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第十二話:厚顔無恥な寄生虫

 ペントハウスの窓から差し込む陽光が、まどろみの中にいる俺の意識を優しく撫でる。

 キングサイズのベッドは広大だ。だが、今の俺に与えられているスペースは、その端のわずかな領域に過ぎない。

 なぜなら、ベッドの主役とも言える中央部分を、銀色の巨大な毛玉が占拠しているからだ。


 重い。だが、不快ではない。

 かつて社員寮の煎餅布団で感じていた、冷たく孤独な重みとは違う。

 俺の脇腹にのしかかっているのは、太陽の匂いがする温かな生命の塊だ。


『……んぅ、カズぅ……まだ、ねるぅ……』


 脳内に直接、甘ったるい念話が響いてくる。

 視線を向けると、大型犬ほどのサイズをした銀色の狼――フェンが、俺の腹を枕代わりにして、器用に丸まっていた。

 ふさふさとした尻尾が俺の足に絡みつき、無防備に投げ出された前足の肉球が、シーツの上で時折ピクピクと痙攣している。夢の中で何かを追っているのだろうか。

 その見事な銀毛は朝日に透けて輝き、首元の『銀月の首飾り』に埋め込まれた赤い宝石が、規則正しい呼吸に合わせて揺れていた。


 俺は彼女を起こさないように、その分厚い毛並みに指を沈めた。極上のシルクよりも滑らかで、それでいて生き物特有の弾力がある。指先が埋まるほどのモフモフ感。これこそが、俺が手に入れた最高の贅沢だ。


「……フェン、朝だぞ。いつまで寝てるんだ」


 声をかけても、彼女は起きる気配を見せない。それどころか、俺の腹に鼻先をさらに強く押し付け、「グルル……」と喉の奥で不満げな音を鳴らした。どうやら、この生きた湯たんぽのようなポジションを譲る気は毛頭ないらしい。


