あなたの抹茶ラテはどんな味?
その日もいつもと変わりない日常が始まった。千加子は今日も人の出入りなどない、暇だけど給料がそこそそのバイト先、『ごきげんよう』で一日を過ごし、時間を持て余しては別れた男のことを考え思い悩むはずだった。
智坂千加子がココでアルバイトを始めて三年が経つ。喫茶店、『ごきげんよう』は、毎日が暇だった。お客の出入りは少なく、一日でコーヒーの注文が数杯だけの日がほとんどだった。仕事がキツイわけでもなく、週五日間、月曜日から金曜日まで、午前九時から午後八時までの長時間労働は、苦痛を感じさせない。逆に時間を持て余す事のほうが多いくらいだった。
今日も九時の開店と同時に店長は買出しと称し、パチンコ店へ出掛けて行った。楽な仕事とそれに加えてそれなりの給料に満足している。千賀子はこのマスターの日課が気が気ではない。店が潰れてしまっては自分の生活に大きく影響することは明らかだったからだ。店長の生い立ちなど何の興味もないが、店の経営だけは維持して欲しいと思っていた。楽して生きて来たこの三年は、31才の千賀子には後戻りの出来ない年月だった。ここ数日、自分の将来の事で悩む千賀子には、マスターのパチンコ通いが腹立たしくも感じていた。
午前十時を少し回った頃、一人の客が来た。年齢は50才半ばといった所だろか? 濃紺のスーツ姿にハゲ上がった頭、手にはビジネスバッグとくれば一見してサラリーマンとわかる。その男は店の一番奥に有るテーブル席へ無言で向かい、椅子に腰を下ろすとアイスコーヒーを注文して小さなタメ息をついた。大手食品会社に勤める営業部長の中村源三郎だった。
いつになく早い時間からの客の訪問に千賀子は戸惑っていた。
そこへ二人目の客が『ごきげんよう』のドアを開く。千賀子は接客の声すら掛ける事を忘れ、その男を凝視してしまった。午前十時過ぎに二人の客の訪問など未だかつて三年間、千賀子がバイトを始めてから前代未聞の出来事だった。見るからに学生風、Tシャツにジーンズ姿、肩からベージュのトートバッグを下げた男は、黙ったまま中村の隣のテーブルを選び席に着くと、アメリカンコーヒーを注文する。進上敦は注文の後、口を真一文字に結び、肩を落とすとテーブルにうな垂れタメ息をついた。
予期せぬ二人の訪問は千賀子の手を鈍らせ、注文されたアイスコーヒーとアメリカンコーヒーのどちらを先に作るでもなく、段取りの悪さだけが目立った。
その時、店の扉に吊る下げた呼び鈴がけたたましく音を響かす。───! 黒ずくめの男が息を切らしながら店の中へ飛び込んで来た。そしてこう叫んだ!
「死んでやる! 俺なんか、生きてたってしょうがないんだ───」
男は左手に持っていた新聞に包まれた包丁を取りだし、両手で強く持ち直すとその包丁を自分の喉元に持って行く。千賀子を含め、中村も進上も男から目線を外そうとはしなかった。三人の眼差しは男を黙らせては置かなかった。黒ずくめの男、鴨田利郎は震えた語調で話し始めた。包丁を持つ手が微かに震えている。
鴨田利郎は、東京の下町に有る、代々続いた自動車修理工場の三代目だった。彼があとを継いだバブル全盛期は仕事、金、女。なんの不自由もない生活が約束されていた。しかし、バブルが弾け日本中が不況の渦に飲み込まれたころ、鴨田の経営する自動車修理工場も例外ではなく、その渦に飲み込まれていった。資金の調達先などなに当もなく、金融機関からは閉め出され途方に暮れ、遂にはヤミ金融に手を出してしまった。その金で事業の建て直しを試みるが世の中は甘くはなかった。気が付けば利息が借り入れた元金を上回り、負債金額は一億円にも上っていた。手に負えなくなった鴨田は自殺を計画する。だが、気の弱い彼は一人で死ぬ事など出来ず、誰かに見取ってもらおう、あわよくば、引き止めてもらおう、同情してもらおうと街をさ迷っていた。その時、目に飛び込んで来たのが『ごきげんよう』だった。
