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楽園より出づ

作者: 柏望

書き方を変えてみた部分があります。ご意見募集しております。

「狸はどうして毎年同じ罠にかかるんですか」

「なんでだろうな。俺とルネ。野郎二人のお腹が膨れるからありがたいと思うが、不思議だよな」

 高校への進学祝いで、友だちの拓海に一つお願いを叶えてもらった。

 狸をこっそり食べさせてもらった。猪や熊は猟友会の人たちに分けてもらったのを食べたことがあるけれど、狸を食べたことはまだなかったから。

 山に入った拓海が捕まえた狸は冬に備えてまるまる太っていて、持ってきた鍋から余るんじゃないかという程に肉がとれた。

 味はそんなに美味しくなかった。と思う。

 もっと正直に言えば、時間との勝負だったから食べたということしか覚えていられなかった。それでも、二人で遊べたから楽しかった。

 野生の生き物だからしっかり火を通さないと食べられないのに、狸は食べちゃいけないから証拠を隠さなきゃいけない。

山の日没は早いから、肉を捌いてもらう間にぼくが他の準備を全部して。火が通ったら急いで食べて。慌てて片づけて。転げ落ちないくらいに急いで村に帰った。

「なんで食べた後に走るとお腹が痛くなるんですか」

「お腹がぐるぐるしてるからかな。イテテテテテ」

 ぼくは産まれた場所しか知らなかった。だから、気になったことは村の外から来た拓海へと無邪気に全部尋ねていた。

 遠くの町から来た男は、村にいるぼくたちじゃ思いもつかなかったことを知っているし考えていると思ったからだ。

「どうして狸を食べちゃいけないんでしょうね」

「熊や猪だって許可とれば食えるんだけどな。狸だけ食べられないのは勿体ないと俺も思う」

「鶏はたまに絞めて食べますから。今度は捕まえた後にちょっとだけ飼ってから食べます」

「狸小屋今度作ろうな」

 答えは得られなかったけれど、拓海は一緒に悩んでくれた。

 拓海が来るまでに抱いた疑問は村の人たちにはあしらわれたり。わからないで済まされていたから。同じことを二人で考えてくれるだけで嬉しかった。

 日に焼けた浅黒い肌は同じなのに。青い瞳はこの村ではお互いしか持っていないのに。兄弟というよりは友だちに見えるのに。一緒に過ごしてくれた彼は村の誰より大人に見えた。

 高校に上がるために、ぼくは村を離れて東京に行く。たくさん勉強をして、大学に入って、村を元気にする方法を考えられるようになるのだ。

 村長さんを、村のみんなを、支えられるように期待を背負って村の外に行く。

 将来の姿は、拓海がぼくにしてくれたことを、村のみんなにもできるようになることだと思ったから聞いた。

 どうやったら拓海みたいになれるのか。

 いつもどおりの口を大きく開けた笑顔が。その問いだけには、はっきりと答えてくれた。

「いい男は秘密を抱えてなきゃな」


 上京してからの生活は凄かったし、大変だった。

 楽しいことだって目いっぱいあって。友だちと映画を観にいったり、下宿先の先輩に色々なおつまみの作り方を教わった。

 春が来ればぼくにも後輩ができるから。目標を立ててもう少し頼りがいのある人になろうと決めた。

 頼りがいのある男はきっといい男で。いい男は秘密を抱えている。なのでぼくも何か秘密を持ってみようと思った。

 通学路からだいぶ外れたところにある喫茶店。たまたま見つけて。なんとなく入った。ドラマで見たそのままそっくりの古そうなお店。

 秘密を持つなら。こういう場所で持ちたいと思ったから毎週こっそり通うと決めた。

「おまたせしました。ブレンドコーヒーです」

 綺麗な木目をしている茶色いカウンター。その上には一つの染みも見当たらない程に磨かれたソーサ―とカップがあって。ほんのりと立ち昇る湯気の根元には、ぼくが頼んだブレンドコーヒーが注がれていた。