「今日はギルドに行かなくちゃならないんだ。ほら、起きろ」

『……むぅ……にく……』


 寝言でまで肉を所望するとは。

 そのあくなき食への執念に、俺は思わず吹き出してしまった。神獣としての威厳など欠片もない姿だが、そんな飾らない彼女だからこそ、俺はこの背中を預けられるのだ。


「わかったよ。今日の朝飯は、特大のサーロインステーキにしてやるから」


 ピクリ。


 その単語が耳に入った瞬間、銀色の毛に埋もれていた三角形の獣耳が、レーダーのように鋭く反応した。

 次の瞬間、彼女はバネ仕掛けのようにガバッと頭をもたげ、まだ眠気の残るルビー色の瞳をしばたたかせながら俺を見上げた。


『……いま、すてーき、と言ったか?』

「言ったよ。冷蔵庫にいい肉が残ってたはずだ」

『カズ! お主はやはり最高の主だ! 愛しておるぞ!』


 フェンはいきなり俺の胸板に前足をかけ、ザラリとした温かい舌で俺の頬をひと舐めした。

 朝から元気なことだ。重いが、悪い気はしない。

 俺は苦笑しつつ、彼女の背中をポンポンと叩いて離れさせた。


「顔を洗ってこい。準備ができたら呼ぶ」

『うむ! 焼き加減はレアで頼むぞ!』


 フェンはベッドから軽やかに飛び降りると、タタタッと軽快な足音を立ててバスルームへと走っていった。揺れる銀色の尻尾が、ご機嫌であることを雄弁に物語っている。

 俺もまた、新しい一日を始めるためにベッドを降りた。


 キッチンに立ち、冷蔵庫から霜降り肉を取り出す。

 フライパンを熱し、牛脂を溶かす。香ばしい匂いが立ち上ると同時に、肉を投入する。

 ジューッという音と共に、脂の爆ぜる音と極上の香りが広大なリビングに充満していく。


『おお……! よい香りだ!』


 いつの間にか戻ってきたフェンが、カウンターに前足をかけ、後ろ足だけで器用に立ち上がってフライパンの中を覗き込んでいる。

 その瞳は、獲物を狙う狩人のように真剣そのものだ。


「こら、つまみ食いするなよ」


 俺は焼き上がったステーキをまな板に移し、フェンが食べやすいように一口サイズにカットしていく。

 以前のようなコンビニ飯ではない。

 成功者の朝食。

 俺は皿をテーブルに置きながら、確かな充実感を噛み締めた。

 さあ、今日も稼ぎに行くとしようか。俺の人生を取り戻すために。


 ◇


 朝食を終え、俺たちはペントハウスを出た。

 専用エレベーターで一階のエントランスホールへ降りると、コンシェルジュが深々と頭を下げて見送ってくれた。


「いってらっしゃいませ、矢崎様」


 その恭しい態度は、俺がこのレジデンスの最重要顧客であることを示している。

 俺は軽く手を挙げて応え、自動ドアを抜けて外の通りへと出た。


 青木ヶ原の街は、今日も探索者たちの熱気で溢れかえっていた。

 だが、俺たちが歩き始めると、その喧騒が一瞬だけ遠のくような錯覚を覚える。

 人波が割れるのだ。

 まるで、見えない壁が俺たちの前に存在するかのように、道行く人々が左右に避けていく。


「おい、あれだ……」

「噂の『銀狼の主』だぞ」

「本当にスーツだ……あんな格好で深層を歩いてるのか?」

「あの銀色の狼、綺麗だな……でも、目が合うと食われそうで怖い」


 周囲から聞こえてくるのは、畏敬と羨望、そして媚びへつらうような囁き声ばかりだ。

 かつて俺に向けられていた、落伍者を見るような侮蔑の視線はどこにもない。

 俺が視線を向けると、屈強な戦士風の男でさえ、慌てて目を逸らして道を譲る。

 現金なものだ。

 力を持つ者にはひれ伏し、持たざる者は踏みつける。この街のルールは単純明快で、ある意味では清々しいほどだ。


『ふふん、人間どもめ。ようやく我らの偉大さに気づいたようだな!』


 足元を歩くフェンが、鼻高々に尻尾を左右に振っている。

 現在の彼女は大型犬ほどのサイズの狼姿だ。その銀色の毛並みは、太陽の光を浴びて宝石のように輝いている。首元で揺れる『銀月の首飾り』が、チャリチャリと涼やかな音を立てていた。


