第十三話:地方の限界
過去に出くわした、あの汚物どもをダンジョンで処分してから、もう数日は経過していた。
とはいえ、その日常に何かこれといった変化はなく。
その日も、俺たちはいつものようにダンジョンの中層エリアを歩いていた。
時間は、午前十時。
周囲の探索者たちは、俺たちの姿を見ると、まるで王族のパレードに出くわしたかのように道を空ける。
「おはようございます! 矢崎さん!」
「今日も深層ですか? お気をつけて!」
「銀狼様も、毛並みがお綺麗で!」
彼らの視線にあるのは、純粋な畏敬と、媚びへつらいだ。
『銀狼の主』。
それが、この数週間で定着した俺の二つ名だ。
C級に昇格した後も、俺たちの快進撃は止まらなかった。ギルドからの依頼を片っ端からこなし、難攻不落とされたエリアを地図化し、ネームドモンスターを狩り尽くした。
今や青木ヶ原で、俺たちを知らない者はいない。
「……チヤホヤされるのも、悪くはないがのぅ」
足元を歩くフェン(狼形態)が、念話でぼやく。
『退屈だ、カズ。人間どもの視線が生ぬるい』
『有名税ってやつだ。我慢しろ』
『ふん。……あやつら、我をただの可愛い犬だと思っておらぬか? 一度、本性を見せて食い散らかしてやろうか』
『やめろ。掃除が面倒だ』
俺たちは他愛のない会話を交わしながら、深層への入り口を目指す。
かつて大河原たちを置き去りにしたあの場所だ。
今では、そこへ至るルートも完全に把握し、庭の散歩コースと変わらない。
ズシン、ズシン。
前方の暗がりから、重たい足音が響いてきた。
岩の陰から現れたのは、身長三メートルを超える巨躯。
全身が鋼鉄のような筋肉で覆われた、牛頭の魔人。
『種族:ミノタウロス・ジェネラル』
『ランク:B+』
『状態:殺気、縄張り主張』
中層の主とも呼ばれる強力なモンスターだ。
通常の探索者パーティなら、遭遇した瞬間に全滅を覚悟し、遺書の内容を走馬灯のように思い出すレベルの相手。
「ブモォォォォォォッ!!」
ミノタウロスが巨大な戦斧を振り上げ、咆哮する。
空気がビリビリと振動し、天井からパラパラと土砂が落ちてくる。
迫力満点の登場シーンだ。
だが。
「……フェン」
『うむ』
俺が名前を呼ぶと同時に、銀色の風が吹いた。
フェンが地面を蹴る必要すらなかった。
彼女はただ、軽く前足を振っただけだ。
ヒュン。
風を切る音さえもしない。
次の瞬間、ミノタウロスの巨体が、積み木を崩すように斜めにずれた。
ズズズ……ドサッ。
上半身が滑り落ち、大量の血飛沫が舞う前に、フェンは既に俺の足元に戻っていた。
その毛並みには、返り血一つ付いていない。
『銀月の首飾り』の加護と、彼女自身の圧倒的な技量が、汚れを寄せ付けないのだ。
「……作業だな」
『うむ。張り合いがない』
俺はウィンドウを確認するまでもなく、ミノタウロスの死体に近づいた。
慣れた手つきで胸を開き、魔石を取り出す。
かつては、この魔石一つで家が建つと大騒ぎしたものだが、今ではリュックの中に転がっている石ころの一つに過ぎない。
「行くぞ。もっと奥へ」
俺たちは足を止めず、さらに深くへと進んでいく。
『深層接続領域』
そこは本来、人の立ち入りを拒む地獄の釜の底だ。
だが、レベル99になった俺たちにとっては、ぬるま湯に浸かっているようなものだった。
現れるモンスターたち。
アビス・スパイダー。
デッドリー・マンティス。
ポイズン・ヒュドラ。
どれもAランク級の化け物ばかりだ。
だが、俺の目には、奴らの動きがスローモーションのように見える。
攻撃の予備動作。筋肉の収縮。魔力の流れ。
すべてが【ラベル閲覧】によって丸裸にされ、赤い予測線として視界に表示される。
「右、毒霧」
『ふん』
俺の呟きに合わせて、フェンが最小限の動きでかわし、カウンターの爪を叩き込む。
断末魔の悲鳴。