 暖かいカップを手に取って口元へ運ぶと、鼻に運ばれてくる苦い香りに思わず目を瞑ってしまう。雑誌に書いてあったみたいに香ばしい匂いだとはまだ思えなかった。

 大人は本当にコーヒーを楽しんで飲んでいるんだろうか。やっぱり気になってしまったから。周りにいるお客さんの様子を気づかれないように見回した。

 分厚い本をゆっくりと読んでいる人。手帳に何かを書き込みながら難しい顔をしている人。たばこを燻らせながら、ずっと窓の外を見ている人。

 みんな。とても複雑なことを考えているんだと思う。そして、彼らの手元には必ず一杯のコーヒーがあった。

 学校にいる先生や職員の方たち。アルバイトや下宿先でお世話になっている先輩たち。故郷から送り出してくれた皆さん。

 ぼくが知っている人たちとはまた一味違う大人の姿だった。

 もしもコーヒーが飲めるようになったのなら。ただの真似事かもしれないけれど。万華鏡のように複雑な大人を少しでも知ることができると思ったから。

 意を決してカップを傾ける。温かい苦みが唇に触れようかというときに、ルネちゃんルネちゃんと小さく呼び止められた。

 城音さんという、このお店のアルバイトをしている女の人だ。いつも一歩遅れがちなぼくに合わせて、のんびり接客をしてくれる優しい人だ。

 ぼくが今飲もうとしているコーヒーもこの人が淹れてくれている。

 トントン。と小さく音がして。城音さんの指先を見てみれば、いつの間にかミルクと砂糖が入った小瓶を出してくれていたみたいだ。

 色づいた秋の葉のような瞳に自分が映っている。自分では緊張していると思っているのに、城音さんが見ている自分はなんだかボーっと映っていて。

 やっぱり。今のままだとよくないんだろうなと思った。

「ミルクかお砂糖。入れてみてもいいんじゃない」

 城音さんが耳打ちをしてくれた。少しだけ迷ったけれど、そっと首を横に振る。飲めるようになりたいのは、そのままのブラックコーヒーだからだ。

 ミルクが入っていない黒いコーヒー。なぜだか親近感を感じるのは、早朝からの農作業で、ぼくの肌が日に焼けていて黒いからだろうか。

 そういう話をしたからこの店のマスターにも挑戦を許して貰っているので。

 グイっと。

 唇を開いた。


 舌がビリビリする。鼻の奥から喉の奥までじんじんくる。今、口の中で広がっているのは苦みなんだとわかると一気に涙が出そうになって。咽そうになったのをなんとか抑えて静かにソーサーにカップを戻した。