自分の不幸を話し終えた鴨田は満足げに同情の言葉を待った。その時、
「───ふざけんじゃないわよ、そんなの自分が頑張ればやり直せる事じゃない!! それなら私の方が先だよ、死んでやる!」
千賀子が声を荒げ、叫んだ! そしてキッチンに置かれたいたフォークを手に取ると、喉元に強く押し当てた。
「おい、おい、死ぬなんてよせよ。まだ若いんだし、それに痛いと思うよ……」
鴨田は驚き、目を丸くして黒目を泳がせながら千賀子を引き止めた。
「私が先に死んでやる。私なんか、私なんか…… 自分じゃ、どうにも出来ないんだから……」
千賀子は話を続けた。
千賀子には六年の月日を供にした男が居た。男は付き合った当初から女癖が悪く、何度も千賀子を裏切った。しかし、何事もなかったかのように男は千賀子の元へ戻って来る。彼を心から愛していた千賀子は、男が自分の元を離れてしまう事を恐れ、全てを黙認していた。しかしある夜、男は首筋に小さな赤い斑点を付け千賀子の元へ戻る。将来の事を思い悩んでいた千賀子はついに男に向かって激怒してしまった。その後、男は千賀子の貯金を全て持ちだし、二度と千賀子の元へは戻らなかった。二ヶ月前の事だった。
千賀子は自分の不幸を全て吐き出すと、手に持ったフォークに力を込めた。その時、
「お嬢さん、男なんか星の数ほど居るじゃないですか。あなたに相応しい男はこれからだって現れますよ。まだ若いんですしね……、それぐらいなら私の方が先ですね───」
中村源三郎はそう言って腰を上げ、バッグの中から果物ナイフを取りだすと、自分の腹に突き当てた。
「何言ってるのよ、おじさん? お腹は痛いわよ。よしなさいよ。」
千賀子は源三郎の突然の言動に驚き慌てて彼を引き止めた。
「……」
千賀子の話に感動した鴨田は、泣き声が漏れるのを堪えながらボロボロと涙を零していた。
源三郎は腹に当ては果物ナイフを持つ手の力を緩め、話を始めた。
中村源三郎の勤める大手食品会社ではリストラが進行していた。リストラ対象年齢は50才以上、源三郎もその一人だった。しかし、役職を持つ彼には会社からチャンスも与えられていた。それは営業成績である。もっとも土台無理な成績数値ではあったが……
その期限が源三郎には迫っていた。十日後。子供の学費、自宅ローンの返済、まだまだ金が必要なこの時期のリストラは死活問題だった。そして源三郎は決心する。自殺を……。自分の死をもって家族を守る。そんな時、都合よく周りでは自殺騒ぎ。便乗を考えたのだった。
「おじさん、甘いよ! まだ時間があるんだろ、期限まで。それまで死ぬ気で頑張って見ろよ。その程度なら俺が先だよ。」
そう言ってテーブルを両手で叩き付け、進上は立ち上がるとトートバッグからカッターナイフを取りだし手首に当てた。
「若いの早まっちゃダメだよ。手首は沢山血が出るし、切り口が自分で見えるから怖いよ。」
源三郎は彼をなだめる。
「そうそう、私もヤッたけど手首は怖いって。っていうか、私の方が先でしょう!?」
千賀子が口を挟む
「オーイ、オイオイ。シクシク」
鴨田は千賀子の身上と源三郎の身の上話に、遂には声を張り上げ泣き出した。
長めに飛び出したカッターナイフの刃を手首に当て、進上は話しだした。
進上一家は自他共に認めるエリート家族である。父は医師、母は舞踊の師範、兄は有名国立大学助教授。そして敦は、今年三浪の予備校生だった。この時には友達の大半が有名大学に進学し自分の落ちこぼれ度を痛感していた。家族には半ば大学受験を諦められ、見放された状態だった。家族からの風当たりと世間体に耐えきれなくなった敦は、自分の存在を否定する事で、楽になろうと考えていた。そんな矢先、このシチュエーションに出くわしたのだ。好都合だった。
「にょっと待ってくにぇよ、シクシク。俺が一番先に言いだしたんだにょぉ……」
