幼馴染のせいで行き遅れそうなので、文句を言ったら大変なことになりました
その日、貧乏男爵令嬢エーファ・ラベインは精一杯のお洒落をして街へ繰り出していた。
「そのドレスも髪飾りもよく似合っているよ。まるで君だけのために作られたみたいだ」
「まぁ、嬉しいです……!」
なにしろ、今日はデートなのである。
絶賛婚活中のエーファにとっては、ここ一番の勝負どころなのだ。
相手は地方の子爵令息。
なんとか伝手を辿って紹介してもらった、しがない貧乏男爵の娘であるエーファにはもったいない相手だ。
「君だけのために作られた」どころか安物の量産品であるドレスや装飾品を身に纏い、柔らかな微笑みを浮かべながらも、エーファは必死にどうすればこの機会を次につなげられるかを考えていた。
(とにかくチャンスを見つけて……少しでも気に入ってもらわないと……!)
エーファの目的、それは少しでも条件の良い相手との結婚だ。
既にエーファは、とある理由で何人もの縁談相手に逃げられている。
最近では「次々と男を手玉に取る悪女」「関わってはいけない相手」などととんでもない噂が、少しずつ囁広まっているようなのだ。
(悪女どころかろくに男性とお付き合いしたことすらないのに……! 何としてでも、この方と結婚にたどり着かないと……!)
幸いにも、今のところ目の前の子爵令息はエーファを気にいってくれているようだ。
どうかこのまま無事になくうまくいきますように……! とエーファは願ったが、現実はそう甘くなかった。
「よぉよぉ、そこの兄ちゃん。めかし込んでデートかい?」
「ヒュー! いい女連れてるじゃねーか!」
突然前方からやって来た、まるで絵に描いたような荒くれ男たちに絡まれてしまったのだ!
(まずい……!)
エーファは焦った。
別に、荒くれ男に怯えたわけではない。
彼らの存在に、デート相手である子爵令息が引いてしまうのが何よりも恐ろしかった。
「……相手にしない方がよさそうですね。さぁ、行きましょう」
そうさりげなくこの場を立ち去ろうとしたが、一足遅かった。
「おい兄ちゃん。痛い目見たくなけりゃさっさと女置いて逃げな」
「それとも女の前だからってかっこつけてみるかい? 相手してやるよ」
ボキボキと指の骨を鳴らしながら、荒くれ男たちはそう凄んだ。
少しわざとらしすぎる「いかにも」な台詞だったが、温室育ちの子爵令息には効果絶大だったようだ。
「ヒ、ヒイィィィィ!!」
彼はエーファを置いて、すごい勢いで走り去ってしまったのだ。
(あぁ、また駄目だった……)
エーファは泣きだしたいような気分で、小さくため息をつく。
望み通りの結果になったはずなのに、絡んで来た荒くれ男たちはおろおろしていた。
「げ、元気出せよ姉ちゃん! あんな腰抜け男に引っかからなくてよかったじゃねぇか!」
「そうだ、何かうまいもん食うか!? 腹が膨れれば嫌なことなんて吹っ飛ぶぞ!」
彼らの不器用な慰めにくすりと笑い、エーファは丁寧に頭を下げる。
「優しいお言葉感謝いたします。……あなた方も、お疲れさまでした」
「……へ?」
「そこにいらっしゃるのでしょう? ……キアラン様」
どこへともなくそう呼びかけると、建物の影からするりと一人の青年が姿を現す。
グラナトゥーア公爵家の跡取り――キアラン。
宝石のような美貌を持つ貴公子の登場に、周囲の者たちが一斉にざわつき出すのを肌で感じる。
(ただそこにいるだけでこの存在感。本当に、やんごとない御方は違うのね……)
呆れを通り越して感心してしまったエーファの方へ、キアランは一直線に足を進めてくる。
「どうやら、うまくいったようだね」
「いいえ、私からすると全くもってうまくいっておりません」
抗議するようにそう言うと、彼は少し困ったように笑った。
「彼の本性がわかってよかったじゃないか。君を……エスコートしている女性を置いて一人逃げ出すなんて、紳士の風上にも置けない輩だ」
「それでも……! 私にとってはまたとないチャンスだったんですっ……!」
そう詰め寄ると、キアランは観念したとでもいうように軽く手を挙げてみせた。
「わかったわかった。これ以上の込み入った話はもう少し落ち着いた場所で話そう。近くに懇意にしている料理店があるんだ」
「……遠慮いたします。あなたと二人でお食事なんてしたら、またとんでもない噂をたてられてしまいますから」
「大丈夫、一般客とは別の入り口から入る特別な個室を用意してある」
(この御曹司め……!)
そこまで言われてしまっては、エーファも断る理由はなかった。
どうせ、この後の予定は白紙になってしまったのだ。
せめて、腹を満たして帰らなければ踏んだり蹴ったりだ。
「あぁ、君たちもご苦労だったね。報酬はグラナトゥーア公爵家の者から受け取ってくれ」
「はい、若様!」
キアランが軽く手を振ると、荒くれ男たちは深々と頭を下げて去っていった。
……やはり、彼らはキアランが雇ったサクラだったのだろう。
「それじゃあ行こうか、エーファ」
嬉しそうに笑うキアランが差し出した手を、エーファは複雑な気分で取るのだった。
◇◇◇
「キアラン様、すでに何度も申し上げました通り……私の縁談に関しては、今日のように手を出さずに暖かく見守っていただけないでしょうか……!」
キアランの宣言通り、こっそりとたどり着いた料理店の個室にて。
普段ならとても口にできないような高級料理を有難く頂きながら、エーファはそう懇願した。
「それはできない相談だね、エーファ。僕は君がろくでもない男に捕まり不幸になるのをただ見ていることなんてできないよ」
キアランは優雅な手つきでカトラリーを操りながら、大真面目にそう口にする。
いつもと同じやりとりに、エーファは思わずため息をついてしまった。
そう、彼こそが……エーファが何人もの男性に逃げられている元凶なのである。
彼は「エーファが変な男に騙されないように」という名目で、今日のようにデートに横やりを入れたり、こっそりと相手の男性を脅したりして、ことごとく縁談をぶち壊してくるのだ……!
