第二十九章 絆
「おはようございます」
なんてことはない朝の挨拶だけど、なんだかとても清々しい。この数ヶ月、こんな気持ちで挨拶をしたことはなかったよ。
絵衣子さんと挨拶を交わして仕事を始めようとした僕は、ふと何かが気になって振り返る。
「魔女は?」
「さぁ、どうでしょう?」
絵衣子さんはあっさりと答え、もうパソコンのキーボードをうち始めた。どうやら女神様ではなく、絵衣子さん本人がお仕事してるみたい。
鮮やかな手並み、いつもの小気味よい打鍵音を響かせる絵衣子さんは、すらすらすいすいと事務処理を進めていく。すーぱーゆるふわ云々の女神様に匹敵する……。ううん、それ以上だと思うよ。
今日は、ちょっとだけ肩の力を抜いていい日かもしれない――そんな気がした。
でも、どうしたんだろう。今日の絵衣子さんは、ひどく疲れているように見えた。ひょっとして寝不足……?
ヒロユキとハツオが去った、それだけでG材倉庫の空気が変わったようだ。
しかし、まだまだ問題が解決したわけではない。魔女が……ねぇ。
正確には魔女のスキルがね。いや、まぁスキル以前に、仕事に向き合う姿勢と、人間関係への執着が問題かな。
その問題魔女は休みなのかな? 点呼では上司から何も聞かなかったけど。
僕はふと窓へ目をやった。鉛色の空と灰色の厚い雲。そしてやまない雨、寒々としたその景色は、妙に魂の温かみを奪うような気持ち悪さを感じる。
……そして。
カラカラ……カラ、事務所の引き戸がゆっくりと開いた。
ぽたりぽたりと、冷たい雫が床に落ちて黒い染みが広がっていく。
「あ……」
挨拶をしようと思ったのだろうか、そんなことを考える間もなく。
僕は全身に激しい衝撃を受けて吹き飛ばされた。
キャビネットやデスクへ、強かに体を打ち付けた僕は床に転がって、あっさりと気を失った――。
☆★☆
事務所内の雰囲気が一変していた。
魔女の異様な雰囲気に、床に倒れたまま、ぴくりとも動かないリーダーをそのままに、絵衣子は席を立った。
「ちょっとあなた! なんてことするの!」
絵衣子は事務所の入り口に立つ「魔女」を睨んだ。しかし、爛々と目を輝かせる魔女に気圧されて、じわりと後退る。
「なにも力を持たない奴なんていらない、面白くもない」
魔女はつまらなそうに言って、濡れそぼる外套の雫を払った。そして面倒くさそうに、ばさりと外套を脱ぎ捨てる。
「あ、あなた、どうしたっていうの」
絵衣子の言葉など耳に届かない様子の魔女は、ゆっくりとした足取りで事務所に入る。
いつもの様子とは違う。おどおども、ぷるぷるもしていない。
能面のような無表情は感情の揺らぎを感じられず、底しれない危うさを感じる
「ちょっと、こっちに来ないでよ!」
「大丈夫よ、気にしないで」
後ずさる絵衣子を追い詰めるように、魔女は足を踏み出した。
「お、大人しくなさい。人が来るわよ、大きな音がしたからなんだろうって!」
絵衣子を壁際に追い込んだ魔女は、手を伸ばして絵衣子の作業服の襟を掴み、力を込めて絞り上げる。
そこで魔女は初めて口角を上げた。
「あなた、女神を知っているのよね?」
「し、知らないわよ。何を、言って……」
「とぼけないでよ、体の中で女神を飼っているでしょう?」
ぞっとするその口調に、絵衣子は息が止まる。しかし、その訳がわからない恐怖は、すぐに怒りへと変わった。
「か、飼っている? 冗談じゃないわ、ゆるちゃんは私の大切な親友、いいえ家族よ!」
虚をつかれたような表情を見せた魔女だったが、口元を歪めた。