崩れ落ちる巨体。
「次は左、死角から糸だ」
『遅い!』
フェンの『鉄尾』が空を薙ぎ、迫りくる鋼鉄の糸ごとスパイダーの頭を粉砕する。
戦闘ではない。
これは、単なる収穫作業だ。
俺たちは黙々と、現れる障害を排除し、素材を回収し続けた。
汗一つかかない。
心拍数も上がらない。
命のやり取りをしているはずなのに、そこにあるのは事務的な処理の連続だけ。
二時間後。
俺の『亜空の背嚢』は、今日もまた最高級の素材でパンパンに膨れ上がっていた。
「……帰るか」
『うむ。腹が減った』
俺たちは広場の岩に腰を下ろし、小休止を取った。
フェンが元の少女の姿に戻り、俺の隣で足をぶらつかせている。
「カズ、何か食うものはないか? 口の中が寂しい」
「ほら、ジャーキーだ。高級品だぞ」
俺はアイテムボックスから、和牛で作った特製ビーフジャーキーを取り出した。
フェンはそれをひったくり、ガシガシと噛み砕く。
「……美味いが、固い。もっとこう、とろけるような肉が食いたいのだ」
「贅沢言うな。これだって一枚数千円するんだぞ」
「金の問題ではない! 刺激の問題だ!」
フェンは不満げに頬を膨らませた。
「この街の肉は、あらかた食い尽くした。ステーキも、ハンバーグも、焼肉も、すき焼きも。……どれも美味いが、最初の頃のような感動がない」
「舌が肥えたんだよ。お前も、俺も」
俺は苦笑しつつ、自分の分の水を飲んだ。
彼女の言う通りだ。
青木ヶ原は、ダンジョン特需で潤っているとはいえ、所詮は地方都市だ。
店の数も限られているし、食材の流通も都心には及ばない。
毎日、最高級のものを食べていれば、いずれ飽きが来る。
「カズよ。……我らは、ここで朽ち果てるのか?」
フェンが唐突に言った。
その赤い瞳が、薄暗いダンジョンの天井を見つめている。
「朽ち果てるって、大げさだな」
「だが、毎日同じことの繰り返しではないか。起きて、飯を食い、ここへ来て、雑魚を散らし、また飯を食って寝る。……まるで、回し車の中を走るハムスターのようだ」
ハムスターなんて言葉、どこで覚えたんだか。
だが、彼女の指摘は的を射ていた。
俺たちは強くなりすぎた。
この青木ヶ原という箱庭は、今の俺たちには狭すぎるのだ。
「……そうだな。そろそろ、潮時かもしれないな」
俺が呟くと、フェンがパッと顔を輝かせた。
「ほう? 何か考えがあるのか?」
「まあな。……とりあえず、帰ってから考えよう」
俺は立ち上がり、彼女に手を差し出した。
フェンはその手を取り、軽やかに立ち上がる。
「うむ。……今日の夕飯は何だ?」
「何がいい?」
「うーむ……思いつかぬ。驚きのあるものがいい!」
無茶振りだ。
だが、その無茶振りこそが、今の退屈な日常における唯一の刺激かもしれない。
◇
地上に戻り、ギルドへ向かう。
夕方のギルドホールは、一日の成果を換金しに来た探索者たちでごった返していた。
汗と泥の臭い。
怒号と笑い声。
かつては、この熱気に圧倒されていた自分がいた。だが今は、それを水槽の外から眺めているような気分だ。
俺たちが姿を見せると、ホールの一角が静まり返り、モーゼの海割れのように道ができる。
慣れきった光景だ。
俺は真っ直ぐに優先カウンターへと進む。
そこには、俺たち専属の担当となったベテラン職員が待ち構えていた。
「お待ちしておりました、矢崎様。本日の成果は?」
「いつも通りだ。深層の素材が主だが、途中でミノタウロスがいたから、そいつの魔石もある」
俺がリュックを逆さにし、トレイの上に素材の山を築くと、周囲からため息のような歓声が漏れる。
ミノタウロス・ジェネラルの魔石。
アビス・スパイダーの糸。
どれも、一般の探索者が一生に一度お目にかかれるかどうかの代物だ。
「……相変わらず、素晴らしい成果ですね。査定には少しお時間をいただきますが」
