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第一話:追放

 オフィスを包む空調の低い唸りだけが、やけに耳につく。

 壁も天井も、そして長机さえも無機質な白で統一された会議室。

 向かいの席に座る男――俺の所属する営業部の課長、高野の顔には、油ぎった皮膚が照明を弾いて不快な輝きを放っていた。へばりついたような笑顔の下で、彼が何を考えているのかは痛いほどに伝わってきた。


「矢崎君! いやあ、残念だったねえ。『金色の獅子』との契約更新、まさか破談になるとは」


 大げさに両手を広げ、嘆いてみせるその仕草。

 白々しい、という言葉すら生ぬるい。

 俺は膝の上で拳を固く握りしめ、奥歯が砕けそうなほど強く噛みしめた。


 A級探索者パーティ『金色の獅子』。

 彼らが契約を打ち切り、激怒して去っていった理由は明白だ。

 彼らの非ではない。俺の交渉力が不足していたわけでもない。

 原因は全て、目の前に座る、こいつ――高野課長が命令したノルマにある。

 高野は、現場の状況も、魔石の採取レートも、そして探索者の安全マージンも一切無視し、デスクの上で数字を書き換えるだけで、納品ノルマを先月比で『十倍』に跳ね上げたのだ。

 無差別かつ無謀な搾取。死んでこいと言っているに等しいその数字を、彼は空調の効いた部屋から一歩も出ることなく決定して、その説得を全て俺に丸投げした。


 交渉の席での光景が、今も脳裏に焼き付いて離れない。

 俺はたった一人で、殺気立った探索者たちの矢面に立たされたのだ。

 特に、ギルドきっての実力者である『金色の獅子』のリーダーの激昂は凄まじかった。会議室のテーブルを拳で叩き割り、額に青筋を浮かべて俺に詰め寄ってきた。


『ふざけるな!十倍だと?現場を知らない連中が、数字遊びで俺たちを殺す気か!』


 もっともな怒りだった。

 俺は必死に頭を下げていたが、彼らの怒りは限界を超えていた。

 現場を知らない人間が、安全圏から利益だけを吸い上げようとする傲慢さ。それが、誇り高い彼らの逆鱗に触れたのだ。


 だが、高野はそれを認めるつもりはない。

 それどころか、その失態の責任を、末端の平社員である俺一人になすりつけようとしている。


「君の熱意が足りなかったんじゃないかな、矢崎君。私は経営的視点から、会社が目指すべき高い目標を提示しただけだ。それを現場に落とし込み、彼らの情熱に火をつけるのが、君たち渉外担当の仕事だろう? 私の意図を、君が正確に伝えきれなかった。違うかい?」