『調子に乗るなよ。足元をすくわれるぞ』

『何を言う! 我らの足元をすくえる者など、この地上にはおらぬわ! それに、見ろカズよ。あの人間たちの目を。怯えと憧れが入り混じった、よい表情ではないか』


 フェンは満更でもない様子で、わざとゆっくりと歩を進める。まるで凱旋パレードの主役気取りだ。

 まあ、昨日の昇格試験で見せたパフォーマンスを考えれば、彼女が誇るのも無理はない。Bプラスのネームドモンスターを一方的に蹂躙したのだから。


 俺たちはギルド支部の正面入り口に到着した。

 自動ドアが開くと、冷房の効いた空気が肌を撫でる。

 ホール内は数百人の探索者でごった返していたが、俺たちが足を踏み入れた瞬間、場の空気が張り詰めたものに変わった。

 視線が集まる。

 突き刺さるような注目の中、俺は平然と受付カウンターへ向かおうとした。


 だが、その進路を遮るように、数人の影が近づいてきた。

 遠慮のない足音。

 そして、鼻をつくような安っぽい整髪料と、アルコールの残り香。


「よう、矢崎! 久しぶりじゃねえか!」


 聞き覚えのある、下卑た声が鼓膜を叩いた。

 俺は足を止めた。

 視界にウィンドウを浮かべるまでもない。その顔を、その声を、忘れるはずがなかった。

 数日前、俺を地獄へ突き落とした張本人たち。


 大河原ゴウ。

 ネズ。

 マミ。


 かつての同僚――いや、俺を『ダンジョン・フロンティア』という掃き溜めでゴミ扱いし、ミスリル・ゴーレムの群れの中に囮として置き去りにした連中だ。

 彼らは満面の笑みを浮かべ、まるで十年来の親友に再会したかのように、両手を広げて俺に歩み寄ってきた。


「生きてたんだなァ! いやあ、よかったよかった! 俺たち、ずっと心配してたんだぜェ?」


 大河原が馴れ馴れしく俺の肩を叩こうと手を伸ばしてきた。

 俺は半歩だけ体をずらす。

 大河原の手は空を切り、彼は勢い余って少しだけよろめいた。


「……触るな。汚れる」


 俺の口から出た声は、自分でも驚くほど冷徹に響いた。

 だが、大河原はその拒絶を気にする様子もなく、ヘラヘラと笑い続けている。その神経の図太さには、呆れを通り越して感心するしかない。

 薄汚れた革鎧。手入れのされていない武器。そして、欲望にギラついた濁った瞳。

 彼らは、俺が知っている「クズ」のままだった。


「おいおい、水臭いこと言うなよォ。同じ釜の飯を食った仲じゃねえか」

「そうですよぉ矢崎さん! 私たち、仲間じゃないですかぁ!」


 マミが媚びるような上目遣いで、俺の腕に絡みつこうとしてくる。

 その体から漂う甘ったるい香水の臭いが、吐き気を催させた。

 かつて、俺のことを「汗臭い」「近寄らないで」と罵っていた女が、今は体を擦り付けてくる。

 彼女の視線は、俺の顔ではなく、俺が着ている高級スーツの生地や、腰に下げた『竜殺しのダガー』の柄に向けられていた。


「仲間? ……俺を囮にして見捨てた連中が、よく言うな」


 俺が事実を突きつけると、ネズがわざとらしく手を振って否定した。


「いやいや、あれは誤解っすよ! 俺たちはほら、矢崎さんなら生き残れるって信じてたから! 戦略的撤退ってやつっすよ! 実際、こうしてピンピンしてるじゃないっすか!」

「そうそう! それに、結果オーライだろ? お前、すげえ強くなったって噂じゃねえか」


 大河原がニヤニヤしながら、俺の全身を舐めるように見た。

 値踏みする目だ。

 コイツは使えるか、いくらになるか。それだけを計算している目だ。


「聞いたぜェ? C級に特別昇格したってな。それに、ギルドから好待遇を受けて、あのレジデンスに住んでるって話じゃねえか。すげえ出世だなァ!」

「まあな」

「へへっ、さすが俺が見込んだ男だ! 俺の目は節穴じゃなかったってことだな!」


 どの口が言う。

 お前は俺を「ゴミ」と呼び、「荷物持ち以外に価値はない」と断言したはずだ。

 だが、彼らの脳内では、過去の記憶など自分たちの都合のいいように書き換えられているらしい。彼らにとって他者は、利用できるか否かだけの存在であり、感情など考慮に値しないのだ。


「でだ、矢崎。……俺たち、また組まねェか?」


 大河原が本題を切り出した。

 その顔には、隠しきれない欲望が脂汗のように浮き出ていた。


「俺たちと組めば、最強だろ? お前のその従魔と、俺たちの戦闘経験があれば、中層どころか深層だって楽勝だ」

「分け前も弾むっすよ! 矢崎さんが四割……いや、五割でもいいっす!」

「私も回復魔法でサポートしてあげるしぃ、夜の方のサポートも……ね? 矢崎さん、昔から私のこと、いいなって見てたでしょぉ?」


 彼らは俺を対等なパートナーとして見ているわけではない。

 俺という『強力な武器』を手に入れて、楽をして稼ぎたいだけだ。俺が稼いだ金を吸い上げ、俺の力を盾にして安全に利益を得ようとしている。

 まさに寄生虫だ。


 彼らの頭上に、半透明のウィンドウが浮かび上がる。

 俺のスキル【ラベル閲覧】が、彼らの思考を無慈悲に暴き出していた。


『氏名:大河原 ゴウ 思考:こいつを使えばボロ儲けだ。適当におだてて金づるにしてやる。用済みになったらまた捨てればいい』

『氏名:ネズ 思考:へへ、上手くいきそうだ。チョロいもんだな』

『氏名:マミ 思考:ちょっと色仕掛けすればイチコロでしょ。顔はタイプじゃないけど金のためなら我慢してあげる』


 ……反吐が出る。

 こいつらは腐っている。

 人間としての芯の部分が、ドロドロに腐敗しきっている。

 俺の中で、冷たい怒りの炎が静かに、しかし激しく燃え上がった。


 ここで彼らを叩きのめすのは簡単だ。

 レベル99になった今の俺なら、指先一つで彼らを肉塊に変えることができる。

 フェンに一言命じれば、彼らは悲鳴を上げる間もなく消し炭になるだろう。


 だが、それでは生温い。

 一瞬の痛みで終わらせてやる慈悲など、今の俺にはない。


 彼らは俺を『絶望』に突き落とした。

 希望も、尊厳も、命さえも踏みにじり、嘲笑いながら見捨てた。

 ならば、彼らにも同じ味を教えてやるべきではないか?

