第三十二章 優しい世界はきっとそこにある
足を引きずるように、僕はひたすら無機質な世界を進む。
赤と黒のコントラストに支配された不思議な景色の中で、ずっと足踏みをしているんじゃないかって錯覚してしまう。
吹き付ける風さえもどこか空虚で、僕の弱い心の不安を煽り立てる。
「ふう」
額に滲む汗を拭って、ふと振り返った。随分と歩いたなぁ。菩薩様の姿がもう見えないや。そんな事を考えると、足が棒になったようだ。
「……ええと」
僕の傍らには、大きな大きな木が聳えている。このなんにもない世界に、どうしてこんな大木があるんだろうね?
そして、その大きな木の根元にうずくまっている小さな女の子。
お下げにした黒髪、可愛らしい薄桃色のワンピースを着ている。でも寂しそうに背を丸めている姿は儚くて、どこか痛々しい。
そして僕には、その女の子がどういう存在なのかすぐに分かった。
間違いない、魔女だ……。
だからといって身構えることはなかった。魔女に弾き飛ばされてた時に出来た頭のコブは、まだずきずきじんじんしているけど。
菩薩様は、僕が魔女に会うのが分かっていたんだろうな。
僕は女の子を驚かせないように、そっと傍らにしゃがみこんだ。
僕の気配を感じたのか、女の子が体を固くする。でも逃げ出したりはしない、ちょっと安心したな。
会話なんて生まれない。女の子が、ぐすっと鼻を鳴らした。
「なんにもないねー」
どう声をかけようかなんて考えていたけど。ぽろりと漏れ出た僕の間延びした言葉に、女の子は膝を抱いている両腕に力を込める。
怖がらせたかな、でもここで引くわけにはいかないんだ。
「ねぇ、聞いてもいいかな?」
そっと気持ちの先端だけが柔らかく触れるように、優しく問いかける。
女の子が、わずかに身動ぎをした。
「空と大地が形作る地平線だけ。他にはなーんにもない。草のささやきや、可愛い花の小唄。鳥の声も、猫の鳴き声も聞こえない。それから、君を傷つける人の声もしない……」
僕の言葉が聞こえないように、女の子は両手を耳で塞ぐ。そうしていたって、聞いているよね、きっと。
「こんな世界を夢見ていたの?」
それはひどく残酷な問いかけかもしれない。女の子はいやいやと頭を振った。そうだよね、ごめんね。
「痛かったんだよね」
僕は、女の子の頭に、ぽんと手を置いた。
いい子いい子。
そのままぽふぽふと頭を撫でてあげる。女の子は、くすぐったそうにしながら、大きな瞳から涙をぽろぽろとこぼすんだ。
この子は分かっている、こんな無味無臭の世界が欲しかったんじゃない。
そんな大きなスケールの話じゃないんだ。自分という存在を、きちんと認めてほしかったんだろうね。
でもね、どこまでいっても人は人でしかないよ。君が理想とする世界は存在しないんだ。
これからも、生きづらさを感じることもあるだろうけど……。
「もとの世界に戻してもいいかい?」
女の子にそう告げるとき、少しの勇気をふるい起こさなきゃならなかったよ。
「……うん」
顔をあげて僕を見た女の子は小さく笑った。頬に涙が乾いた跡があったけど、間違いなく僕に微笑んでくれたんだ。
分かった。
あとは僕が自分の心に決着をつけるだけだ。
立ち上がって、この寂しい世界を踏みつけるようにゆっくりと足を踏み出す。心を擦り減らすだけのこんな空虚な世界を、すぐに塗り替えてやりたい。
……けど。
本当にそれでいいんだろうか。この後におよんで、そんなに自問自答が僕の気持ちを萎えさせる。
許すな、恨み続けろ、お前はどれだけ心をすり減らしたのか忘れたのか?
そんな言葉がイバラの蔦となって僕の足から這い上がり、身体をぎりぎりと締め付ける。
その痛みは、僕の心が感じた心の痛みそのものなんだ。
痛くて怖くて身体を丸めて耐えていると、ぽろぽろと涙が溢れてくる。とめどなく流れる涙はどうしても止まってくれない。
最初から嫌いだった訳じゃないんだ、憎みたくなるほどの嫌がらせをされていたわけじゃないんだよ。
……じゃあ、なんでなんだよ。
そんな思いが、涙に紛れて次々と浮かび上がってくる。
揺れる気持ちに耐えきれなくなって、僕は大声をあげて泣いた。みっともなくて、情けなくて、やるせなくて。
せっかく立ち上がったのに、膝から崩れ落ちてすすけた大地を、何度も何度も殴りつけた。
体を丸めてむせび泣いていると、いろいろな想いが脳裏を駆け巡る。
「だめだ。僕には出来ない、あの世界に戻りたくない」
血を吐くように弱音を吐いた。
でも、ぐちゃぐちゃになった心の底に何かを感じたんだ。
それは温もりと安心感。
……ふと、あふれ出る涙がとまった。
妙にすっきりとした気持ちに戸惑う。心に浮かんだのは女神様だった。
こんな何もない僕に、どうしようもない僕に、優しく手を差し伸べくれた人たちがいる。
僕は救われたんだ。
「ああ……」
大きく、大きく息を吸い込んで空を見上げた瞬間に、無機質で寂しい世界に聳えていた大木が、硝子が砕けるような音を響かせて弾けた。
そして、きっといつもの日常が……そこに。
それはきっと、優しい世界であるはずだから。
ぱっとしない主人公の「僕」が、やっと仕事を成しえたのではないでしょうか。
「優しい世界はきっとそこにある」
それはきっと、ユートピアでも理想郷でもなくて、誰かの手の中にある日常のこと。
優しい言葉をくれた人、そっと寄り添ってくれた人、光を信じてくれた人たち。
その温もりを感じ取ることができる心が、優しい世界を“生み出す”のかもしれません。
ありがとうございました。
次章「エピローグ」です。
ぺし。
冴木 悠宇