 ねっとりとした、腹の底を撫で回すような声。

 反論は許さないという無言の圧力が、言葉の裏側にべったりと付着している。


 ここで俺が『それは無理難題です』と声を荒らげたところで、何が変わるだろう。

 無駄だ。

 根回しは既に済んでいる。今回の理不尽な要求の強行は、現場の反発を抑えきれなかった俺の調整不足として処理されているに違いない。


 それに――思い返せば、周到な罠は数日前から張られていたのだ。

 この『ノルマ十倍計画』が発表された直後、同僚たちが、やけに親しげに俺のデスクへ近づいてきた時のことを思い出す。

 彼らは、高野が作成した狂気の命令を聞くや否や、顔を見合わせていた。そして、瞬時に『貧乏くじ』の押し付け合いを開始していたのだ。


『うわ、これマジかよ。全パーティに十倍って……暴動が起きるぞ』

『誰が説明に行くんだよこれ……あ、そうだ矢崎!』


 同僚が大げさに手を打ち、俺の肩を抱いた。


『お前、以前『金色の獅子』と少し話したことあるよな? 彼らは今回の改定で一番影響が大きい。そこを抑えられれば、他のパーティも納得するはずだ』

『そうだな! やっぱりここは、誠実さが売りの矢崎にお願いするのが一番だ。俺たちも資料作成くらいは手伝うしさ』

『矢崎、お前にチャンスだぞ。この難局を乗り切れば、課長もお前を見直すはずだ』


 あの時の、彼らの瞳の奥に潜んでいた暗い安堵と、嘲笑。

 彼らは知っていたのだ。

 高野の無茶苦茶な数字遊びが、現場の爆発を招くことを。そして、誰かがその爆心地に行かなければならないことを。

 彼らは巧みな言葉で俺をおだて上げ、一番危険な『金色の獅子』への説明と、実質的な交渉責任者という立場を、俺一人に押し付けた。

 面倒な案件、失敗が約束された泥舟に、俺という生贄を乗せて送り出したのだ。


 俺は小さく、誰にも聞こえないように息を吐き出した。

 無力だ。

 社会という巨大で冷徹なシステムの中で、俺のような『持たざる者』は、摩耗すれば交換されるだけの安っぽい部品でしかない。


「……申し訳、ありません」


 乾ききった言葉が、砂のように口からこぼれ落ちる。

 それを聞いた高野は、満足げに顎を揺らして頷いた。

 まるで、躾のなっていない犬が、ようやく芸を覚えた時のような目つきだ。


「うんうん、素直でよろしい。失敗は誰にでもあることだ。人間だもの、間違いはあるさ。大切なのは、そこからどうやって汚名を返上するか、だね?」


 汚名返上。

 挽回。

 その単語が出た瞬間、胃の腑が冷たい氷で満たされたような感覚に襲われた。

 この会社における『挽回』の意味を、俺は嫌というほど知っているからだ。


 高野の手元にある、一枚の書類。

 彼はそれを、これ以上ないほどもったいぶった手つきで、ゆっくりと俺の前に滑らせてきた。


「そこでだ。君の能力を高く、いっそ過大と言えるほど評価している私はね、君に新たな活躍の場を用意したんだよ」


 紙面に踊る、太い明朝体の文字。


 『出向辞令』。


 そして、その行き先。


 『ダンジョン・フロンティア株式会社』。


 やはりか。


 ――ダンジョン・フロンティア株式会社。

 それは、今の俺の勤めている、ITソリューション・アンド・ギルドマネジメント株式会社のグループ企業といえば聞こえはいい。

 だが、その実態は、使い物にならなくなった人材や、上層部の不興を買った人間が送り込まれる、現代の姥捨て山だ。


 その業務内容は過酷を極める。

 主にダンジョンでの資源回収、魔石の運搬、そして未踏破エリアへの強行偵察。

 つまりそれは――死亡率の高さとして現れてくる。

 事実上の産廃人間処理場だ。


「……課長。これは」


「栄転だよ、矢崎君!」


 俺の震える声を遮り、高野が叫ぶように言った。


 パチ、パチ、パチ。


 乾いた拍手の音が、広い会議室に虚しく反響する。


「おめでとう! いやあ、君のような優秀な人材を送り出せるなんて、私としても鼻が高いよ。あそこは現場主義の活気ある職場だからね。君もそこから学べるはずだ」


「あの……しかし、これは……」


 俺がかろうじて口にした抵抗の言葉を、高野はさらに大きな声で塗りつぶした。


「君はこれまで、数字ばかりを見て、現場の探索者たちを見下していただろう? だから、あんな無礼な真似ができたんだ。違うか?」


