士』で終わっちまう気がしてな」
「回し車の中のハムスター、にはなりたくないということですか」
エリザが俺の思考を読んだかのような比喩を使ったので、俺は少し驚いた。
フェンが「ほら見ろ、我の言った通りではないか」と尻尾で俺の足を叩く。
「……盗聴器でも仕掛けてたのか?」
「まさか。ただ、貴方のような規格外の存在が、この小さな水瓶に収まりきらないことは、最初から分かっていましたから」
エリザは立ち上がり、窓の方へと歩いた。
彼女の背中越しに、青木ヶ原の街並みが見える。
「貴方がC級に昇格してから、まだ一ヶ月も経っていません。ですが、その間に貴方が成し遂げた功績は、この支部の十年の歴史に匹敵します。深層の資源開拓、ネームドモンスターの討伐……」
彼女が振り返る。その碧眼には、真剣な光が宿っていた。
「貴方の背中を見て、多くの探索者が奮起しました。『自分たちもやれるかもしれない』と。貴方は、この街に新しい風を吹き込んでくれたのです」
「……買い被りすぎだ。俺はただ、自分のために稼いでいただけだ」
「結果が全てですわ。……ですが、風はいずれ去り行くもの。留めようとすれば、淀んでしまう」
彼女はデスクに戻り、一枚の分厚い封筒を差し出した。
封蝋には、彼女の家紋と、ギルドマスターの印章が押されている。
「これは?」
「紹介状です。……行き先は、品川とお聞きしましたので」
俺は目を見開いた。
まだ行き先までは言っていなかったはずだ。
「なぜ品川だと?」
「国内で、貴方を満足させられる場所など限られています」
エリザがフェンに視線を向けると、フェンは「わかっておるではないか、女」とばかりに鼻を鳴らした。
「品川には、私の古い知人がいます。ギルドマスターをしている男ですが……少々、癖の強い人物です」
「あんたの知人ってことは、まともな神経の持ち主じゃなさそうだな」
「失礼な。……彼は『鉄火場』を愛する男です。実力至上主義を地で行くような場所ですが、貴方なら気に入るでしょう」
俺は封筒を受け取った。
ずしりと重い。
これは単なる紙切れではない。エリザ・スチュワートという傑物が、俺たちの実力を保証するという、最強のパスポートだ。
「品川大ダンジョン。……通称『アビス・タワー』。そこは、青木ヶ原とは次元が異なります」
エリザの声が、一段低くなった。
「地下へ潜るのではなく、空へ向かって伸びる逆さの塔。……その最上層には、現代の科学でも解明できない『何か』が眠っていると言われています。世界中から命知らずが集まり、そして散っていく場所。……まさに、魔都です」
空へ向かうダンジョン。
話には聞いていたが、改めて聞くとワクワクする響きだ。
俺の【ラベル閲覧】で、その塔の秘密を暴いてやりたいという欲求が湧き上がってくる。
「面白そうだな。……行って、確かめてくるよ」
「ええ。貴方なら、その頂に手が届くかもしれません」
エリザは再び手を差し出した。
これが、最後の手続きだ。
「矢崎カズ様。本日付で、青木ヶ原支部からの転籍を受理します。……短い間でしたが、貴方と共に仕事ができて光栄でした」
「こちらこそ。……あんたのおかげで、俺は腐らずに済んだ。感謝してる」
俺はその手を握り返した。
冷たい手だが、そこには確かな熱があった。
互いに言葉以上の思いを込めて、強く握り合う。
「……どうか、ご無事で。それと、たまにはお土産話を送ってくださいね」
「ああ。最高に美味い肉の情報でも送るよ」
俺たちは手を離した。
これで、本当に終わりだ。
俺はフェンを促し、出口へと向かった。
ドアノブに手をかけた時、背後からエリザの声が聞こえた。
「――行ってらっしゃいませ、『銀狼の主』」
俺は振り返らずに、片手を上げて応えた。
その呼び名も、今日で卒業だ。
向こうに行けば、また新しい名前が必要になるだろう。
例えば、『魔都の覇者』とか。
そんな妄想をしながら、俺は執務室を後にした。
◇
ギルドを出た俺たちは、タクシーを拾って駅へと向かった。
青木ヶ原駅。
この街の玄関口であり、唯一の脱出口でもある場所だ。
駅舎は最近建て替えられたばかりらしく、ガラスと鉄骨で構成されたモダンなデザインだ。だが、その周囲には屋台や土産物屋が乱立し、混沌とした活気を放っている。
