第三十六話 トイレ
「……。」
目が覚める、居間が昼なのか夜なのか、どれ位寝てたのか、師匠は他の人達を連れて帰ってきてるのか、それもわからない。
「……。」
部屋を出て、水を飲もうと思って台所に行く、のついでにトイレに行きたくて、ちょっとだけならと思って廊下を見て回る、台所のすぐ横の扉、リビングから台所に入る、って言う場所と反対側の扉に、トイレを見つける。
「ふー……。」
緊張してて、丸一日くらい何も手を付けてなかったし、トイレにも行けてなかった、テントに暮らしてた頃は、トイレは外の森の方でして、ウンチをしたら穴を掘ってそこに埋めて、って言う事をしてた、勿論、トイレットペーパーなんてなかった、お尻がかゆくなって、かゆみを感じなくなって、それ位の時間をそうやって過ごしてきた。
血が出た事もあった、不潔だって言う話って言うか、お尻を清潔に拭いてなかったから、かぶれて血が出ちゃって、って言う事はあった、だから、じゃないけど、こうしてトイレがあって、トイレットペーパーがあって、って言う生活は、ホッとする。
でも、これから先それがある生活が出来る?って言われたら、出来ない生活が待ってる気がする、これから先、私は軍の反乱分子を殺すために生きるんだから、そういう生活が出来なくなっても、おかしくはない、って。
「……。」
師匠が戻ってくるまで、どれくらいかかるんだろうか。
一日位って言ってたけど、今が何時で、師匠が何時に出かけて、って言う感覚がない、何時間かは寝たんだろうけど、それ以外に情報がない、お腹は空いてない、干し肉はまだまだ残ってる、だから、お腹的には大丈夫なんだろうけど、いまいち実感がわかないって言うか、なんて言うんだろう、「そうなったって言う感覚」がない。
忘れちゃった感覚なのかもしれない、忘れちゃいけない感覚なのかもしれない、忘れなきゃならない感覚なのかもしれない、ただ、私はもう幸せになれる子じゃない、これから先、人殺しとして生きていくんだから、私がツァギールを憎んでる様に、長老さん達がツァギールを憎んで、軍の子達を殺した様に、これから先、私は人殺しとして生きていく、だから、幸せになっちゃいけないんだ。
お父さんが言ってた、神様は全部を見てるんだって、神様は、良い事をした人には祝福を、悪い事をした人には災いを遺すんだって。
だから、村の大人の人達は呪われた、バベルを建設する事に反対しなかった人達、人殺しの道具だってわかっててそれを建設する事を許した人達、それを止められなかった私の両親、もしかしたら、軍に入りたいって言ってたゴランも、そう言う判定をされたのかもしれない、軍に入って、なんて事を言ってたから、ゴランは呪われてしまって、結果ツァギールに殺されたのかしれない、そんな馬鹿々々しい話があるのか、って思わなくもないけど、そう思わなくもない。
矛盾、って言うんだ、って本には書いてあった、異なる事、じゃなくて両極端に違ってる事、それを同時に考えたり、言ったりする事を、矛盾してるって言うんだ、って。
私が今考えてる事、神様がいるのかいないのか、それを両方言ってる事は、矛盾してるんだろう。
でも、神様がいないのなら、説明がつかない、神様がいるのなら、また説明がつかない、そう言う事なんだ。
だから、矛盾していようとなんだろうと、私は考え続ける、いつか答えが出るまで、いつか、ゴランが殺された事に納得するのか、それともツァギールを呪い続けるのか、恨み続けるのか、憎み続けるのか、なら、村の人達の事をどう思い続けるのか、それは答えが出ない事、でも、答えを出さないといけない事、だと思う。
「ふー……。」
トイレを流して、部屋に戻る前に、今が昼か夜かは別として、時間だけ確認したいと思って、リビングの電気をつけて、ぐるりと見渡す。
「今は十時……。」
時計は十時を指してる、それが昼の十時なのか、夜の十時なのかはわからない、ただ、十時である事は確かみたいだ。
外に出て確認しようかな、って思ったけど、それはやっちゃいけない気がした、なんとなくだけど、外に出ちゃいけない、って言う気がした。
それこそ、外に出ただけで殺される、って言う事はないんだろうけど、軍の人の中で、規律を破った人が入る「懲罰房」って言う場所に入れられる気がした、そういう場所があるのかないのかもわからないけど、あったとしたら、外に出たら入れられる気がした。