「ですから、私はもういい年なのでこの辺りで結婚にたどり着きたいのです……!」
「だからといって、早まりすぎて後悔することになっても困るだろう。……エーファ、君は素敵な女性だよ。そう焦らなくても、いずれ君に見合うような素晴らしい相手が現れるさ」
思わず見惚れそうな笑みを浮かべて、キアランはそう言った。
その笑顔と言葉に思わず頬に熱が集まるのを感じ、エーファは誤魔化すようにアイスティーを口にする。
(駄目だ、また丸め込まれそう……)
普通に考えれば、キアランの行動はとんでもないものだ。
彼のせいで何度も破談になり、エーファは行き遅れかけている。
もっとガツンと怒りをぶつけて、「二度と私に関わらないでください!」と言っても良い気はするのだが……どうしても、エーファはそうできなかった。
なぜなら、エーファはもうずっと昔からキアランに想いを寄せていたのだから。
恋い慕う相手に酷い言葉をぶつけることなんてできない。
今の、このぬるま湯のような関係を維持していたい。
……なんて、身勝手なことを考えてしまう。
(あなたへの想いを断ち切るためにも、早く結婚してしまいたいのに……)
恨みがまし気な視線を向けるエーファに、キアランは不思議そうに首を傾げた。
◇◇◇
国内有数の名門公爵家の跡取りであるキアランと、吹けば飛ぶような弱小貴族の娘エーファ。
そんな正反対な二人がどうやって知り合ったのかというと、二人の父親が親友同士だったのである。
なんでも「いかに華麗に椅子に座るか」という(プレイ人口自体も少ない)謎のスポーツで、グラナトゥーア公爵に引けを取らないほど華麗に着席を決めて見せたのがエーファの父だったらしい。
二人は身分を越えた友情を築き、そのおかげでエーファも幼い頃から公爵家に出入りすることを許されていた。
幼いエーファは、まだ公爵家と男爵家の身分の差というものがよくわかっていなかった。
公爵夫妻にも可愛がられ、キアランの同年代の友人としてのびのびと育っていたのだ。
「待ってよ、エーファ!」
「こっちだよ、キアラン!」
昔のキアランは、今と比べると信じられないほど内向的な少年だった。
それと比べて、エーファは外を駆けまわるのが大好きなおてんばな少女だった。
怖気ずくキアランの手を引いて、何度も外へと連れ出してやったものだ。
当然、エーファの出過ぎた行動を良く思わない者もいただろう。
だが、幼いエーファは自分に向けられる視線の意味には気づいていなかった。
ただ無邪気に、「幼馴染のキアラン」を振り回していたのだ。
エーファが十歳の時、公爵の厚意で高位貴族御用達の保養地へ同行させてもらったことがあった。
活発な少女であったエーファは喜び、キアランを引っ張るようにして日がな力いっぱい遊んだものだ。
森で動物や虫を探したり、小川の中で水をかけあったり、花畑の中でのんびり昼寝をしたり……。
とても、楽しい時間だった。
だから、エーファは少し調子に乗りすぎてしまったのだ。
「エーファ、これ以上先へ進むのは危ないよ……」
「キアランは弱虫なのね。少しくらい大丈夫よ」
大人たちからは、「あまり別荘から離れたところで遊んで位はいけないよ」と言いつけられていた。
だが、エーファは駄目と言われれば気になってしまう性分の子どもだった。
こっそりとお目付け役の目を盗んで、まるで探検家になったような気分で、エーファは別荘から離れどんどんと先へ進んでいった。
聡明なキアランは、あまり大人の傍を離れすぎない方がいいと渋っていた。
だがエーファはそんな彼の慎重な行動を「弱虫」だと一蹴し、耳を貸そうとしなかった。
だから、あんな目に遭ったのだ。
「あ、あそこに綺麗な花が――きゃあ!」
「エーファ!」
人の手が入っていない崖っぷちへと足を踏み出したエーファは、崩れた地面と共にがけ下へと滑り落ちてしまったのだ。
「っ……!」
「エーファ! 大丈夫!?」
視線を上げれば、崖の上からキアランが必死にこちらへ声をかけてくれていた。
キアランがいるのはエーファが落ちた場所よりもずっと上方だ。
なんとか立ち上がろうとすると、ずきりと足が痛みその場に崩れ落ちてしまう。
見れば、あちこちすり傷だらけでお気に入りのドレスにも血がにじんでいる。
エーファがいくらお転婆だと言っても、こんな怪我をしたのは初めてだった。
そう意識した途端、急に恐怖心が押し寄せてくる。
「キアラン……痛い、痛いの……」
「待って、すぐに大人を呼んでくるから――」
「やだ! 行かないで!!」
一人取り残されることが怖くて、エーファは必死にそう懇願した。
キアランは驚いたような顔を見せたが、すぐに頷く。
「……わかった、すぐに僕もそっちへ行く」
キアランは周囲を見回し、安全に下りられる場所を探していた。