「構わない。いつもの口座に入れておいてくれ」
「承知いたしました。……あ、それと矢崎様」
職員が声を潜め、申し訳なさそうに言った。
「最近、他県のギルドや大手クランから、矢崎様への面会希望が殺到しておりまして……。ギルドマスターが防波堤になってくださっていますが、少々処理しきれない数になってきています」
「……そうか。迷惑をかけてるな」
「いえ! 矢崎様はこの支部の英雄ですから! ただ、少しご自身の身の振り方を考えられた方が良い時期かもしれません」
身の振り方。
職員の言葉が、ダンジョンでのフェンの言葉と重なる。
やはり、周囲も感じているのだ。
俺という存在が、この青木ヶ原という器から溢れ出しそうになっていることを。
「忠告、感謝するよ」
俺は短く礼を言い、ギルドを後にした。
◇
外に出ると、空は茜色に染まり始めていた。
巨大な富士のシルエットが、夕闇の中に沈んでいく。
「さて、メシだメシ!」
狼姿のフェンが、俺の足元で尻尾を振っている。
俺はスマホを取り出し、地図アプリを開いた。
『青木ヶ原 食事』で検索するが、表示される店はどれも既に行ったことのある場所ばかりだ。
「……驚きのあるもの、か」
結局、俺たちが選んだのは、最近オープンしたという創作イタリアンの店だった。
店の裏手に回ると、換気扇から強烈に食欲をそそる香ばしい脂の匂いが漂ってくる。
「ぬおっ……! なんだこの芳醇な香りは! 焼けた肉と、焦げたニンニクの匂いか!?」
フェンが鼻をひくつかせ、落ち着きなく足踏みを始めた。その口元からは、いまにも涎が垂れそうだ。
「ここにするか。……だがフェン、その姿じゃ店に入れないぞ」
俺が釘を刺すと、フェンは露骨に嫌そうな顔をして耳を伏せた。だが、その視線はチラチラと店の勝手口の方へ向けられている。
「むぅ……やはり、人の姿にならねばならぬか?」
「ナイフとフォークを使う店だ。それに、さすがに犬連れじゃ個室でも断られる可能性がある」
「面倒なことよ。なぜ人間は、いちいち皮の上に布を重ねたがるのだ? 毛皮だけで十分暖かいし、美しいではないか」
フェンはブツブツと文句を垂れる。彼女にとって人間の姿になること、そして衣服をまとうことは、窮屈な拘束衣を着せられるのと同義らしい。
だが、換気扇から新たな匂いの波が押し寄せると、彼女の喉がゴクリと鳴った。
「……背に腹は代えられぬ、か。ええい、布を早く用意せよカズ!」
「はいはい。……ほら、これに着替えろ」
俺は『亜空の背嚢』から、以前買っておいたシンプルなワンピースを取り出していく。
その俺の隣では、シュンッという音がした。そして、その音とともに、銀髪の美少女が憮然とした表情で出現した。
「人間は、本当に変わっているのぉ…」
フェンはため息を一つ吐くと、それらに着替え始めた。
「くっ……この布、肩周りが突っ張るぞ。それに、足元がスースーして落ち着かぬ」
俺に背中のファスナーを上げさせながら、フェンは袖を引っ張ったり裾を気にしたりと落ち着かない。だが、その赤い瞳は獲物を狙うように店のドアを睨みつけている。
「我慢しろ。ここのシェフは腕利きらしいぞ。絶品のローストポークが食いたくないのか?」
「……うむ。肉のためだ。この程度、なんともない」
食欲という最強の説得材料に、フェンは鼻息荒く頷いた。
彼女はパーカーのフードを被るように、ワンピースの襟元を正すと、待ちきれない様子で俺の腕をグイと引っ張った。
「行くぞカズ。さっさと肉を我が前に捧げさせよ!」
俺たちは個室を予約して、入店した。
店員は俺たちの顔を見るなり、最上級の敬意を持って案内してくれた。この街で『銀狼の主』を知らない商人はいない。連れている銀髪の少女が誰なのか詮索するような野暮な真似もせず、スムーズに奥の席へと通された。
運ばれてきた料理は、確かに美味かった。