 はずなのに。

 カタリと小さく音を立ててしまった。


「いただきまーす」

「いただきます」

 ぼくが今いる喫茶店。パーラーISOは夕方のほんの少しの間、喫茶店からバーへ入れ替わるために一度閉店して席をガラリと空ける。

 喫茶店を営業している間の掃除とバーの開店作業を手伝うことになっていて。片づけをしながら城音さんとお話をしている間、ぼくはお客さんから高校生に戻れた。

「うーん。冷めかけでも美味しい」

「紅茶も。ほっとします」

 ぼくは頼み直した紅茶を。城音さんは捨てるのも勿体ないので飲んでもらうことにしたコーヒーを。美味しく頂いている。

 紅茶とコーヒー。

 どちらも茶色くて。苦くて。渋味があって。他の飲み物にない香りがして。たくさんの人を引き付けている。

 けれど、ぼくにはどうしてもその片方が飲めなかった。

「そういえばさ。このお店にこっそり通ってるの、バレちゃったりした」

 カップを置いて首を横に振ると、城音さんは意外そうに目を開いた。

 ぼくは思っていることが顔に出てしまうから。毎週喫茶店に出入りしていることなんて、友だちや下宿先の先輩にすぐ気づかれてしまうだろう。

 自分でも思ったけれど。

「嘘をつかないようにしているから、隠し事なんてないと思われてるみたいです」

「うーん。ルネちゃんらしい」

「いい男には秘密があるって教わったけれど。あると思われてすらいないのは、何かが違うんじゃないかと思います」

 本当に秘密になっていることは存在していることすら気づかれないのだ。と今になって気づいた。

 秘密を抱えているんだと思われたいけれど。持っているとすら思われないのはちょっと目標と違うんじゃないかと思う。

 だからって。秘密があります。探してください。とふるまうのもぼくが知っているいい男のやることだとは思えなかった。

 城音さんはカップを置いて楽し気に首を捻って考えていた。秘密の話は城音さんにとっても興味深い話題なのかもしれない。

「いい男ねー。いつかなれるとは思うけど、そんなになりたい」

「ぼく。お陰さまで進級が決まりました。支えてくれた人たちみたいに、ぼくも後輩を支えられるようになりたいから」

 初めて東京に来て。そのまま高校生活が始まって。下宿先で色んなことがあって。歩いているだけでも何もかもが違っているようで。

 義務教育をたった一席しかない教室で終わらせてきたから、毎日何事もないように過ごすだけでも大変だった。同い年の子がたくさんいるだけでも目が回るようだった。

 みんなが普通だと思っている進級を、当たり前のように許された。みんなが迷い続けていたぼくを目一杯助けてくれたからで。

 ぼくを支えてくれたみんなのようにぼくもなりたい。

「立派だねえ」

「みんな。すごい人たち。です。だから少しでも大人になって、ぼくが後輩たちを支えられるようになってみたいです」

 もちろん城音さんだってそうだ。

 お客さんを迎えて。コーヒーやお茶を淹れて。ご飯やデザートを作って。間違いなくテーブルまで届けて。お会計をする。 

 このお店のお客さんは不思議な大人ばかりだ。ぼくはいるだけでもドキドキするのに、お店の仕事もこなしてしまえるのだ。

 城音さんだって、この店のすごい大人だ。でも、それを伝えるのが遅すぎたみたいで。

「そうかー。きみの周りの人間はそんなに凄いのか」

 難しい顔で考え込んでしまった城音さんがいた。

 いつものんびりしていて。ふにゃりとした笑顔の城音さんがそんな顔をしているのは初めてで。

 何を言えばいいのか慌てて考えているうちに、城音さんはゆるりと口を開いた。

 あれだけ眉を寄せて悩んでいるように見えたのが嘘だったかのように。なんてことのないように。

「じゃ、なってみようか。大人」


 休みの日は下宿先の先輩のお仕事を手伝うことが多い。友だちと出かけたり、学校の課題を進めることも多かった。

 けれど今日は違う。城音さんの故郷に連れて行ってもらう。