だが不運なことにエーファの落ちた場所は、崖に囲まれており登ったり降りたりできそうな場所はない。
「キアラン、キアラン……」
心細くてそう呼びかけると、キアランは意を決したようにエーファが滑り落ちた場所を慎重に降りてきた。
あの臆病なキアランが、エーファのために危険を冒してくれたのだ。
「……もう大丈夫だよ、エーファ」
彼がそう言って微笑んでくれた途端、エーファは堰を切ったようにわっと泣いてしまったものだ。
キアランはエーファを背負って崖を登ろうとしてくれたが、子どもの足で、ましてや同じような体格の相手を背負った状態で登れそうにはなかった。
だんだんと日が暮れてきて、怖くなったエーファは再びみっともなく泣いてしまう。
「うっ、ぐすっ……」
「泣かないで、エーファ。僕がついてるからね」
キアランはそう言ってエーファの手を握り、懸命に励ましてくれた。
自分よりもずっと弱虫だと思っていた相手の思わぬ行動に、エーファは不思議に思い呟く。
「……キアランは、怖くないの?」
「うん、エーファが一緒だから大丈夫だよ!」
今思えば、エーファを心配させないための強がりだったのだろう。
だが、その言葉は確かにエーファを元気づけてくれた。
一人泣いてしまったことを恥ずかしく思いながら、エーファは小さく頷いてみせた。
やがて完全に日が落ち、あたりは宵闇に包まれる。
きっと大人たちは必死に二人を探しているのだろう。
だがエーファが後先考えず遠くまで来てしまったため、この辺りには捜索の足が伸びていないようだ。
不意に遠くから獣の声が聞こえ、エーファはびくりと身を竦ませる。
「狼の声だ……私たち、食べられちゃうかも……!」
今にも暗闇の中から狼が飛び掛かって来て、ばりばりと頭から食べられてしまうかもしれない。
そんな想像が頭をよぎり、エーファはがたがたと震える。
いくら強がっていても、エーファはしょせん十歳の少女だった。
だが、キアランは違った。
きっと彼は、幼いながらに自分の立場についてよく教育されていたのだろう。
だから、こんな時でも焦ることなく……そっと震えるエーファを抱きしめてくれた。
「心配しないで、エーファ。エーファのことは僕が守ってあげる」
「キアランが……?」
「うん。狼が来たら、僕がやっつけてあげるからね!」
そう言って、キアランは力強く笑ってみせた。
月明かりに照らされたその姿は、普段の何十倍も頼もしく見えた。
……きっと、あの時だ。
エーファが、初めての恋に落ちたのは。
幸いにも、二人は狼に襲われることもなく朝を迎えることができた。
安心して二人で肩を寄せ合いながらうとうとと微睡んでいると、「いたぞー!」という大声で目が覚めたのをよく覚えている。
大人たちに保護されてからも、キアランはエーファを庇ってくれた。
「僕がわがままを言ってエーファを連れ出したんです。エーファは僕を庇って崖から落ちて、怪我をしてしまったんだ。だから、エーファは何も悪くない!」
公爵夫妻をはじめとする公爵家の者たちは、(少なくとも表向きは)納得し、キアランに謹慎を言い渡した。
だが、エーファの両親の目は誤魔化せなかった。
彼らはすぐに今回の事件はエーファから言い出したのだと、キアランがあえてエーファを庇ったのだと即座に見抜いたのだ。
普段は穏やかな両親の必死な様子に、エーファは初めて自分の犯した罪の重さを思い知った。
「エーファ、よく聞いてちょうだい。本当に……本当に大変なことになっていたかもしれないのよ……!?」
「こんなことは言いたくないが……お前とキアラン様とでは立場が違うんだ。彼はゆくゆくこの国を背負う人材になるだろう。決して、お前の身勝手で振り回していい御方ではないんだ……!」
両親からあらためて説明され、エーファはやっと自身とキアランの立場の違いを思い知った。
きっと、今までがおかしかったのだ。
キアランや公爵夫妻の厚意に甘え、なんと身分不相応な真似を繰り返していたことか。
公爵家の使用人が時折厳しい目で見てきたことも、ひそひそと噂話をされていたのも、エーファのことを「なんてあつかましい娘だ」と非難していたのだろう。
そう気づいた途端、恥ずかしくて、哀しくてたまらなくなった。
だが、ある意味いい機会だったのかもしれない。
いつまでも、あんな風に二人仲良くいられるわけではない。
キアランとエーファでは住む世界が違うのだ。
お互いに別の道へと進んでいく、そんな時期が来たのだろう。
キアランの長い謹慎が解ける頃、エーファはすっかり大人しい少女へと変わっていた。
「エーファ! 会いたかったよ!」
キアランはわざわざ、エーファの住む小さくて古い屋敷まで足を運んでくれた。
その顔を見ると、切なさに胸が締め付けられる。
彼の優しさに甘えて、前のような気やすい関係に戻りたいと願ってしまう。
……だが、それは許されない。