 甘い夢を見せて、天国まで持ち上げて、そして一番高いところから地獄の底へ突き落とす。

 それが、最も相応しい報復だ。


 俺は怒りを腹の底に押し込め、顔の筋肉を操作した。

 かつて、高野課長や無理難題を言う取引先の前で見せていた、感情を殺した完璧な『営業スマイル』を貼り付ける。


「……なるほど。確かに、一人だと手が足りないこともあったんだ」


 俺の言葉に、大河原たちの顔がパッと明るくなった。


「だろォ!? やっぱり昔の仲間が一番だよなァ!」

「そうっすよね! 気心が知れてるし、連携もバッチリっすよ!」

「うれしー! またよろしくね、カズくん! ……あ、カズくんって呼んでいいよね?」


 愚かな彼らは、俺の適当な肯定に油断しきっている。

 俺が過去を水に流したと、自分たちに都合よく解釈している。

 完全に知能が足りていないのか、それとも欲に目が眩んで正常な判断ができないのか。


「ああ、よろしく頼むよ。……実は、とっておきの『穴場』を見つけたんだ」


 俺は声を潜めて、秘密を打ち明けるように言った。


「穴場……?」


 三人がゴクリと喉を鳴らす音が聞こえた。


「まだギルドにも報告していない、未踏破エリアだ。そこには、レアメタルの鉱脈と、手つかずの宝箱が山ほどある。……だが、場所が少し深くてな」

「マ、マジかよ……!」

「ああ。俺一人じゃ運びきれないほどの宝があるんだ。だが、信頼できる仲間がいなくて困っていたところだ。……手伝ってくれるか?」


 甘い蜜。

 彼らが一番飛びつきそうな、毒入りの餌だ。


「やるやる! 絶対やるぜ!」

「俺たちに任せてくださいよ! 荷物持ちなら任せてください……あ、いや、運搬も手伝いますから!」

「宝箱! 宝石とかあるかなぁ!」


 彼らは疑うことすらしない。

 欲に目が眩んだ人間は、足元にパックリと開いた落とし穴が見えなくなる。


「よし、じゃあ早速行こうか。善は急げだ。……準備はいいな?」

「おうよ! いつでも行けるぜ!」


 大河原がガッツポーズをする。

 俺は心の中で冷たく笑った。


 案内してやろう。

 お前たちにふさわしい、地獄の特等席へ。


 ◇


 俺たちはギルドを出て、関係者用の搬入口ではなく、一般の探索者が使うメインゲートへと向かった。

 大河原たちを連れていては、裏口は使えないからだ。

 道中、フェンが俺の脳内に念話を飛ばしてきた。


『おいおい…カズよ、正気か? なぜ、あのような腐った連中と、なぜ組むのだ? 我慢ならんぞ、今すぐ喉笛を食いちぎってやろうか?』


 彼女の声には、隠しきれない不快感と殺気が滲んでいた。

 当然だ。彼女は俺と魂の契約を結んでいる。俺の奥底にある憎悪を、彼女も敏感に感じ取っているはずだ。


『我慢してくれ、フェン。……ただ叩き潰すだけじゃ、つまらないだろ?』

『……ほう?』

『高いところから落とすには、まず高いところに連れて行かなきゃならない。……絶望ってのは、希望の直後にあるのが一番効くんだよ』


 俺の思考を読み取ったのか、フェンがニヤリと笑う気配がした。


『ふはは…。なるほど、なるほど。悪趣味よのう、我が主は。……だが、嫌いではないぞ。そのどす黒い執念、魔族顔負けだ』

『それは、最高の褒め言葉だな』


 俺たちはゲートをくぐった。

 大河原たちは、まるで遠足に行く子供のようにはしゃいでいる。

 これから向かう先が、自分たちの墓場になるとも知らずに。


 目指すは中層を抜けた先。

 深層エリアとの境界線にある、誰も近づかない危険地帯。

 俺が昨日、探索のついでに見つけた『極上の狩り場』だ。もちろん、俺たちが狩られる側ではなく、彼らが狩られるための場所だが。


 さあ、パーティーの始まりだ。

 主賓はもちろん、お前たちだぞ、大河原。

 たっぷりと楽しんでいってくれ。


 ◇


 ダンジョンに入ってからの道中は、滑稽なほどの茶番劇だった。

 俺とフェンが先頭を歩き、現れるモンスターを片っ端から排除していく。

 大河原たちは、その後ろをただ歩くだけだ。