 改札で出会った城音さんはカフェのエプロンを着けていなくて、ぼくは制服を着ていない。

 お互いがお互いの知らない「いつも通り」の姿で。いつもとは違う服を見たからなのか、見られたからなのか、少しだけ恥ずかしい気持ちだった。

 切符を買って広々としたソファみたいな座席に座って、列車は村へ向かう方面とは別の方向へと進んでいく。

 数十分もしないうちにまったく知らない景色が窓いっぱいに広がって。ガラス越しに映る自分まで初めて見るように新鮮に見えた。

 椅子に備え付けてある雑誌を読んだり。駅弁を頼んでみたり。村を出る時も特急列車に乗ってはいたけれど、だからこそ落ちついて電車での旅を楽しめるようになっていた。

 他のお客さんの迷惑にならないように。だけど、二人で静かにはしゃいで。あっという間に通り過ぎていく景色に驚いて。頼んだ駅弁の味比べをしたりする。

 それでもぽつぽつと口数は減っていって、二人で景色を眺めているだけになる。

 そうやって一駅を通り過ぎた頃に、城音さんが窓の外を眺めながらぽつりと呟いた。

「やっぱり。儀式って必要だと思うんだ。二十歳になればいきなり大人です。ってのも味気ないと思うんだよねえ」

 成人式という立派なお祭りがあると思ったけれど、城音さんにとっては違うらしい。

 町にいる同い年のみんなが集まるのだから、卒業式よりもずっと何倍も大きな式になるはずで。

 それはきっと。と続けようとしたけれど、ビールの炭酸が弾ける音にびっくりして止めてしまった。

「違うんだなぁ。大人って楽しいことだけしてなれる。わけじゃないんだなぁ」

 銀色の缶をグイっと天井に向けた城音さんに、お世話になっている下宿先の先輩の姿が重なる。

 朝になればもう二度と呑まないと床で苦しみながら起きるときの飲み方だったから。

 「苦しい思いをしなければ、大人にはなれないんですか」

 お酒で辛いことや悲しいことがあるとお酒を口へ運んでしまう。大人でないとできないことの一つでは、確かにあった。 

 けれども、それができるようにならないと大人になれないのか。お酒は飲めない人はたばこに。たばこが吸えない人は女の人や賭け事に。もっと別の何かに。

 拓海もぼくもいつかそうなってしまうのだろうかと思うと、チクリと胸が痛んだ気がした。

 ポン。と銀色の小袋が弾ける音がする。城音さんの何個目かのおつまみが危うく席中に広げられるところだったらしい。

 ぺりぺりと音を立てながら丁寧に袋を開く城音さんの声は少しだけ沈んでいる。

「嫌なことは乗り越えられないようにしないとダメかな。大人ってやること、いっぱいあるしね」


 電車を乗り継ぎ、バスも使って、降りた先はまったく見たことのない景色の広がっている場所だった。

 ぼくが初めて東京に来た時を思い出す。風の匂いが村と違う。村は山から運ばれてきた匂い。東京はコンクリートと油の匂い。

 ここは、ぼくが知っている土とは違うまた別の自然の香りがする。ほんの少しだけ川の匂いに近いけど、もっとツンとくる匂いだ。

「んー。磯臭い」

 思い切り背伸びをした城音さんが呟いているのが聞こえる。そうか。これが海の匂いなのか。

 バス停から海までの十数キロメートル。そんなに長い距離ではないけれど。初めて立った、見ず知らずの場所を歩くのはぼくの思い浮かべていた旅の姿だった。

「よーし。走るよ。マラソンだー」

 大声を張り上げたかと思うと、城音さんの姿が走りだした。

 店の中をスイスイ進む城音さんは、道路も滑るように進んでいく。慌てているうちにどんどん向こう側に行ってしまうので、ぼくも駆け出した。

 たくさん入っているわけではなかったけれど、鞄の中身が上に下に揺れて身体が引っ張られる。

 嫌いではないけれど、ぼくは走るのが苦手だった。マラソンに瞬発力はあんまり必要ないから、なんとかなると思っていたけれど。荷物を抱えて走ってみると大変さは段違いだった。