キアランを危険に巻き込んでしまったことで、エーファは何度も自分に言い聞かせた。
これからは、キアランと距離を取らなければならないと。
だから、これも自分で決めたことだ。
「キアラン様」
初めて立場をわきまえそう呼びかけた時のキアランの顔は、今でも忘れられない。
驚愕と……確かな悲しみを湛えた表情をしていた。
そんな彼の顔を見ないように俯き気味に、エーファは一思いに告げる。
「会いに来てくださりありがとうございます。出発する前にお会いできて幸いでした」
「出発……?」
「はい。社交界に出る前の数年間にはなりますが、遠く離れた地の修道院へと入ることになりました」
「っ……! そんなのおかしいじゃないか! あの件に関しては、悪いのはエーファでなく僕だと――」
「私が、自分の意志で決めたことです」
昔は、貴族の令嬢が花嫁修業として短期間修道院へ入るのは珍しくはなかった。
もっとも修道院の厳しい生活を厭い、今では進んでそんな道を選ぶ者は少ないのだが。
エーファは今までの自分の軽率な行いを恥じ、一からやり直したいと願った。
……それ以上に、キアランと物理的な距離を取りたかったのだ。
手の届く距離にいては、きっと彼の優しさに甘えてしまうから。
「今まで不相応なほど優しくしてくださり感謝いたします、キアラン様」
きっと、こうして彼の向き合うのはこれが最後になるだろう。
そんな予感を抱きながら、エーファはせめて穏やかに微笑んでみせる。
キアランにも同じように笑っていてほしかったが、彼は珍しく怒りを耐えるような、温厚な彼には似合わない苛烈な表情をしていた。
そうして、エーファの修道女生活が幕を開けた。
修道院での生活は厳しく、忙しく、それでも今までにないほど充実していた。
あっという間に年月は経ち、エーファは社交界デビューを気に再び貴族社会へと足を踏み入れることになる。
どこからか話を聞きつけたのか、エーファが家に戻ってすぐにキアランが訪ねてきた。
エーファはこの数年間で、初恋に区切りをつけたつもりだった。
きっちりと恋心にけじめをつけ、キアランではない別の相手と結婚するために戻ってきたのだ。
だが、駄目だった。
「エーファ……」
久方ぶりに目にしたキアランは、エーファの想像以上に成長していた。
最後に会った時はエーファと同じくらいだった身長も、今はエーファより軽く頭一つ分は高いだろう。
顔つきはあどけなさが抜け精悍さを増し、少年から大人の男性へと姿を変えようとしていた。
それでも、真っすぐにこちらを見つめる優しい瞳だけは変わらない。
(あ、駄目だ)
エーファは一瞬で、己の敗北を悟った。
あまりに眩しすぎて、彼を直視できない。
「……驚いたよ。しばらく会わない間に綺麗になったね、エーファ」
そんな風に言われるだけで、胸が高鳴り、ひどく動揺してしまう。
「あ、あなたは……随分とお世辞がうまくなったのですね、キアラン様」
「そんなことはないよ。心からそう思っただけだ」
「御冗談はほどほどになさってください……」
キアランはエーファが困っているのを察したのか、そこで退いてくれた。
そんな部分にまで彼の成長を感じ、ますます鼓動が早くなってしまう。
「エーファは社交界にデビューするために修道院から戻って来たんだよね。……もう、最初に君をエスコートする相手は決まっているのかい?」
キアランの質問に、エーファの心臓がどくりと嫌な音をたてる。
キアランはこんなに立派な青年に成長したのだ。
わざわざこんな風に話題に出してくるということは、彼自身がどこぞの令嬢のエスコートをすることが決まっているのだろう。
(やだな……)
彼が見知らぬ令嬢の手を取っている場面を想像するだけで、胸が締め付けられる。
それが当然のことだと頭ではわかっているのに、心は追い付かない。
だが、受け入れなければならない。
別々の道を歩んでいくと、決めたのだから。
「もしも――」
「はい、決まっています」
自分の想いに踏ん切りをつけるために、エーファは嘘をついた。
「両親が紹介してくださった方で、私より少し年上の男爵家の御方です。とても優しくて、頼りになる方なんですよ」
両親からは「エーファが望むなら知り合いの男爵家の青年を紹介できる」と言っただけで、エーファ自身はまだ答えを出していなかった。
だが、あたかも規定事項のように、エーファはつらつらと顔も知らない青年の美点をあげつらっていく。
「そう、そうか……」
キアランは何故か少し気落ちした声でそう呟いた。
彼は何か考え込むように黙り込んだ後、真っすぐにエーファを見つめ、口を開く。
「エーファは……その人のことが好きなのかい?」
まさかキアランにそんなことを聞かれるとは思わなくて、エーファはひゅっと息をのむ。
(どうして、そんなことを聞くの……!?)
