第十話:摩天楼とおいしいお肉
エリザの執務室を出ると、先ほどの案内役の男が恭しく頭を下げた。その態度は、連行してきた時とは打って変わり、まるで王族に仕える執事のように洗練されていた。
ギルドマスターという絶対権力者の「お墨付き」を得た効果は劇的だ。
現金なものだが、これが組織というものだろう。かつて社畜として組織の理不尽さを骨の髄まで味わった俺には、この掌返しさえも滑稽であり、同時に心地よくもあった。
「矢崎様、不動産部門へは私がご案内いたします。すでに話は通っております」
「ああ、頼む」
俺は短く答え、足元の相棒に目配せをした。
大型犬ほどのサイズをした銀色の狼――フェンは、「やれやれ」といった様子で小さく欠伸をし、俺の脚にその柔らかな身体を擦り付けながらついてくる。
専用エレベーターで一階へと降り、一般の探索者たちが溢れるホールを避けて、関係者用通路を通って隣のビルへと移動する。
『青木ヶ原ギルド・不動産部門』。
ガラス張りの自動ドアをくぐると、そこにはホテルのロビーと見紛うばかりの優雅な空間が広がっていた。床には毛足の長い絨毯が敷き詰められ、泥だらけのブーツで踏み入ることを拒絶しているようだ。空調には微かなアロマの香りが混ぜられているのか、ダンジョンの鉄錆とカビの臭いとは無縁の空気が漂っている。
カウンターの中にいた女性スタッフが、俺たちの姿を認めるなり、弾かれたように背筋を伸ばした。そこには、どこか必死に作り笑いを貼り付けたような緊張感が張り付いていた。
「お、お待ちしておりました! 矢崎様!」
彼女はカウンターから飛び出し、深々と頭を下げた。
「ギルドマスターより、直接ご連絡をいただいております。『最上級の物件を、速やかに用意せよ』と……」
声が裏返っている。
俺は彼女の頭上に浮かぶウィンドウを横目で確認した。
『状態:パニック、上司からの激しいプレッシャー』
『思考:粗相があったらクビが飛ぶ……!』
どうやら、ギルドマスター直々の命令を受けた彼女は、仕事へのプレッシャーで押し潰されそうになっているらしい。
権力というのは、時として暴力以上に人を畏縮させる。だが、今の俺にはその力が不可欠だった。俺一人ならともかく、フェンという目立つ相棒を連れて、安宿を転々とするわけにはいかない。
「それで、その部屋とは?」
「はい。物件への移動車をご用意しております。どうぞ、こちらへ」
彼女の案内で、建物の裏手にある専用駐車場へと向かった。
そこには、黒塗りの高級セダンがエンジンをかけた状態で待機していた。運転手が素早く降りてきて、後部座席のドアを開ける。
「どうぞ、矢崎様」
俺は革張りのシートに身を沈めた。
フェンも「ふん、狭い箱だな」とでも言いたげに鼻を鳴らしつつ、軽やかに隣へ飛び乗る。行儀よくお座りをしたその姿は、一見すれば訓練された大型犬だが、その瞳に宿る高い知性と威厳は隠しきれていない。
車内は静寂に包まれていた。微かに香る革の匂いと、空調の涼しい風。
車が滑らかに走り出す。
窓の外を流れる景色は、かつて俺が泥だらけになって歩いた道だ。だが、スモークガラス越しに見るその風景は、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。
数分後。車は街の中心にそびえ立つ、一つの巨塔の前で静かに停車した。
『グランド・青木ヶ原・レジデンス』。
街のどこからでも見えるランドマークタワー。その威容は、ダンジョン特需で成り上がった成功者たちの欲望を具現化した墓標のようにも見えた。
案内役の女性スタッフが、さっとカードキーを差し出してきた。
「こ、こちらが最上階ペントハウスのマスターキーになります。セキュリティは万全ですので、どうぞご安心を。専用コンシェルジュも二十四時間待機しております」