 鼻から吸って口から吐こう。だんだんゼエゼエと息が乱れてきた。

 走る姿勢はまっすぐ保とう。揺れる荷物の重さで少しずつ身体が揺れてきた。

 腕をしっかり振って、足を動かそう。どちらの動きもちぐはぐになってきた。

 教科書や、体育の先生に教わったことを思い出しながら一生懸命走り続けた。

 どれだけ走ったんだろう。耳いっぱいに響いている音は心臓の音なのか。足音なのか。わからなくなってきている。

 そういえば、城音さんはどこまで行ったんだろう。もうずっと遠い所まで行っていて、ひょっとしたら海までついてしまったのかもしれない。

 一回止まって確かめてみようと思ったら、背後からか細い声が聞こえた。

「まっ。待って。ちょ、ちょっと休憩した。したい」

 振り向くと、ずいぶん遠くのところで地面に座り込んでいる城音さんが映った。

 夢中で走っているうちに置いて行ってしまったみたいで、慌てて戻って鞄の中の水を渡した。

「運動って苦手なんじゃなかったっけ。私も体力に自信あったけど、やっぱり男の子とは。お水ありがとう」

 タオルを渡したり。近くの自販機までジュースを買いに行ったり。しばらく城音さんのお世話をしているうちに、ぼくもだいぶ落ちついてきた。

 どのくらい走ったのか二人で調べていると、すっと城音さんが立ち上がって喋り始めた。

「ルネちゃんは運動が得意です。大得意です。苦手は思い込みでした」

 いいね。と言われたから。はい。と答えてしまった。

 考えてみればそうかもしれない。

 授業や身体を使う時にぼくは置いていかれたことはない。苦手だと思っていたけれど、できないわけじゃなかったんだ。


 城音さんと海へ向かってどんどん足を運んでいけば。バス停を降りた時に感じた匂いもどんどん強くなっていくのを感じる。

 風の勢いも強くなっている。これが海風というものなら、耳を澄ませば波の音も聞こえるのだろうか。

 海に来たことがないので、わからないけれど。

「ここでストーップ」

 城音さんの号令がかかった。

 さっきまで肩で息をしていたのが嘘みたいにもう元気になっていて。何か面白いことを思いついたようだった。

「ルネちゃんに苦手なものはあるかな。いい子だからそんなにないと思うけど」

 そっと首を縦に振る。東京に来てから目に入る食材の数が増えた。教えてもらって作れる料理の種類もものすごく増えた。

 お酒みたいに飲んだり食べたりできないものはあるけれど。食べたくないものは見つからなかった。

 知ってもらおうと思って見た城音さんの瞳は、少し先にある赤い暖簾に向けられていて。

「あそこに見えるラーメン屋さん。すっごく不味いんだ。奢ってあげる。全部食べてね」

 