 濡れ衣だ。

 数字をいじったのはあんたじゃないか。

 俺はいつだって、彼らに敬意を払い、板挟みになりながら調整してきた。

 だが、高野は止まらない。


「一度、彼らと同じ立場に立って、その仕事の過酷さを肌で学んでくるがいい。これは、上司である私からの、君への最後の温情なんだよ。親心と言ってもいい」


 有無を言わせない口調。

 その目は、三日月のように細められているが、奥にある瞳は氷点下の冷たさを湛えている。


 もちろん、彼は知っているのだ。

 俺がFランクの探索者資格しか持っていないことを。

 そして、俺の持つスキルが、戦闘には何の役にも立たないゴミスキルであることを。


 【メモ帳】。


 それが俺のスキルの名前だ。

 自分の開いたステータス画面に文字列を貼り付けるだけの、子供のイタズラ書きのような能力。

 攻撃力もなければ、防御力もない。

 そんな俺を、死亡率の高いダンジョン探索会社へ送る。

 それはつまり――。


「死んでこい、ということですか」


 俺の声は、自分でも驚くほど低く、掠れていた。

 高野は、きょとんとした顔を作る。わざとらしい演技だ。


「何を言っているんだ。君ならきっと、向こうで成長して、伝説になれると信じているよ」


 伝説。

 ああ、そうか。

 死んで伝説になる、という意味か。

 高野の瞳の奥に、どす黒い嘲笑の炎が見えた。

 失態の責任をなすりつけた彼は楽しんでいるのだ。

 こいつにとって、部下は人間ではない。

 使い捨ての道具なんだろう。


 俺は、辞令書を掴んだ。

 拒否権はない。

 この会社に入った時に結ばれた契約書には、『会社及びグループ企業間での異動には従うこと』という一文があったはずだ。

 それに背けば、違約金を請求される。

 逃げ場は、最初からどこにもなかった。


「……わかりました」


 喉から血が出そうなほど力を込めて、俺は言った。


「おお、受けてくれるか! さすが矢崎君だ、君ならそう言ってくれると信じていたよ!」


 高野が再び拍手をする。

 その音に合わせて、会議室の扉が開いた。

 廊下には、俺の同僚たちが集まっていた。盗み聞いてでもいたんだろう。

 彼らは一様に顔を伏せ、あるいは気まずそうに視線を逸らしている。

 誰も俺と目を合わせようとしない。

 彼らも知っているのだ。これが『死刑宣告』であることを。

 そして、自分たちがその片棒を担ぎ、俺をスケープゴートにしたことを。


 高野は立ち上がり、俺の肩をバシバシと叩いた。

 その手つきは、ゴミについた埃を払うかのようにぞんざいだった。


「明日からは向こうの会社所属だ。荷物はまとめて送る。まあ、こっちの道具は何もいらないと聞いているから、安心しろ」


「……はい」


「よろしい。じゃあ、行ってくれたまえ。新天地での大活躍、ここから祈っているよ」


 高野に背中を押され、俺は会議室を出た。

 廊下を歩く俺の背中に、ヒソヒソとした声が針のように突き刺さる。


『おい、聞いたか? ダンジョン・フロンティアだってよ』

『うわあ……マジか。あそこ、先月も死人が出たって噂だぞ』

『あいつ、終わったな』

『関わるなよ。次は自分が指名されるかもしれないんだ』

『あーあ、貧乏くじ引かされてやんの。ま、俺じゃなくてよかったわ』


 同僚たちの視線は、まるで路傍の死骸を見るような感じだ。

 誰も助けてはくれない。

 誰も声をかけてはくれない。

 自分がターゲットにならなくて良かった、という安堵の息遣いだけが聞こえてくる。


 これが、この会社の、いや、この社会の現実だ。

 役に立たなくなれば捨てられる。

 利益を生まなければ排除される。

 弱者は強者のための養分でしかない。


 俺は歯を食いしばり、自らの席へと向かった。

 胸の内で、コールタールのように重く、ドロドロとした感情が渦を巻く。

 悔しさ。

 情けなさ。

 そして、底知れぬ怒り。


 だが、今の俺にはそれをぶつける力がない。

 ただのFランク探索者。

 ゴミスキル持ちの社畜。

 

 自らの席に着いた俺は、明日のために周囲の整理を始めた。


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