「これが『えき』か……。人が多いのう」
フェンが、俺の足元で不安そうに身を寄せた。
ダンジョンの魔物の群れには眉一つ動かさないくせに、人間の集団には少し警戒心を抱くらしい。
「ここから『しんかんせん』に乗る。鉄の塊が、矢のような速さで走る乗り物だ」
「ほう……鉄の馬車か。我の足より速いのか?」
「どうだろうな。長距離走ならいい勝負かもしれないが、乗り心地は向こうの方が上だぞ。……揺れないし、弁当も食える」
「弁当! ならば乗るしかあるまい!」
食い物で釣ると、彼女の警戒心は一瞬で霧散した。
俺たちは人波をかき分けて、切符売り場へ向かう。
最近はスマホで予約もできるが、今日はあえて窓口で買うことにした。
これから行く場所への切符を、物理的に手にしたかったからだ。
「東京まで。大人一枚と……ペット用のもので」
「はい、東京ですね。……あの、そちらのワンちゃんは……?」
窓口の女性が、フェンを見て目を白黒させている。
大型犬サイズの銀狼。首輪もリードもしていない。
普通なら乗車拒否される案件だ。
だが、俺は無言でギルドカード――C級のライセンスを提示した。
そこには『特級従魔所持』の記載がある。エリザが書き加えておいてくれた、最強の免罪符だ。
「あ、失礼いたしました! C級探索者様ですね。……では、特例としてそのままご乗車いただけます。グリーン車をご用意いたしました」
「助かる」
やはり、ランクという力は偉大だ。
社会のルールさえも、ある程度ねじ曲げることができる。
俺は発券された切符を受け取り、自動改札へと向かった。
「カズ、なんだその板は。そこに入れると、食われるのではないか?」
「食われないよ。……ほら、こうやって通すんだ」
俺が切符を通し、ゲートが開くのを見せると、フェンはおっかなびっくり後に続いた。
バタン、と閉まらないかビクビクしながら通り抜ける姿は、なんとも愛らしい。
ホームに上がると、ちょうど列車が入線してくるところだった。
ヒュオオオオオオ……!
風切り音と共に、流線型の白い車体が滑り込んでくる。
その巨体と風圧に、フェンが俺の足にしがみついた。
「な、なんだこの圧は! ドラゴンか!? 鉄のドラゴンなのか!?」
「ただの電車だって。……ほら、乗るぞ」
俺たちは開いたドアから、車内へと足を踏み入れた。
グリーン車の車内は静かだった。
ふかふかの絨毯。広々とした座席。
俺は窓際の席に座り、フェンは俺の足元のスペースに陣取った。
彼女は興味津々に鼻をひくつかせ、車内の匂いを嗅ぎ回っている。
「……変な匂いだ。鉄と、油と、人間の匂いが混じっておる」
「……もうすぐ動き出すぞ」
プシュー、という音と共にドアが閉まる。
そして、滑るように列車が動き出した。
加速Gが体をシートに押し付ける。
景色が流れ始め、あっという間に速度が上がっていく。
「おおお! 動いておる! 景色が逃げていくぞ!」
フェンが窓枠に前足をかけ、子供のように外を眺めている。
遠ざかる青木ヶ原の街並み。
そして、その背後にそびえる富士山。
俺たちが戦い、生き抜いた場所が、みるみるうちに小さくなっていく。
「……さらばだ、青木ヶ原」
フェンが小さな声で呟いた。
その横顔には、少しだけ寂しさと、それ以上の期待が入り混じっていた。
「ああ。……いい街だったな」
俺も窓の外を見つめ、心の中で別れを告げた。
ありがとう、そしてさようなら。
俺を育ててくれた揺りかご。
次は、もっと大きくなって帰ってくるかもしれないし、二度と戻らないかもしれない。
未来は未確定だ。だからこそ面白い。
しばらくして、車内販売のワゴンが回ってきた。
「お弁当はいかがですかー」
その声を聞いた瞬間、フェンの耳がピクリと反応した。
「カズ! 弁当だ! 来るぞ!」
「わかってるって。……すみません、この『特選和牛すき焼き弁当』を二つ。あと、ビールとつまみも」
俺が注文すると、販売員のお姉さんは少し驚いた顔をしたが、プロの笑顔で商品を手渡してくれた。
足元の大きな犬にも気づいたようだが、グリーン車の客には深入りしないのがマナーなのだろう。
「ほら、お前の分だ」
俺が弁当の蓋を開けると、甘辛いタレの香りがふわりと漂った。
柔らかそうな肉が、ご飯の上に敷き詰められている。