エーファが彼のことを褒めるので、そう勘違いしたのだろうか。
だが、キアランに宣言した通りに件の青年にエスコートを頼めば……そのまま、縁談へと発展する可能性は大いにある。
……そうすれば、きっとキアランへの報われない想いにも蓋をすることができるだろう。
だから、エーファは再び嘘をついた。
「……はい。舞踏会をきっかけに、もっと親密になれたらよいと思っております」
満面の笑みを浮かべて――心の中では泣きながら――エーファはそう口にした。
本当に好きな相手の前で、別の相手への偽りの恋心を口にしなければならない。
……なんて、残酷な罰なのだろう。
(……いいえ、私がしでかしてしまったことに比べれば軽すぎるくらいだわ)
すぐに、エーファは恥じらうように俯いた。
……本当は、曇ってしまう顔を見られたくなかったという理由で。
だから、その時キアランがどんな顔をしていたのかはわからなかった。
結果的に、エーファの社交界デビューはつつがなく済んだ。
エスコートを頼んだ青年はエーファの想像通り――いや、想像以上の好青年だった。
周りもエーファたちのことを応援してくれた。
お似合いの二人だと、誰もが口々にそう言ってくれたのだ。
だが、エーファは舞踏会の最中にもキアランのことばかり気にしてしまっていた。
結局、彼はエーファが予想していたようにどこかの令嬢をエスコートするということはなかった。
だが、舞踏会に参加した多くの令嬢たちはの中には、パートナーもそっちのけでキアランに熱い視線を注いでいる者もいる。
エーファよりもずっと、身分も高く美しい令嬢が、熱っぽい視線でキアランを見つめているのだ。
その光景を見て、エーファはあらためて思い知る。
しょせん自分は井の中の蛙。いくつかの偶然が重なって、共に幼少期を過ごすことができただけの存在。
美しい思い出は心の中の宝石箱に仕舞って、エーファはエーファの現実を生きていかなければ。
幸いにも件の青年はエーファを気に入ってくれているようだ。
家柄も釣り合う、ありふれた縁談。
きっとこのまま彼の妻になるのだと、エーファはぼんやりとそう思っていた。
そう思っていたのだが――。
「……エーファ、残念だが隣の彼とこのまま付き合い続けるのは勧められないな。そこの君、ギャンブルの負け越しに度重なる娼館通い、膨らんだ借金をどうやって返すつもりだい? まさか、エーファに肩代わりさせようなんて考えていないよな?」
キアランは、再びエーファの前に現れた。
それも、件の青年と初めて二人で出かけている最中に。
……エーファが結婚を考えている彼の、致命的な隠し事を暴きながら。
「な、なぜそれを……」
「大切な幼馴染の相手だからね。僕も君のことを良く知りたいと思っただけだよ」
キアランが手にする借用書のとんでもない金額に、エーファは一気に血の気が引いた。
(こんなにも多額の借金を……!? 知らずに結婚していたら、私、大変なことに――)
顔を青ざめさせるエーファに気づかわしげな視線を送りながらも、キアランは青年に詰め寄るのをやめようとしない。
「それで、エーファと結婚しようと思っていたからには返す充てはあるのだろう?」
「そ、それは……」
「娼館の主に『近々貴族の女をここで働かせる宛てがある。いい金になるはずだ』と言っていたそうだね。……いったい、誰のことだったんだい?」
キアランは穏やかに微笑んでいる。
だが、彼から感じるのはまるで底知れない殺気だ。
直に殺気を向けられているわけではないエーファでさえ、身がすくんでしまいそうになるのだ。
エーファの隣に立つ青年など、到底生きた心地がしないであろう。
キアランは静かに青年に近づくと、その耳元で囁いた。
「これ以上――に――することは許さない。――なければ今すぐに消えろ」
青年は小さく悲鳴を上げると、一度もエーファの方へ振り向くことはなく走り去っていった。
(行っちゃった……)
不思議と、悲しみはなかった。
ただ、紹介してくれた両親や応援してくれた周囲にどう説明しようかとか、そんなことばかりが頭をよぎる。
「……済まなかったね、エーファ」
キアランに声をかけられ、エーファははっと我に返る。
「キアラン様……」
こちらを見つめるキアランは、先ほどの恐ろしさは鳴りを潜めいつもと同じく穏やかな表情をしていた。
ただその瞳に確かな心配の色が滲んでいるのに気付いてしまい、エーファは思わずその場に崩れ落ちてしまう。
「エーファ!」
慌てたようにキアランがエーファを抱きとめる。
「大丈夫、大丈夫だよエーファ……。あいつはもういない。二度と君に近づけさせはしない。君が心配することなんて何一つないんだから」
キアランがエーファが恋い慕う相手に娼館に売られかけていたという事実を知って、ショックを受けているのだと思っているようだ。
まったく動揺していないと言われれば嘘になるが、今はそれよりも数年ぶりにキアランに抱きしめられたというこの状況こそが、エーファの心を強く揺さぶっていた。
「……大丈夫、君のことは必ず僕が守ってみせる」
いつかの夜と同じ言葉に、エーファは無意識に頷いていた。
……それが、いけなかったのかもしれない。
キアランはエーファが思っていたよりもよほど苛烈に、エーファのことを守ろうとするようになってしまったのだ。
「多額の借金を抱える方や、何人もの女性を股にかけて殺傷沙汰になりそうな方から助けていただいたのは感謝しております。ですが……今日の方はどう考えてもやりすぎです!」
あれ以来、別々の道を歩むどころかキアランはことごとくエーファの縁談に横やりを入れてくるようになった。
明らかな地雷物件を気づかせてくれたのは有難いのだが、暴漢をけしかけて脅した今日の相手を含め、中にはどう考えてもやりすぎな件も含まれていた。
だが、そう非難するとキアランはむっとした表情になる。
「やりすぎだなんて、そんなことはないさ。ああいった状況で君を守れない男に、君を任せられるわけがないだろう」
「むしろあの状況で守ってくださる方は少ないような気がするのですが」