「ああ、ご苦労だった」
俺はキーを受け取り、車を降りた。
スタッフと運転手が深々と頭を下げるのを見送り、俺はフェンを連れてエントランスをくぐった。
オートロックのガラス扉が開き、専用のエレベーターホールへ。
ボタンは一つしかない。『PH』と書かれた最上階への直通ボタンだ。カードキーをかざすと、重厚な扉が音もなく開いた。
上昇する浮遊感と共に、地上の喧騒が遠ざかっていく。
チン、という軽やかな音と共に扉が開くと、そこは既に俺の城だった。
広い。
第一印象は、その一言に尽きる。
玄関ホールだけで、かつての独身寮の部屋が二つは入りそうだ。床は大理石で、天井にはシャンデリアが輝いている。靴を脱ぐのが躊躇われるほどの光沢だ。
俺は革靴を脱ぎ、リビングへと続く重厚な扉を開けた。
視界が一気に開けた。
壁一面がガラス張りになったリビングからは、眼下に青木ヶ原の夜景が、そして正面には月光を浴びた富士山のシルエットが屏風絵のように広がっていた。
間接照明がシックなインテリアを照らし出し、生活感のないモデルルームのような美しさを演出している。
「……すげえな」
思わず本音が漏れた。
数日前まで、カビ臭いプレハブ小屋や安宿で寝起きしていたのが嘘のようだ。
これが、C級――いや、それ以上の特権階級に許された世界か。
『うわあぁぁぁ! 広いぞカズ! ここが新しい巣か!?』
脳内に直接、歓喜の声が響く。
ペタペタと肉球の音を響かせ、リビングの中央へ。
そのまま、彼女は部屋の真ん中に置かれた、最高級イタリア製らしい巨大なレザーソファへ飛び乗った。
爪を立てないように気を使っているのか、器用に着地すると、その上でくるくると回り、寝心地を確かめるように体を沈める。
『うむ! 気に入った! あの狭苦しい箱とは大違いだ! 空気も良いぞ、変な臭いがせぬ!』
彼女はゴロンと横になり、背中をレザーに擦り付けている。
銀色の毛並みがソファの黒い革によく映える。
モフモフの塊が、高級家具の上で転げ回っている光景は、なんともシュールで、そして癒やされるものがあった。
「巣っていうか、家だな。今日からここで暮らすんだ」
俺はキッチンを確認した。最新式のシステムキッチンに、巨大な冷蔵庫。中には既に、ウェルカムドリンクとしてのミネラルウォーターやシャンパンが冷やされている。
至れり尽くせりだ。
『見ろカズ! 人間どもがゴミのようだ! ふははは!』
ソファから窓際へ移動したフェンが、前足をガラスにかけて眼下の街を見下ろしている。
「……どこかで聞いたような台詞だな。あまりガラスを叩くなよ、割れたら大変だ」
『案ずるな、我の結界を張っておくゆえ、ドラゴンが体当たりしても傷一つ付かぬわ!』
頼もしい限りだ。セキュリティに関しては、最新鋭の機械警備よりも、神獣の結界の方が数億倍信用できる。
「さて……まずは腹ごしらえだな」
俺がそう呟くと、フェンの耳がピクリと反応し、ものすごい勢いで振り返った。
尻尾が、残像が見えるほどの速度で振られている。
『肉か!? 肉なのかカズ!?』
「ああ。引っ越し祝いだ。豪勢に行くぞ」
俺は備え付けのタブレット端末を手に取り、ルームサービスのメニューを開いた。
このマンションは、低層階に入っている高級レストランと提携しており、二十四時間いつでも出来立ての料理を部屋まで届けてくれるサービスがあるようだ。
値段を見る。
『特選和牛のステーキ:2万円』『伊勢海老のグリル:1万5千円』『骨付きラムの香草焼き:1万2千円』。
以前の俺なら、値段を見ただけで卒倒していただろう。だが今の俺には、ただの数字の羅列にしか見えない。
アイテムボックスの中には、換金すれば億を超える素材が眠っているのだ。食費で破産することなどあり得ない。
「全部だ」
