03:春風に誘われて舞い降りたハニーマフィン
ひとまず首輪の件は置いておく――内心では置いておきたくないのだが、異論を唱えたところ「後でレースを着けてあげるから拗ねないで」というわけの分からない宥め方をされて置かざるを得なかった――
次いで何を決めるのか……、となったところで、アマネが「私の可愛い妹ちゃん。名前は?」と尋ねてきた。
「名前?」
「そう。名前。きっと可愛い名前なんだろうなぁ……。シュガーキャンディちゃん? ハピーメープルちゃん? 春風に誘われて舞い降りたふわふわリトルスターちゃん?」
うっとりとした声色でアマネが尋ねてくる。それに対して、少女はうんざりとした表情を浮かべて返した。
アマネが挙げてくる名前はどれも人名とは思えないほど珍妙で、馬鹿々々しくて返事をする気にもならない。
それに名前なんて……。
「名前は無い」
「無い? 無いってどういうこと?」
「どういうもなにも、無いものは無い。今まで名前で呼ばれることも無かったし、必要無かったから名前なんて無い」
はっきりと少女が断言すれば、アマネが驚いたように目を丸くさせた。
次いで彼女がサイラスとレナードと顔を見合わせる。彼等も意外そうな表情をしており、その空気は何とも言えず居心地が悪い。
たかが名前でここまで……、と少女が眉根を寄せていると、アマネが改めてこちらを向き、ポンと両肩に手を置いてきた。
次いで彼女は輝かんばかりの満面の笑みを浮かべ、
「春風に誘われて舞い降りたシュガーポットちゃん」
と呼んできた。
「却下」
「えぇ、なんで!? こんなに可愛いのに。これ以上ない程に似合ってるよ、春風に誘われて舞い降りたシュガーポットちゃん。それともやっぱり春風に誘われて舞い降りたふわふわリトルスターちゃんがよかった?」
「まさか本気で言ってるの……!?」
思わず引きつった声を出してしまう。それほどまでに酷い名前だ。むしろ名前と認識したくない。
そんなやりとりの中「ちょっと良いかな」とサイラスが口を挟んできた。ちょいちょいと軽く手招きをしてアマネを呼ぶ。
彼女が移動するのに合わせて、どういうわけかレナードまでもが席を立ち、入れ替わるように少女の隣に座ってきた。おまけにぐいと身を寄せてくる。
「良い事を教えてやる。ただし、これは極秘情報だ」
顔を寄せ、更に囁くような声でレナードが告げてくる。
低めの声色から真剣な内容なのだと分かり、思わず少女もまた表情を真面目なものにし「極秘情報?」と尋ね返した。
レナードがじっと顔を見つめてくる。濃紺色の瞳。強い意思を感じさせるその瞳は、今は少女に対して聞く覚悟を尋ねているのだろう。纏う圧が、真剣みを帯びた顔付きが、瞳が、他言するなよと圧を掛けてくる。
ならばとこちらもじっと彼を見つめ返して一度頷けば、ようやく納得したのか彼がゆっくりと口を開いた。
「これは俺達と極僅かな奴しか知らない事なんだが……。アマネはネーミングセンスが壊滅的に悪い」
幾分低めの声で告げてくる『極秘情報』。
だが次の瞬間にレナードは先程までの重苦しい空気を一瞬にして四散させ、耳打ちするように寄せていた顔もパッと放してしまった。「それにしたって春風は無いよなぁ」という声は打って変わって随分と軽い。
この変わりように、纏う空気の温度差に、そして言われた言葉に、少女は思わずきょとんと目を丸くさせてしまった。
揶揄われていた、と察したのは数秒置いてからだ。
「こ、こんな状況で馬鹿な事を言うな!」
「馬鹿は無いだろ、失礼だな。さすがに春風どうのは無いと思って忠告してやったんだ。それに、ほら見てみろ」
「ん、」と素っ気ない声と共にレナードが一角を見るように促してきた。
アマネとサイラスが何やら話をしている。どうやら名前候補について話し合っているようだが、会話の合間合間に「春風の妖精コットンキャンディちゃん」だの「春風を引きつれて現れたハニーマフィンちゃん」だのと聞こえてくるのが気になるところだ。
そんな壊滅的な名前候補を挙げていくアマネに対して、サイラスは苦笑を浮かべている。
「なんか嫌な感じに話し合ってるけど……、あの二人がどうした?」
「兄貴の表情からするに、あと五分もしたらアマネの名前候補に同意するぞ」
「……嘘」
「そうしたら俺も流石に二人を相手にしてまで反論する気は無いから、晴れてお前の名前は春風がどうののハニーマフィンだ。うん、実際に口にしてみると割と悪くない名前だな」
「悪くないわけない!!」
慌てて否定すればレナードが肩を竦めて返してきた。他人事のような素振りだが、事実彼からしたら他人事である。