「僕なら、守れる」
キアランはまっすぐにエーファを見つめ、はっきりとそう告げた。
その言葉に、エーファの感情はかき乱されてしまう。
キアランは決して格好をつけてそう言っているわけではない。
彼は心から、エーファのことを守ろうとしてくれているのだ。
――「心配しないで、エーファ。エーファのことは僕が守ってあげる」
――「うん。狼が来たら、僕がやっつけてあげるからね!」
きっとキアランが同じような状況に陥ったら、決して見捨てることなく守ろうとしてくれるのだろう。
……あの夜と、同じように。
そうわかっているからこそ、エーファも強く言えないのだ。
(駄目よ。キアラン様の言葉を、嬉しいなんて思っては……)
このままではいけない。
ずっと、比べ続けてしまう。
キアランと、キアランではない相手を。
相手がどれだけいい人だったとしても、きっとキアランとの相違点ばかり探してしまうのだ。
それは、よくない。
エーファのためにも……なによりもキアランのためにも。
「……私の邪魔ばかりしていますけど、キアラン様の方はどうなのですか。様々なご令嬢と噂になっているようですが」
「夜会で一言二言話しただけで噂になるんだ。残念ながら噂は噂でしかない。君が望むような話は提供できないな」
名門公爵家の嫡男。見目麗しい美貌。優しさとたくましさを兼ね備えた紳士的な性格――。
まさにキアランは、国中の令嬢が熱を上げる理想的な貴公子だといえるだろう。
だが彼はどんなに美しく高貴な女性や知的で清純な女性にアプローチされても、決して首を縦に振ろうとはしなかった。
「そんなところもストイックで素敵……!」と令嬢たちはますます盛り上がっているが、エーファとしては自分の恋心にとどめを刺すためにも、早くどこかの令嬢と身を固めて欲しい限りだ。
そんな風に、このぬるま湯のような関係は今日まで続いている。
だが、いつまでもこのままではいられないだろう。
キアランだっていつまでも昔の幼馴染の恋路の邪魔ばかりしていないで、自分を慕う令嬢たちの方を見るべきなのだ。
(私の存在がキアラン様の枷になっている……なんていうのは、思い上がりかしら……)
エーファは別に「もしやキアラン様は私のことを好きなの……?」と自惚れるつもりはない。
ただ、彼は優しすぎるだけだ。
きっと彼にとっての自分は、今も「夜の闇と獣の遠吠えが怖いと泣く幼いエーファ」のままなのだろう。
だから、守ろうとしてくれている。
愛とか恋とか、そんなものじゃない。
ただ、ひどく色気のない言い方をすれば……野生の動物の群れのボスが子分を守るようなものなのだ。
だから、この辺りでピリオドを打たなくては。
「……わかりました」
エーファは意を決して、重い口を開く。
エーファが何も言わなければ、きっと二人の関係はもう少し続いていくだろう。
だが、それではいけない。
だから……せめて、彼自身にとどめを刺して欲しかった。
「キアラン様が私のことを心配してくださっているというのはよくわかりました。でしたら、キアラン様に一つお願いがございます」
「お願い……? エーファ、君の願いならなんでも叶えるよ」
キアランはそう言って、嬉しそうに笑ってくれた。
そんな彼に微笑み返し、エーファは本題を告げる。
「キアラン様のお気持ちは有難いのですが、このままでは私は確実に行き遅れてしまいます。ですので、キアラン様がそこまで私のことを心配してくださっているのでしたら……あなたの手で、私の夫となるにふさわしい相手を見つけていただけないでしょうか」
「…………え」
「期限は次のシーズンの始まりを告げる宮廷舞踏会までとします。その場で、あなたのお眼鏡に適う御方を私と引き合わせてください」
「エーファ、何を――」
「もしもそれができないのでしたら……もう二度と、私と関わらないでください」
自分の心にナイフを突き刺すような思いで、エーファはそう告げた。
キアランは信じられないとでもいった表情で、こちらを凝視している。
「キアラン様、私は本気です」
重ねてそう伝えると、キアランはエーファの心中を察してくれたのか、哀しそうに告げた。
「……きっと気が付かない間に、僕は君をひどく傷つけてしまっていたんだね」
そんなことはない! ……と叫びたいのを堪えて、エーファは小さくうなずく。
ここでほだされてしまったら、決して先へは進めないとわかっているから。
「……君の願いはよくわかった。僕も、精一杯善処するよ」
……あぁ、もう後戻りできないところまで来てしまった。
自分で決めたことなのに、エーファは泣きだしたいような気分でいっぱいだった。
「次の宮廷舞踏会を、楽しみにしていてくれ」
キアランは重々しくそう告げた。
エーファもその言葉にしっかりと頷いてみせる。
……長い長い初恋に、終わりを告げる日がやってくるのだ。
それから宮廷舞踏会までの間、エーファは今までのように必死に縁談にしがみつくこともなく、ただ漫然と過ごしていた。
そうしていると、以前のようにキアランの横やりが入ってくることもない。
……というよりも、キアランとの接点自体がなくなるのだ。
(そうね、これが正しい形だったのよ)
キアランは国内でも指折りの名門公爵家の跡取りである。
普通ならたかが昔なじみの貧乏貴族の娘などに、構っている暇はないのだ。
(キアラン様、どうなさるのかしら……)
彼はエーファの望んだとおりに、どこぞの貴公子を連れてくるのだろうか。
それとも、たかが男爵令嬢ごときが公爵家の口利きを望むなど厚かましいと、腹を立てているかもしれない。
(それなら、それでいいか)
キアランが縁談相手を連れてこられなかった時は、約束通り二度と彼はエーファの前に姿を現すことはない。
エーファは誰に邪魔されることもなく、婚活を続けることができる。
辛抱強く続けていれば、一人くらいはエーファを気に入ってくれる人もいるかもしれない。
もしもキアランが「彼こそが君にぴったりだ!」とどこぞの貴公子を連れてきた場合は……。
(いや、相手の方がお可哀そうじゃない?)