地元の高原野菜を使ったバーニャカウダ。
富士桜ポークのロースト。
トリュフを散らしたリゾット。
どれも洗練されており、シェフの腕の良さを感じさせる。
フェンは目を輝かせ、慣れない手つきでナイフとフォークを動かしていた。
「ほう! これは柔らかい! 噛まずとも溶けるぞ!」
最初の一口、二口は、確かに感動があった。
だが。
「……ふむ」
少女の姿でフェンは、ポークのローストを半分ほど食べ進めたところで、フォークを置いてしまった。
ナプキンで口元を拭い、小さく首を傾げる。
「不味くはない。……だが、何かが足りぬ」
「足りない?」
「熱量だ。魂を揺さぶるような、ガツンとくる何かが。……綺麗にまとまりすぎておる」
贅沢な悩みだ。
だが、俺も同感だった。
美味しい。だが、それだけだ。
かつて、安宿で食べたコンビニのフライドチキンの方が、よほど心に響いた気がする。
あれは、飢えていたからだ。
今の俺たちは、満たされすぎている。物質的にも、金銭的にも。
欠乏がない日常は、平穏だが、同時に退屈という毒を含んでいる。
「……東京なら、もっと違うものがあるかもな」
俺がポツリと言うと、フェンが反応した。
「トウキョウ? あの、東の方にある人間の巣窟か?」
「ああ。ここよりずっと広くて、人が多くて……世界中の美味いものが集まる場所だ」
「ほう……世界中の、か」
フェンの目が輝いた。
その瞳の奥に、新たな獲物を見つけた肉食獣の色が宿る。
「そこには、もっと強い魔物もいるのか?」
「ああ。東京には、様々なダンジョンがある。それのどこも、こことは規模も難易度も段違いだ」
「……面白い」
フェンがニヤリと笑い、グラスに残った赤ワインを一気に飲み干した。
「カズよ。我は決めたぞ」
「何をだ?」
「次の狩り場だ。……この狭い田舎の山は、もう遊び尽くした。我にはもっと広い場所が必要だ」
彼女は、俺の目を真っ直ぐに見つめた。
「連れて行け、トウキョウへ。お主となら、どんな魔窟でも極上の遊び場になるはずだ」
その言葉は、俺の中で燻っていた思いに火をつけた。
そうだ。
ここで立ち止まっている理由はない。
俺たちは最強になった。だが、それは『この街で』最強になったに過ぎない。
世界はもっと広い。
上には上がいるはずだ。
そして何より、この退屈な日々を打ち壊す刺激が、そこにはある。
「……わかった。行こう」
俺は頷いた。
腹は決まった。
食事を終え、店を出る。
夜風が心地よい。
見慣れた街並みが、少しだけ色褪せて見える。
それは、俺たちが次のステージへ進む準備ができた証拠だろう。
俺たちはペントハウスへの帰路についた。
足取りは軽い。
明日、ギルドマスターのエリザに話をしよう。
きっと彼女も、止めはしないはずだ。むしろ、この日が来ることを予期していたかもしれない。
俺たちはエレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押した。
上昇する箱の中で、フェンが俺の手を握ってきた。
温かい。
この温もりがあれば、どんな場所へ行っても、俺は俺でいられる。
「カズ、トウキョウにはどんな肉があるのだ?」
「そうだな……熟成肉とか、シュラスコとか……あと、もんじゃ焼きなんてのもあるぞ」
「モンジャ? なんだそれは! 呪文か!?」
無邪気にはしゃぐ彼女を見ながら、俺は久しぶりに心の底から笑った気がした。
冒険は、まだ終わらない。
いや、ここからが本当の始まりなのだ。
エレベーターの扉が開く。
そこには、俺たちの拠点が待っていた。
だが、ここはもう終着点ではない。
次なる旅立ちへの、出発点となるのだ。
俺はフェンの手を引き、光溢れるリビングへと足を踏み入れた。
窓の向こう、東の空に、見えない東京の灯りが呼んでいるような気がした。