少女の頭のなかで「まずい」と警告が鳴り響き、危機感が胸に湧き上がる。
今まで名前なんて無く、必要も無いと思っていた。
今だって名前を欲しいとは思わない。
……が、だからといってハニーマフィンだのコットンキャンディだのを受け入れられるわけがない。
春風どうのに関してはもはや名前なのかすら怪しい。そんな名称で呼ばれる己を想像すれば嫌悪感と危機感がより嵩を増す。
「あんな変な名前で呼ばれるなんてごめんだ!」
「ごめんだって言ってもなぁ。あぁ、ほら、ハニーマフィンかリトルスターかシュガーコットンの三択まで絞ってきたぞ。俺の勘だとあと三分ってところだな。個人的にはハニーマフィンが有力だと思う」
「そ、そんな……!」
「勝手に決められるのが嫌なら自分で先に決める事だな。必要無いって考えてるなら適当に着けりゃ良いだろ」
「適当に……」
名前を、と少女が考え込む。といっても長考する時間は無さそうで、アマネとサイラスが『ハニーマフィン』か『シュガーコットン』かで悩み始めている。
既に二択にまで絞られた事により少女の中で焦燥感がより増した。ちなみに『春風に誘われて舞い降りた』は既に決定しているようだ。
なにか良い名前を。
いや、この際なので良い名前で無くても構わない。
少なくともアマネが考えているハニーだのシュガーだのといった名前じゃない、極一般的なものを……。
「レ、レナード」
「それは俺の名前だ」
「名前、なにか名前……、ルース、ロゼリア、アンジェリカ……」
「どれもうちで働いてるメイドの名前だな。わざわざ被る名前にしたら面倒だろ。他に何か無いのか? たとえば友人とか知り合いとか」
「そんなこと言っても、友人も知り合いも私にはないし……そ、それならブライアン、ゴーディー、アレックス……」
「うちの庭師、料理長、御者だな。そもそも男の名前だろ。ほら、さっさとしないと、俺の読み通り『ハニーマフィン』が最有力候補になったぞ。あと一押しだ」
「だって、そんな、他の名前なんて……、お前達の事を覚えるだけだったし……」
聖女アマネと入れ替わるため、必要な事はすべて頭に叩き込んだ。
アマネの事はもちろん、王宮に勤める者達の顔と名前、この国の重要人物、国内に限らず近隣諸国の交流のある人間に関してもだ。
アマネと入れ替わっても気付かれないよう、彼女が把握している事は全て覚えさせられた。
……だがその反面『アマネの知識』の範囲外になると何一つ思い浮かばない。名前一つさえも。
それを訴えればレナードが僅かに眉根を寄せた。肩を竦めて溜息まで吐いてくる。
そんなやりとりの中、「決まった!」と威勢の良いアマネの声が割って入ってきた。
思わず少女の喉から「ひっ」と高い悲鳴じみた声が漏れる。
「可愛い妹ちゃんの名前は、春風に誘われて舞い降りたハニーマ」
「ステラ」
晴れ晴れとしたアマネの言葉に、レナードの声が被さった。
この絶妙なタイミングに誰もが一度言葉を発するのを止め、シンと室内が静まり返る。
なんとも言えない沈黙の中、少女はきょとんと目を丸くさせてレナードを見つめた。彼は自分で言い出しておきながらさして興味も無さそうにお茶を飲んでおり、少女どころかアマネやサイラスの視線を一身に受けながらも溜息交じりに肩を竦めてきた。
「……ステラ?」
「あぁ、妥当な名前だろ。珍しいわけでもないし呼びやすい。春風どうのハニーマフィンよりはマシだ」
自分の提案を誇るでもなく押し付けるでもなく話すレナードに、少女はしばし考えたのちコクリと頷いた。
『ステラ』
確かに悪くない名前だ。それにレナードが話す通り、春風どうのハニーマフィンよりは比べるまでもなくマシである。現に、この名前で呼ばれる自分を想像しても嫌悪感や危機感は湧いてこない。
だがハニーマフィンにしたかったアマネは不服なようで「勝手に決めないでよ!」とレナードに突っかかっていった。
「私の可愛い妹には愛が溢れた世界一で唯一の名前じゃないと駄目なの」
「外部の奴等に姉妹で押し通すなら名前を寄せないと怪しまれるだろ。姉の名前が『アマネ』で妹の名前が『春風に誘われて舞い降りたハニーマフィン』なんて、姉妹関係を疑われるか親が妹を生む前に錯乱したかを疑われるかだ」
「だけど、ステラなんて在り来たりな名前……。ねぇ可愛い妹ちゃん、妹ちゃんはどっちの名前が良い? 『ステラ』か『春風に誘われて舞い降りた」
「ステラ」
思わず言い終わらぬうちに即答してしまう。むしろ胸中は言わせてなるかという反発心である。
それ程までに『春風に誘われて舞い降りたハニーマフィン』は有り得ないのだ。