『第一章:あなたのこころ。』⑤
「ちょっと、崇彦! 逃げんじゃないよ!」
「いや、勘弁してくれよ……。気持ちなんて縛れねーだろ、な? 晶穂──」
掴みかからんばかりの同学年の女子学生に、全身で引き気味の崇彦。
「ここがどこだかわかってんのか!? 家で、……せめて他でやってくれ。迷惑なんだよ」
郁海の静かな一喝に、一瞬にして部室に緊張が走った。
彼の容姿からの印象とは少し違う、落ち着いた低めのよく通る声。抑えた響きが余計に怒りを感じさせる。
いま祥真も含めた皆がいるのは演劇サークルの部室。歴とした『公の場』だ。
恋愛沙汰の修羅場を繰り広げるには相応しくないのだけは間違いない。
「……副島さん。すみません、ホントに。すぐに出て行きますから!」
「崇彦!」
「頼むよ、晶穂。ここではやめよう」
崇彦が騒ぐ晶穂を宥めすかして引き摺るように部室を出て行くのを見届けて、祥真は表には出さないように安堵の溜息を吐いた。
「あいつら二人、六月公演で主演同士だったじゃん? まあ実際よくあるんだよ。恋人役やって、そのままプライベートでも恋愛関係になって、なんてのはさ。……で、佐治はもう今の相手役と付き合ってるわけだけど。次の十月公演の準主演ペアでな」
呆然として見えるのだろう祥真に、郁海が説明してくれる。
そういえば崇彦と晶穂は件の公演の練習中、祥真が知る限りでも休憩時間もいつもべったり一緒だった。演技の打ち合わせをしているとばかり思っていたが、リアル恋愛状態だったわけか。
映画やドラマの俳優のものとしてはよくある、むしろ聞き飽きた話ではあるものの、現実に目の前で起きるとは。
「恋愛関係は全然いーんだよ。全員とは言わねえけどそれだけ役に本気になって、入り込んでるって証でもあるし。それで役柄にリアリティが出るなら別に悪くは無いんだ。──正直俺はリアルとリアリティは別モンで、演技なんて『いかに嘘を嘘っぽくなく魅せるか』だとさえ考えてんだけど、それはまあそれとして」
「えっと無責任に聞こえるかもしれませんけど、そこまでのめり込めるのも逆にすごいな、って俺なんかは思います……」
遠慮がちに口にした祥真に、郁海は軽く肩を竦めた
「練習中に付き合い出して、公演終わったらいつの間にか別れてる、とかは少なくともここでは珍しくもないんだよ。たぶん他所もたいして変わんねえ気はする。役者の性、っていうと怒る人も多そうだけどな。……ただ、今のあいつらみたいに周りを巻き込まれんのはホントに困るんだ」
「それはもちろんわかります」
祥真のようなただの一年生なら居心地が悪い程度で済むが、特にそれなり以上に責任ある立場を負う上級生は迷惑どころではない筈だ。
「俺は脚本も演出もせいぜい年一だし、気まずい関係の奴らと次の演目でも一緒って経験はない。それに、祠堂さんはそんなの気にしないだろうけどさ。つかあの人なら『演技の肥やしになるならいいよ〜』とか考えてるかもな。『稽古場でさえ揉めなきゃそれでいいじゃない。なんか問題あるの?』とか平気で言いそう」
確かにリュウは、如何にも神経質そうな線の細い外見の印象に反して、ある意味非常に杜撰な人間だった。
必要以上なほど細かく繊細な部分もあるにはあるのだが、主に脚本執筆に関してに限られている、らしい。
現実にリュウが吐きそうな台詞に、この人は本当に彼を見抜いているのだ、と微妙な気分になる。
「でも俺はちょっと無理だな。結局、こういう『フツー』っぽいとこが向いてないのかもしれないなぁ。けどさ、舞台は大勢で作るからこそ、最低でもみんなの前では出すな! とは言いたくなるんだよ。稽古場で繕えりゃいいわけじゃなくて」
……同時に、むしろ郁海の方が「演技の肥やし」と考えそうだ、と感じていたのはどうやら自分の一方的な思い違いらしいとも痛感させられた。
人間味を感じないほどの端正な容姿が、根拠のない先入観を加速させた側面もありそうだ。
よくある話だという割に祥真が今まで知らなかったのは、他の当事者たちは人前では一応でも普通の顔で通していたということなのか。
あるいは、単に祥真に人間関係の機微を見る目が足りないだけかもしれない。