「へへッ、楽勝だぜェ! おい矢崎、右から雑魚が来たぞ! やっちまえ!」

「ワンちゃん、強いねェ! さすが矢崎さんの従魔だ!」

「あーあ、汗かかなくて済むから最高ぉ。楽して稼げるってマジだったんだぁ」


 彼らは武器すら構えない。

 俺たちを便利な道具として使い、自分たちは安全圏から野次を飛ばすだけ。

 その態度は、以前俺を酷使していた時と何ら変わらない。

 いや、俺が強くなった分、さらにタチが悪くなっている。彼らは「俺がやるのが当然」だと思い込んでいるのだ。


「……はいはい、任せろ」


 俺は淡々とオークの首を刎ね、フェンは爪でゴブリンを紙切れのように切り裂く。

 レベル99の俺たちにとって、中層の魔物など雑草と変わらない。

 こいつらを生かしておくのは、もう少し先まで連れて行くためだ。


「おい矢崎、まだかよ? 宝の山ってのは」


 一時間ほど歩いたところで、大河原が痺れを切らしたように言った。

 彼らは疲労すらしていないくせに、文句だけは一人前だ。


「もうすぐだ。……この先だよ」


 俺は、誰も気にも留めない岩壁の裂け目を指差した。

 一見すると、ただの行き止まりにしか見えない場所だ。

 だが、その奥からは、通常の探索者なら本能的に危険を感じて足がすくむような、湿った生暖かい風が微かに吹き出してきている。


 俺の【ラベル閲覧】には、その奥に広がる空間の『真実』が表示されていた。


『エリア名称:深層接続領域(未踏破)』

『推奨ランク:A+』

『状態:高濃度魔素溜まり、モンスターハウス形成済み』

『生息魔物:アビス・スパイダー、デッドリー・マンティス、他多数』


 中層と深層の狭間。

 深層の生態系がそのまま漏れ出している隔離地帯だ。

 そして、その最奥の広間には、獲物を待ち構える飢えた怪物たちがすし詰めになっている。


「へェ、こんなとこに道があったのか。隠しルートってやつか?」

「ああ。誰も知らないルートだ。……この奥に、手つかずの広間がある」


 俺たちは岩壁の裂け目を抜け、暗い脇道へと足を踏み入れた。

 一歩進むごとに、空気の密度が変わる。

 重く、熱く、そして濃密な死の気配が肌にまとわりつく。

 だが、欲に目の眩んだ彼らは気づかない。彼らの頭の中は、これから手に入るはずの財宝のことで一杯なのだ。


「うわ、なんか熱くね? 湿気もすごいし」

「サウナみたいでやだァ。化粧崩れちゃう」

「我慢しろよマミ。この先に金銀財宝が待ってんだからよォ。……な、矢崎?」


 大河原が確認するように俺を見る。


「ああ、間違いない。……一生遊んで暮らせるだけの『財産』があるぞ」


 俺は嘘は言っていない。

 彼らが一生遊べるだけの体験ができる場所だ。

 ただ、その彼らの残り時間が残り何分なのか、という点が問題なのだが。


 しばらく進むと、前方が開けた。

 巨大なドーム状の空間に出た。

 天井は高く、発光する苔が星空のように輝いている。

 その中央には、確かに『宝』のように見えるものがあった。

 地面には過去の探索者たちが遺した装備品が散らばり、壁面には金色の鉱脈らしきものが走っている。

 一見すれば、夢のような光景だ。


「う、うおおおおッ!! マジかよ!!」

「すげェ! 全部金だ! これ全部俺たちのもんか!?」

「キャアアアッ! すごーい! 宝石もあるぅ!」


 三人は歓声を上げ、我先にと広間へ駆け出した。

 地面に落ちている剣や盾を拾い上げ、壁の金を剥がそうと爪を立てる。

 狂喜乱舞。

 彼らは有頂天になっていた。周囲の警戒など忘れ去り、欲望のままに踊っている。


 俺とフェンは、広間の入り口で足を止めたまま、その様子を冷ややかに見つめていた。


『……カズよ、そろそろか?』


 フェンが念話で尋ねてくる。彼女の赤い瞳が、ドームの天井付近に潜む無数の影を捉えていた。


『ああ。……舞台は整った』


 俺は指を鳴らした。

 その乾いた音は、広間の静寂を破る合図だった。

 それと同時に、俺は足元の小石を拾い、天井に向かって思い切り投げつけた。


 カォォォォォン!!