本能的にって言えば良いのかな、外に出ちゃいけない、外に出たら叱られる、怒られるって言う感覚があった、それはそうだ、私はこれから人殺しとしての鍛錬を受けるんだから、フラフラと外に出て、誰かに見られちゃいけない、ちょっと考えればわかる事だ。
「臭い……。」
師匠の吸ってる煙草の匂い、と部屋のすえた匂い、どっちがマシかって言われたら、すえた匂いの方がマシだと思って、部屋に戻る。
着替えを見ておいた方がいいんだろうか、と思ってクローゼットを開けると、私より少し大きいサイズの洋服、が数枚入ってて、これをこれから私は着るんだろう、でも、ちょっと薄手で冬を越せるかは心配だ、今着てるもこもこの服と違って、薄手の服が多いから、寒さには耐えられるようにならないといけないんだろうな。
寒さには慣れてるって言うべきか、それとも、慣れちゃったって言うべきか、あのテントの生活の中で、今より寒い中で寝てたりしてたんだから、慣れたと言えば慣れてる、ただ、それと今の生活を比べるって言う事をするのなら、今の生活の方が厳しくなってくるんだと思う、そんな予感がする。
虫食いな洋服、それが私が着る事を許された服、この部屋、空気の澱んだ、すえた空気の部屋が、今の私のすべて。
それを自覚しないといけない、そう思った。
「ソーラちゃん、こっち向いてー?」
「あー!」
機関車に乗って、東の街であるミルギールから、北の街アンドルに向かう途中、機関車の向かいの席に、若い夫婦が赤子を連れて乗っている、父親が、娘であろう赤子の写真を撮って、満足そうに笑っている。
懐かしい、と言うと語弊があるけれど、昔、父が良く写真を撮っていた覚えがある、フィルムを現像する為の機材や場所が無かったから、という理由で、街に行った時に現像しては、部屋に張っていたな、と。
街の写真、と言うのも見た事があった、父が撮ってきた街の写真、都会と言える程都会ではなかったけれど、それなりに発展した街、という風景は、私の中では特別だった、という認識だ。
覚えていても仕方のない事、覚えていたって、何が変わるエピソードでもないけれど、けれど、昔の事を一切合切覚えていない、というと、カンパニーや取引先で怪訝な顔をされる、それに、嘘をつきとおしたとしても、それが綻びになる可能性はある、と思っているから、だから、その為だけに過去の事を覚えている、それが今の私だ。
師匠にも言われていた、過去の所在地に関しては誤魔化すべきだけれど、過去のエピソードに関しては、ある程度真実を混ぜて、嘘と誠を混合にして話すべきだ、そうした方が、ばれにくい、綻びが見えにくい、嘘を嘘として認識されづらい、と。
「……。」
「あー!あー!」
「んー?ソーラちゃん、どうしたのかしらー?」
赤子がキャッキャと声を上げている、それに対して、母親が嬉しそうに答えている。
私にはなかった未来、私には在り得なかった未来、それを見ている気がした、私には、生涯掴めない未来を、まざまざと見せつけられている気がした。
ただ、不思議と苛立ちが無ければ、悲しくもない、私には縁が無かった、私には在り得なかった未来なだけで、この夫婦には、この親子には、それが当たり前なのだから。
それに水を差す気にはならない、とでも言えば良いんだろうか、この感情は、私が持つべきではない感情だ、そう思って、心を閉ざして窓から外を見る。
北の街アンドルに到着するまで、半日掛かる、そして、今は出発して三十分程度経ったはずだ、時計は持っていないけれど、時間は正確に測れる様に体内時計を鍛えている、と言うのが正しいだろうか、私は、今が何時で、どれくらいの時間が経って、という事を、嫌という程体に刻まれた、だから、基本的に時計を必要としない、必要とする事があったとしたら、それは対外的なポーズをする時、が多い。
流石に年がら年中を通してという訳にはいかない、時々時計を見て体内時計とあっているかを確かめる事はある、ただ、その程度にしか必要としていない、それが正解なのだろう。
若夫婦と赤子と行く旅、と言ったら、アルミニアや社員達は、微笑ましいというだろう、そう言ったエピソードも一切覚えていない、ではコミュニケーションが取れない、だから、私はある程度旅先での思い出を覚えていた、それもこれも、ばれない為に、だ。
その為に砕く感情、その為に取る時間、と言うのは、私にとっては不要であって、必要なのだろう、それはこれからも、この先も、なのだろう。