泣きながらのその声は、正常な日本語として聞き取りにくいが、鴨田が進上を引き止める。
「っていうか、私が先よ。一番、かわいそうじゃない!」千加子が言った。
「いやいや、この場合、歳の順じゃないだろうか……」源三郎が先を急ぐ。
「なに言ってるんだ。俺は家族の邪魔者なんだ。生きていても仕方がないんだ」進上が声を荒げる。
こんな死を急ぐ口論が暫くの間続いた。
「なんだよ、俺が先だよ」
「じゃぁ、ジャンケンにしませんか?」
「ダメよ! 私、ジャンケン弱いから……」
「……」
その時、受験生で有る進上が、頭の切れの良さをこれ見よがしに口論を終えようと発言した。
「アミダにしよう。これなら公平だろう!」
「ダメよ! 私、くじ運悪いから」千加子が水を差す。
終わり無く口論は続くと思われた。その時、店の呼び鈴が静かに優しく音を奏でた。
腰を曲げ、実際の背より小さく見える品のよさそうな、おばあちゃんが扉を開け、のこのこと、カウンター席に腰を下ろした。三井二三だった。
二三は四人の口論など気にも留めず席に着くなり、
「あら? 今日はマスターお出かけ」千賀子に問いかけた。
この数ヶ月、男のことで頭が一杯だった千賀子の記憶に二三の姿が蘇ってきた。一ヶ月前くらいからちょくちょく顔を見せ、マスターと世間話をしていた老人だった事を。
「千賀子さん、いつもの下さる。抹茶ラテお願いね」
彼との事で思い悩み、そのことで頭が一杯だった千賀子は自分の名前を伝えて有る事も、二三が抹茶ラテを普段から好んで注文していた事も覚えてはいなかった。
「私ねぇ……」
二三は、穏やかな語調でいつものように世間話を始めたのだった。
二三は貧しい家系に育った。戦争も経験し、家計を支える為に奉公にも出た。人生、何も良い事はなく、辛く厳しい事だけだった。せっかく掴んだ幸せも、早くに夫に先立たれ、女手一つで子供を育ててきた。自分の運命を恨んだ事は何度もあった。生きて行く為に忙しく毎日を過ごし、死ぬなんて事すら思いつかぬまま70才を越えてしまっていた。長生きを不幸とさえ考えた。しかし二三は今が幸せだと言う。それは、ほんの小さな幸せかもしれないが、『ごきげんよう』で抹茶ラテと出会えたからだった。そして長生きが自分にもたらした幸せを精一杯、満喫していると小さな顔にシワを寄せ、笑みを浮かべた。
「案外、長生きするってイイものよ。だって、こんな美味しい抹茶ラテと出会えるんですもの。なんだかね、ほんのり甘い懐かしい味なのよ、幸せだった、あの頃みたいでね」
「……」
二三の話を聞き終えると同時に、鴨田が言葉を残し店を飛び出しって行った。
「おばあちゃん、ありがとうよ。もう一度、頑張るは俺!」
「おばあさん、イイ話が聞けましたよ。期限まで頑張って見たくなりましたよ、私は」
源三郎がテーブルに千円札を置くと店を後にする。
「あっ! 授業に遅れちゃうわ…… ごちそうさま。お金、ココに置きます」
進上が腕時計に視線を送り店をでた。
「二三さん、お待たせしました。ご注文の、抹茶ラテ」
抹茶ラテを差し出す千加子の顔には、この数ヶ月、見せる事のなかった朗らか満面の笑顔があった。
「二三さん、ありがとう」
あれから数週間がたち、1人、また1人、彼ら3人は『ごきげんよう』に顔を見せるようになった。
中村源三郎は食品会社を辞め運送業者に再就職している。進上敦は海外への留学が決まり、出発の準備に追われていた。鴨田利郎は知り合いの修理工場でアルバイトをしなが借金の返済を進めてるという。
そして智坂千加子といえば、あいも変わらず毎日を暇な『ごきげんよう』で過ごしていた。変わったこと、それは三井二三と暇な時間を楽しく世間話をするという日課ができたことだった。
完
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