『え?』
「この『肉料理』のページにあるやつ、上から下まで全部一つずつ持ってこいって注文するんだ」
『カズ……お主、神か!? いや、魔王より太っ腹だぞ!』
フェンが歓喜の遠吠え(念話)を上げ、ソファから飛び降りて俺の足元にじゃれついてきた。
俺の腰に前足をかけ、二本足で立ち上がって顔を近づけてくる。
湿った鼻先が頬に触れ、甘い花の香りが鼻孔をくすぐる。
俺は彼女の頭、耳と耳の間をワシャワシャと撫で回しながら、注文ボタンを連打した。
合計金額、二十五万円。
安いものだ。このモフモフの笑顔が見られるなら。
◇
三十分後。
チャイムが鳴り、コンシェルジュとウェイターがワゴンを押して入ってきた。
俺はフェンに「大人しくしてろよ」と目配せをし、玄関で料理を受け取った。さすがに部屋の中まで他人を入れるのは気が引ける。
ワゴンごと受け取り、リビングへ運ぶ。
銀色のドームカバーを開けるたびに、香ばしい匂いが部屋中に爆発的に広がった。
分厚いサーロインステーキ、骨付きのラムチョップ、ローストビーフの山、鶏の丸焼き、豚肉のコンフィ。
まさに肉の博覧会だ。
『す、すごい……! これが人間の本気か……!』
フェンはテーブルの周りをぐるぐると回り、目を輝かせている。その口元からは、いまにも涎が垂れそうだ。
「よし、食うか」
俺が言うと、フェンは待ちきれない様子で椅子に飛び乗ろうとし――動きを止めた。
彼女はテーブルに並んだ料理、特に美しく盛り付けられたステーキや、ソースのかかったローストビーフをじっと見つめ、そして自分の前足を見た。
『むぅ……』
「どうした?」
『骨付き肉ならこのまま齧り付くのだが……この平たい肉は、切らねば食いづらい。それに、この赤い汁で毛が汚れるのは嫌だ』
彼女は美意識が高い。特に昨日贈った『銀月の首飾り』で常に清潔が保たれているとはいえ、食事で顔中がソースまみれになるのは、淑女としてのプライドが許さないらしい。
『仕方あるまい。……カズよ、人の姿になるゆえ、服を頼む』
「服? ああ、そういやお前、裸になるんだったな」
俺は苦笑し、椅子に座ったまま『亜空の背嚢』へと手を伸ばした。
フェンが人間形態をとるのは、俺と契約したあの一瞬だけだった。あの時はすぐに狼に戻ってしまったが、確か何も身につけていなかったはずだ。
ポンッ。
軽い破裂音と共に、銀色の毛玉だったフェンが、白い煙に包まれた。
煙が晴れると、そこには――。
透き通るような白い肌を持つ、十代後半くらいの少女が座っていた。
何も身につけていない、生まれたままの姿。
流れるような銀髪が背中を覆い、腰まで届いているが、その肢体の曲線美は隠しきれていない。
神々しいまでの美しさだが、本人は全く気にする様子もなく、テーブルの肉を凝視している。
「ほらよ」
俺は、亜空の背嚢から大きめの白いTシャツを取り出し、彼女の頭から被せた。
フェンは両手を上げて、「ん」と俺にされるがままになっている。
俺が袖に彼女の腕を通し、裾を引っ張って整えてやる。
まるで子供の着替えのようでほほえましい。
「うむ。……やはり人間の指は便利だの」
Tシャツ一枚姿になったフェンは、満足げに自分の手をグーパーと握りしめ、それからナイフとフォークを手に取った。
ダブダブのTシャツから伸びる細い腕。そのアンバランスさが、妙に愛らしい。
「いただきますなのだー!!」
号令と共に、フェンの猛攻が始まった。
ナイフとフォークの使い方は、以前教えた通りだ。最初はぎこちなかったが、今では驚くほど器用に肉を切り分け、口へと運んでいく。
パクッ。モグモグ。
「んん〜っ! 美味い! なんだこれは! 口の中で脂が溶けていくぞ! 昨日の揚げた肉も良かったが、これは格別じゃ!」
彼女は満面の笑みを浮かべ、頬を膨らませながら俺を見た。