キアランと交友のある者と言えば、当然高位貴族の貴公子が多くなる。
そんな彼らからしたら、何のとりえもない貧乏貴族の娘など、まさに貧乏くじを引かされたも同然だ。
(うわぁ、どうしよう……)
エーファは今になってとんでもないことを言ってしまったものだと、後悔し始めていた。
もしもキアランが可哀そうな犠牲者を連れてきてしまったら、こっそり事情を話して穏便に破談にしてもらおう。
エーファは固く心に誓った。
(でも、どちらにしても……その時は、キアラン様への想いを断ち切らなければ)
報われない恋心は胸の奥底に仕舞い込んで、新たな道を歩み出すのだ。
もうキアランに口出しはさせない。
エーファはエーファの人生を歩んでいくのだから。
(……さようなら、キアラン様)
本当なら、出会うべきではなかった人。
永遠に輝き続ける、エーファの初恋の君。
◇◇◇
約束の宮廷舞踏会の日。万が一キアランが哀れな貴公子を連れてきてしまった場合に備えて、エーファは大枚をはたいて一級品のドレスをレンタルした。
周りの令嬢からは貧乏貴族の娘がみっともない見栄っ張りを……という視線をちくちく感じたが、エーファはあえて気づかない振りをしていた。
今日は、きっとキアランと向かい合う最後の日にもなるのだ。
……本音を言えば、少しでも綺麗な姿でいたい。エーファのせめてもの矜持である。
宮廷舞踏会の会場である王宮の大広間は、多くの貴族たちがひしめいていた。
この場で堂々とキアランと接触しては、さすがに目立ちすぎる。
「あの悪女がついにキアラン様にまで毒牙を……! 許せないわ!」……なんて大勢の令嬢たちを敵に回すのも恐ろしい。
というわけで、キアランと落ち合うのはひとけのない庭園の一角と決めていた。
エーファはさりげなく会場を抜け出し、薄暗い庭園へと足を踏み入れる。
約束のベンチに腰掛け、エーファは小さくため息をついた。
(ここは静かね……)
会場から離れているこの場所は、舞踏会の華やかな空気とは違い静謐な雰囲気に満ちている。
こうしていると、思い出すのはあの幼き日の出来事だ。
二人で身を寄せ合って一夜を過ごした。
内気で、弱虫だと思っていた幼馴染が、とても頼もしく思えたあの日。
叶うはずのない初恋が芽生えてしまった日。
散々やらかした自分が言うのもなんだが……今となっては、かけがえのない美しい思い出だ。
なんて物思いに浸っていると、背後から足音が聞こえた。
振り返ると、案の定そこに立っていたのはキアランだった。
「エーファ……」
いつもより格式の高い礼服を身に着けたキアランは、まさに名門公爵家の令息の名に恥じない立派ないでたちだった。
だが、彼は一人だった。
(あぁ、やっぱりそうなのね……)
やはり彼は、エーファのような貧乏くじの娘に自分の友人や知人を紹介はできなかったのだろう。
――「もしもそれができないのでしたら……もう二度と、私と関わらないでください」
本当に、エーファのキアランの関係はここで終わるのだ。
自分から言い出したことなのに、胸が痛くてたまらない。
気を抜けば涙が出そうになるのをなんとか堪えて、エーファは立ち上がりキアランと向かい合う。
そして、心の内を悟られないように気丈に振舞ってみせた。
「ごきげんよう、キアラン様。お一人でいらっしゃったということは、私の相手となる御方を見つけられなかったのですね」
キアランとエーファの間には少し距離がある。
辺りが暗いのも相まって、キアランの表情は窺えなかった。
「では約束通り、今後は決して私に関わらないと――」
「いや、違う」
割って入ってきたキアランの力強い声に、エーファはびくりと身を竦ませた。
キアランが一歩足を踏み出し、こちらへ距離を詰めてくる。
(あ……)
ちょうど月が雲間から顔を出し、彼の顔がはっきりと見える。
キアランは今までに見たこともないほど真剣な表情をしていた。
真摯な瞳に見つめられ、否応なしに鼓動が高鳴ってしまう。
「君の相手は見つかった」
「何をおっしゃるのですか。あなたの他には誰も――」
「僕だ」
急にキアランに手を取られ、エーファは動揺のあまり小さく悲鳴を上げてしまう。
キアランはそのまま足元に跪くと、エーファの手の甲に口付けて告げる。
「エーファ・ラベイン……君に、結婚を申し込みたい」
「え………………え?」
予想もしなかった言葉に、エーファは頭が真っ白になってしまう。
だが数秒かけて、事態を理解したエーファは真っ青になった。
(私は、キアラン様のお人よりっぷりを甘く見ていたんだわ……!)
彼はエーファのような微妙な人間に紹介できるような相手はいなかった。
だが、このままだとエーファが傷ついてしまうとでも思ったのだろう。
だから彼は、自分が犠牲になろうとしているのだ……!
そうだ、そうに決まっている!
(あの時と、同じなのね……)
遠くまで探検しようと言い出したのは、危険な崖に足を踏み入れ落ちたのはエーファの方だったのに。
彼はエーファを庇ってくれた。自分が犠牲になってくれた。
……立派に成長したのに、そんなところは何も変わらない。
だが、エーファは変わったのだ。
もう二度と、キアランを犠牲になんてさせはしないのだから……!
