第十六章 さよならG材倉庫
その声が聞こえた時、僕はくしゃくしゃに丸められた紙くず同然だったんだ。くずかごに放り入れられてもおかしくなかったんだけど、どうやらそれは免れたらしい。
奇跡的に繋がった電話。
僕はただ「助けてください」と言ったんだ。
声の主は、この会社に転職したころから、何かと声をかけてくださった……G材倉庫の親倉庫にいらっしゃる菩薩様だった。
冷静でいつも凛とした雰囲気の方で身につけておられるスキルも高く、とても頼りなる方なんだ。
僕は転職組で『G材倉庫』起ち上げの際に一緒に仕事をしたことがあったんだ。
情けない声を出す僕に、菩薩様は呆れてしまったかもしれない。
……しばらくの間があった。
それでも、力を感じる声で語りかけてくださった。
「もうそこに居なくてもいいから。親倉庫は一人辞められた方がいて欠員になってる、こっちにくればいいから」
ここにきても、僕にはまだ自分の強い想いがあった。でも、それは奴らに向けられる悪意を塗り替えられるものではなかった。
だから、菩薩様に諭された僕はうなだれたまま頷いた。
ずっと僕の中にあった、僕を支えてくれていた、僕を動かしてくれていた仕事への矜持が粉々に崩れ去った瞬間だった。
でも確かに、菩薩様の言葉は救いに聞こえたんだよ。
もうこの寒々とした【追い出し部屋】で、僕は自分の歩く道を見失っていた。とても正気を保っていられる自信がなかった、どうしようもなかったんだ。
だから、僕は『G材倉庫』を去ることにする。いや、そうしなければならない気がした。
「長年G材倉庫にいるから馴れた仕事は楽だろう」とヒロユキに言われた。
それを聞いた時、心の中で何かがぷつりと切れたのは確かだ。
そんなことはない。
希望通りにならない納期のこと、他部署からの難しい依頼がいくつも舞い込んでくる。しくじったりしたら大変なことになる。
気を張って神経すり減らしていた、のほほんとしていられる立場ではなかった。
それでも、そんなふうにしか見られていなかったんだと思うと。
やるせなさと、悔しさと、怒りがぐちゃぐちゃに渦を巻いた。
……その時、追い出し部屋の粗末な木製の扉がするすると開いた。ふと扉の方へ目をやると、そこには女神様の姿があった。
「ちょっと心配で」
そう言った女神様に、僕は許されない言葉を吐いた。
「あなたでさえ敵か味方かわかりません」
女神様は、驚いたように少しだけ目を見開いた。でも、何も言わなかった。
僕は自分が何を言ったのか、すぐには理解できなかった。
言葉が口を離れた瞬間、胸の奥にずしんと重くのしかかった。
もう、僕は人間として終わっている。
……それなのに。
女神様は黙って、そっと小さな貝殻を差し出した。その小さな掌の上にある貝殻は天界の通信機だった。
☆★☆
異動の日。
冷えた朝の空気が胸にしみる、僕は【追い出し部屋】を後にする。
親倉庫では、半年ほど仕事したことがある。
材料のピックアップが主な仕事だ。正直、あまり得意ではないんだけど、この会社を辞めるまでは仕方がないかなと、そう思うことにした。
また職安に通わなきゃね。
持ち物は役にも立たなかったPCと小さな段ボール箱がひとつだけ。
悔しさも、怒りも、誰にも見せたくない惨めな気持ちも――全部、ぽっかりと開いた心の穴に押し込んだ。とりあえず、その穴はガムテープで無造作にふさいでおいた。
ただ、今後の仕事のことを考えていた気がする
心を折られた【追い出し部屋】を振り返ることはない。
静かに階段を下りる。誰にも何も言わず、ただ静かに――僕はG材倉庫の扉をひと睨みした。
女神様はこの日、お休みだった。天界に戻られていると聞いていた。
その御光が差さぬG材倉庫は、どこまでも無機質で寒々しいだろう。
背を丸める訳でもない、顔をあげて虚勢をはるわけでもない。僕は傷んだがたがた道を安全靴で踏みしめて歩いた。
この数年間がまるで無意味に思えた。
――さよなら、G材倉庫。
あの時の僕は何も感じたくなかったのかもしれない。
それが、自分を守るたったひとつの方法だったから。
人生って、ままならないものですね。
頑張ってきた場所に背を向ける時、
「ありがとう」も「お疲れさま」もなく、
返ってきたのは【静寂と段ボールひと箱】
実際の現場って、そんなもんだったりします。
人は疲れすぎると泣けないんですよね。
怒りや悲しみすら出てこない。
なんか、魔女が空気になってるなぁ。