その瞳は、幸せの色で満たされている。
「このソースも絶品だ! 甘くて、辛くて、鼻に抜ける香りがする! パンにつけて食うのも良いな!」
フェンは次々と皿を空にしていく。
俺も自分の分のステーキにナイフを入れた。
柔らかい。ナイフの重みだけで切れるほどの肉質だ。
口に入れると、芳醇な肉汁が溢れ出す。
「……美味いな」
窓の外には、宝石を散りばめたような夜景。目の前には、世界で一番美しい相棒。そしてテーブルには、最高の料理。
かつて、独身寮の冷たい部屋で、コンビニのおにぎりを水で流し込んでいた日々が、遥か遠い過去の出来事のように思える。
俺は変わった。そして、手に入れた。
この温かい食卓を。
「カズ、何を難しい顔をしておるのだ? ほら、あーんしてやろうか?」
フェンがフォークに刺した肉片を、俺の口元に差し出してきた。
いたずらっぽい瞳が、俺を覗き込んでいる。
Tシャツの襟元から、『銀月の首飾り』が揺れているのが見えた。
「……ああ、もらうよ」
俺が口を開けると、彼女は嬉しそうに肉を放り込んできた。
「美味いか?」
「ああ、最高だ」
「ふふん、当然だ! 我が食べさせてやったのだからな!」
彼女は胸を張る。
楽しい時間だ。だが、フェンの食事ペースは凄まじい。
テーブルに並んでいた料理の山は、見る見るうちに平らげられていった。
「ぷはぁー! 食った食った! もう入らぬ!」
最後の骨付きラムを綺麗に平らげると、フェンはフォークを置き、椅子に深くもたれかかった。
その腹部は、心なしかぽっこりと膨らんでいる……ようには見えないが、本人的には限界らしい。
「美味かったか?」
「うむ、大満足じゃ。……だが」
フェンは苦しそうに眉を寄せた。
「人間の姿は、腹が苦しい。胃袋が小さすぎるのだ。それに、この布が突っ張る」
「太るぞ」
「神獣は太らぬと言っておろう! ……ええい、もう限界だ! 楽な姿に戻る!」
フェンがそう宣言した瞬間。
シュンッ。
音もなく、彼女の姿がかき消えた。
そして、彼女が来ていたTシャツも虚空へと消え失せる。
「おい。俺の服」
『ん?なんじゃ?』
狼の姿に戻ったフェンは、椅子に座ったまま、じっとこちらを見ている。
「いや、Tシャツだよ」
「ああ、お主のその雑嚢へ戻したぞ」
「???」
いまいち状況が掴めていない俺は『亜空の背嚢』を確認する。
すると、確かにTシャツはあった。おそらく、転送されたのだ。
『ふぅ……やはりこの姿が一番だ』
フェンは安堵の息を漏らし、椅子から降りてカーペットの上でゴロンと横になった。
お腹を見せて、手足を投げ出すリラックスポーズ。
さっきまでの美少女の面影はどこへやら。そこにあるのは、満腹で動けなくなった大型犬の姿だけだ。
「お前なぁ……。食ったらすぐ寝ると、牛になるぞ」
『牛になったら、自分の肉を食うまでだ』
「……恐ろしいことを言うな」
俺は苦笑しつつ、食後のワインを傾けた。
フェンはもう動く気がないらしく、カーペットの上で「うー、くるしいー」と幸せそうな寝言を漏らし始めている。
この自由奔放さこそが、彼女の魅力であり、俺の癒やしだ。
「……次は風呂だな」
俺はグラスを置き、立ち上がった。
この部屋には、もう一つ自慢の設備がある。
巨大なジャグジーバスだ。
「フェン、風呂入るぞ」
『むぅ……動けぬ。カズ、運んでくれ』
「はいはい」
俺はカーペットの上に転がる巨大な銀色の毛玉を抱き上げた。
ずっしりとした重み。だが、レベル99の俺には羽根のように軽い。
腕の中で、フェンが俺の胸に顔を擦り付けてくる。
温かい。
バスルームへ移動する。
大理石造りの浴室は、リビングと同じくガラス張りで、夜景を見ながら入浴できるようになっている。
巨大な浴槽には、既にお湯が張られ、青いライトが水中を照らしていた。スイッチを入れると、ジェット噴射が泡を作り出す。