「ほぉら居るんだ。でもあなたと女神の関係になんて興味ない。なぁんでもいいの、その女神の力をもらえればいいから」
愉悦の笑みを浮かべる魔女は腕に力を込めて、さらに絵衣子の襟元をぎりぎりとを締め上げる。
「ほらほら女神様、出ていらっしゃい。出てこなければ、あなたの大事な依代の首を、きゅって捻っちゃうわよ?」
「……なんで、こんなこと、するのっ!」
「知れたこと。私、気がついたの。誰も彼も私に優しくしてくれない。それならもうこんな世界なんて要らないもの。私の思い通りの世界にしちゃえばいいんだって。うふふふ。私だけの理想郷が欲しい、それだけ」
「そんなこと……出来る訳…ない」
「だからぁ、出来るんだってば。私の力と女神の力を使えばね。みんな私を無視したりしないの。私が挨拶したら、みーんな笑顔で応えてくれる。いじられることもない、見下されることもない、知った風な顔で偉そうにお説教されることもない。ほら、優しい世界でしょ?」
「――るい」
「うん、なぁに?」
魔女の表情が、歪んだ慈愛の笑みを形作った。
「気持ち悪いって言ったの、そんなくだらない世界なんてありえない。そんなことさせない!」
「こいつ、言わせておけば……。あなただけは、ここで私をなじらなかった、私を否定しなかった。そう思っていたのに」
魔女はぶるぶると肩を震わせる。
そして、異変は起こった――。
切れた電線が暴れまわり、地上のあらゆるものが竜巻へ巻き上げられる。
優しい風は突如として荒れ狂い、美しい青空は赤黒く染まり、大地は悲鳴を上げ始める。
生きとし生けるものが姿を消した。
世界が、現界がその姿を変貌させようとしていた。
G材倉庫の事務所内では稼働していたパソコンはすべて破裂し、ガラス窓は粉々に砕け散った。
そして……。G材倉庫の床中心に、複雑な文様の魔法陣が浮かび上がる。
これこそG材倉庫の秘められた力の発現だ、そんなことってあるの? 地震はまずいよね、この建物。
「もういい。貴女なんて要らない」
「ゆるちゃんは絶対に渡さない、あなただけに優しい世界なんてない!」
気を失いそうになりながらも、魔女の腕を掴んだ絵衣子は叫ぶ。
その瞬間、絵衣子と魔女の間に小さな小さな光が生まれた――。
温かなその光は、静かに胎動を繰り返していたが、やがて膨らみ、きらめきを伴って弾けた。
「絵衣子さん!」
絵衣子を苦しめていた魔女を弾き飛ばし、すーぱーゆるふわ神業”お仕事系”女神、YURUFUWA-001が光の中から飛び出した。
「ゆるちゃん、ゆるちゃんっ!」
「絵衣子さん、絵衣子さんっ!」
人と女神が今、互いの存在を認め合った。
今回の章「絆」では、これまで積み重ねてきた人間関係の歪みと、それが生み出した“魔女”の狂気、そして彼女に立ち向かう絵衣子と女神様の絆がぶつかり合いました。
物語の中では現実以上に、感情が濃く、極端に、時に誇張されて描かれます。でもその根っこには、誰しもが抱えうる心の軋み、声にならない痛みがある――そう信じて、書きました。
この章を書くのは、とても苦しく、そして同時に救いでもありました。
「そんなこと、させない!」と叫んだ絵衣子の強さは、きっと読んでくださったあなたの中にもあるはずです。そして、すーぱーゆるふわ女神様の「しゅつげん☆」に、少しでも胸が熱くなってもらえたなら、作者としてこの上ない喜びです。
さて、物語はいよいよクライマックスへ向かいます。
希望と絶望が交差する中、彼らはどんな未来を選ぶのか――。
次章も、どうか見届けていただけたら嬉しいです。




