2. 忠義に厚い夫が言うことには
皆が見ている。
自分はアドリアン殿下達に信頼されている。
そう思うだけで、ジュリアンの心は恍惚に満たされていく。
自身を誇りに思い、騎士らしく生きようと誓ったのは学生時代の半ば程か。
当時は先輩たちにしごかれており、それを見かけたアドリアン殿下が声を掛けてくださったのだ。
そこからは護衛を兼ねた学友として近くにいることを許され、学園を卒業した今では専属の護衛騎士として仕えている。
最近では嫁ぐ前までの期間限定ながら、アドリアン殿下の妹君であるセリーヌ第二王女殿下の護衛も兼ねている。
セリーヌ王女殿下からは「既婚者で無ければ嫁ぎ先に連れて行けたのに」と、ありがたくも可愛らしいお言葉まで頂戴した。
まさに順風満帆といったところだ。
王城ではジュリアンの妻が悪妻だという評判が立っているが、さしたる影響はない。
アドリアン殿下の庇護にあれば、表立ってジュリアンが馬鹿にされることなく、逆に好青年だと評判のジュリアンは同情されるぐらいだろうか。
とはいえ今朝投げかけられたクレールの言葉は、きっと明日にでも新たな噂話として城内を巡るだろう。
きっと、同僚である騎士達からは「離縁したほうがいい」と言われ、他の者達からも慰めの言葉が掛けられ、時にはジュリアンに代わって憤り、そして同情の視線を集めることになるはずだ。
それを想像して、ブルリと震える。
ジュリアンに離婚の意志はない。
高位貴族と関りが無く、そして生家の男爵領で起きた水害のせいで、王都の学園に通う機会を失って親しい友人のいない、クレールだからこそ良いのだ。
ジュリアンの考えなど、誰にもわからないだろう。
「だが、いいものを貰った」
届け出を潜ませた胸元をそっと押さえる。
あの場でジュリアンは署名済だ。
そしてアドリアン殿下の署名と王太子印付き。
つまり、クレールに名前を書かせれば、即時で離婚が成立するのだ。
これを彼女に見せればどういった顔をするだろうか。
貴族であるのとは関係無く、クレールの感情は起伏の幅が狭い。
喜怒哀楽といった感情が表情に出ることは無いのだが、これには驚くに違いない。
ベルフォール子爵家に着く頃には夜更けだった。
既に両親は就寝しているのか、部屋の照明が消されている。
だが、ジュリアンが使う寝室の隣、クレールの部屋の照明が落ちていないのを確認して、無意識に目を細めた。
門の中へと入っていく馬車の中、これは丁度よいと浮かれる気持ちから自然と笑みが浮かぶ。
すぐに車寄せに停まった馬車の扉が開き、開かれた玄関の向こう側で、クレールは家令と一緒に迎える状態にあった。
「お帰りなさいませ、坊ちゃま」
家令の言葉に迎えられながら剣と外套を手渡す。
すぐに近くの使用人が丁寧な手つきで受け取る中、「ジュリアン」とクレールから声をかけられた。
「お疲れでしょうが、お話したいことがあるのだけど。
少し時間をもらえるかしら」
「遅くまで働いて返ってきた夫にかける言葉がそれか。
クレール、君は本当に気が利かないな」
苦々し気な声で言いながら、ナイトガウンとショールを羽織るクレールを見る。
「そうは言っても、毎日夜半にしか帰ってこない貴方と話す時間なんて、今しかないもの。
気が利かないという以前に、いつまで経っても家に居ないことをおかしいと考えるべきだと思うけど」
「ああ言えば、こう言う。君は一つも自身の間違いを認めない。
少しでも反省する態度を見せれば、アドリアン殿下にここまで心配されることはなかったのに」
懐にあった届け出を出して、丁寧に広げる。
目の前に突きつければ、少しだけクレールの目が見開かれて、それがジュリアンの溜飲を下げた。
「私の名前は既に記載しているし、アドリアン殿下のご配慮にて先に承認までしてくれている。
いいかい、これにクレールの名前を書くだけで離縁は成立だ」
ヒラリと揺らした届け出を華奢な指先が受け取る。
クレールが家令を見れば、「王太子印がされておりますので正式なものかと」と返し、それに対して頷いた。
「アドリアン殿下は良縁まで探してくれると言っている。
この、私の為に。この意味はわかるな?」
ジュリアンを見るオリーブグリーンの目が細められて黙る。
「わかればいいんだ。明日も早いので今日はもう寝る。
急ぎ風呂の用意と、寝酒用に温めた蜂蜜酒を用意しておいてくれ。
いや、葡萄酒と軽い摘まみにしよう。今は気分がいい」
クレールを視界から外して、意気揚々と歩き出すジュリアンの後ろを使用人が追いかけてくる。
その中に家令はおらず、クレールと何やら話し始めたことに、ジュリアンは気づいていなかった。