 小石が天井の岩盤に当たり、派手な音を立てて反響する。


 ザワザワザワ……。


 不快な音が空間を埋め尽くした。

 何かが擦れ合う音。

 何かが這い回る音。


「な、なんだ!? 何の音だ!?」


 大河原たちが慌てて周囲を見回す。

 その時、天井の暗闇から、無数の赤い光が灯った。

 一つ、二つではない。百、二百……いや、千を超える数だ。

 それは星の輝きではない。

 飢えた捕食者たちの『眼光』だった。


 シュルルルルッ!


 天井から太い糸が垂れ下がり、それに伝って巨大な影が次々と降下してくる。

 牛ほどの大きさがある蜘蛛、アビス・スパイダー。

 鎌を構えた巨大カマキリ、デッドリー・マンティス。

 深層の悪夢たちが、獲物を見つけて一斉に動き出したのだ。


「ひっ……!?」

「な、なんだよこれ……! モンスターハウスだ!?」

「いやあああッ! 虫! 虫がいっぱい!」


 パニック。

 大河原たちは拾った宝を放り出し、逃げようと入り口の方へ――つまり、俺たちがいる場所へ走ってきた。


「矢崎! おい矢崎! なんとかしろ! お前のその狼でやっちまえ!」

「早く! あたしたちを守りなさいよ! あんた仲間でしょ!?」


 彼らはまだ、命令口調だった。

 この期に及んでも、俺が助けて当然だと思っている。俺を便利な道具だと信じ切っている。

 俺は、ゆっくりと彼らの前に立ちはだかった。

 そして、にっこりと笑った。


「断る」

「……は?」


 大河原が間の抜けた声を上げた。迫りくる巨大蜘蛛の足音と、彼の心拍音が重なる。


「お前らにお似合いの場所だろ?黄金、暴力、そして死。お前らが大好きなもんが全部揃ってんじゃねえか」


 俺は冷たい声を叩きつけた。


「な、何言ってんだお前……?ふざけんな! 俺たち仲間だろ!? 友達だろ!?」

「ふざけてるのは、テメェだろ」


 俺は蔑むような視線で彼らを見下ろした。


「あの時、俺をゴーレムの群れに突き落としてなんて言ったか、覚えているか?」

「お、おい!」


 俺とフェンは興味なさそうに踵を返し、出口へと歩き出す。

 モンスターの咆哮と、死の足音が迫る中、俺たちは悠然と背中を向けた。


「ま、待て! 待てよ矢崎!」


 大河原の焦った声が響く。


「わ、わかった! 交渉だ! 取引をしてやる!」


 俺は足を止めない。

 聞く価値もない。


「ここのモンスターを倒せ! そうしたら、こいつらの素材……全部お前にやる! 特別に全部だ!」


 大河原が叫ぶ。

 命の危険が迫っているというのに、その言葉には未だに「自分が上」だという腐った根性が染み付いていた。

 自分たちが生殺与奪の権を握られている状況でさえ、まだ対等な取引ができると勘違いしている。


「深層のレア素材だぞ!? 数千万……いや、億いくかもしれねェ! それを全部くれてやるって言ってんだ! 俺たちを助ければ、お前は大金持ちだ!」


 ……哀れなやつだ。

 今の俺が、金に困っているように見えるのか?

 それに、「くれてやる」だと?