「うおおお! 肉だ! しかも味が染みておる!」
フェンは目を輝かせ、器用に前足で弁当箱を押さえながら、ガツガツと食べ始めた。
その幸せそうな顔を見ているだけで、こちらの胸がいっぱいになる。
俺もビールを開け、一口飲んだ。
冷たい液体が喉を通り過ぎる。
列車は東へ。
日本の首都、東京へ向かってひた走る。
窓の外の景色は、次第に緑が減り、灰色の建物が増えていく。
田園風景から住宅街へ。そして、巨大なビル群へ。
文明の密度が上がっていく。
それと比例するように、空気中の魔力も変わっていくのを肌で感じた。
青木ヶ原の魔力は、自然の猛々しさを帯びていた。
だが、近づいてくる東京の魔力は、もっと人工的で、複雑で、どこか歪な気配を孕んでいる。
「……臭うな、カズ」
弁当を平らげたフェンが、鼻をひくつかせた。
「ああ。……何かが渦巻いている感じだ」
多くの人間が発する欲望。
そして、巨大なダンジョンから漏れ出す瘴気。
それらが混ざり合い、独特の『魔都』の空気を形成している。
「面白そうだ。……青木ヶ原の比ではないぞ、この気配は」
フェンがニヤリと笑った。
その瞳は、完全に捕食者のそれに戻っていた。
「腕が鳴るな。……いや、胃袋が鳴るというべきか」
「どっちでもいいさ。……全部食い尽くしてやろうぜ」
俺は残りのビールを飲み干し、窓の外に迫る巨大都市の威容を見据えた。
◇
一時間後。
列車は減速し、巨大なターミナル駅へと到着した。
品川駅。
東京の南の玄関口であり、今回の俺たちの目的地だ。
ホームに降り立つと、凄まじい熱気と騒音に包まれた。
人の波。
無数の足音。
アナウンスの声、電車の発着音、人々の話し声。
それらが渾然一体となって、巨大なうねりとなって押し寄せてくる。
「な、なんだこれは……! 人間だらけではないか! 祭りか? 毎日が祭りなのか!?」
フェンが俺の足元で目を白黒させている。
青木ヶ原も賑やかだったが、ここは桁が違う。
視界を埋め尽くす黒い頭の波。全員が何かに急き立てられるように早足で歩いている。
「これが東京だ。……はぐれるなよ」
「う、うむ! カズ、置いていくなよ!」
フェンは俺のズボンの裾をくわえ、必死についてくる。
俺は人波をかき分け、改札へと向かった。
周囲の人々は、俺たちを見ても道を空けようとはしない。
ここでは、俺はただの「スーツを着た男」であり、フェンは「大きな犬」でしかない。
誰も俺を知らない。
誰も俺を特別視しない。
それが、心地よかった。
ここでは俺は何者でもない。
だからこそ、何者にでもなれる。
改札を抜け、港南口の広場に出た。
視界が一気に開ける。
「……でかいな」
俺の口から、自然と声が漏れた。
目の前に広がるのは、空を突き刺すような高層ビル群。
ガラスと鋼鉄の摩天楼が、壁のように立ちはだかっている。
そして、そのビル群の中心に、異様な存在感を放つ『それ』があった。
他のビルとは明らかに異質な、黒い塔。
周囲の空間を歪ませるほどの魔力を放ち、天に向かって螺旋を描きながら伸びている。
雲を突き抜け、その先が見えないほどの巨塔。
品川ダンジョン『アビス・タワー』。
現代のバベルの塔とも呼ばれる、人類未踏の魔境の一角。
「ほう……あれか。あれが我らの新しい遊び場か」
フェンが塔を見上げ、舌なめずりをした。
その瞳に、塔の黒い影と、燃えるような野心が映り込んでいる。
「ああ。あの中に、俺たちの求める答えがあるかもしれない」
俺はスーツの襟を正し、『亜空の背嚢』を背負い直した。
ここからが、第二章の始まりだ。
田舎の英雄ごっこは終わりだ。
これからは、この魔都の最前線で、世界を相手に喧嘩を売ることになる。
「行くぞ、フェン。まずは拠点探しと……」
「もんじゃだ! まずはもんじゃを食うぞ!」
「……ブレないな、お前は」
俺は苦笑し、歩き出した。
見上げる摩天楼の隙間から、風が吹き抜けていく。
その風には、鉄と誇りと、そして微かな血の匂いが混じっていた。
俺の肌が粟立つ。
武者震いだ。
待っていろ、東京。
待っていろ、アビス・タワー。
レベル99の最凶コンビが、今ここに到着した。
俺たちは人混みの中に紛れ込み、魔都の深淵へと足を踏み入れた。