「おじさん。チャーシュー麺二つお願い」

「本当にチャーシュー麺でいいんだね。まぁいいよ」

 ラーメン屋さんなのに、ラーメンを頼まれて驚いていた様子だったのはなんでだろう。

 案内されたお店は、灯りがついているのに中が暗い。床がぬるぬるして転ぶんじゃないかと心配にもなった。

 座ると金属が擦れるような音を出す椅子に座って、自分で注いだお冷を飲もうとしたら城音さんにそっと止められた。

 「ここの人気メニューはね。チャーシューチャーハンなんだ」

 ほんわかした城音さんの小声が、ほんの少しだけ震えているように聞こえた。

 二十分くらい待っているとチャーシュー麺が届く。見た目は、思ったより普通だ。

 ぼくの下宿でも作れそうなよく見るラーメン。ほうれん草。ノリ。ナルト。メンマ。チャーシューは分厚くて、クラスのみんなで食べに行ったら盛り上がるだろうなと思う。

 なぜだか油ぎっているレンゲとお箸を手に取って。いただきます。

 スープが温いかなと思ったけれど、そんなことは口に入った瞬間すぐ忘れた。

 なんでかスープが粘ついている。ぐにゃぐにゃした麺から初めて出会った匂いがする。噛んでも噛んでも麺が他の味と混ざらない。

 どれだけ噛んでも呑み込める気がしない。丸呑みしようとしても喉に通らない。

 不思議だ。ナルトまでとても不思議な味をしている。これを例えるなら。

「やっぱり。不味いね」

 どこか懐かしむような口調だったけれど。脂汗が顔中に浮かんでいる城音さんの表情と釣り合ってなかったのが少しだけ面白かった。

 城音さんがどれくらい食べ進んでいるのか気になったから。丼の中身をバレないように覗いてみる。

 箸を付けた時間は同じくらいなのに、城音さんはだいぶ食べ進んでいる。

 もしかしたら。城音さんを観察することで、このラーメンを美味しく食べる方法がわかるかもしれない。

 真似をしてみたら一気に食べ進めることができて、気づいたら城音さんにお会計をしてもらっていた。


「ごちそうさまです」

「どうだった。不味かったでしょ」

「あんまりよくわかりませんでした」

 作ってくれた亭主さん。連れてきてくれて、お金を出してくれた城音さん。ラーメンの材料を作ってくれたり、運んでくれたたくさんの人。

 一杯のラーメンに関わった人たちのために、ぼくは精一杯全部食べた。食べるのに夢中で味わう余裕はあまりなかった。

 ご馳走してもらったご飯に、それしか言えなかったのはとても悲しい。

「美味しくなかったけどね。この町のラーメン屋さんはここだけなの。だから、お店のラーメンが食べたくなったら来るしかなかったんだ」

 そう呟くと、城音さんは口直しに自販機で買った炭酸水を一気飲みして歩きだした。

 美味しくないと言っていたのに、炭酸水を飲む前から表情はとてもすっきりしていて。

「東京はね。美味しいラーメン屋さんがたっくさんあったんだ。もうあんなとこ二度と行かなくていいんだって思ったし。戻ってきても食べに行くつもりなんかなかった」

 電車の中では美味しいものを食べて、楽しいことをいっぱいやった。

 バスを降りてからはいきなり走ったり。食べ慣れないものを一生懸命食べたり。唐突に色々なことが始まった。

 今になってやっと、城音さんにとってもチャレンジだったんじゃないかと気づく。

「でも来ちゃった。東京でも不味いご飯をいっぱい食べたし。ひょっとしたらその中の何個かよりマシかもって。入っちゃった」

「どうでしたか」

「ここのご飯がいちばん。とびっきり美味しくなかった。もう来なくていいやって思ったから来てよかった」

 不思議な話だけれど、ほんの少しだけわかったような気がする。

 コーヒーを何度も飲んでいるけれど、相変わらず「美味しさ」はまだわからない。それでも、また来週はブラックコーヒーを頼むだろうから。

「嫌なことは嫌なままかもしれないけど。それでも、やってよかったこともあるかもしれないね」

 波の音が微かに聞こえてきた辺り。あの坂を越えると、海が見えるんだよと教わった辺りで城音さんが急に立ち止まった。

「ごめんね、海はまた行こう。ついてきて欲しいところがあるんだ」

 

 黙ってついて行った先は城音さんの名前とは違う誰かのお墓だった。

 誰のお墓なのか、とか。本当は今日はバイトだったんですか、とか。色々聞きたかったけれど。ぼくは黙って城音さんを待つことにした。

 いい男には秘密がある。拓海はそう言っていた。

 秘密を守れるのがいい男なら、ぼくは城音さんの秘密を守りたかった。


  パーラーISO。ぼくが産まれる前からある飲食店だ。夕方までは喫茶店、夜になったらバーを開くちょっと忙しいお店。戦後間もなくから始まって、今も開店当時の姿を保っている老舗だ。

 店先に立つと、いつもコーヒーのいい香りがして。誘われるように入ってしまう時がある。

 落ちついた色合いをした木造りの椅子や机、カウンター。店内はゆったりとしたクラシックが静かに流れていて、僅かに聞こえる話し声の中にぼくたちの声が交ざっている。

「ルネがこういう店の常連さんになってるなんてな」

「ないしょです。学校帰りに来るのは校則違反ですから」

「わかった。二人の秘密にしようぜ」

 笑いながら唇に人差し指をあてる拓海はとても楽しそうだった。ぼくも楽しいから気持ちがよくわかった。

 この店を知っているのはぼくたち二人だけ。

 同じ秘密を隠し持つことの喜びは、新しく何かを見つけたとか。お手伝いをして褒められたとか。今まで感じてきた楽しみとはまったく違う、ゾクゾクするような感じだった。

 これは楽しい。誰かに知って欲しい。いい男は秘密を持っていると拓海は言っていたけれど、確かにそう思う。話さずにずっと心の中にしまっておきたいけるのは、きっとすごいことだと感じたから。