 本来なら自分たちが狩られるだけの獲物を、俺に倒させて、その報酬を「譲る」という理屈。

 盗人猛々しいとはこのことだ。

 助けてもらう立場の人間が、なぜか恩を着せようとしている。


「おい! 聞いてんのかゴミ野郎! 特大のチャンスをやってるんだぞ! 感謝して戦えよ!」


 俺は無視して歩き続ける。

 フェンも、汚いものでも見るように耳を伏せ、振り返りもしない。


「無視すんなァァッ! せっかく俺が譲歩してやってるのに! 調子に乗るなよ!」


 業を煮やした大河原が、ドスドスと足音を立てて駆け寄ってくる気配がした。

 俺の背中に手を伸ばし、無理やりにでも従わせようとする殺気。


「俺の命令を聞けェェェッ!」


 その汚い手が俺のスーツに触れる直前。


 俺はスッと半身をずらした。

 最小限の動き。

 だが、全力で掴みかかろうとしていた大河原にとっては、致命的な空振りとなる。


「あ……?」


 勢い余った大河原の体は、俺の横をすり抜け、そのままバランスを崩して、無様につんのめった。


「おっと。……足元、お留守ですよ」


 俺は重心を崩した、彼の身体をトン、と軽く押してやった。

 親切心だ。行きたい方向へ背中を押してやるのが、彼らの中にある友情というものだからだ。


 大河原が尻餅をつく。それに巻き込まれるように、ネズとマミも、互いの足を引っ掛け合って転倒した。

 周囲にはモンスターが彼らを取り囲み始めている。


「う、うわあああああッ!!」

「置いていかないで! お願い! 死にたくない! 何でもするから!」

「俺たちを見捨てるのかよォォォッ!! 人でなしィィィッ!!」


 彼らは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして、必死に手を伸ばしてくる。

 だが、その手は俺には届かない。

 彼らの背後には、アビス・スパイダーの巨大な顎と、デッドリー・マンティスの鎌が迫っていた。

 逃げ場はない。

 かつて、俺がそうであったように。


「あばよ。地獄で反省しな。……ま、反省する時間がありゃの話だがな」


 俺は冷徹に告げ、彼らに背を向けた。

 フェンも興味なさそうに鼻を鳴らし、俺の後ろについてくる。

 背後で、絶望的な悲鳴が響き渡った。


「ぎゃああああああああああああッ!!」

「いやだあああ!痛い! 痛いィィッ!」

「助け……て……ッ!」


 断末魔の叫びが、ドーム状の空間に反響する。

 モンスターたちは、手近な、そして無抵抗な餌に夢中になり、静かに立ち去る俺たちを追っては来ない。

 俺は一度も振り返らなかった。

 ただ、入口の狭い通路へと歩を進める。

 背中越しに聞こえる地獄の協奏曲を聞きながら、俺は独りごちた。


「俺は同じ状況でも生きのびたけれどな」


 そう、俺は生き延びた。

 だが、彼らはどうだろうか。

 答えは明白だ。


 シュンッ。


 視界が切り替わる。

 そこは、ダンジョンの入り口付近の静かな森の中だった。

 小鳥のさえずりが聞こえる。

 木漏れ日が揺れる、平和な午後だ。


「……終わったな」


 俺は大きく息を吐いた。

 これまで纏わりついていた重みの一つが消えて、すっきりとした、それが正直な感想だった。

 復讐とは虚しいものだと言う奴もいるが、今の俺には最高の清涼剤だった。


「うむ。良い見世物であったぞ、カズ」


 フェンが満足げに頷く。


「ああ。……これで、一つ目の精算は終わりだ」


 彼らがどうなったか、確認する必要もない。

 あの状況で、Dランクの彼らが生き残れる確率は万に一つもない。深層の怪物たちは、慈悲深くはないからな。

 数日後には、ギルドの掲示板に『行方不明』の文字が載るだろう。

 誰も気に留めない、ありふれた事故として。欲に目が眩んで深層へ迷い込んだ、愚かな探索者たちの末路として処理されるだけだ。


 俺は空を見上げた。

 青空が、どこまでも高く澄み渡っていた。

 俺たちの未来のように。


「帰ろうか、フェン。腹が減った」

「肉か! 今日は何の肉だ!? あの大河原たちの肉は不味そうであったが!」

「あいつらは論外だ。……そうだな、今日は祝いだ。寿司でも食いに行くか」

「スシ! それは魚の死骸を米に乗せたものと聞くが、美味いのか? 肉ではないのか?」

「極上の魚は肉に勝るとも劣らないぞ。……大トロってのがあってな」


 俺たちは歩き出した。


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