「……やめてください」
必死に絞り出した声は、みっともないほど震えていた。
「同情なんていりません。私に見合う方が用意できなかったのなら、それでいいのです。もう二度と、私に関わらなければ――」
「違う」
強い意志を秘めた声で、キアランはエーファの言葉を否定した。
息をのむエーファを真っすぐに見つめ、彼はゆっくりと口を開く。
「決して同情なんかじゃない。君に見合うだろう候補もたくさんいた。だが……僕が、嫌だったんだ」
握られた手が熱い。
果たして熱を持っているのはエーファの方なのか、それともキアランの方なのか。
「君を誰かに渡すことを考えただけで、はらわたが煮えくり返りそうになるんだ。今までは君のためだという名目で、自分の気持ちに蓋をしてきた。でも……もう、嘘はつけない。つきたくもない」
キアランの澄んだ瞳が真っすぐにこちらを見つめている。
子ども頃から変わらない、美しい瞳が――。
「君が好きだ」
嘘偽りのない声で、キアランはそう告げた。
その言葉は、エーファのちっぽけなプライドを、虚勢を粉々に壊してしまうほどの威力を持っていた。
そんなことを言われたら、思いが溢れてしまう。
……もう、嘘がつけなくなってしまう。
「なんで、なんでそんなこと言うの……」
「エーファ……」
「私、ずっと我慢してたのに。あなたのこと諦めなきゃって、ずっと言い聞かせてたのに……!」
隠していた本音がぽろぽろと零れていく。
そんなエーファを見て、キアランは優しく笑った。
「諦めなくていい。……いや、諦められたら困る。僕は、絶対に君を諦めるつもりなんてないんだから」
「だって、おかしいじゃない……。キアラン様はかっこよくて、頭も良くて、偉い公爵家の跡取りで……私なんて、何もないのに」
「そんなことはない」
キアランは立ち上がり、そっとエーファを抱きしめた。
「君と初めて出会った頃、僕は弱虫で、意気地なしで、自分のことが大嫌いだった。でも、そんな僕に君が新しい世界を教えてくれた」
初めてキアランと出会った日のことを、エーファはよく覚えている。
――「初めまして、キアラン! 一緒に遊びましょう?」
室内で大人しく本を読んでいた彼の手を取って、エーファは初めて訪れた公爵邸の探検に出かけたのだ。
こっそりと使用人用の通路を通ってみたり、著名な彫刻にリボンを飾り付けてみたり、勢い余って庭の池に落ちそうになったり……。
公爵家の者たちは、なんて躾のなっていない子だと呆れたことだろう。
思い出しただけで顔から火が出そうになるような、恥ずかしい思い出だ。
「君と一緒にいると、見慣れた景色でも輝いて見えた。味気ないお菓子があんなに美味しいことを初めて知った。知識だけではわからなかった、色々なことを体験することができた」
キアランの言葉に、エーファは涙が零れそうになってしまう。
あの幼き日の思い出を宝物のように大事にしていたのは、エーファだけではなかったのだ。
「エーファ、自分を否定するのはやめてくれ。初めて会った時からずっと、僕にとっての君は世界一素敵な女の子だよ」
ついに、こらえきれずにぽろりと涙がこぼれ落ちてしまった。
それと同時に、隠していた本音も。
「私も好き……」
そう呟いた途端、エーファを抱きしめる力が強くなる。
エーファも観念して、そっと彼の背に腕を回した。
今だけは、余計なことは何も考えずに……ただこうしていたかった。
「あの、キアラン様……本当にいいのでしょうか……」
「問題はないよ。僕の両親と君の両親、それに陛下にも報告しないとね」
「あわわわわ……」
二人で寄り添って、会場へと戻る扉の前へ立つ。
キアランはエーファへ求婚し、エーファはその想いを受け入れた。
だが、それで終わったわけじゃない。
二人の結婚を、周囲に認めてもらわなければならないのだから。
(キアラン様のご両親は……反対するに決まってるわ。私の両親も同じ。陛下だって私みたいなどこぞの馬の骨が公爵夫人になるなんて認めないだろうし、キアラン様のファンクラブには暗殺者でも仕向けられるかも……)
考えれば考えるほど、不安なことばかりだ。
(本当に、大変なことになってしまった……!)
だが、それでも……もう彼の想いを知ってしまったからには。
すぐ傍のぬくもりを、手放すことなんてできないから。
「心配?」
足がすくむエーファに、キアランが気遣わしげに声をかけてくる。
「だって……やっぱり、傍から見たら私とキアラン様なんて釣り合うわけがない月とすっぽんですよ。あっ、もちろんすっぽんは私の方で」
動揺してよくわからないことをのたまうエーファに、キアランはくすりと笑う。
そして、しっかりとエーファの手を握ってくれた。
「大丈夫。誰が何を言っても、どんなことがあっても……君のことは絶対に、僕が守るから」
まるで劇の口上のような、ある意味陳腐にも聞こえる言葉なのに……。
不思議と、彼が口にするのなら本物になってしまう。
キアランは幼い頃から変わらない。ずっと真っすぐな、エーファの大好きなキアランのままだ。
だったらエーファも、彼が好きになってくれた「世界一素敵な女の子」でありたいと願おう。
「…………はい」
しっかりと手を握り返し、エーファは大好きな幼馴染と共に新たな一歩を踏み出した。
お読みいただきありがとうございます!
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普段はいろいろ長編小説を書いておりますので、よろしければそちらも是非どうぞ!