「おまたせしました。セイロンです」

 城音さんが最初に出してきたのはぼくが頼んだセイロンティーだった。

 拓海と一緒にコーヒーを頼もうと思ったけど、今日は最初から紅茶を頼むことにしている。コーヒーが飲めなかったときの顔を見られるのは少しだけ恥ずかしいと思ったから。

 紅茶の薫り高く、不思議とどこか甘いような匂いがぼくたちの鼻に届く。華やかで落ちついた匂いが今日はなんだか一段としみるように感じる。

 コーヒーのどっしりとした感じよりは、紅茶の繊細な香りの方が好みなのだろうなと思った。

 カップを眺めるのに夢中になっていたら、拓海のコーヒーがまだ来ていないことを忘れていたのに気づく。

 どうしようか聞こうと思ったら、拓海がお先にどうぞと目配せしてくれた。香りがいいうちに頂いてしまおう。

 波しぶきのような装飾がしてあるカップの中を覗くと、鮮やかに澄んだ色の紅が見える。人肌くらいに温まっている陶器にはどこか柔らかな感触があった。

 カップは口元に近づくほど徐々に香りが強くなっていき、喉を通り過ぎる頃には口の中いっぱいが華やかになった。

「美味しそうに飲む」

「そんなに違いますか」

「二人で麦茶をがぶ飲みしてたのを思い出してさ。やかんドバ出し麦茶も美味かったけど、やっぱり違うものか」

 村にいた頃はやかんで出した麦茶が二人で楽しむものだった。さっぱりした後味。コーヒーとも紅茶とも違う香ばしい香り。ぼくにとっては慣れ親しんだ味なのもあって、今飲んでも美味しく楽しめると思う。

 でも紅茶はやっぱり違うものだ。種類もたくさんあって、香りは淹れ方でもっと違いがあって。同じ茶葉でも楽しみ方がいっぱいあるのだということを拓海に知ってもらいたい。

「そんなに紅茶って奥深いのか。勉強になる」

「いつか。紅茶を飲みながらのんびりしましょう」

 ミルクを入れるのか入れないのか。ブレンドかシングルエステートか。お茶請けは何を用意しようか。

 いつにしようか決めるのも忘れて、そんなことを考えてしまった。

「ルネも随分お洒落になったなぁ」

「お洋服は、バイト先の先輩方に選んでもらってます」

「服だけじゃない。そうやって紅茶の楽しみ方を知ってるのがお洒落だと思う。ちょっと羨ましくなってきた。どうやって勉強したんだ」

 お洒落。という言葉を拓海にかけてもらったのは今が初めてだった。羨ましいと言われたことも。少し恥ずかしいけれど嬉しかった。

 

「おまたせしました。ブラジルです」

 ありがとうございます。と言って拓海はテーブルの上のカウンターに目を移した。

 ブレンドじゃなくて、ちょっとだけ高いブラジルの豆を頼んだのが拓海なりのこだわりを感じる。

 苦味。渋味。エグみ。今のぼくには香りとかコクとかのコーヒーの美味しい部分が全部塗りつぶされているように感じてしまう。

 拓海はいったいどんな味わいを感じているのか。飲み終わったら聞いてみようと思った。

 チラリと器を見た拓海は、そのままグッとコーヒーを口に含む。

 口と瞳をぴったりと閉じて小さく頷くと、カップをソーサーに戻してしばらくコーヒーの余韻に浸っているようだった。

 ぼくも紅茶を飲もうと自分のカップに手を伸ばす。その瞬間、拓海の目がクワッと開いて。

 角砂糖がカップの中へ何個も入ったのは見えたけど、驚いたのはミルクの入っていた小瓶が空になっていたことだった。

 そういえば。拓海は甘いモノが大好きだった。

「ぬ。ぬるくならないんですか」

「ブラジルのコクと苦みは砂糖とミルクに沈めて際立つんだぜ」

 拓海は幸せそうに頬をほころばせながら、カップに口をつけている。本気でこの飲み方を美味しいと思ってるんだとはっきりわかった。

「そりゃ。ブラックコーヒーは飲みたいさ。一緒に楽しめるようにしようぜ」

 また、ぼくたちの秘密が増えた。

 毎週どこかで集まって、苦いブラックコーヒーを、苦いまま味わっている。いつか美味しく飲める日が来ても、二人で楽しめる日がくるまで続けようと約束した。

とても難産な作品でした。次の作品に生かせる部分も多かったので、書き上げられたのがなによりの収穫。

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