「ほら、入るぞ」
俺はフェンを抱えたまま、湯船に入った。
お湯が溢れ出す。
『おお……! 泡だ! カズ、底から泡が出ておるぞ!』
お湯につけた瞬間、フェンの目が覚めたらしい。
彼女は俺の腕から抜け出すと、犬かきで湯船の中を泳ぎ始めた。
『くすぐったい! だが、気持ち良いぞ! マッサージのようだ!』
ジェット水流が背中や腹に当たるのが楽しいらしく、彼女はハフハフと喜びながら、浴槽の中をぐるぐると回っている。
俺も肩までお湯に浸かり、その様子を眺めた。
広い。足を伸ばしても、向こう側に届かない。
安宿のユニットバスで、身体を折り曲げて入っていたのが嘘のようだ。
『カズ、こっちに来い。背中を流してやろうか?』
フェンが泳ぎ寄ってきて、前足で俺の背中をちょいちょいとつつく。
「いや、その爪でやられると皮膚が裂けそうだから遠慮しておくよ」
『失敬な。我は手加減くらいできるわ! ……まあよい、ならばお主が我を洗え。貴様の技量は悪くなかったぞ』
フェンは俺の前に背中を向けて座り込んだ。
完全に『洗われる体勢』だ。
「仰せのままに、お姫様」
俺はボディソープを手に取り、その銀色の背中を洗い始めた。
濡れた毛並みは、お湯を含んでさらに滑らかになっている。指を通すと、とろけるような感触だ。
ワシャワシャと泡立てると、フェンは気持ちよさそうに目を細め、喉をゴロゴロと鳴らす。
『……カズよ』
不意に、フェンが念話で話しかけてきた。
『ん?』
『ずっと、こうして…』
彼女の声は、少しだけ甘えていた。
『美味いものを食い、良い寝床で眠り、こうして湯に浸かる。……お主がおれば、退屈な日々も悪くない』
「……そうだな」
俺は手を止めず、彼女の首周りの毛を優しく揉みほぐした。
「俺もだよ。お前がいなきゃ、こんな贅沢も味気ないもんだ」
『ふん、分かっておればよい』
フェンが振り返り、俺の頬をペロリと舐めた。
ザラリとした舌の感触。
それは、どんな言葉よりも雄弁な信頼の証だった。
風呂から上がり、備え付けの業務用ドライヤーでフェンを乾かす。
再びモフモフの完全体に戻ったフェンは、上機嫌でリビングを走り回っている。
俺はバスローブでバルコニーに出た。
夜風が心地よい。
地上二百メートル。下界の騒音は風の音にかき消され、ここには星空と月だけが近い。
「明日は試験だな」
俺が言うと、フェンは手すりに前足をかけ、夜空を見上げた。
『昇格試験か。……人間ごときの試験、大したことはあるまい』
彼女の横顔には、昼間の無邪気さはなく、冷徹な『捕食者』の色が宿っていた。
俺たちの力を見せつける時だ。
「そろそろ寝るか。明日は忙しくなるぞ」
『うむ。……カズ、今日もベッドで寝てよいか?』
「俺のベッドだぞ」
『ベッドは広いのだ、我一匹くらい増えても問題なかろう! それに、お主も我を枕にしたかろう?』
見透かされている。
確かに、あのモフモフの感触なしで眠るのは、もはや不可能に近い身体になってしまっていた。
「……好きにしろよ」
『ふふん、言われなくともそうするつもりだ!』
彼女は悪戯っぽく笑うと、先に寝室へと走っていった。
俺は最後にもう一度、夜空を見上げた。
満月が、俺たちを祝福するように輝いている。
寝室に入ると、フェンは既にベッドの中央を陣取って丸くなっていた。
俺が隣に潜り込むと、彼女は待っていましたとばかりに体を寄せてくる。
背中に感じる、温かい重みと、陽だまりのような匂い。
俺は自然と手を伸ばし、その銀色の毛並みに顔を埋めた。
『おやすみ、カズ』
「おやすみ、フェン」
意識が、深い安らぎへと落ちていく。
明日もまた、この相棒となら、どんな理不尽も笑い飛ばしていける。
そう確信しながら、俺は眠りについた。




